第6話

秋になった。父の容態は好転も悪化もしなかった。放射線治療と薬物療法を続けており、家族皆かもしくは、個別で見舞いを続けていた。

「勇司、よく来てくれた。もう十月になったな。誕生日じゃないか、お前の」

「そうなんだ。十六日で十五歳になるよ」

「早いもんだなあ。ちょっと病室を出よう。屋上に行くぞ」

勇司は都内の私立校で模試を受けた帰りに、父の見舞いに来ていた。父はスポーツ刈りだったが、それでも抜け毛が目立つようになってきたので、同僚の気遣いで完全なるスキンヘッドにされていた。頭には青いニット帽を被っている。

「勇司、勉強の方はどうだ」

「今日、模試でさあ。今の成績じゃ行くとこ、限られて来そう。まだ目標には…厳しいかな」

冷たい風が、二人の頬を刺激する。だが、空気感までは冷やさない。

「そっか。お前の狙いは日比谷だったな。都立一の名門だ。お父さんは埼玉出身だけど、日比谷は名前だけなら知ってた。凄いところだってな。全国的には開成や灘が私立で有名だが、公立でも基準の高いところは沢山ある。都立高校一の名門を目指して奮闘してるお前が誇らしいよ」

「そんな…勉強だけさ」

「そういうところだ。『だけ』なんて言ったらいかん。人生はこれからだ」

厳しかった父の言葉がやはり温かい。否定の言葉の中にも多分なる優しさがある。

「そう言えば、お前…いじめられてたんだってな」

勇司は呼吸と鼓動が同時に止められてしまいそうなほど、心に衝撃を受けた。

「母さんから聞いたぞ。なぜ黙ってたんだ…」

それを聞いて、勇司もまた無言になった。

「まあいい。解決したっていうことだからな。辛かったろう」

「うん…黙っていて…ごめん」

「父さんもいじめられたことがある。と言っても父さん一人ではないがな。警察官になってまだ駆け出しの頃。詳細を話し出すとキリがないが、先輩達から色々と意地悪されてな。同じ職場にいた同期も同じ目に遭っててな。同期達とはよくそのことで愚痴り合った。いじめは本当に辛いよな」

「うん…辛いね」

「まあ良い。もういじめがなくなったのなら。だが、そんな奴らに負けるな。お前はもっと心の強い男になるんだ。俺の息子だからな。きついことも言ったが、全てはお前に強くなって欲しくて言ったものだ。それがお前の心の糧としてくれることを願っている」

「うん、ありがとう」

「勇司、だがな。こんなお父さんもここで学んだことがあるんだ」

「学んだこと?」

「ああ。それはな、一人では何もできないということさ。今まで自分一人でやってきたと思うことが、他の人の力があって初めてなし得たということが分かってきたんだ。今更ながらな」

父は少しだけ深い呼吸をして、再び喋り始めた。

「俺一人の力で成し遂げたことなんて一つもないんだ。もちろん、才能は必要だ。努力も必要だ。自助努力も必要だ。向き不向きもある。だが、俺は何一つとして自分一人では成し遂げてないんだ。例えば、警察官になったのだって、公務員試験の勉強のためにお金を出してくれたのは親だった。分からない仕事を一つ一つ教えてくれたのは先輩だったし、そのおかげで課長クラスまで昇進できた。この病院にだって半年近く入院してるが、治療をしてくれるのも食事や着替えの準備をしてくれるのも病院のスタッフの皆さんだ。もっと言うと、呼吸が出来るのは空気があるおかげだし、究極的なことを言うと、生きていくことが出来るのは親から命をもらったからだ。俺は何でもできると思っていた。自分一人で大抵のことはできると思っていた。だが、実際は周りのおかけで成り立ってるんだ。見舞いに来てくれる君たち家族や同僚、そして生きていくために必要なあらゆることを考えると、それを強く感じる」

息子は何も言わずに父の話を聞いている。父は尚も喋る。

「勇司、自分に自信を持ち過ぎることは危険だ。だから、成功ばかりしていては逆に危ないのだ。父さんは要領も良い方だし気も強い方だと自負してる。それでもたくさんの失敗をした。そして、その度に自分の至らない点を見つめ、傲慢さを抑制してきた。だが、それでも人間は自分が可愛い。だから極度に自身過剰になり、失敗する他人を許せないことがある。そうなってしまっては人が離れていく。気をつけなさい」

「はい」

「お前にはかなり厳しいことを言ってきた。だがその反面、俺はお前を信じていなかったのもしれない。その分だけ焦りと不安を感じ、お前に厳しすぎる振る舞いをしたこともあったと思う。だから、これからはお前を信じてみようと思う」

「信じて…みる?」

「そうさ。だからこそ、頼むから強い男になってくれ。お前ならきっとなれる。そのためにどうすれば良いか、お前自身が答えを見つけて欲しい。親としてああだこうだと、これからも言うことはあると思う。やり過ぎの振る舞いをすることもあるかもしれない。その時は至らない父を多めに見て欲しい。俺もお前と同じように、もっと成長できるように努力する」

「父さん…」

父と息子は暫く見つめ合った。そして、父は目を逸らして話題を変えた。

「勉強はどうだ?そう言えば今日模試だったろ?どうだったんだ?…」

暫くは勇司の受験の話で持ち切りとなり、そして寒さが堪えてきたので部屋に戻った。

「勇司君」

帰り際、担当医の中澤敬介に勇司は呼び止められた。

「お父さんはお辛い治療に毎日耐えておられます。『しんどい、しんどい」と口にされることもありますが、『負けちゃいかん」と気力を振り絞って耐えておられます。勇司君は受験生だと聞きました。実は私の息子も中三です。そんな息子に頑張っているお父さんのような、患者さんの話をすることがあります。私はいつもお父さんの姿に勇気をもらっています。苦痛に耐えながら、毎日を強く生きようとするお父さんの姿を君も思い出してごらんなさい。君はとても聡明な顔をしている。来年は桜が綺麗に咲くこと、お祈りしております。また来てください。それでは」

中澤の温和な笑顔が少しだけギラついていた。父と中澤の温かい言葉は彼の心に糧と炎を与えた。根本的解決にはまだ遠いものの、植え付けられた勇気の炎が彼の心を包んだ。それを燃やし続けることが大切であった。

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