虚心坦懐
@shb1019
第1話
渋川勇司(しぶかわゆうじ)は生まれついての弱虫だった。「才能」と皮肉られても良いほどの気弱さを持っていた。何をするにも怯え、何をするにも自己の判断を下すことに躊躇うのだった。
彼は容赦ないいじめの対象になり、友人も片手で数えられるほどしかいない。感情の動きも乏しいように見え、鈍い反応は周囲を苛立たせた。低い自己肯定感に押し潰され、胸にしこりがあるような息苦しさを感じながら生きていた。
「もう、来年から高校生だな、勇司。少しは強くなったか。これからは将来のことを真剣に考えることが大事だぞ」
「と、父さん…僕はまだまだ…弱いです」
病床につく父の正剛(まさたけ)は疲れ切った体と格闘している。病との闘いは壮絶を極め、体力の消耗は目に見えて激しかった。彼は精神力だけで己の肉体を支えていた。
「悪性リンパ腫です。『血液の癌』とも言われるもので、体内のリンパ球が無制限に増殖してしまいます。臓器も蝕まれますし、抵抗力も弱くなりす。放射線と抗がん剤での治療を行います。ですので、お父様には入院をしていただく必要がございます」
担当医の話を要約するとこのようになる。父と病魔との戦いは毎日欠かさず行われていた。
二十四歳になる姉の葉子(ようこ)は、千葉で社会人生活を送っていた。大学から千葉にいる彼女は、父親似で怖いもの知らずの勝気な女性である。毎日のように、家族で作ったグループラインに書き込みをし、父親の容体を確認していた。
「渋川正剛。職業は警察官。日々、民間人の身の安全を守るために職務を全うしております。中央大学文学部卒。小学校は野球、中高はサッカー、大学では剣道に勤しんでおりました。性格は質実剛健、怖いもの知らず、情に熱い、弱いことが嫌い。美しく優しい妻をもらい、一男一女、二人の子供を育てています。どうぞよろしく!」
正剛は、よくこんな自己紹介をしていた。多少、文言が変わることはあるが、彼は長年連れ添った妻と二人の子供を誇りに思いながら生きていた。そして自分の警察官という仕事を心から愛していた。
そんな彼が厳しい闘病生活の中で最も気にかけていたのが気弱な長男、勇司だった。
その長男坊は近所の土手でうろうろとしていた。決心がついたら決行する。そう決めていた。
「死にたい。もう嫌だ…。学校なんてなくなれば良い。あんな奴ら消えれば良い。無理なら俺が消える」
彼の胸に、自分を容赦なくいじめてこけにした連中の顔が思い浮かんだ。
「頼む!俺に構わないでくれ!もう終わらせてくれ!」
今日は声が出ない。心の中では悲しみの言葉が次々と出て来るというのに。
彼はゆっくりとしたスピードで階段を上り、橋まで来ていた。高さ十五メートルはあるだろうか。まず手すりに右足をかけ、恐る恐る左手もかけた。次に左足、右手の順にかけた。突然、周囲の音が全く聞こえなくなった。急激に視界も悪くなっていった。悲しみから解放される時が来た。走馬灯のように自らの人生を振り返りかけた。その時だった。
「おい!何してんねん!」
「うわっ!」
勇司は飛び込もうとして掴んだ手すりから滑り落ちた。後ろから男に首根っこを掴まれたのだ。それでも尚、手すりを登ろうとしたので、再び男は首根っこを掴んでさっきよりも強く引っ張った。
「だから何してんねんて!」
勇司は何も答えずまた振り返りもせず、再び手すりを掴もうとした。
「アホか!」
勇司は頭頂部をピシッと叩かれた。それも耳鳴りがするほどのかなり強烈なものだった。彼は我に返ったように男の思い通りになり、引きずり降ろされた。そして橋を渡って階段を下り、土手まで連れて行かれた。
「何があったんや!死のうとしたんか?」
勇司は何も言わなかった。反応するのさえも億劫だった。心身ともに疲れ果てていた。
「まあええわ。兄ちゃんがゆっくり話聞いたるわ」
