第2話
次の日も学校へ行く。いじめに遭う。周囲からは気付かれにくい陰湿で姑息な手法が使われ、彼はいじめに遭う。しかし、誰にも相談しない。いじめに遭っている自分を強く見せたいのだ。いじめっ子に対して平然と振る舞いたいのだ。自尊心を削りながら、彼自身は表面的な強さを保つのに必死だった。だがそれも限界に来ていたのだ。
「誕生日おめでとう バーカ のろま」
周囲からは気付かれにくい小さな付箋紙にこんな言葉が書いてある。それが机の表面の底辺ギリギリに貼ってある。すぐに剥がして捨てる。周囲に目を向けると、にやつく三人のクラスメイトの顔が見える。無視して席に着いた彼は誰にも気付かれない呟きをする。
「今日は誕生日じゃねーよ。意味不明」
授業中、社会科の教科書を開く。江戸時代文化史のページに、また付箋紙があってあることに気づく。さっき見たものより少しサイズは大きめだ。こんなことが書いてある。
「どこの高校受けるの?働くの?お前にできる仕事なんてあんの?↓こいつみたく器用なことできる?」
「こいつ」の左隣の矢印は、葛飾北斎の肖像画を指している。何が言いたいのか意味不明だが、それがいじめであることは間違いない。ちなみに勇司は美術が苦手科目だ。それをからかいたかったのだろう。
周囲を見たが、誰も彼の不快な気分には気付かない。いじめっ子の一人と一瞬目が合ったが、すぐに逸らした。そして、誰にも気付かれない呟きを彼はする。
「いつの間に貼ったんだよ。人の机の中ガサ入れしたのか」
給食の時間、黙々と食事をする彼のもとにいじめっ子の一人が近づいてくる。飽きもせず、また付箋紙が机の脚に貼られる。お代わりのついでに彼は付箋紙を貼ったのだ。
給食の時間が終わり、それをこっそりと剥がして読む。
「食べるのおせーぞ。キモいからさっさと食べ終わってどっか行け」
歯軋りしながらその付箋紙を丸めてコミ箱に捨てる。
掃除の時間は運良く何もなかった。昼休み中もにやにやと下品な笑顔を見せてきただけで、いじめっ子三人組は何もしてこなかった。
体育の時間になると、また試練が来た。二人一組でストレッチをすることになった時だった。クラスメイトの何人かが欠席したこともあり、運悪くいじめっ子の一人と組むことになった。彼は卑劣で軽蔑したような目で侮辱的な笑いを勇司に見せた。ストレッチ自体は真面目にやりながらも、「キモい、キモい、キモい、触んな、触んな、触んな、のろま、のろま、のろま」などと人格否定の言葉を呟き続けるのだった。この日のいじめはこれが最後だった。
勇司が自殺を図ることになった前日、帰りのホームルーム。「死ね」と書かれた赤色の付箋紙が国語の教科書に貼ってあることに気付いた。それは人の存在そのものを否定する最も卑劣な言葉だった。
彼は吹っ切れたように気持ちを浮つかせた。心の中はただ絶望一色になった。そして帰ると少しずつ便箋にしたためていた遺書を一気に書き上げ、翌日の夕方に自殺を決行したのだった。
その付箋紙は取ってある。机の一番上の引き出しに取ってある。これだけは許せない、他のことは平気でいられてもこれだけは許せなかった。しかし、彼は誰にも相談していないのだった。
そして家に帰った彼は、携帯を見た。七件も篠山からのLINEが届いている。
「元気か?勇司。もし気が向いたらでええから、兄ちゃんに何があったか話してくれへんか?」
「兄ちゃんな、今日スパーリングボロボロやったで!プロ合格者のやつとやったんやけどな!」
「スタミナは問題ないんやけど、俺のパンチがアホみたいに相手にあたらへんねん!」
「むかつく顔してる男でな。マジで腹立ったわ!」
「こっちは必死こいてプロ目指してんねんて!既に一回落ちてんねん、俺!」
「2ラウンドやってダウンは奪われへんかったけどな。むかついたからダッシュとシャドーと縄跳びめっちゃやったわ!帰り際に死ぬほどサンドバッグ殴ったわ!」
「俺は今日のこと話したで。どうや?何でもええから話してくれへんか?」
誰もいない部屋で、一人勇司は呟いた。
「なんか無気力」
しかし、無気力の中に微かな光が差し込むような不思議な感覚もあるのだった。携帯が震えた。姉からのLINEが立て続けに来た。
「勇司?元気?あんた、最近お父さんのお見舞い行ってないんだって?今日、お父さんの病院行ったんだけどさ。あんたが来ないの心配してたよ。なんかあったのかなって」
気が付けば、彼は父の見舞いに三日も行っていなかった。父が病に冒されてから一カ月が経過した。初めの一週間は欠かさず通っていたが、徐々に遠のいていた。いじめがよりその頻度と卑劣さを増していくのに反比例して、彼が見舞いにいく回数は減っていた。
「元気出しな。あんたのことだから何かあったんだと思うけど。自分で抱えこむのはやめな」
彼は既読スルーした。何と返答して良いのか見当がつかない。今の状況そのものがそうだった。いや、彼はとにかく誰かに構って欲しいのだ。父も姉もいない、母も遅い。だからこそ、篠山のしつこいまでのLINEは彼にとって、本当は嬉しいものだった。そして、こう呟いた。
「今度、見舞い行くよ。いじめはもう少し耐えてみよっかな」
