第6話 霊憑の巫女

 横浜市にある商店街。

「昇太(しょうた)! 今、忙しいから外に出てなさい!」

 ある商店街で夫婦が営むパン屋の店先で、子供が母親に叱られていた。


 夫婦で切り盛りしているため毎日忙しく、昇太は母親に甘えたくて構ってもらおうとするが、忙しさから母親は甘えてくる昇太を邪険に扱い、そのため昇太はふて腐れて店先で一人佇んでいた。


 そのパン屋はどこにでもある普通のパン屋だが、この不景気の中で、毎日夕方頃には店に並べられたパンのほとんどが売り切れるほど忙しい。


 日が暮れて、店の客足もだいぶ落ち着いた頃。

「……昇太?」

 母親は叱った昇太の事を思いだし、店先に出て昇太の姿を捜すが、店先に昇太の姿は見当たらなかった。

 心配になり辺りを捜すが、どこにも昇太の姿は確認できない。

 母親はそれから商店街中を捜し回り、商店街の外で思い付くところまですべて捜索するが、昇太の姿はまったく見つからず、慌てて最寄りの交番に駆け込んだ。


 翌日の朝。

「おはようございます」

「あっ小泉(こずみ)先生、おはようございます」

 横浜市のとある小学校の職員室に教師たちが次々と出勤し、子供の事や授業の内容について教師同士が雑談を交わしていた。

「小泉先生、ちょっとよろしいですか?」

 校長室の扉が開き、校長が小泉の名前を呼ぶ。

「あっ、はい!」

 小泉は何事かと慌てて校長に連れられ校長室に向かう。

 校長室に入るとソファーに座っていたスーツ姿の男性二人が立ち上がり、小泉に向かって無言で会釈する。

「こちらが五年二組の担任で小泉先生です」

「どうも」

 小泉は校長から二人に紹介され会釈をすると状況がわからず校長に説明を求め視線を送る。

「こちら警察の方で、小泉先生のクラスの斉藤(さいとう)昇太君が昨日から行方不明らしくて話を聞きたいと」

「昇太が⁉」

 驚く小泉に二人の警官は警察手帳を取り出し開いて見せる。

「お忙しいところ申し訳ありません」

「い、いえ……」

 驚いたまま小泉が警官の向かいのソファーに腰を下ろすと、警官二人も再びソファーに腰を下ろした。

「行方不明と言うと大袈裟ですが、昇太君のお母さんの話では、昨日の昼過ぎ頃、休日な事もあってお店が忙しかったらしく、昇太君の事を邪険に扱ってしまい、それから姿が見えないという事らしいので、我々としましては昇太君が自らの意思で帰ってこないのではないかと……」

「家出って事ですか?」

「ええ、ですので、あまり大事にはしたくないのですが、昇太君はまだ十歳という事もあるので、我々としましては昇太君の安全だけでも確認できればと思っているのですが、何か昇太君の行方に心当たりはありませんか?」


 通常、当人に家出の意思があって行方をくらました場合は一般家出人に分類され、基本的には積極的な捜索活動は行われない。

 警察本部に一般家出人の写真や情報等が登録され、全国の拠点で閲覧が可能になり、日々のパトロールや少年補導、交通取り締まりや閲覧者からの情報提供などにより発見される場合がある。

 しかし逆に言えば、家出人が警察や情報提供者と接触する機会がなければ見つかる事はない。

 しかし、当人に家出の意思がなく、何らかの事件や事故などの外的要因によって行方不明になった場合や、当人に生命の危険がある場合は特異行方不明者に分類され、時間的猶予がない事から速やかに捜索が行われる。

 但し、特異行方不明者が成人の場合、警察が居場所を把握した場合でも強制力を行使し連れて帰る事が出来ない。

 しかし、捜索願の提出時に生存連絡のお願いをしておく事で、警察が発見した際に家族に連絡が入る。


「と言われましても……」

 小泉は警官に心当たりを聞かれ考えるが学校以外の生徒の行動は把握していない。


「何か子供たちの秘密基地のようなものや、保護者が知らない親しい大人の存在など」

「いえ、そういった事は聞いた事はありませんが……」

「そうですか、それと昇太君がご両親から虐待を受けていた疑いはありませんか?」

「……どういう事ですか?」

 警官の虐待という言葉を聞いた途端、小泉の表情は険しくなる。


 子供の虐待による死亡事例は年間五十件を超え、一週間に一人の子供が命を落としている。

 事例として保護者が子供に、殴る、蹴る、水風呂や熱湯の風呂に沈める、カッターなどで切る、アイロンを押しつける、首を絞める、火傷をさせる、ベランダに逆さづりにする、異物を飲み込ませる、厳冬期などに戸外に閉め出す、などの暴行をする事を指す。

 子供は、打撲や骨折、頭部の外傷、火傷、切り傷などを負い、死に至る事もある。

 こうした身体的虐待の他に性的虐待、心理的虐待、ネグレクト、四種類の子供虐待は、それぞれ単独で発生する事もあるが、事例からも読みとれるように、暴力と暴言や脅し、性的暴行と暴力や脅し、などが、複雑に絡まりあって起こる場合もある。

 全国の児童相談所が平成二十八年度に対応した児童虐待の件数(速報値)は、前年度比十八、七パーセントで一万九二九ニ件増の十二万二五七八件で、過去最多を更新した事が厚生労働省のまとめで分かった。

