第4話

篠山との約束の日が来た。夜六時に二人が出会った川沿いで待ち合わせをした。友達がいない勇司は、篠山の存在を母だけには告げていた。

「あらそう。そんなに良い方なのね。良かったじゃない、お友達が出来て」

母はそう言ってくれた。それほど詳しくは聞かなかった。

二人は各駅停車しか停まらない小さな駅で降り、そこから徒歩三分ほどの場所にある小さな焼肉店に入った。「焼き肉 銀の卵」と言う名前だった。

「いらっしゃい!健次郎、久々だな!お前くらいだよ、わざわざうちの店予約すんのは!」

「おうよ、おやっさん!別にええやんけ!おっちゃんの店儲からせてんの俺やないすか!」

「うるせぇわ!あれ、君かい?健次郎の友達の坊ちゃんは。弟代わりの。賢そうな子じゃねぇか、お前と違ってよ!」

「最後の言葉は余計やないすか!俺と同じで賢いんや!」

店主は人の良さそうな中年男性だった。角刈りでお腹の出たギョロ目の男だった。「燃える命!」と書かれた暑苦しい黒Tシャツの上に、似合わない緑色のエプロンを身に付けている。

「俺は松岡浩史(まつおかひろふみ)、よろしくな!」

「僕は渋川勇司です。中学三年です。よろしくお願いします」

「礼儀正しいな、君」

「俺な、昔ここで働いてたんや。二年くらい。ほんでな、死ぬほど明るい接客叩き込まれたんや!ボクシングで腹筋も鍛えとったから、小さかった声もガンガン大きくなってな!大阪のジムに修行行くまでずっと働いとったわ!」

少しずつ他の客も増えて来た。韓国語を話す客もちらほらいる。

「ここの店主さん、韓国人?」

「ちゃうで、日本人や。長野県出身や。焼き肉が好きすぎて、焼肉屋始めたんやて。まあ確かに、焼き肉屋開く奴はコリアン系が多いねんな」

「はいよ!カルビにハラミ、牛タン、ロース、砂肝もあるよ。野菜スティックのキュウリとニンジン、玉ねぎもあるわよ。味噌につけて食べてね!健次郎、酒は要らないわよね?」

「もちろんですよ!俺、ボクサー目指してるんですよ!」

松岡の妻が肉と野菜を運んできてくれた。タレや調味料は備え付けで、各テーブにある年季の入った鉄板で具材を焼くのだ。

「美味いやろ?」

「美味しい」

勇司にとっては二年ぶりの焼き肉だった。彼が中学一年の時、父の鶴の一声で近所の焼き肉屋に出かけて以来だった。

「ねぇ、健次郎さん」

「どうしたんや?」

二人でハラミを焼いていた時だった。勇司が「健次郎さん」とはっきり名前を口にするのはこれが初めてだった。篠山はそのことには触れず、話を進めた。

「何や?言うてみ。何ぼでも聞いたるで」

十秒ほどの間が空いた後で、勇司は話し始めた。

「俺さあ、いじめられててさあ」

「そうなんか。そりゃ辛かったなあ」

「辛かったなあ」の仁愛に満ちた響きがずしりと勇司の胸に響いた。篠山は心の底から彼に共感しているように思えた。

「いじめられててさあ。そのことはもう親と先生に相談して解決はしたんだけど…いじめてきたやつには避けられるし、他の子とも特に仲良くできないし…俺、学校に友達いないんだ。小学校の時までは何人かいたんだけどさ」

間が空いた。二、三秒ほどだったろうか。

「その気持ちは…分かるわ」

篠山は神妙な面持ちでそう言った。「辛かったなあ」の顔からほぼ変化がない。彼は仁愛に満ちた神妙な面持ちで鉄板を見て、肉を焼いていた。そして勇司はどんないじめにあったのか、またそれを突如として吹っ切れたように母に相談したこと、そして父が病に犯されていることなどを話した。

