第5話 祟りと慈愛の神
朝、真人(まさひと)は神域の家にある自分の部屋で目を覚ました。
神域の管理人を任されるようになって数ヶ月、だいぶ仕事になれてきた真人は近況報告もかねて年末年始を久しぶりに伯母の家で過ごす事にした。
「……こんなものか」
玄関から外に出ると、真人は財布や電源を切っていたスマホをポケットに入れ準備を済ませる。
「お気をつけて」
宇迦(うか)が真人の背後にまわり袖を通した私服の乱れを正してくれる。
すぐに御饌(みけ)が風呂敷に包んだ荷物を抱えて家から出てきた。
「……なんか前にもこんな事があったな」
真人が言うと御饌は荷物を持ったまま風呂敷を解き、包まれていた四段重ねの重箱の一番上の中身が真人に見えるように蓋を開けて見せる。
「これは、御節か?」
見ると重箱の中には、紅白かまぼこや伊達巻、栗きんとんなど、御節料理でよく見るものが詰められていた。
御饌は真人に持たせるために朝早くから用意していた。
「ありがとう」
真人がお礼を言うと御饌は微笑み、再び風呂敷で包みなおした重箱を真人に持たせてくれた。
そのまま真人を見送るために三人で現世(うつしよ)へ繋がる社まで向かっていると。
「神奈(かんな)は相変わらずか?」
しばらく神域には戻らないので顔を見ておきたかったが、神奈は必要な時以外はあまり姿を見せる事はない。
「そうですね。神奈さまは相変わらずお忙しいようで……」
宇迦が申し訳なさそうに言う。
「いつもの事だから気にしなくていい。じゃ行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
揃ってお辞儀をする宇迦と御饌に見送られながら、真人は現世へと繋がる社の中を進んだ。
真人がしばらく進むと前方に格子状の光が見えてくる。
光の漏れる格子扉を開け社の外に出ると遠くにあるビルや道路などが見える。
真人はそのまま伯母の家に向かった。
「ただいま~」
玄関を開けて家の中にいる伯母に聞こえるように声をかける。
「あら、お帰りなさい」
居間にいたのか、すぐに伯母が出て来て真人を迎える。
「ふ~ん……」
「なっ……何?」
久しぶりに会った伯母はしげしげと真人の顔を見つめる。
「いや、男子三日会わざれば~、なんて昔はよく言ったけど、神社の仕事っていうのは随分やりがいがあるのかね」
「へ?」
「前は控え目で、いつも覇気のない顔してたけど、今は表情も明るくなって、何て言うか見違えたよ」
「そうかな」
話ながら居間に移動すると、真人は上着を脱いで炬燵に入り、伯母は台所で電気ケトルに水を入れお湯を沸かす。
「ご飯は?」
「あっ、向こうで世話になってる人が御節持たせてくれたから」
真人は御饌が持たせてくれた御節の風呂敷を解くと重箱を炬燵の上に出した。
「ずいぶん立派な重箱だね」
言いながら伯母は重箱の蓋を開けると。
「ちょっと! これ神様への新年のお供え物とかじゃないの⁉」
重箱の中のあまりに豪華な食材の数々に伯母は慌てて真人に確認する。
「世話になってる人が出る時に直接持たせてくれたものだよ」
「そうならいいけど、こんな贅沢なもの用意してくれるなんて、本当にあんたに神社の仕事なんて勤まってるんだね」
言うと伯母は四段重ねの重箱を炬燵の上に広げる。
「神社と言っても俺がやってるのは裏方の仕事だよ」
「裏方でも神社の仕事には違いないでしょ? 会社勤めは到底無理だと思ってたけど、それがまさか神社で働くなんて、神様に罰当たりな事するんじゃないよ!」
すぐにお湯が沸き、急須にお湯を注ぐと箸二膳と湯飲みを一つ食器棚から出して伯母も炬燵へ入る。
「神っていうのは人間のする事なんて気にもしてないよ。人を助けてくれるような神はごく一部で、ほとんどの神はいい加減だから」
「……まるで神様と会った事でもあるような言い方だね」
「それは……神社庁には色々な資料があるから、それを見てればなんとなく……」
真人は途中まで言いかけて、今まで仕事で関わった人には自分が神と関わりを持っていると教える必要があったので教えたが、伯母には余計な心配をかけないためにも教えない方がいいだろうと考え誤魔化した。
「そんなこと言ったってわからないでしょ。ただでさえ、最近は変な人が増えて物騒なんだから。特に神社のように色々な人が出入りするような場所は何があるかわからないんだからね」
「そんなの、気にしすぎだって」
「そんな事ないよ。この間だってニュースで昨日まで普通だった隣人が、突然、豹変して揉め事になったとか、近所の人から突然、嫌がらせをされるようになったとか、最近はそこから酷いものだと暴力沙汰や殺人事件に発展する事もあるらしいよ」