 調査を開始したニ年度から二十六年連続で増加している。

 厚労省は『心理的虐待が増え、警察からの通告が増加している。報道によって学校など関係機関の意識も高まっている』と分析している。


「もし虐待を受けている可能性があるなら、居場所がわかったとしても、ご両親に伝えるかは慎重にならなければなりませんので」

「そんな、昇太の家は前とは違……」

「小泉先生!」

 立ち上がり声を荒げる小泉を校長が慌てて止めると、小泉は我に返り再びソファーに座って警官に向かって何も言わずに頭を下げ謝罪する。

「二年前の事でしたら我々も把握しています。だからこそ慎重になる必要があります。もし子供が自らの意思で帰らないのであれば、理由次第では居場所がわかっても、すぐにご両親の元に戻すわけにはいきません」

 そこまで言うと警官二人は小泉と校長に頭を下げ帰っていった。


 放課後。

 小泉は担任として自分にも何かできる事はないかと商店街にある昇太の家まで来ていた。

 パン屋である昇太の家は営業していないのか店の明かりは消えていて、外から見た限りでは店内は暗く人の気配はまったく見当たらなかった。

「ご免下さい」

 店の入口の引き戸は鍵がかかっていなかったので小泉はそのまま店に入って奥に向かって声をかけるが返事が返ってくる事はなく店内は静まり返っていた。

「……どなたかいらっしゃいませんか?」

 再び小泉が奥に向かって声をかけると。

「……はい?」

 奥から憔悴しきった様子の昇太の母親らしき女性が姿を表した。

「あっ、……先生」

 小泉と昇太の両親はお互い顔は知っているが面と向かって会うのはこれが初めてだった。

 母親のその声に後から遅れて父親が顔を出すと小泉の顔を見て頭を下げ、それを見た母親も小泉に向かって頭を下げると、小泉は畏まり二人に向かって頭を下げた。

「実は今朝、学校に警察の方が来まして大体の事情は聞いたのですが……」

「わざわざすみません。お恥ずかしい事ですが、店の忙しさにかまけて、あの子の事を気にかけてやらなかったばっかりに、こんな事になってしまって」

「いえ、そんな事は……、私に何ができるかわかりませんが、できる限り協力しますので、お気を落とさずに」

 小泉は、昇太を心配し憔悴した両親の様子から、とても虐待をしていたとは思えず、それしか言う事ができなかった。


 学校に戻る最中、小泉は二年前に行方不明になった児童の事を思い出す。

 小泉の勤める小学校では二年前にも当時四年生だった一人の女子児童が行方不明になっていた。

 その女子児童はとても痩せていて、体重もその年齢の平均体重に比べると軽く、また身体の普通では怪我をしないような箇所に痣や傷があり、いつも教師たち大人の顔色を窺っていて、警戒心が強く音や振動に過剰に反応し、目の前でただ手を上に挙げただけで顔や頭をかばう様子から、両親に虐待を受けている事が疑われたが、周りが手を出せないまま両親が虐待の末に女子児童を殺してしまい何処かに死体を遺棄したのではないかと考えられていた。

 小泉は担任ではなかったが、その時に何もできなかった事を悔しく思っていた。


「小泉先生、昇太君のご両親の様子はいかがでした?」

 学校に戻ると気になっていたのか女性教師が昇太の両親の様子を聞きにくる。

「それが心配で何も手につかないらしく、お店も休んでいるようで何も話はできませんでした」

「そうですか。昇太君、作文で将来の夢をパン屋さんって書いてましたから、ご両親も昇太君にお店を継いでもらおうと一生懸命だったのかもしれませんね」

「……え?」

 女性教師の言葉に小泉は思わず女性教師の顔を見た。

「……将来の夢をテーマにした作文ですよ。パン屋さんになりたいって書いていて、今時の子にしては珍しく、ご両親の後を継ぎたいだなんて偉いって小泉先生も言ってたじゃないですか。忘れちゃったんですか?」

 小泉は女性教師の言葉を聞いて昇太が書いた作文の内容を思い出し、両親から虐待を受けている子供が将来の夢にその両親の仕事を継ぎたいなんて書くはずがないのではないかと、両親による虐待なんてないのではないかと思えた。


 昇太が行方不明になってから数日後。

 警察は昇太を特異行方不明者と判断し、写真付きでビラを作成したり、報道によって呼びかけによる公開捜査、警察犬捜査などが開始された。

 ――だが、警察が捜索していくと不可解な点がいくつも出てきた。

 失踪当日は休日で、商店街は人目も多く、昇太の事を知っている店や人も多かったが、商店街にある店の人間や常連客は昇太が店先で一人でいるところ以外は誰一人として昇太が一人でいるところを目撃しておらず、また、知らない人間や怪しい人物が昇太と一緒にいれば誰かが気づいた可能性がある事から、誘拐されたとは考えられず、昇太の目撃情報は店先を最後にまるで神隠しにでもあったかのように忽然と消えていたため、捜索は行き詰まっていた。


「小泉先生にお客様ですよ」

「はい、……えっ?」

 放課後、職員室で小泉が自分の席で仕事をしていると女性教師に来客が来ている事を知らされ、廊下を見ると見知らぬ一人の老人がこちらを見ながら立っていて小泉と目が合うと笑顔でお辞儀をしてきたので小泉もお辞儀を返して廊下に向かう。

「突然申し訳ありません。私は刑事の秋葉(あきば)といいます。少しお話を窺いたいのですがよろしいでしょうか?」

 老人は廊下に出てきた小泉にそう言うと警察手帳を見せる。

「あっ、警察の方ですか、わかりました。ここで立ち話も何ですから、ちょっと待って下さい」

 そう言うと小泉は職員室の鍵置き場から空き教室の鍵を取り戻ってくる。

「お待たせしました。行きましょうか」

「恐れ入ります」

 小泉が戻り案内すると秋葉は丁寧にお辞儀をして小泉の後に続く。


「どうぞ」

 小泉は空き教室の鍵を開け、秋葉を先に中に通すと自分も中に入り戸を締め、適当な席の椅子を引き秋葉に座るように勧める。

「それでお話というのは?」

「実は行方不明になる前に斉藤昇太君が学校でどんな様子だったのか教えていただきたいのですが」

「様子ですか……」

「ええ、まず昇太君が自らの意思で家へ帰らないのか、本人の意思とは別の何か外的要因が原因で帰らないのかをはっきりさせたいので」

「……特に変わった様子はなく、いつもと同じでしたよ。昇太は明るい子で、いなくなる前日もクラスメイトと休み時間にマンガやゲームの話で盛り上がっていましたから、とても家出をするような様子には見えませんでした」