「そうか…悲しいことや辛いことが続いたんやな…」

「そうなんだ…」

「不躾なこと聞くけど、そういうことが重なって死のうとしたんか?」

長い間が空いた。十五秒は下らない。互いに目を反らしたり合わせたり、肉を焼いたり焼かなかったりと会話する以外の動作をした。そして、勇司が口を開いた。

「直接的な原因はいじめだね…。」

「いじめか…ほんまにそれは苦しいと思う。ほんまにな…」

「うん…」

二人とも肉の旨味を感じられなくなってきた。だが、ジュージューと焼かれるそれは焦げ目をつけながら、香ばしさを漂わせている。どの肉も、食べて欲しい食べて欲しいとアピールをして競い合っているようだ。

「でも、いじめがなくなったのはまだ良かったな。お母さんと先生に相談したのは、ほんまに勇気があることやで。格好ええわ。しかも今、三年生やんな。勉強もせなあかんし大変やろ?」

「そうだね。今度、初めての模試を受けるんだ。もうすぐ夏休みだし、都立一本で入れるところに入ろと思ってるから」

「都立高校って入るの厳しいやろ?俺は神奈川県の市立高校やったけど、ほんまにアホでも入れるとこやったからな。東京の方が人口多いし勉強出来る奴も多いねんな」

そこで会話が途切れた。篠山はいじめを受けて傷つく十五歳の少年に何かを言ってやりたかった。聞いてやるだけでもいいのかもしれない。だが、勇司少年が心の底から喜び、勇んで立ち上がるような言葉をかけてやりたかった。

「はい、これサービスね!特上カルビ!ちょっとしかないけど食べて!」

「いや、要りませんよ!俺、ボクサー志望ですよ!今日だってめっちゃセーブしながら食べてるのに」

「何言ってんだよ!だったらそもそも焼き肉食うなって話だろ、坊主!」

店主の松岡が口を挟んだ。

「おやっさん、図星ですわ!でも、俺の舎弟を腹一杯食わしたいんですわ!このカルビ、全部食えや」

「もうお腹いっぱい。残してもいいかな?」

「うーん、そうか。一枚だけでもどうや?俺ももう腹一杯やねん!」

どちらもお手上げのようだ。

「じゃあ、一枚ずつでも食おうや。な?」

彼らが頼んだコースには、特上カルビなどない。店主の妻、紀子の思いやりは、二人にとっては嬉しいものだった。

「めっちゃ美味いやん!久々に食べたわ!こんなに柔らかいんやな!どうやってこんな牛育てたんやろ!」

「うん、美味しいね」

結局、二人は特上カルビを全て平らげてしまった。時計は夜九時を指していた。篠山もそろそろ、夜のトレーニングをする時間だ。

「俺、夜トレするから。勇司も帰らないかんな。送ってくで。お会計しよ!」

「はい、三千円ね、二人で」

「え?五千円やないすか?」

「うちの人がサービスだって。今は辞めちゃったけど、あんたうちで一生懸命働いてくれたでしょう。それに今日だって大事な弟分まで連れてきて。それならこれでも高いもんよ」

「ありがとうございます!ほんまに…俺そんなに金なくて…チラシのポスティングと、スーパーのレジ打ち、品出しでなんとか暮らしてるんです。ほんまに助かります」

二人が店を出ると小雨が降っていた。夏休み直前の時期、雨の日は決して少なくない。幸い、二人とも持っていた折りたたみ傘でしのぐことができた。そして篠山は約束通り、勇司を彼の自宅近くまで送った。その夜、勇司は床の中で嬉し涙を流し、寝付くまで時間がかかった。毎日寝る前に続けている、英文読解の問題集をやるのを忘れてしまったほど、今日の出来事の余韻に浸っていた。

篠山はトレーニングを終え、自宅のベッドでこう呟いた。

「あいつ、俺と似てるんや…可愛くてしゃーないわ。せやけど、どうやったらもっとええ男になるんかなあ」

二人ともその夜は、充実した気持ちと切ないそれで満たされながら眠った。

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