言うと、伯母は重箱から魚を自分の皿に箸で取り分け。
「最近は人付き合いが希薄だから、ちょっとした事ですぐ頭にきたりする人が多いんだよ」
言いながら、真人は重箱から鶏肉を自分の皿に取り分ける。
真人は久しぶりに会った伯母と、御饌の作ってくれた御節を食べながら、お互いの空白の時間を埋めるように語り合った。
翌日。
真人は朝食を食べると、久しぶりに訪れた伯母の家の近所を昔を懐かしむように散歩していた。
高校を卒業してすぐに伯母の家を出たきりだったので、街並みは記憶とはだいぶ違ってしまっていたが、昔とまったく変わらないところもあり、ただ歩いているだけでも面白かった。
――だが、しばらく歩いていると、遠くから何やら人のざわつく声が聞こえてきた。
興味本位に真人がその声が聞こえる方に向かっていくと、角を曲がった先のとあるアパートの前に人だかりができていて、アパートの目の前にはパトカーが止まっていた。
何かあったのかと近付いて覗き込むと、ちょうどアパートの中から中年の男が警察官に連れ出されて来るところだった。
人だかりの中にいる主婦の会話から、その男が近所に迷惑行為を行い訴えられ、今朝になってとうとう注意をした近所の住人を殴ってしまい、通報されたのだという事がわかった。
昨日、まさに伯母と話していた場面に遭遇するとは思っていなかった真人は、パトカーに乗せられ連れていかれる中年の男を見ながら、伯母の言ってた事もあながち大袈裟ではないのかと考えていると、視界の端で警察官に連れていかれた男の部屋の扉の前から、小さな白い何かが素早く去っていくのが見えた。
――だが、ゴミか何かが風に飛ばされたのだろうと、真人は特に気にする事なくその場を離れた。
真人は一通り近所を見て回ると伯母の家に戻った。
「あら、早かったのね」
「いや、さっき向こうのアパートの前にパトカーが止まっててさ。なんか近所の人を殴ったとかで……」
「ええっ⁉ すぐ近所じゃない。いやだね~、まさか近所でそんな事が起こるなんて」
口ではそう言うが、伯母は特に慌てた様子もなく、どこか遠い場所の出来事のように感じているようだった。
「んで、散歩する気分でもなくなったから、帰って来た」
「ふ~ん、まあ正月休みなんだし、ゆっくりしてな」
「……うん」
真人は居間で横になると、伯母に返事を返しながら、何気なくスマホを取り出し、インターネットで近所トラブルについて検索をしてみた。
すると、検索結果の上位には、『優しかった隣人が豹変や近所の人に嫌がらせと思われる行動をされている』や『人間関係で揉めた』など、そして、酷いものでは『暴力や殺人事件』にまで発展した事例の記事が表示された。
その中から適当なものを選びクリックすると、表示された記事にはトラブルを起こした人物が捕まった後にわかった、トラブルを起こした原因が書かれていた。
それらはすべて、職場や学校、近所や家庭、恋人や友人との人間関係、自分の将来への不安、いじめ、仕事への不満などのストレスが原因という事だった。
その記事を見ながら真人は昔の自分を思い出した。
神域の管理人を始めるずっと前、他人と関わるのが嫌になっていた自分も、下手をすればこのトラブルを起こした人物たちと同じになっていたのではないか。
そう考えると、先ほど警察官にアパートから連れ出されてきた男がなぜ近所に迷惑行為を行ったのかが気になった。
人だかりが落ち着くのを待って、何かわからないかと真人はアパート前まで来ていた。
すると、朝とは違う主婦たちが離れた路地でアパートを見ながら井戸端会議を開いていた。
真人は主婦たちの会話が聞こえるところまで近づき主婦たちの会話に耳を傾けると、予想通り警察官に連れていかれた男の事を話していた。
アパートの周辺は子供がいる世帯が多く、昼間は子供の遊び声が響いていたため、子供の親たちは男性を見かける度に子供の事で迷惑をかけていると挨拶をしていたそうだが、その男も当初は子供がうるさいのは当たり前だから気にしなくていいと理解があったらしい。
しかし、最近になって急に人が変わったように遊んでいる子供を大声で怒鳴りつけるようになり、その後も何かにつけては文句を言ったり、近所に迷惑行為を行い訴えられる事もあったそうだ。
そして、そんな事がしばらく続き、今朝になって、男の事を注意した近所の住人をとうとう殴ってしまったのだという。
しかし、もし仕事や人付き合いで何かあったのだとしても、そこまで変わるものだろうか? 他人と関わるのが嫌になっていた昔の自分でもそこまでするとはとても思えなかった。