「では、二年前に行方不明になった女子生徒と何か共通してる事はありませんか?」

「……以前、警察の方が話を聞きに来た時は忘れていたのですが、昇太は作文で将来の夢にパン屋になりたいと書いています。もし両親から虐待を受けていたらそんな両親と同じ仕事をしたいなんて書くとは思えないので、虐待はなかったと思うのですが……」

「いえ、確かに今までは、二年前の事もあって、昇太君は両親に虐待を受けていて、自らの意思で帰ってこないのではないかと思われていましたが、女子生徒の両親が虐待は認めても依然として殺害と遺棄を認めていない事と、今回の捜査で昇太君の家と女子生徒の家が約三百メートルほどしか離れてない事や、二年という短い間にそれだけ狭い範囲で子供が二人も行方不明になっている事から、今は女子生徒と昇太君は同じ事が原因で行方不明になったのではないかと考え捜査されています」

「……つまり何か事件や事故に昇太は巻き込まれたって事ですか?」

「そうですね。まだ可能性の段階ですが何者かによって故意に連れ去られた事も考えられます」

「……共通と言えるのかはわかりませんが、二人の家が近い事で思い出したのですが、昇太は商店街の中にある社によく行っていたようで、よく友達にその事を話していました。行方不明になった女子生徒も捜索している警察の方が夜中にその社に女子生徒がいるところを商店街の住人がよく見かけていたと話していたのを聞きましたが……」

「社……ですか。それはもしかしたら普通の方法では解決できない事かもしれませんね」

 社と聞くと秋葉は一瞬表情が固まる。

「……その社に何かあるんですか?確か普通の神社と違って、そこは地元の人たちが建てた社らしくて、神様とかは何も祀っていないらしいので、何も気にする事はないと思いますよ? 誰でも自由に出入りできるよう開放もされてますので」


 日本では憲法により信仰の自由が認められているため、個人が所有する敷地内に神社やお寺を開設する自由が憲法によって保障されている。

但し、宗教法人にする場合には宗教法人法に基づく手続きが必要となる。

また、建てた神社に神を祀るのであれば依り代を置き神社から分霊し勧請する。


「いえ、そうではなく、まだなんとも言えないのですが、思っていたよりもずっと難しい事件になるかもしれないと……」

 秋葉は言葉を濁すと、すぐに取り繕うように表情を戻して言う。

「それはどういう……」

 それを聞いた小泉は事態が理解できず何かあるのかと不安な顔で秋葉を見つめる。

「まだ、そこまで生徒を心配できる先生がいるとは思いませんでした。最近はどんな先生でも必要以上に生徒に関わらないのが当たり前になってしまいましたから、では、私は少し調べたい事がありますので今日はこれで失礼します」

 小泉の顔を見た秋葉は笑顔でそう言うと、立ち上がり軽く会釈をして帰っていった。


 学校に話を聞きに来た秋葉に社の事を話した時の反応が気になって仕方がなかった小泉は、放課後になるとすぐに昇太が住む商店街の社に向かっていた。

 ただの気にしすぎかもしれない。

 だが、あの時の秋葉の反応は何か引っかかる。

 社は商店街の通りから細い路地を入った目立たない場所に建っていた。

 そこは整備された狭い敷地内にベンチが置かれ中央に約五十センチ四方の社が石の台座の上に建っていた。

 何も知らないと、ただの公園と勘違いしてしまいそうで、社の存在を知っていても案内表示がなければ、とても辿り着けない。

 当初は商店街のシンボルとして毎年祭りなどを開催する計画だったらしいが、商店街の中心通りに面してないという立地の悪さと管理の問題や祀る神をどうするかなど、なかなか話が進まない事から次第に計画事態がなくなり、今では寄り付く人もいないのだとか。


 小泉が近づいてみるとベンチに女の子が一人座っているのが見える。

 近づいてその女の子をよく見ると一人で人形遊びをしているのか何かを喋っている。


「……あっ、せんせい」

しばらく小泉がその女の子を後ろから見つめていると、女の子は突然顔を上げ前方を見たかと思うと、すぐに小泉のいる後ろに振り向き声をかけてくる。

 小泉の事は学校で見て知っていたのか顔を確認すると特に警戒する様子もなかった。

「君はうちの学校の生徒だね。何年生?」

「さんねんせいだよ」

 女の子は小泉に向かって指を三本立てて見せる。

「そうか、こんなところで一人で遊んでいるのか?」

「ひとりじゃないよ。このこといっしょだよ」

 そう言うと女の子は誰もいない前方に向かって指を指す。


「……ん?」

 指差す先には誰も見当たらず小泉は困惑する。

「……そうか、もうすぐ暗くなるからその前に家に帰るんだぞ」

 一瞬、良くないものを想像したが、この子には想像上の友達がいるのかもしれない。

 それなら、あまりその事には触れないであげようと小泉は女の子に笑顔で言うと、その場を離れ改めて社やその周辺を見てみるが特に変わった様子は見られなかった。


 やっぱり気にしすぎなのか? そう考えた小泉は多少拍子抜けした感じも否めなかったが、明日も仕事なので、これ以上は余計な事を考えるのを止めて帰宅する事にした。


 翌日。

「小泉先生。さっき、うちの生徒から聞いたんですが、昨日、商店街の社で遊んでた女の子たちと何を話してたんですか?」

 朝のホームルーム終わりに職員室で授業の準備をしていると女性教師が小泉に話しかけてきた。

「昨日、警察の方と話してる時に商店街の社の話が出てきまして、少し気になったので行ってみたのですが」

「あまり、余計な事をすると変な誤解を受けかねませんよ」

 女性教師は小泉だけに聞こえるよう小声で言う。

「……誤解って?」

「生徒が行方不明になった直後に、その担任教師が学校の外で受け持ちでもない子供に話しかけてたなんて噂が広まったら何を言われるか……、小泉先生は生徒からも人気あるんですから気を付けないと」

