第8話

父の容態が急変したのは、一月二日の正午頃だった。咳をすることが増えていたという兆候はあったものの、医者の言いつけ通りに動いていたし、特に変わったこともしていなかった。三十九度もの高熱を出した彼は、すぐさま病院に運び込まれることになった。

「お父さん、大丈夫?お父さん?」

「とにかく病院に行くのよ!早く車に!葉子、電話して!」

母の運転で家族四人は病院に急行した。

「合併症による肺炎を引き起こしています。ここ三、四日が山でしょう。お父様は抗がん剤治療で免疫力も低下しています。お父様の生きようとする力を信じるしかありません。全力を尽くします」

中澤医師の表情は悲壮そのものだった。集中治療室に運ばれた彼は酸素をマスクをつけられ、生死の境を彷徨うこととなった。

家族三人は交代で集中治療室前に待機することになった。防護服に身を包み、中に入ることはできたので、呼びかけたり手を握ったりして父を励ました。

母も葉子も仕事が正月休みだったのが幸いだった。勇司はまともに勉強に手がつかず、病院に単語帳やノートを持ってきて眺めたり黙読したりしても、ほぼ何も頭に入らなかった。三人とも動揺しており、それでも父の回復を祈って強い精神を保とうと奮闘していた。

一月五日、三日が経過しても父の容態に変化はなかった。意識は戻らない。その朝は仕事初めだったので、母と葉子は揃って休暇の連絡を各々の職場に入れた。

三人が揃って家に帰って寝たのは、その日の夜だった。母と葉子は、母の部屋で並んで寝た。勇司は一人、自分の部屋で寝た。

その夜、勇司は夢を見た。美しい夕日が差す頃、父が一人で病院の屋上まで上がっていた。それを勇司が追いかけていた。父は早足になっていった。息子が後ろに近づいているにもかかわらず、全く振り返ろうとしない。

「はあ、はあ…痛い、痛い…」

父の悲痛な言葉が耳に届く。胸が痛む。そして、屋上に辿り着いた父は辺りを見回した。勇司と目が合った。悲しそうな表情を浮かべ、目を閉じた。後ろから母と葉子の声がした。

「お父さん!何してるの!こっち来て!」

父は尚も悲しげな表情で家族を見つめてくる。そして、呟いた。

「またな…ありがとう…」

そして、獣の如く屋上の白い手すりに駆け寄り、それを掴んだ。そしてよじ登り始めた。

「やめて!お父さん!」

勇司は駆け寄った。父の死を目の前にして彼は死に物狂いだった。母と葉子もすぐに駆けつけた。手すりはそれほど高くない。父の胸ほどの高さだ。よじ登ろうとする彼を必死で三人は止める。

「やめろー!お前らには分からない!分からない!」

「何が分かんないのよ、お父さん!」

妻が必死で夫に呼びかける。娘は泣き出して言葉にならないことを叫んでいる。

「善子、葉子、勇司…また会おうな、あの世で」

「バカなこと言わないで!」

三人は三方向から父を激しく掴み、そして何とか手すりから引き離した。だが、父は警察官らしい素早い身のこなしで、再び手すりに駆け寄る。それを家族が叫びながら引き離す。その繰り返しだった。

「助けてー!」

これだけ叫んでも誰も来ない。夕方なので、外来の診察だってまだ受け付けている。病院に人がいないはずがない。それなのに誰も来ない。家族四人は見捨てられたのか!四人はこの病院で孤立し、世の中全てからも見離されたのか…勇司はそんな気持ちになっていた。そして…

「お父さん!お父さん!」

父は突然気を失い、手すりにもたれかかるようにして倒れた。

「お父さん!お父さん!お父さん!」

勇司が三度呼びかけたところではっと目を覚ました。

「夢…夢か…父さん…」

気がつくと彼は激しく汗をかいていた。枕元に置いてある五百ミリリットルのペットボトルに手を伸ばした。中に入っている水を半分ほど飲むと、再び気絶したように彼は眠った。

