第5話
やがて月日は流れた。夏休み中、大手予備校の夏期講習と模擬試験、そして学校の宿題など、勇司はほぼ机に向かう生活を強いられた。しかし、それは本人が望んだことでもあった。そんな事情を知ってか知らずか、篠山は勇司に連絡する頻度を少し減らしていた。しかし彼自身も、ある問題と格闘していた。それはアスリートにとって、最も重要な問題の一つと言える怪我だった。
ボクサー骨折と言って、自らのパンチの衝撃で指を負傷してしまうというものだった。薬指が腫れ上がり診察を受けたところ、骨折と診断された。指を曲げるのでさえも苦痛だ。受験を予定しているプロテストの二週間前に負った怪我だった。
「ケンジ、今はとにかく走っとけ。二週間じゃ骨折は治らない。しっかり治して次のテストに備えた方がいいぜ。まだチャンスはあるから心配するな」
増田コーチはそんな風に篠山に声をかけた。彼は教え子の篠山を「ケンジ」と呼んでいた。
篠山は気を緩めないよう、毎日走ったりできるトレーニングに励んだ。ものを殴る練習はできないので、シャドーボクシングやランニングが中心だった。利き手ではない左手の負傷だったことが救いだった。字を書くのも携帯を使うのも食事をするのも、右手が使えるので問題はなかった。
土曜日の昼頃、篠山は勉強で忙しい勇司少年をいつもの土手に誘った。斜面になっている草むらに二人は座った。二人は会うこと自体は減っていたものの、LINEでのやり取りで互いの様子を把握していた。
「勇司!会いたかったで!元気か?お父さんの具合はどうや?」
「良くなってきたかな。一時期、高熱が出たりうわ言を言ったり、大変な時もあったんだけど…今は持ち直したよ。でも、まだ入院は続くかなあ」
「そうか!持ち直したのは凄いな!さすがお前の親父さんやな!勉強の方はどうや?」
「勉強は…どうだろうね。模試の結果を持って来たんだけどさ」
都立西、日比谷、戸山、青山、開成、慶應、早稲田実業…合格判定が記されてある高校名は錚々たる顔触れだ。二枚の模擬試験結果(都立高用と私立校用の二種類)には、入学するだけでも超難関の高校名ばかりが浮かぶ。戸山、青山はB判定だが、その他はC判定かD判定であった。B判定は十分に合格圏だが、それ以下であれば不合格になる可能性が高い。
勉強だけは人一倍できる。そんな自信が、かろうじて勇司の自尊心を守っていた。彼は根本的な部分からの自己肯定感がどうしても欲しかった。「自分は素晴らしい」という感覚がどうしても欲しかった。しかしいじめを受けたり、他者から受ける厳しい叱責や文句などで、低い自己肯定感が固まっていた。生まれつきの弱さというのもあるだろう。ネガティヴにネガティヴが重なり、彼は自分に自信を持ちにくくなっていた。それを一気に挽回するチャンスとして、高校受験を捉えていた。
「はあ、ほんまに有名校の名前ばっかり書いてるな。大体は聞いたことあるわ。神奈川県人やけど、都立高でも有名なとこは知ってるで。私立も開成とか早実は有名やもんな。勇司はほんまに頭ええんやなあ」
「そんなことないよ。それよりボクシング出来る方が凄いと思う。あんな怖いスポーツ、僕には出来ない」
「怖いスポーツ…まあな。確かに怖いわな。せやけどそれがええねん。悪いけどちょっと語らしてな。ボクシングってな殴られるのも怖いんやけど、相手を殴ることも最初は怖いねん。憎くもないこいつを何で殴るねん?殴ったらどうなるんやろ?殴ったら痛いやろうなあ…とか要らんこと考えるねん。でもやっぱり殴られるのは嫌やから、ひたすら殴るねん。最初は、殴られるのが怖いから殴るねん。でも競技の良さが段々分かってくる。普通、殴り合うたら互いに憎みあうやろ?ボクシングはちゃうねん。殴り合うたのに、最後は挨拶するねん。殴り倒したろうか思うてた奴と握手するってほんまに不思議やで。それが格闘技の良さや。痛め付け合うてるように見えて、相手への敬意を持ってんねん。『ごめん、勝負やからな!お前はええ奴やけど、倒したるわ!お前も本気で来い!」そんな感じや」