「そんな事は……」

「そんな事ありますよ。……はあ」

 女性教師は職員室にいる他の教師たちを見回してため息を漏らす。


 職員室には二人の他に団扇でだらしなく自分を扇ぐ頭の禿げた男性教師やマッサージ器具で自分の肩をマッサージする中年の男性教師、自分の席に座ったまま手鏡を見つめて髪をひたすら直す太った女性教師など、必要な事だけを事務的に処理するだけのやる気のない教師たちがいた。

「職場を間違えたんですかね? それとも仕事ですかね?」

 女性教師はそんな同僚たちに嫌気が差していた。

「……さっき女の子たちって言いました?」

 そんな女性教師の話を余所に小泉は女性教師の最初の台詞が気になっていた。

「えっ? ……ええ、小泉先生が二人の女の子と話してたって、確か人形を持った子とぬいぐるみを持った子がいたって……違うんですか?」

 それを聞いた途端に小泉の顔は青ざめていく。

「……小泉先生?」

「……すみません。後でその生徒に話を聞く事はできますか?」

「えっ……ええ、お昼休みにでしたら……」


 昼休み。

 小泉が女性教師が受け持つ教室へ行くと女性教師と男子児童が二人で待ってくれていた。

「ごめんな。休み時間なのに、ちょっと聞きたい事があってな」

 小泉は笑顔で男子児童に近づき視線を合わせるようにしゃがんで話しかけた。

「なーに? ききたいことって」

「昨日、先生を商店街の社で見た時の事教えてくれるかな」

「……?」

 男子児童は何を聞かれているのか理解できないのか、小泉の顔を見て首を傾げる。

「昨日、先生は商店街の社で女の子二人と話してた?」

「うん」

 男子児童ははっきりと返事をしながら頷く。

「人形を持った子とぬいぐるみを持った子?」

「うん。にんぎょうをもったこはぬいぐるみをもったことよくあそんでる」

「君もその子と遊んだ事はある?」

「ううん。ぼくがあそぶのはちがうこだよ」

「違う子?」

「あそこにいくといつもいて、いっしょにあそぶこ」

「……その子はその近くに住んでるのかな?」

「わかんない。いくとぜったいにいるし、いつもぼくがさきにかえるから」

 子供だから仕方ないのかもしれないが、どうも要領を得ない。

「他にそこで遊んでる子はいる?」

「いっぱいいるよ」

 小泉は男子児童から社で遊んでいる他の児童を教えてもらい、一人で昼休みの残りの時間や放課後を使ってその児童たちに話を聞いて回ると、あの社に友達がいるという児童がたくさんいて、その友達は社に行くといつでも必ず自分たちを待っているという事がわかった。


 放課後。

 児童たちから一通り話を聞いた小泉はますます社の事が気になり、再び商店街に向かっていた。

 もし昨日、社にいた女子児童が児童自身が想像した友達とではなく、小泉に見えない何かと遊んでいたのだとしたら、そう考えると居ても立っても居られなかった。

 だが、もうすぐ社に着くところまで来ると社がある敷地の前に少数だが何やら人だかりができているのに気づいた。

 何かあったのかと遠巻きに社を見ると刑事の秋葉が制服警官ともう一人若い私服警官らしき人物を連れて社を調べているのが見え、人だかりはその様子を見て集まった野次馬のようだった。


『あまり、余計な事をすると変な誤解を受けかねませんよ』

 それを見て小泉は女性教師の言葉を思い出し社に近づくのをためらう。

 行方不明になった児童がよく訪れていた場所に、その児童の学校の担任がいたりしたら警察に疑われるんじゃないか、そうじゃなくても野次馬が見ている前で警察と話して学校の担任だと知れたらどんな噂がたつか。

 考えれば考えるほどよけいな不安が募っていき、小泉は秋葉に気づかれないようその場を離れた。


 日が暮れた頃、小泉が再び社を訪れると敷地の前から野次馬はいなくなり秋葉たちの姿も社の敷地内には見当たらなかった。

 溜め息を漏らして自分の行動を思い返すとなんだか情けなくなるが、それを振り払うように頭を振ると改めて社に近づいていく。

 夕陽の所為か社のある敷地内は昼間の明るい雰囲気から一変してとても不思議な感覚がした。

 それほど広い敷地ではないため周りを建物に囲まれている所為で日の光が当たらずに薄暗く、そのため社の存在も相まってここだけ何か別の空間のようだった。


 小泉が社の前に立つとその不思議な感覚はより強くなるが小泉はその感覚に覚えがあった。

 それはいつも小泉が学校で大勢の子供と教室にいる感覚と同じだった。

 姿は見えず音も遠くから聞こえてくる商店街の喧騒くらいしか聞こえないが、自分の周りに大勢の子供がいるような不思議な感覚がする。

 どういう事かと辺りを見回しながら狼狽えていると、どこからか微かに子供の泣き声が聞こえてくる。


「……その声は、昇太か⁉」

「……せんせい?」

 小泉のその言葉に応えるように返事が聞こえたのを切っ掛けに、社から広がるように敷地内の空気が変わっていき、小泉の周りにたくさんの様々な子供の形をした光が敷地内を埋め尽くすように次々と現れていく。