朝七時頃、三人は病院に急行した。車内では誰も口を開かなかった。そして、到着するとすぐさま中澤医師が彼らのもとに駆けつけた。

「意識が戻るかも分かりません。ピクピクと手が動いています。どうぞ、中に入って呼びかけてみてください!」

三人は言われる通りにした。

「お父さん!お父さん!お父さん!目を覚まして!私にはあなたしかいないのよ!」

「父さん!私、まだ結婚もしてないのよ。私の花嫁姿、見たくないの?本当にお父さんには感謝してるんだから!恩返しさせてよ!置いていかないでよ!」

「父さん…僕高校受験があるんだよ…今まで励ましてくれたんだ…きっと生きてくれるよね…父さん、目を覚まして…」

家族は一言二言ずつ声をかけた。微かに両手の指が動くが、目を覚まさない。だが、その動きは少しずつ激しさを増していっているように見える。そして…

「お父さん!」

三人は同時に声を上げた。ゆっくりとしたスピードで父が目を開けたのだ。瞼はまだ重苦しいが、彼の目は生きていた。そして一筋の涙がこぼれ落ちた。

「お前たち…すまなかったな…」

「何言ってんのよ…何がすまないのよ…もう大丈夫よ…きっともうすぐで良くなるから」

暫く四人は無言になった。四人とも目頭が熱くなり、涙がとめどなくこぼれ落ちた。それだけで十分だった。それだけで四人は会話をしていた。一難が去ったのだ。

「はっ!先生にお知らせしないと!」

落ち着いた葉子が中澤医師に報告をした。知らせを受けた多くの彼の同僚も駆けつけた。

「山は越えました。暫く病院で様子を見ることになりますが、容態は安定していますので、危険な状態に陥る可能性は低いと思います」

との中澤医師の説明に一同は安堵した。同僚達は、まだ決まってもいないのに、勝手に父の退院祝いの宴会日程について話し合った。

「お前達、事件が起きて緊急に招集されたらどうするんだ。俺のことは良いから、自分達のことに専念しろ」

「またまた渋川先輩はー!本当は嬉しいくせに!頰が緩んでますよ、頰が!とにかく俺たちは予定合わせますから頼みますよ!」

だが、そんな彼らの安易と思われる見通しも間違いではなかった。父の退院が決まったのだ。一月末から二月の頭にかけて具体的な日程は中澤医師が判断することとなった。

一月六日の夕方頃、父の容態が安定してひと段落着いたその頃。篠山からのLINEを暫く既読スルーし続けていた勇司は、彼に返信をした。

「勇司、あけおめ!ことよろ!今年も仲良くしてや!最近元気か?」

このような内容のLINEが数件あった。返信のない勇司を篠山は気にかけていた。

「健次郎さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。僕は元気だよ。年の初めに大変なことがあったんだ」

「久しぶりやな!返信くれて嬉しいわ!ん?何があったんや?」

そして、彼はおよそ15分ほどかけて返信をした。父が危篤に陥ったこと、勉強が手に付かなかったこと、恐ろしい悪夢を見たこと、父が回復したこと、その全てをできるだけ簡潔に書くように試みた。

「そうなんか…大変やったなあ…勇司も勇司のご家族もほんまに頑張ったんやな」

思ったより長くなった勇司の文章に、篠山は短い返信をした。篠山にとって病気で人が生死の境を彷徨う経験は未知なるものだった。二人のラインのやり取りは暫く続いた。

「そうや!俺、来月のプロテスト受験することになったで!約一年ぶりくらいのプロテストやわ!絶対受かったるで!」

篠山は突如、話題を変えてきた。彼は怪我も治り、本格的なトレーニングを重ねていた。彼も人生の転機を迎えようとしているのだ。勇司も気が引き締まる思いがした。

その後、勇司は死に物狂いで勉強をした。年明けに受けた模擬試験の結果はまずまずだった。彼の心にのしかかるプレッシャーはさほど軽くはなかった。「人生を変えたい!」という思いで必死に取り組んできたが、第一志望校の合格ラインにはあと一歩届かないというところだった。