彼は問題の解決そのものからも逃げていた。だが、何も問題がない生活を送りたかった。本当は逃げていても何の解決にもならないことは分かっていた。
「ただいまー。勇司、お腹空いたでしょう」
母が帰って来た。手にはお土産がある。たこ焼きだ。
「ぎょうさんタコで買って来たのよ、あの駅前の。あそこ美味しいのよ!今日はお父さんとこ行ったの?」
「行かなかったよ。お帰り」
「元気ないわね。最近、何かあったの?」
「いや、別に…」
「受験のこと?勉強分からないとこあるの?やっぱり塾行く?」
勇司は学校の成績は優秀だった。体育と美術は苦手だったが、国数英理社は最低でも五段階で四より下になったことはない。音楽と技術・家庭科は人並みで、どの科目も軒並み筆記試験の点数は良かった。だが、どの科目も実技面で得意と言えるものはなかった。
次の日もまた次の日も、彼は陰湿ないじめを受けた。ただ、付箋紙は全て保管しておくことにした。証拠集めという意味合いもある。また、取っておいた方がもしいじめが解決した後にも、役に立つのではないかという気がしていた。
篠山からは毎日LINEが来た。一日に二度は電話も来た。だが、素っ気ない返信だけでやり取りを終えていたし、電話には一度も出なかった。
「今日は何があったんや?俺はなあ、スパーやって同時期にジム入った奴をダウンさせたったで!筋トレ大嫌いやねんけど、今日は楽しかったで!」
「今日は漢字の小テストがあった」
「そうなんか。んで、どうやった?良い点取れたか?」
「満点だよ」
こんな調子だった。しかし、このやり取りで勇司の心が少しずつ動いていることもまた事実だった。
そして自殺を図ってから五日後、彼はようやく父の見舞いに訪れた。
大学病院A棟三階の個室に彼はいた。西向きの部屋には美しい夕陽が差し込み、父の頬を照らしていた。勇司が入ってくると、頬が緩んだ。その口元が彼の喜びを表現していた。
「お父さん、久しぶり」
「勇司、久しぶりだな。会いたかったぞ。どうしてたんだ?毎日来てくれたのに」
「ごめんなさい…」
「何で謝るんだ。来てくれたから良い。忙しかったり気分の浮き沈みとかあって、来れない日もあるだろう。明日も来てくれ」
いつも彼に厳しく恐ろしかった父は、入院してからはとても優しかった。「弱いことが嫌い」と口にする父は、情が深く優しい男なのだ。
「お母さんもお姉ちゃんも心配してるぞ。お前、学校で何かあったんじゃないのか?受験生なんだし、何かあったら相談しなさい。どうしても家族に相談したくないんなら学校の先生でも良いから」
「だ、大丈夫だよ。僕はいつもこうじゃないか」
「どうだかな。まあ良い。勉強の方はどうだ?都立と私立は併願するのか?」
「恐らく都立一本にするよ。もともと、私立に行く気はないし」
「お金のこともあるからなあ。でも、もしものために考えておけ。父さんも病気が治ったら、お前のために一生懸命働くから」
暫く言葉を詰まらせた息子は俯き、もう一度顔を上げて言った。
「ありがとう、父さん…早く…病気治してね」
「そうする。ありがとう」
そして親子は無言のうちに見つめ合ったり目を反らしたりした。二人の間にある空気感は少し奇妙だった。怖かった父が優しくしてくれる。それは真心からのものなのか、自分への愛なのか、それとも何か意図があって優しくしてくれていて、何かの拍子に爆発するのか。勇司はあれこれと父の心を詮索していた。しかし反面、そんな自分を恐ろしく軽蔑していた。厳しい闘病生活を送る父への愛が自分にはない気がしていたからだ。そんな詮索をする必要があるのか、親子なのに。
「じゃあ、行くね」
「ああ、元気でやれよ。お母さんに…ウへッ、ゴホッゴホッ、ウヘッ…」
「大丈夫?先生呼ぶ?」
「大丈夫だ。たまにこうなるだけだ。特別なことじゃない」
「そうなの?まあ、また来るね」
家に帰り、母と二人で夕食を食べた。母は父を見舞いに顔を出した息子に一安心した。
「お姉ちゃん、今度の土日は帰って来るみたい。少し仕事落ち着いたみたいよ。受験のことで相談したいことあったら、しなさい。あと、お父さんのお見舞いにも行きましょう」
「そうなのか。帰って来るんだね。最近、本当に忙しそうにしてたからね」
勇司の胸につかえるしこりは、これからもとれないように感じた。姉はその反面、何にもとらわれていないすっきりとした心持ちで生きているように思えた。姉に対する気持ちは複雑だった。
その夜、例のごとく篠山からLINEが来た。
「今度、飯行かへんか?お前と会いたいねん、勇司。LINEばっかりじゃおもろないやろ」
「こんどね」
勇司はそう一言だけ返した。素っ気ない返事ではあったが、本当にまた篠山に会いたいと思っていた。
学校へ行かない日はなかった。だが、いじめは止まなかった。勇司は臆病な男だったが、負けん気の強さとプライドだけは人一倍だった。だからいじめに傷つきながらも不登校にはなりたくなかった。そして、そんな自分が自殺を考えたことを激しく恥じるようになっていた。
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