「せんせい? ……せんせいだって! せんせいだ! ……せんせい!」

 何人もの子供の声が聞こえると、その子供の形をした光たちはあっという間に小泉を取り囲み小泉の腕をつかんだり抱きついたりと戯れるようにまとわりついてくるのだが、光で表情が見えないので、その子供の形をした光たちがどういう感情なのか理解できず普段なら恐怖で慌てるような状況のはずだが、小泉はなぜか不思議な安心感に包まれて慌てる事もなく、その状況を受け入れられた。


 どうした事かと再び辺りを見回すと社の前に誰かが立っているのが見える。

 それは子供の形をした光たちと同じように光で表情は見えないが丸髷(まるまげ)に着物姿の、まるで江戸時代頃のような格好をした女性だった。

 子供たちはその女性に気づくとはしゃぎながら一斉に駆け寄っていく。


「あの? ……昇太!」

 小泉が子供たちが駆け寄っていった女性に話しかけようとすると、その女性の後方に膝を抱えて座る昇太が見え思わず小泉は昇太の名前を叫んだ。

「……せんせい!」

 小泉に名前を呼ばれ、それに気づいた昇太は急いで小泉に駆け寄ってくる。

 小泉が昇太を受け止めようと両手を広げるが、それを見た女性が慌てて手を小泉に向かって差し出すと小泉の視界はぼやけ、気づくと次の瞬間には小泉は社のある敷地内のベンチに座っていた。


 辺りを見回すと日はすっかり落ちていて腕時計を見ると時刻はすでに夜を差していた。

 いつの間にか眠ってしまい夢を見ていたのかと夢の内容を思い返す、あまりにも鮮明に思い出せるため本当に夢だったのかと呆然としながら社を見つめていると。

「こんばんわ」

 突然背後から声をかけられ振り返ると刑事の秋葉が立っていた。

「あっ……」

「どうしました? まるで夢から覚めたような顔をなさって」

「え……ええ、いつの間にか眠ってしまっていたみたいで、不思議な夢を……」

 小泉はせっかく変な誤解を受けないようにしたのにと色々考えながら返事をしてしまい、しどろもどろになってしまう。

「宜しければどんな夢だったか聞かせてもらっても?」

「……実は昨日、社の事を話した時の刑事さんの反応が気になりまして、もし昇太が行方不明になった事と、この社が何か関係あるのなら自分にも何かできないかと……」

 小泉は秋葉の反応を見て、まるで、すべてを見透かされてるようで下手に誤魔化しても無駄な気がしたので正直にすべてを話す事にした。


 小泉はベンチで一人で人形遊びをしている女の子と話したはずなのに、それを見ていた男子児童が人形を持った子の他にもう一人ぬいぐるみを持った子がいたと言っていた事、その男子児童や他の児童たちには、この社に来るといつでも必ず自分たちを待っている友達がいる事、小泉には姿は見えず音も聞こえないがいつも学校で授業をしている時に自分の周りに大勢の子供がいる感覚がこの敷地内でもした事、ここで昇太の声が聞こえたと思ったら社から広がるように敷地内の空気が変わり、たくさんの表情の見えない様々な子供の形をした光が敷地内を埋め尽くすくらい大量に現れた事、すると、その子供の形をした光たちと同じように光で表情が見えない丸髷に着物姿の、まるで江戸時代頃のような格好をした女性が現れた事、その女性のさらに後方に膝を抱えた昇太が座っているのが見えたので名前を呼ぶと、それに気づいた昇太が自分に駆け寄ってきたが、それを見た女性が手を小泉に向かって差し出すと視界がぼやけ気づくと次の瞬間このベンチに座っていた事。


 小泉は学校で秋葉と話してから今までの事を秋葉にすべて説明した。


「まず、正直に申しますと昇太くんが行方不明になった事とこの社は関係があります。先生も薄々感づいているようですが昇太くんはこの社に住む人ではない存在に連れ去られたのではないかと」

「人ではないって……妖怪かなんかだとでも言うんですか?」

「実は先ほど私とここにいた若い男性はそういう事に詳しい方でして、その方に調べてもらいあるところで確認してもらいましたら、この社は建てたはいいが特に何かを祀ってはいなかったために、玉依姫命(たまよりひめ)という女神か巫女が住み着いたとかで」

「ちょっ⁉ ……ちょっと待って下さい。その女神か巫女? ……の、たまよりひめ? ……とか、確かに私も子供の頃に鬼の手を使って妖怪と戦う教師が出てくる漫画を読んで、そんな世界に憧れた事がありますし、それが教師を目指す切っ掛けにもなりましたが、さすがに鬼や妖怪を信じていたのは小学生までです。まして女神や巫女なんて……」

 小泉は自分が冗談を言ってると秋葉が考え、その冗談に冗談で返しているのだと思った。

「女神や巫女といっても本当の女神や巫女ではなく、死後に何らかの影響で神霊となった女性らしいですが」

「いえ、そういう事ではなくてですね……」

 秋葉が冗談を続けてると思った小泉が多少苛つくように言うと。

「すべてを信じて欲しいとは言いません。取り合えずは老人の世迷い言と思って聞いてもらえれば構いませんよ」

 そんな小泉の様子に秋葉は表情一つ変えずに言う。

「……仮に女神か巫女だとしても、子供を拐うようならそれは悪いものではないんですか?」

 秋葉が冗談を言ってるのではないと理解した小泉は真剣な顔をして改めて秋葉に聞いた。

「玉依姫命というのは固有名詞ではなく聖母神といわれる巫女的霊能力を持った女神か巫女を総称して玉依姫命と呼ぶそうで、元々は多くの子を儲け、育てた女神の事をそう言ったらしいのですが、それがいつしか子供を守る女神の総称になったとかで」