「社会と理科の点数が今一つかなあ。詰めが甘いのかなあ。お父さんは数学が苦手だったから、得意なお前が羨ましい。苦手なところを補って合格できるように頑張りなさい。もし合格が難しそうなら、確実に入れるところを選んで受験しなさい。無理をするのは勇気とは違うのだからね」

「はい、父さん。分かってるよ」

一月半ばの父の病室。勇司は模擬試験の結果を報告していた。彼は受験や他愛もないことについて話した後、以前から話したかったことを口にした。

「父さん、俺さあ。父さんが肺炎で意識を失ってた時、夢見たんだ。父さんが病院の屋上から飛び降りようとする夢でさあ。それを必死で僕ら家族三人が止めてた。泣きじゃくったり叫んだりしながら、父さんの体にしがみついた。本当に怖い夢だったよ」

父は唖然としような表情を浮かべた。驚いて口を開け、そして一呼吸つくと話し始めた。

「実はなあ、俺も同じ夢を見たんだ。理由も分からないのに、とにかく死のうとしていた。屋上の手すりを登って飛び降りようと必死だった。お前達が必死で止めるのを何とか振り切ろうとした。そんで最後に気を失なったんだったかな。そこで夢は終わった。目は開かなかったが、ベッドの上で自分の指がピクピクと動いているのは感じた。やはりあれは夢だったのか。最初、俺が死のうとしたことは現実なのか夢なのか分からなかったが…夢だったのか。目が覚めて、俺が死のうとしたことについては家族の誰一人として触れようとしない。それはただ気を遣われているだけなのかとも思ってたんだが…夢か…」

「そうだったんだ…僕ら同じ夢を見たんだね」

暫く親子は無言になった。勇司が先に口を開いた。

「何で死のうとしたんだろう、父さんは…」

「俺にも分からない…勝手に体が動いているような感覚でもあったし…そのくせ死のうという明確な意志も、心のどこかに存在していた。俺は自分が気付かないうちに衰弱していたのかもしれない…情けない話だ」

「情けない」という言葉が勇司の心に引っかかった。彼はもどかしい気持ちになったが、父にどう声をかけていいのか分からなかった。「死のうとしたと言ってもただの夢じゃないか。僕なんて本当に死のうとしたんだ…そんな自分が今でも情けないと感じてるのに…」こんな声が彼の心の中で響いていた。

「夢で良かった。勇司、父さんは自分で強い人間だと自負していた。しかし、悲しい時や辛い時には、弱みを見せることもあるものだ。『病気くらい何でもない』なんて心では強がっていたが、やはり苦しかったんだな」

「父さん…」

何やら悲しげな表情で勇司に何かを訴えかけているようだった。

「そこにキウイがある。同僚達がくれたものだ。父さんには量が多いから、好きなだけ持ち帰りなさい。二、三個残してくれれば良い」

父は備え付けの冷蔵庫を指差して言った。キウイフルーツは母と葉子の大好物だ。勇司も好きなフルーツの一つだ。 勇司は言われた通りにして、病室を後にした。帰り際、父の手を無言でがっちりと握った。

さて、月日は流れた。勇司の勉強は日を追うごとに激しくなり、篠山は徐々にプロテストに向けて厳しいプログラムを課されるようになった。そんな中、父が退院する日が来た。

「おめでとうございます!」

「ありがとうございます。本当にお世話になりました。中澤先生を始め、病院のスタッフの皆様方には頭が上がりません。本当に感謝しております。ありがとうございました」

目にうっすらと涙を浮かべた父は、病院のスタッフに深々と頭を下げた。

「本当によく頑張ってくださいました。ご家族の皆様方、同僚の皆様方に支えられながら、闘病に励む渋川さんのお姿はとても素敵でしたよ。こちらこそ、ありがとうございました」

