第3話

土曜日になり、姉の葉子が帰って来た。

「ただいま、二人とも元気だった?」

「お帰り、あんたこそ元気なの?」

「お帰り」

「ただいま。勇司、痩せた?お母さん、この子ちゃんと食べてるの?」

「食べてるわよ。でも、この子もともと少食でしょ。そんなに心配しなくても大丈夫よ」

久々に三人での昼食を取った。葉子が作った冷やし中華に舌鼓を打ち、彼女の仕事の話がほぼ全てだった。

食器を洗い終えると、三人で支度を始めた。父の見舞いに出かけるのだ。

「三人で見舞いに行くのなんて久しぶりだね」

母が運転する行きの車中で勇司がボソッと言った。二人ともうんと頷いただけで、それ以上会話が続かなかった。

「入って良いぞ」

父はテーブルの上に本を載せていた。三〇四号室が彼の入院する個室だ。

「皆、来てくれたのか。嬉しいよ」

父は枕に付けていた頭を持ち上げた。

「お父さん良いよ、無理しないで」

「大丈夫なの?」

父は多少は苦悶の表情を浮かべたものの、すぐに微笑を浮かべた。

「大丈夫だ。それにしても今更だが、この頭で良かった。髪の毛が抜けるらしいからな、放射線治療は」

父は基本的に短髪を好む。だが、病気が発覚した時に限って、珍しくスポーツ刈りにしていた。スポーツ刈りにまで短くしたのは数年ぶりだった。副作用で髪の毛が抜けたとしてもさほど目立たないのだ。

「来てくれて嬉しいよ。葉子、仕事落ち着いたんだってな。営業の仕事は激務だろ」

「まあね。でもお父さんの闘病に比べたら全然」

「そんなことはない。お父さんは闘病が辛くても、君たち家族が毎日のように来てくれる。同僚の皆がメールやLINEをくれたり、お見舞いに来て励ましてくれる。むしろ、俺は本当に色々な人に支えられて生きてきたんだなと実感してる。ありがとうな」

「何言ってんのよ。あなたは治るのよ、必ず生きてよ」

「ありがとうな、善子(よしこ)。感謝しかない」

「父さん、また帰ってきてね」

「勇司、当たり前のこと言うな。俺はお前が一番気がかりだ。お前は優しすぎる。そして大人しすぎる。弱虫だと言われるお前が俺は本当に悔しい…」

父は突然、口を閉じた。会って早々、息子にこんな話をすべきではなかったと後悔した。

「勇司…受験勉強はどうだ?残り一年て言ってもすぐだぞ。内申も大事だが、やはり筆記試験本番で合格点を取ることが大事だ。推薦なんて高嶺の花はあまり当てにするな。成績が良いから可能性はあるけどな」

「そうだね。心配してくれてありがとう」

「ちゃんと食べてるの?あと熱が上がったりすることはない?」

「最近はないよ、大丈夫さ。お前も心配性だな善子…ゴホッ、オホッ、ゲボッ、オエッ」

むせる父を見て、三人の家族は思わずその背中をさすった。

「大丈夫だ。大したことじゃない」

勇司は買ってきた三種類のヨーグルトを父に見せた。

「お父さんの大好きなヨーグルト、冷蔵庫にしまっておくからね」

「ありがとうな、勇司」

「ねぇ、四人でさ。ちょっと出ない?お父さんもたまにはいいでしでしょう?ちょっとだけ」

葉子が提案した。すかさず、母が心配そうな顔をして言った。

「先生に確認してからよ。お父さん、まだ体きついんだから」

すかさず葉子が担当医に確認を取ると、少しの時間だけならとOKが出た。家族四人で動き回りながら話すのは、本当に久しぶりだ。病棟を歩き回り、売店に寄って挨拶をし、仲良くなった年配の男性患者数名とも少し会話をする。そして屋上に行き、四人で外の風にあたった。

「もう一ヶ月とちょっとかあ、入院してから。初めは風邪をこじらせただけだろうと、ばかり思っていた。食欲も落ちたし、気分も悪い。熱も出る。でもこうして病院に来たことで、先生や看護師さんからも、またお前達からも常に勇気をもらえる。身体が辛くても耐えられるのはみんなのおかげだ」

いつでも強かった父は、病気にも負けまいと必死だった。これでも最初の一週間は少し荒れていた。何かあるとすぐ怒鳴りつけるが、すぐに「すまん、言いすぎた」と我に帰る。そんなことの繰り返しだった。だがそれも一週間ほどで収まり、周囲の医療スタッフに感謝の言葉をよく伝えていた。家族を通すこともあるし、直接言うこともあった。

「お父さんでも辛くなることある?」

勇司はふと質問してみた。父がギロッと睨みつけるように勇司の顔を見た。だが、その表情はすぐに緩んだ。

「当たり前だ。父さんだって万能じゃない。常に強くありたいと思っているが、そうでいられない時もある。何より好きな仕事ができないことが一番辛かった。苛立つ度にお前達や見舞いに来てくれた部下にもあたることがあった。我慢できずにすぐに感情を爆発させるのは、決して強いとは言えない。辛いことを周囲への当たり散らしで解決しようとしていたんだ」

そんな話を聞いて勇司も少し安心した。父にも辛いことが我慢できない、そんな時があるのだ。だが、「大好きな仕事ができない」という部分がさすが父らしいと思った。自分には警察官のような、重く厳しい仕事はできないだろう。それを「大好き」という父が誇らしくもあり、羨ましくもあった。同時にコンプレックスも感じていた。

「勇司、あんたはもっと強くなんなさい。私みたいに我が強くなれとは言わないけどさ。そうすると多分、友達減るから。あんた本当は優しいし、愛嬌ももっとあるんだから。ちっちゃい頃は凄く可愛かったし」