「子供を守るって、何故子供を守るその玉依姫命が親元から子供を連れ去るんですか? まさか、その玉依姫命が昇太が虐待されてると勘違いしたとでも言うんですか?」

「ここを調べてくれた方が社を調べた時に玉依姫命の想いが伝わってきたそうで、店先に一人で佇む昇太くんを見て哀れに思い連れ去ったそうです。この玉依姫命は元々現在の虐待される子供の多さに心を痛めていたそうで、そんな時に『お前なんか要らない』と子供を虐待し殺した母親を見た事をきっかけに虐待されている子供がいると親元から連れ去る様になり、それ以後、最近の子供を自分の都合やストレスで簡単に虐待する親に憤りを感じているそうです。なので、あきらかに幸せな家庭からは子供を連れ去ったりしませんが、店先に一人佇む昇太くんの寂しそうな顔を見て居た堪れなくなり連れ去ったのだろうと」

 小泉は夢の中の光景を思い出していた。

 実際に玉依姫命の周りには幸せそうに過ごす子供の形をした光たちで溢れていた。

 あの子供たちが過去に親に虐待されていたところを玉依姫命に救われた子供たちなら確かに玉依姫命は良い女神か巫女なのかもしれない。

「けど、昇太は私の姿を見ると必死に駆け寄ってきました。昇太は家に帰りたいはずです。その詳しい人に玉依姫命をどうにかしてもらう事は出来ないんですか?」

 小泉は秋葉の話を聞きながら夢の光景を思い返している内に、秋葉の話を疑う事なく聞き入れ、昇太を玉依姫命の元から救いたいと考えるようになっていた。


「もし玉依姫命がいなくなってしまうと玉依姫命と一緒にいる子供たちの魂が行き場を失ってしまうらしく、その方法は取りたくないのだと……」

「魂って……、それじゃ、のんびりしていたら昇太もその他の子供たちのように魂だけになってしまうんじゃないんですか?」

 秋葉の言葉を聞いた小泉は途端に焦り始める。


「玉依姫命の領域では肉体の時間は止まっているので心配はないと、ただ昇太くんがこちらに戻る事を諦めて玉依姫命の加護を受け入れてしまうと魂は肉体から離れ、魂だけの存在になってしまうらしいので、昇太くんが玉依姫命の加護を受け入れる前に連れ戻さなければならないと」

 小泉は夢の中の昇太の様子を思い出し昇太はまだ玉依姫命の加護を受け入れていないとわかったが、いつまで受け入れずにいられるかわからない。

 それどころか自分が目の前に現れ救ってもらえなかった事を切っ掛けにもう諦めてしまっているかもしれない。


「その玉依姫命の領域へはどうやったら行けるんですか?」

 それでも、まだ救える可能性があるなら早く連れ戻さなければ危険と、小泉は自分がその領域に行こうと考えた。

「玉依姫命の領域へは内側から道を繋いでもらわないと入れないそうなんですが、……先ほど先生はどうやって入ったのですか?」

 秋葉も今さら夢だと取り繕う事はしなかった。

「先ほどと同じですが、ここに来たら大勢の子供がいる感覚がして、その後に昇太の泣き声が聞こえてきたので、昇太の名前を呼んで返事が聞こえたと思ったら子供の形をした光が大量に現れたんですが」

「今も大勢の子供がいる感覚はしますか?」

 秋葉は周囲を確認するように見渡しながら聞いた。

「いえ、今は特に……」

 秋葉に聞かれた小泉も周囲を見渡すが何も感じられない。


「ここにいる子供たちは明るい内にしか現れないのだとか、普通の子供と同じように昼間に遊び、暗くなると玉依姫命の元に帰るのだと。先生、宜しければ明日、学校が終わり次第、またここに来ていただけませんか?もしかしたら昇太くんを救えるかもしれません」

「……わかりました」

 小泉は秋葉の提案を二つ返事で引き受けた。


 翌日の夕方。

 小泉が学校での仕事を終え商店街の社に来ると、秋葉は社の前で小泉を待っていた。

「お待たせしました」

「いいえ、私もさっき来たところですから、それで着いて早々で申し訳ないのですが、今はどうですか?昨日のように大勢の子供たちの感覚はしますか?」

 挨拶もそこそこに、秋葉に聞かれた小泉が周囲を確認するように見ると確かに大勢の子供がいる感覚はするが、昨日と違い敷地内全体の空気が重いような感覚に、小泉は不思議な違和感を感じ戸惑うような表情をする。

「どうかしましたか?」

「いえ、確かに感覚はするのですが……」

 小泉はその違和感をどう説明すればいいかわからなかった。

「……では、昇太くんの声は?」

 秋葉に声が聞こえるか聞かれ、耳を済ますと。

「昨日よりは小さいですが聞こえます」

微かに昇太のすすり泣く声が聞こえる。

「……この敷地内に聞こえるくらいで構いませんので、昇太くんの名前を呼んでみてもらえますか?」

 秋葉は自分も聞こうと黙って周囲に耳を傾けたが何も聞こえないため、自分が聞くのは諦め小泉に言う。

「……昇太! ……昇太聞こえるか?」

 小泉が敷地内に響く声で昇太の名前を叫ぶ。


「……せい! ……せんせい!」

 すると、小泉の声に応えるように昇太の声が聞こえると同時に、社から広がるように敷地内の空気が変わっていく。

 その空気は昨日と違ってとても重く、気づくと小泉は社のある敷地内に一人になっていて、社の前を見ると着物姿の女性とその女性に肩を掴まれた昇太が姿を現す。

「昇太……!」

 小泉はすぐに昇太に駆け寄ろうとするが小泉の足を何かが掴んで制止する。

「……なっ⁉」

 慌てて小泉が自分の足を見ると子供の形をした赤黒い光が小泉の足を掴んでいた。


 驚いた拍子に姿勢を崩し倒れると何人もの子供の形をした赤黒い光たちが泣き叫び悲鳴をあげながら小泉に助けてとまとわりついてくる。


「いたいよ……、あついよ……、くるしいよ……、さむいよ……、もうしないから……、やくそくするから……、おとうさんゆるして……、おかあさんゆるして……」


 何人もの子供が苦しみながら両親に許しを乞う声が聞こえる。

 まさかすべて虐待を受けた子供……⁉


 苦しむ大勢の虐待を受けたであろう子供の形をした赤黒い光たちが小泉に覆い被さってくると、小泉はあっという間に指一本動かせなくなり、視界を遮られると子供たちの痛みや苦しみが小泉にも伝わる。