「言葉もありません」

「あっ!定期検診はお忘れなく!まだ完治されてるわけではないので!」

悪性リンパ腫は「完治」とは言わず、「寛解」と言う。病状が問題ない程度に治まった状態だ。その後、五年以内に再発しなければ、そこで初めて「完治」と見なされる。その間、定期検診を受ける必要があるのだ。

車で家に戻ると、葉子と勇司が出迎えた。葉子は目に涙を浮かべ、勇司は満面の笑みで父を迎えた。その日は日曜日だったので、家族は三人とも揃うことができたのだ。三人は家族水入らずの幸せな時間を過ごした。葉子が買ってきた桃を食べたり、トランプのババ抜きや大富豪をして遊んだ。夜は母の作るシチューを食べた。絵に描いたような温かい一日だった。

やがて月日は流れ、勇司は遂に一校目の私立受験を迎えた。名門の早稲田実業高校。早稲田大学付属の難関で、合格するだけでも天才的な学力を要求される。結果は敢え無く不合格。挑戦校と位置付けてはいたものの、やはりショックを隠し切れなかった。

次に受験した中央大学高校には合格したものの、私立最難関の開成高校には不合格だった。

しかし、彼の本命は都立高校である。都立高校受験は彼にとって最大の障壁であり目標だ。周りのライバル達は続々と進学先を決めていた。そして、都立高校受験の日が来た。

「勇司、今までやってきたこと全てを出すんだ。プレッシャーを感じることはない。今日で終わるんだから、あまり気負わずにな。それに私立は一つ合格してるんだから」

受験の朝、出勤前に父はこんな言葉をかけてくれた。母はこんな話をした。

「大丈夫よ。あなたは本当によく頑張ったんだから。おにぎりにカツとうなぎ入れたからね!あと卵焼き!」

母は昼食用に小さなおにぎりを三つもたせてくれた。具はどれも勇司の好物だった。

「あんたならできる!応援してるから、辛くなったら家族の顔思い出して頑張りな!」

葉子からはこんなLINEが来た。勇司はシンプルに「ありがとう!」とだけ返信をした。

さて、彼は平常心で日比谷高校へ向かった。会場に近づくにつれ、徐々に心拍と息遣いは激しくなっているような気がした。

社会と理科は異様に簡単なように思えた。だが、得意なはずの国数英にどうも手こずってしまった。国語の漢字の読み書き、英語の文法問題、数学の計算問題など、解くのに多くの時間を要しないものにいつもより多くの時間を費やしてしまった。なんとかその他の問題で挽回できたとも感じたが、難関校だけあってそう甘くはない。もどかしい気持ちになりながら、その日は帰宅した。

両親は受験のことについてほとんど聞かなかった。おにぎりはどうだったとか、学校の雰囲気はどうだとか試験とは直接関係のないものばかりだった。

翌日、新聞記事を基に学校で都立高校組の自己採点が行われた。勇司の合計点数は、合格ラインに達するか微妙な線だった。合格も不合格も有り得る。そんな点数だった。ナイーブになった彼は一向に元気を取り戻せず、合格した中央大学高校の資料を無意味に眺め回したり、日比谷高校の受験票を見つめたりした。無気力になる気がしていた。そんな中で数日間が過ぎた。

「勇司!受験お疲れ。結果はいつ出るんや?教えてな。ほんで聞いてや!実は俺な、プロテスト受かったんや!受験で忙しそうやったから知らせてなかったんやけど、実はプロテスト受験しててな。受かったんや!昨日の発表やで!」