「そうなのか…あんまり考えたことなかった」
「ないやろ?ボクシングって精神力の勝負やねん。相手から殴られる恐怖は誰にでもある。コーチにだってあるし、恐らくプロの選手にも世界チャンピオンにだってあるわ。せやけど、『怖くないフリ』ができるようになることが大事やねん。もしくは怖くても我慢できるようになるのが大事や。そんで、そんなもんよりも相手を殴り倒したろう思うことや。パンチが強いから勝てるんちゃうねん。それは素人同士の戦いや。戦術やら技術やら、それは色々ある。せやけど、最後は精神力の勝負やねん。殴られる恐怖なんか感じてる場合ちゃうねん。感じてたとしてもそれを押し殺して相手を殴り倒すチャンスを活かせる奴だけが勝てるねんな。どうや?深いやろ?」
「深いね…。でも勉強も似たようなところがあるかな。戦略的に得意な問題を先にやって、不得意なのを後に回したりする。でも最後にはやっはりその不得意な難問にも恐れず立ち向かわないといけない。精神力が大事なのは勉強も同じかも」
「せやな!俺たち、闘ってるってのは一緒なんやな!なんか嬉しいな!」
「そうだね!」
二人は本当に仲の良い兄弟のようであった。互いに男兄弟はいない。勇司も篠山も姉が一人の二人兄弟なのだ。
「俺な、プロテスト受けられへんねん」
「もしかして、その怪我?」
「そうや。骨折してな。パンチが強すぎて」
「パンチが強すぎて」の篠山の笑みはとてもあどけなかった。
「パンチが強すぎて?」
「そうや。当たりどころが悪かったのかもしれへんけどな。スパーリング中にやってもうた。相手のボディを左で殴ったら、やってもうた。病院行ったらレントゲンや。全治二ヶ月、試合ができるようになるまでは半年くらいはかかるって言われたわ。どないなっとんねん…」
「落ち込んでる?」
「落ち込んでるわ!テスト受けられへんのやで。ひたすら走るしかないねんな。出来る練習から少しずつやっていくんやけど。ほんでバイトも自由にはできへんな」
「勇司さんでも落ち込むことあるんだね」
「そりゃあるわ!俺はそんなに強い男やないで」
「え?」
「強くないねん、俺は」
二秒ほどの間が空いた。二人とも口をきかなかった。そして篠山が言った。
「俺もいじめられとったんや…」
「そうなの?」
篠山は遠くを見つめ、勇司と目を合わさなかった。眉を顰めていた。そしてすぐに表情を緩めた。
「まあ、そんなことどうでもえやんけ!昼寝でもしよか!」
そうして、二人は草むらにゴロンと頭をつけた。
「眠いなあ。どっちが早く眠りにつけるか勝負しようや!ほな行くで!アラームセット!用意スタート!」
この勝負、勝ったのは勇司だった。やがて二人は篠山がセットした携帯電話のアラームで目を覚ました。
「ほな、また会おうや!勇司、太ったんちゃうか?今度、一緒に走るか?ダイエットせんと健康にも悪いし、女にももてへんで!」
「余計なお世話!僕、全然運動しないからね。次会った時は痩せてるように頑張る!またね!」
篠山はランニングで、勇司は自転車で帰宅の途についた。
「いじめられていた」という篠山の告白が、勇司にはとても気にかかった。幼い頃からいじめのターゲットにされることが少なくなかった彼にとっては、どうしても放っておけない話だった。今度、詳しく聞いてみようかとも思ったが、本人が触れたくないようなので辞めておこうとも思った。その夜は夏期講習の課題が異様に難しく、勇司はしかめ面をしながら勉強したので、顔の筋肉が引きつりそうだった。
布団に入ると、再び篠山の告白のことを思い出した。本人が何か言うまでは触れないでおこうと心に決め、眠りについた。
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