「ごめんな。何もできなくて、助けてやれなくてごめんな」

 あまりに多くの痛みや苦しみに、どうすればいいかわからず、小泉は恐怖に身を縮こまらせると身震いしながら必死に子供たちに謝り続けた。


「……せんせい?」

 どれくらい謝り続けただろうか、ふと女の子の声に呼ばれると子供たちの声や伝わってくる痛みや苦しみはなくなり、視界を遮っていた子供の形をした赤黒い光たちも何処かへ消えていた。

 どうした事かと顔を上げると女の子の形をした光が一つ小泉のそばに寄り添っていた。


 小泉がその女の子の形をした光を見ると、すぐにその女の子の形をした光は玉依姫命の元まで駆けて行き玉依姫命と何かを会話をしたかと思うと玉依姫命は昇太の肩から手を離した。

 昇太が後ろを振り向き玉依姫命の顔を見ると昇太はすぐに駆け足で小泉の元までやって来た。


 小泉が慌てて昇太を抱き止め玉依姫命を見ると、なぜか玉依姫命は小泉に向かって深々と頭を下げ、その側にいる女の子の形をした光が小泉に向かって手を振ると、玉依姫命の後ろにある社から広がるように敷地内の空気は元へと戻っていく。

 その様子を見た小泉がもう一度玉依姫命たちを見ると側にいる女の子の形をした光の顔が一瞬だけ見える。


 あの子は……。

 それは二年前に行方不明になった女子児童だった。

 気づくと玉依姫命たちは姿を消し、小泉たちは元の社がある敷地へと戻ってきていた。


「良かった。無事に救い出せたのですね。心配ないとは聞いてましたが、突然、先生の姿が消えた時はどうすればいいのかと」

 戻ってきた小泉たちの姿を確認した秋葉は安心したように微笑むと小泉の腕の中の昇太の顔を覗き込む。

 ずっと泣き続けて泣き疲れていたのか、安心した昇太は小泉の腕の中で眠ってしまっていた。

「ここからなら、この子の家はすぐそこです。まずはご両親を安心させてあげて下さい。私は署に戻って報告をしてきますので」

 秋葉はそう言うと警察署に戻って行った。

 小泉がすぐに昇太を家まで送り届けると、昇太の顔を見た両親は昇太を抱き締めながら泣き崩れ小泉に礼を言う。


 昇太が発見された翌日。

 真人(まさひと)は神域の修繕を行っていた。

「真人さま」

 宇迦(うか)が水筒を持って来ると、真人は一旦手を止め休憩する。

「なぜ今回は助言だけで手を貸さなかったのですか?」

 水筒から湯呑みにお茶を注ぎながら宇迦は真人に聞いた。

「玉依姫命は子供を守ろうとしただけで何も悪くない。それに社に触れた時、玉依姫命が家に帰りたいと泣く子供を親元に帰そうとしているのはわかった。でも、すぐに返さなかったのは子供を気遣わなかった親を反省させるためだろう。だから、一緒に乙舳さんに話を聞きに行った時に秋葉さんには心配はないとだけ言ったんだが」

 そう言うと真人は湯呑みのお茶を飲みながら手拭いで汗を拭う。


 小泉が昇太を救いだした前日。

 真人は秋葉に連れられ商店街の社を調べ終えると神社庁の乙舳に話を聞きに来ていた。


「それは玉依姫命かもしれませんね」

 乙舳は真人たちの話から思い当たる神の名前を上げると本棚から一冊の本を取り出してくる。

「玉依姫命? それはどんな神様ですか?」

 秋葉が聞くと、乙舳は取り出してきた本を捲りながら二人が座るソファーの向かいのソファーに座り、開いたページを二人に見えるように置いた。

「玉依姫命は日本の各地の神社に同じ名前が祀られている事から、この名は固有名詞ではなく、巫女的霊能力を持った女神を総称して玉依姫命と呼んでいるという説があります。また、玉依姫命の『玉依』とは『霊憑(たまより)』からきたとされ、霊憑とは『神霊が依り憑く』という意味である事も、この説の根拠の一つとなっています。日本神話における玉依姫命は海神(わたつみのかみ)や龍神の娘であったり、それらの神を祀る巫女であったりしますが、玉依姫命を祭神とする神社も水に緑のある場所にある事が多いとされています。このように水と関係性が深い事から玉依姫命は水の神または海の神とされており、各地でそれぞれ異なった伝承が伝わっていますが、水に関連している神という点では一貫性があるようです。山幸・海幸神話においての玉依姫命は姉の豊玉姫神(とよたまひめ)と共に海神の娘として登場します。そして姉の豊玉姫神が山幸彦(やまさちひこ)と結婚し産んだ子を姉に代わって育て、その子が成人すると、その妻となり四人の子を儲けます。その四人の子の一人こそがカムヤマトイワレビコ、すなわち後の神武天皇(じんむてんのう)となります。また、三輪山伝説(みわやまでんせつ)に登場する活玉依姫命(いくたまよりひめ)は三輪山の大物主(おおものぬし)との間にクシミナカタを産み、その孫は鹿島神(かしましん)として知られている建御雷神(たけみかづちのかみ)です。このように多くの子を儲け、育てたエピソードを持つ玉依姫命は子孫繁栄のシンボルともなっており、その事が聖母神としての側面を強調しているとも言われています」