プロテスト合格証書の写メール付きのLINEが篠山から送られてきた。勇司は篠山に会いたくなった。夕方五時半頃、勇司はいつもの土手に篠山を誘った。

「おめでとう。凄いね。今ら会える?いつもの場所で」

勇司はこんな風に彼にLINEした。そしていつもの土手に着くと、彼は早速、篠山に「おめでとう」を述べてから握手をした。

「ありがとうな!勇司!どうした?元気ないな」

勇司は受験に関するこれまでのいきさつを話した。

「そうなんか…まあ。勉強のことは俺にはよう分からんけど、まだ発表されてへんのやろ?」

「そうだね…でもさあ…無理な気がする」

「簡単に無理なんて言うたらあかんで」

「簡単には言ってないさ!俺…本当コンプレックスの塊なんだよ!友達いないし、勉強以外のことはほとんどできない。それ以外で褒められことないし、背も高くないし足も遅い。行動も遅い。勉強できるだけじゃ社会でやっていけないよ…」

「だから、まだ決まってへんのやろ?これからのことは決まってから考えようや」

「それじゃ遅いんだよ!俺は自分の命を捨てようとするような人間なんだ!弱虫だ…」

そこまで言って勇司は思いとどまった。これまで励まし続けてくれた篠山に申し訳なくなった。

「勇司、お前は自分がそんなに恥ずかしいんか?」

「うん…だって…」

「だってもくそもあるか!自分のこと弱虫でだめな奴や思うてるやろ?ほんで、もっと強くなりたい思うてるろ?」

「うん…思ってるよ。強くないよ。だめな自分が嫌なんだ…」

「アホやなあ。ほんまにアホやなあ!お前はだめな人間ちゃうで!ほんまにだめな人間なんておらんわ!」

「どうして…」

「お前、自分が弱虫や言うたな?せやかていじめられるし友達もできへんし、怒られることも多い。言うたよな?」

「うん、言ったよ」

「それや!それが大事なことなんや!いいか!弱い人間は、弱い事がだめやから強くなるんやない。弱いことを活かすために強くなるんや」

勇司には意味が分からなかった。だが、彼の心に少しずつ希望の光が差し込み始めようとしていた。

「弱いっちゅうことは色々と損をすることや。いじめられたり友達できへんかったりすることもあるやろ。でもそのことでな、人の痛みってどんなものか勉強できるやん!」

勇司は彼の言わんとしていることが、もやっとではあるが、掴めるような気がした。

「痛みって言うのはな、感じるものやんか。それを味わった人間にしか分からへんものやんか。せやから、そのことがこの先、どれだけ役に立つことになるか、全く分かってへんやろ!」

「うん、分からない…」

「元気出せや!人は弱かったりダサい分、痛みを感じるんや!誰も分かってくれへん辛い思いをするんや!せやけど、その痛みはお前には分かるんや!ちゅうことは、同じように苦しんでるやつを助けられるっちゅうことや!せやろ?人間は自分と同じ立場や心情の人に共感するもんや。そんで苦しんでたら助けたくなる。同じ気持ちを味わった人間になら辛い思いを相談しやすいし、される方も上手く導ける!どや?その通りやろ?」

勇司は篠山から目を離せなくなった。篠山の目頭は、話を聞く勇司以上に赤く熱くなっていた。

「弱いやつはお前一人やないで、勇司。前も言うたやろ?俺だってアホみたいなクソ弱虫やったんや。どうしようもない鼻たれ坊主や!そんでいじめられもした。そんでな…勇司と同じように、自殺しようとしたこともあった」

勇司は目を見開いた。そんな話を聞くのは初めてだ。

「この川やないけどな。高い橋から飛び降りようとしたんや。そんで、通りすがりのおっちゃんに止めてもろうた。たまたま通りかかったお巡りさんも一緒に止めてくれはった。お巡りさんにも、親にも先生にもバカなことするなと言われた。友達にもな。命を大切にしろと怒られたんや。けんど、そのおっちゃんだけは怒らんかった。むしろ、何で死のうとしたんかじっくり聞いてくれはった。何も言わずにふんふんと聞いてくれたんや。俺はいじめにあって苦しんでることを長い時間かけて相談した」