葉子が言った。姉の葉子との仲は悪くなかった。勇司が小学校高学年だった時期を除けば、姉の葉子には頭が上がらない。いつも良くしてくれた。彼が小学校高学年だった時というのは、葉子が大学生の時で、彼女が恋愛や学生生活、進路などで多様な悩みを抱えていた時期だった。当時、彼女は家族と素直に会話ができなくなっていた。特に弟の勇司に当たり散らすことが多く、勇司は今でもそのことがトラウマであった。

「そろそろ戻ってもいいか。少し横になりたい」

「そうね、戻りましょう」

夫婦のこのやり取りがきっかけで家族は全員病室に戻った。別れ際、父は一人一人に託すようにしてメッセージを送った。

「善子、お前は私のたった一人の愛する女性だ。俺は女友達は多くなかったが、真っ先にお前とは友達になれた。大学で初めて会った時から好きだったし、今もそれは変わらない。一家のことを任せきりにして悪いが、この恩は必ず返す。頼んだぞ」

「何言ってるのよ。必ず治るから、早く帰って来てね。私にとってだって、あなたは大切な人なんだから」

「葉子、お前は俺に似て気が強い。それは時としてプラスにもなるがマイナスにもなる。気をつけなさい。だが、何より自分の意見をはっきりと言うことができるお前は本当に頼もしい。とても賢いし、情に厚い。俺のたった一人の娘だ。これからも幸せにな」

「何を改まって。私は幸せよ。お父さんこそ、早く良くなってよね!また来るから」

そして勇司へのメッセージを言う前に、四、五秒程の間を置いた。母と葉子の間のそれは二、三秒だった。勇司にはその間がとても長く感じられた。

「勇司、お前はとても素直だ。だが、素直すぎて弱く見られることがある。自分をしっかり持ちなさい。勉強ができるのだから、他のことも必ず努力して克服できる。お父さんとお母さんの良さを受け継いで立派な男になりなさい。それと、悩み事があったら必ず誰かに言うんだよ」

「分かったよ、父さん。一日でも早く良くなってね」

「やり切った」と言うように父は頭を枕に置いた。安心した表情がそれを物語っていた。それと同時に、よれよれの枕と布団、そして病衣は彼の苦痛を物語っているように見えた。

病院を出ると、三人は駅近くのデパートに寄った。そこで三人分のワッフルを買い、家に帰って食べた。

帰りの道中は、不思議とほとんど誰も口を開かなかった。父は余命宣告を告げられたわけではない。だが命が危機に晒されることもある難病を患っている。父の命は灯火の直前と言ってもおかしくはなかった。

そんな絶妙な不安感が家族三人を無口にさせたのだろう。家に帰ると、口を開いたのは葉子だった。

「勇司、お父さんに言われたこと忘れないようにしな。あんたのことは皆見てるから。私ももちろんね」

「そうよ。私も忘れないようにしないと。もちろんあんたもよ、葉子」

「分かってるって。ありがとう、二人とも」

そして、テレビを観ながらワッフルを食べた。都心にあるワッフルの専門店なので味は抜群だ。チョコレート、チョコレートバナナ、イチゴ、メープルシロップ、メロン、ホワイトチョコレートの六種類を買った。誰がどのワッフルを食べるというのではなく、三人が食べたいものを適当な大きさに切り分けて食べた。家族ならではの食べ方だ。

「めっちゃ美味しいね。お姉ちゃん、ありがとう」

「どいたま。勇司も社会人になったら奢ってよね!あんためっちゃ頭良いから、弁護士とかになりそう!」

「そこまでじゃないよ…。でも頑張るよ、ありがとう」

家族団欒が終わると姉は帰りの支度を始めた。「帰り」と言っても、一人暮らしをしているいわば出張先の家に行くのだが。

「勇司、ごめんね。今更だけど。あんたのこと傷付けてたの私知ってる。何のことだか分かるでしょ。でも私はあんたの姉だから。これからもずっと。固い絆で繋がってる姉弟(きょうだい)でいようね。またLINEしよっ」

帰り際に葉子が勇司に言った言葉だった。自転車に荷物を乗せ、駅まで勇司が送り届けたのだが、パスモを右手に持ちながら言い残すように彼女はそう口にした。この言葉で勇司は胸のつかえが一つおりた気がした。

「そ、そんな。気にしてないよ。お姉ちゃんこそ、お仕事頑張ってね!応援してるよ!」

「ありがとう!またね!」

その夜、篠山からのLINEを見た勇司はついに吹っ切れた。

「勇司!飯行こう!バイト代溜まってきたで!焼肉や!高い店やないけど、二人分予約しとくで!その時はお前の話、ぎょうさん聞いたるから!マジでお前に会いたいねん!会おうや」

嬉しかった。クラスメイトのほとんど誰とも会話をしない勇司。こんな自分を思ってくれている人がいるのだ。そして彼はその夜、母に全てを話した。

「僕、いじめ受けてる」

「そう。何がそんな気がしてたの。話して詳しく。私はあなたの味方だから」

勇司はことの顛末を話し、それが学校側に伝わるまで時間はかからなかった。

翌日の四時間目、総合的な学習の時間。予定を変更した勇司のクラス(三年A組)は、自習の時間になった。いじめの実行者三人は担任教師から問い正されることになった。彼らは自分の非を認め、勇司にも直接謝罪した。いじめは無くなった。

だが、彼ら三人は、むしろこれを機に勇司を避けるようになった。そのことが勇司の心を傷付けたのは間違いない。また、彼に友人が増えたり会話をする仲間が増えるといったこともなかった。勇司は暗い少年であり弱者だった。そのことに変わりはなかったのだ。

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