 乙舳は本に書かれた内容の一部を二人に説明する。

「危険な神様ではないんですか?」

 秋葉は子供をすぐに玉依姫命から救い出さなければ危険ではないのかと気になっていた。

「真人さんから聞いた感じだと、その玉依姫命の周りにはたくさんの子供の魂がいるので、もしそれが今まで連れ去られた子供たちなのだとしたら、連れ去られた子供も早くしなければ魂にされてしまうかもしれません」

 乙舳の言葉を聞いた秋葉は深刻な表情になるが。

「……心配ないと思いますよ」

 焦る乙舳と秋葉をよそに真人は落ち着いた様子で言った。

「……なぜですか?」

 そんな真人の様子を見て乙舳が聞く。

「社を調べた時に玉依姫命の子供を想う気持ちが伝わってきましたから、それに子供と面識もない俺や秋葉さんがいきなり助けに行って子供が不安になれば、それこそ玉依姫命が子供を守ろうと魂にしてしまうかもしれません」


――――


「結局、秋葉さんは乙舳さんと話した後、そのまま商店街の社に戻ったらしいけどな」

 そう言うと真人は湯呑みのお茶を一気に飲み干した。

「丸髷は江戸時代の既婚女性の髪型の特徴ですから、その頃の人間は自分の子供はもちろん他人の子供にも愛情や注意を注いで溺愛していましたから」

 そう言うと宇迦は何処か遠くを見ながら嬉しそうに笑う。


 江戸時代の日本では子供の虐待はあり得なかった。


 当時、子供は神様からの授かりものと同時に預かりものと考えられ、とても大切にされてきた。

 親は常に子供に寄り添い、身分の高下を問わず愛情を注ぎ、子供を自由に遊ばせながら面倒をよく見る。

 子供はほとんど裸で路上を駆け回り、どんなに悪戯をしたり我が儘を言っても叱ったり罰を与える事はなく親は自分の子供に誇りを持っていた。

 親は子供を溺愛し、それが喜びだった。

 ただ温かさと平和で彼らを包み込み、あらゆる良いところを伸ばすように育て、子供は決して親に怯えて嘘を言ったりあやまちを隠したりせず、嬉しい事も悲しい事も隠さず親に話し一緒に喜んだり安心させてもらったりしている。

 また、そんな子供たちも親に厄介をかけたり、言う事を聞かない事はなく、どの子供も行儀よく善良で健康そのもの、生命力や生きる喜びに満ちている。

 江戸時代まで子供は人の本性は基本的に善であるという性善説の考えで育てられていたと考えられている。


「真人さまは今回の件はどうお考えですか?」

「ん? そうだな……、子供はいないから親の気持ちはわからないが、本来、子供ってのは望まれて産まれてくるものだろ? それなのに苛立ちを解消させるためや邪魔になったからって虐待するのは親が精神的に幼すぎるからじゃないか?」

「そうですね。今は大人になっても昔ほど生活に変化はありませんから」

「確か江戸時代だと元服(げんぷく)ってやつで男は十五歳で成人になって一人前の人間として扱われて、精神的にもしっかりしてたから他人の子供まで溺愛できたんだろう」


 元服とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。

 おおよそ数え年で十二から十六歳の男子が式において、氏神の社前で髪を大人の髪型に結い、服装も大人のものへと改め、幼名から新しい名に切り替えたり、冠をつけたりした。

 現在と同じ成人式が行われるようになったのは戦後の事である。


「子供も親を尊敬し、早く親の役に立ちたいと考えてましたから精神的にも早熟だったかもしれませんね」

「まあ、俺もついこの前までは定職にもつかずその日暮らしの生活をしてたからあまり言えないけどな」

 そう言うと真人はばつが悪そうに笑う。

「真人さまはそういうのとは少し違いますよ。精神的に弱いのと幼いのは違いますから」

 そんな真人を見て宇迦は笑顔で否定する。

「そうか?」

「精神的に弱いものは罪を犯そうとした時に躊躇いますが、精神的に強いものは躊躇いません。また躊躇うという事は自分の行いに責任を感じているからです。精神的に幼いと自分の行いに責任を感じませんので、精神的に弱いのが必ずしも悪いとは限りません」

 真人は宇迦が自分に気を使って言ってくれてる事はわかっていたが、少しだけ救われた気がした。


「ですが、私にはまるで真人さまがあの教師を避けているように思えたのですが」

「あ~……」

 その宇迦の言葉に真人は思わず挙動がおかしくなる。

「実はあの小泉は小中学校時代の同級生で、生真面目な奴で苦手だったんだよ」


 あれから数日。

 昇太は無事に学校に登校してきた。


「おはよう。せんせい!」

「おう。おはよう」

 小泉は自分の元まで駆け寄ってきて元気に挨拶をする昇太の頭を撫でながら笑って挨拶を返した。

「……」

「どうしたの? せんせい」

 小泉には昇太を救った時から、ずっと気になっている事があった。

「なあ? あの時、先生の事を助けてくれた女の子は女の人に何て言ったんだ?」

 子供たちから伝わる痛みや苦しみから小泉を救い玉依姫命とともに消えていったのは確かに二年前に行方不明になった女子児童だった。


「あのせんせいはやさしいから、だいじょうぶって」


「……そうか」

 それを聞いた小泉は二年前に救えなかった女子児童が今は玉依姫命の元で苦しまずに過ごせているとのだと少しだけ心が軽くなった。

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