篠山は少し間を置いた。

「ほんなら、すっきりした。それまでは、何のために周りの人がお前を世話している、その人たちが悲しむことが分からんのか、命を無駄にするな、辛い思いをしたのなら周りにすぐ相談しなさい、こんなことばっかり言われとった。もちろんその通りや。けんど、俺が死のうとした経緯はあんまり聞いてくれへんかった。先生のおかげで、俺をいじめてきたやつは厳重注意を受けて、そいつらには謝ってもらった。それからそいつらと仲良くはならへんかったけど、その後トラブルにはならへんかった。けんど、ほんまに俺の気持ちを分かってくれはったのはそのおっちゃんや。おっちゃんはな、俺に最後にこう言うたんや」

篠山は強い力を持った瞳で勇司を見つめていた。そして間を置いて口を開いた。

「『健次郎、もう二度と死のうなんて考えてはいけない。なぜなら君の命が尊いからだ。命は大切にしなさい。だが、君はとても大事な経験をしたんだ。君が死のうと思った時の気持ちを忘れるな。何故か分かるかい?その理由は、命を大切にすべきだからという以外にもう一つある。君が死のうとしたことによって、君はこの世の中にいる、無数の死のうと思っている人の気持ちが分かるようになった。それがとても重要なんだ。この先、今よりもっともっと強い男になって、死のうとしている人や自分の弱さ情けなさで嘆き悲しむ人を助けなさい。その人達の気持ちを君は分かるのだから。人の痛みを理解することほど、難しくまた大切なことはない。君にはそれができるんだ』ってな。だいたいこんな感じのことや。ほんで実はそのおっちゃんこそ、俺にボクシングを教えてくれはった人なんや」

「そうなの?凄い…」

「凄いやろ。『強くなりたかったら、俺のとこに来い。ボクシング教えてるから、もしやりたくなったら来い』って言ってくれはった。連絡先もらったで。時間はかかったけど、俺は二十歳の冬からボクシングを始めたんや」

「そうだったんだ…」

「そうや。俺はな、ボクシングのプロライセンスとったら、弱くて苦しんでる子にボクシングを教えたろう思うてんねん。せやからプロテストには死んでも受かりたいんや。一流の選手なって、世界チャンピオンの内藤さんみたく弱い子に希望を与えたいんや!」

壮絶ないじめられっ子だった内藤大助。彼はボクシングの世界チャンピオンにまで登りつめ、多くの人々に希望を与えた。彼はそんな内藤が目標なのだ。

「勇司も同じや。死のうと思うくらい辛かったんやろ。多分やけど、いじめられたこと以外にも色んな辛い思いをしてきたんやろうな。もちろん良いこともあったけど、やっぱり辛い思いをすることが多かった、そうやろ」

「うん…そうだよ…」

「辛かったな。けんど、悪いことばっかり考えててもあかんで。生きてれば良いこともたくさんあるんや。前向きな気持ちにならなあかんで。そのためには、今自分が置かれてる状況をポジティブに捉えることが大事やで」

「ポジティブに?」

「そうや。色んな痛みを経験した勇司は、他人の痛みが分かる子や。弱虫ちゃんにはその特権があるんや。他の人よりも多くの痛みを経験する。せやから、弱い子に生まれて良かったと思った方がええで。俺もクソ弱虫に生まれて良かったと思うてる。生まれつきの弱虫や、俺は。けんど弱さを知ってるからこそ、人間は強くなれると思うねん!」

勇司は目に涙を溜め、篠山の口から迸る言葉の一つ一つを心の中に刻みつけていくのに必死だった。一字一句を書き留めたいくらいだった。

「人の痛みを知ってるからこそ、人には優しくなれるんや。せやから、逆に言えば人を傷つけることはしたらあかんで。せやかて、人に気を使いすぎるのもダメや。やり過ぎると自分が苦しくなるからな。その按配は難しいんやけどな。せやから、まず自分ができることからでええねん」