勇司は半ば強制的に土手に腰掛けさせられた。気が付けば夕日が見えるほどの時間になり、橙色の光が色鮮やかに川と草木を照らしていた。
「こんなきしょいTシャツとスウェットズボンの兄ちゃん誰や思うてるやろ?あとどうでもええねんけど、これ似非関西弁やからな。俺、神奈川出身やから。この関西弁聞いた関西人は皆ツッコんで来るんや」
勇司は少しだけ笑いそうになった。だが、それも我慢した。笑ってはいけないような気がした。ダウンタウンにも厳しいツッコミを入れられそうだ。
「ほんでな、兄ちゃんな。ボクサー目指してるんや。大阪のジムにいてな。そこでトレーニングしてたんや。今は帰ってきて、都内のジムにいるんや。名前言うてなかったな。篠山健次郎(しのやまけんじろう)や。よろしくな」
差し出された右手は篠山の身長の割には大きなものだった。ボクシングをやっているというだけあって、骨や皮膚も固そうに見える。
「握手くらいしようや!」
勇司は黙って手を差し出した。篠山は人懐こい笑顔で黄色がかった並びの良い歯を見せた。
「ほんで質問ばっかで悪いねんけど。ほんまに死のうとしたんか?」
勇司は黙って頷いた。
「ほんなら、お前のおとんとおかんにはこの事言わん方がええで。ぶっ倒れるから」
「…」
勇司は呪いで声を奪われたかのように黙り込んでいた。何故だか声が出なかった。
「兄ちゃん、トレーニング中やから。家どこなん?途中まででも送っていくで!」
勇司の心はぐらついていた。自分の命を助けたこの男にどう接すれば良いのだろう。いじめを苦にして死にたかった。便箋二枚に書いた遺書はどうしたら良いのだろう。この男が去ったら、また手すりを上ろうか。
「ライン教えて!フルフルでもええし、キューアールコードでもええから」
この言葉に勇司は吹っ切れる感覚を覚えた。妙な安心感から携帯に手を伸ばした。そして、初対面の青年とキューアールコードでラインの連絡先を交換した。彼はひたすら誰かに話を聞いて欲しかったのだ。
「よし!毎日俺とラインしようや。今日のことは誰にも言わへんから。俺のことは周りに言ってもええで。変な関西弁のボクサーに友達になろうって言われた。そんな風に言ったらええやろ」
「うん…」
「声出せるやんけ!ほなまたな。家どこや?そこまで送っていくで」
勇司は今どんな感情を抱けば良いのか分からなかった。自殺を図ったのに、警察が出動するなどの大事にはならなかった。未遂で終わったが、あと一秒でも篠山の助けが遅かったらそれは完遂していたのだ。自殺を図ったとなれば、ギャラリーが押し寄せるほどの大事になると勝手に思い込んでいたのに、実際は見知らぬ男と連絡先を交換しただけだった。
「ここから一人で帰れるか?俺、道分からへんねん。近いんか?」
「うん…」
「ほんならここでお別れや。んじゃ俺、家に戻るで!」
篠山は軽快な足取りで、勇司の家とは逆方向に走って行った。彼の胸には、気弱な少年の思い詰めた屈辱と悲しみの表情が浮かびそれが離れなかった。恐らくいじめを苦にした自殺未遂だろう。そう直感していた。
家に戻った勇司は誰もいない家に帰って来た。学校の鞄を放り出してすぐに向かった土手は自分の死に場所にはならなかった。少なくとも今日は。
両親は共働きで帰りが遅い。母は、温かい夕食のビーフシチューをサランラップに包んでリビングのテーブルに置いてくれていた。お代わりまである。これを食べたら入浴をする。父の病院に寄ってから、母が帰って来た。一晩中かけて書いた遺書を急いで机の引き出しにしまうと、母を出迎えた。
疲れた表情の母はそれでも優しく彼に向かって微笑むのだった。そして、親子は幾ばくの会話もないまま、床につくのだった。
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