「自分ができること…」

「そうや。少しずつ少しずつ、変わっていこう。弱い自分に誇りを持つんや。お前は今のままで素晴らしい人間や。せやけど、弱虫のままやったら、その素晴らしさを生かすことはできひん。自分の素晴らしさ、つまり弱虫であることによって培った経験や気持ち、それを活かすために強い男になるんや」

「そうか…そういうことか」

「そうや。弱虫がダメやから強くなるんやない!弱いままやと、その素晴らしさが活かされへんから、強くなるんや!これがコーチから教えてもろうた俺の哲学や!」

「哲学…」

「また、自信をなくして絶望してみ。そん時は俺のとこに来い。勇司がどれだけ素晴らしい人間か、二時間でも三時間でも、いや二十四時間かけてでも説明したるがな!」

涙目になった勇司と篠山は暫くの間、見つめ合った。勇司は涙でしょっぱくなった口元と鼻水で苦しくなった呼吸を我慢して、声を振り絞った。

「分かった!ありがとう!俺、これからも頑張るよ!」

「その意気や!辛くなった時はいつでも今俺が言うた話を思い出すんやで!」

「うん!」

篠山は握手を求めた。

「互いに新たな出発の時や。俺はプロボクサー、勇司は高校生。結果出たら連絡してな。期待してるで。お前は俺の弟や」

「ありがとう、健次郎さんは俺の兄貴だ!」

「せやな!デビューしたらファイトマネーで飯奢ったるで!」

「ありがとう!期待してるよ!」

「おーよ!」

二人は勇司の家の近くまで一緒に歩いて帰った。勇司には、悲しみを希望に変え、屈辱を優しさに変える心が育ち始めていた。まだ十五歳の彼にはこれからも多くの試練が訪れるだろう。まだ気も弱く、思考力も相手の気持ちを汲み取る力も十分でない彼には多くの試練が来るだろう。だが、それでも彼の心には希望が湧き続けているのだ。自分に誇りを持つ心が彼を支えることだろう。

一週間の後、都立高校入試の合格発表の日が来た。勇司は日比谷高校の校門に足を踏み入れて掲示板に向かう。周りにいる多くの生徒が全員合格して、自分だけが不合格になっているような気がする。そんな闇雲な不安が彼を襲う。だがすぐに、そんなことはないんだと打ち消す自分を見つける。そして、掲示板に載っている受験番号と自分の受験番号を照らし合わせる。次の列、次の列、次の列…そして自分の受験番号を見つけた。

「良かった…やったよ…」

その場で家族のLINEグループと篠山に「合格してた!」という同内容のメッセージを送った。家族全員からは、お祝いのメッセージとスタンプの嵐が来た。篠山からはこんな返信が来た。

「おめでとう!最高やな!俺も感動したわ!ほんでな、勇司。俺、来月デビュー戦やるで!観に来てな!四月三日、後楽園ホールや!」

四月三日は高校入学式の前日だった。篠山を思う存分応援したその翌日に、人生の新たなスタートを切れる。それは勇司にとって本当に幸せなことだった。

「ありがとう!ボクシング、生で観るの初めて!チケット欲しい!」

「ありがとう、勇司の分は真っ先に確保したるわ!また連絡する!」

「にっこり(絵文字)」

最後は勇司の絵文字でやり取りが閉められた。勇司の心は晴れやかだった。これから自分の身に起きること全てが自分にとって大切なことなのだ。辛いこともある。そしてそれを乗り越えられるかどうかはまだ分からない。たが漠然とではあるが、どんなことも乗り越えられるような気概が自分にはある気がしていた。

見上げた空は美しく、空を舞う昆虫や彼らを集める芳しい花、麗しい草木全てが彼を祝福していた。そびえ立つ校舎はここに通った全ての生徒の知性と思い出を吸収し、魅力的な外観を形作っていた。勇司の虚心坦懐の心はそれを思う存分に味わっていた。

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虚心坦懐 @shb1019

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