これはまるで狐に憑かれたような……、そこまで考えると真人は考えるのを止めた。
最近、すぐそういう方向に考えを持っていくのは悪い癖だ。
そんな事を考えていると、いつの間にか井戸端会議をしていた主婦たちは話すのを止めていて、真人の事を怪訝そうな表情で見つめていたため、ばつが悪くなった真人は足早にその場を立ち去った。
真人がアパートから離れるために、当てもなく住宅街を歩きまわっていると一軒の朽ちた廃屋に見知った姿が入っていくのが見えた。
「……神奈?」
時々、現世に神奈が一人で来ている事は知っていたが、こんな所でいったい何をしているのか。気になった真人は神奈の後を追って廃屋に入って行った。
中に入ると床に散らばったごみの所為で少し歩くだけでも音が出てしまい、誰かが入ってきた事はわかるはずだが、中にいた神奈は床に空いた穴を見つめたまま微動だにしなかった。
真人は神奈に近づき、神奈が見つめる穴を覗き込むと、穴の中で一匹の猫が死んでいた。
「……神奈」
猫の死骸を見た真人は思わず神奈の名前を呼びながら顔を見るが、名前を呼ばれた神奈が振り返りもせずに猫の死骸を見つめていると、突然、猫の死骸から黒い靄が立ち上ぼり始める。
「これは……穢れか? けど、なぜ猫の死体から穢れが」
「……死の間際、よほど怖い思いをしたのでしょう。その時の負の感情が死後になって穢れへと変わったようです」
「怖い思いって、……まさか⁉」
言いながら真人が改めて猫の死骸をみると、猫の腹の辺りからうっすらと血が滲んでいた。
猫は人に虐待され、この穴に逃げ込んで息絶えていた。
「人への恨みが穢れになってるのか?」
「この猫自身には人に殺されたという認識はないでしょう。ですが、殺された時の恐怖の感情は残り、その感情は穢れに変わります」
「認識がないってどういう事だ?」
真人は神奈の言ってる事の意味が理解できなかった。
「……人間が動物や災害に殺された時、その動物や災害に殺されたと考えますか? 運が悪かったと考えるだけで動物や災害を恨んだりしないのではありませんか?」
「それは……」
「動物にとって人間とはそういうものです。無闇に動物を殺してはいけないという決まりは人間が作ったものであり、動物を殺した人間が罪悪感や後悔を感じるのは、その人間の感情や価値観であり、動物に人間の作った決まりは関係ありません」
「じゃあ、人が動物をストレスを発散させるために殺すのはいいって言うのか?」
「人間が動物を苦痛や苦悩を発散させるために殺す事と、間引いたり食べたりするために殺す事の違いは動物には関係ありません」
「それは……、そうかもしれないが……」
真人がそこまで言いかけると、神奈は立ち上がり廃屋の出口に向かう。
「この猫はこのまま放っておくのか?」
「ここを死に場所に選んだなら、動かすべきではありません」
そう言って神奈は廃屋から出ていってしまった。
真人も猫を一瞥しながら神奈の後を追って廃屋を出ると、真人が出てくるのを待っていたのか、神奈は廃屋の出口のすぐそばに立っていた。
「どうした?」
「穢れは少しだけならそれほど気にする必要はありませんが、多くなると様々な災厄を引き起こします。気をつけて下さい」
それだけ言うと、神奈は何処かへ行ってしまった。
真人は前に神域で穢れに触れた時の痛みを思い出していた。
もし今、穢れが現世に大量に発生したら、どんな災厄が起こるか予想もできず、予想できたとしても真人一人では対処できない。
しかし、神奈には悪いがあのような事を知ってしまっては次に同じ事があっても穢れだからと見て見ぬふりはできそうもない。
もしもの時のために神域に帰ったら宇迦に確認しておく必要があるだろう。
そんな事を考えると、特に目的もなくなった真人は身体も冷えてきたので伯母の家に戻る事にした。
夜、伯母の家で寝ていると、真人は夢を見た。
その夢では一人の少女が家で真っ白な白猫と幸せに過ごしていた。
少女はその白猫が大好きで、幼いながら一生懸命に世話をして、いつも一緒にいた。
また、そんな白猫も少女が大好きでいつも少女に寄り添っていた。
翌日。
朝、目が覚めた真人は呆然としながら夢の内容を思い返していた。
猫の死骸を見て、すぐにあんな印象が強く、はっきりと思い出す事が出来るほどの鮮明な夢を見たのは何か意味があるような気がしてならなかった。
廃屋で死んでいた猫は身体に模様があったので夢の白猫とは別の猫だが、猫の死骸を見てすぐにあんな夢を見たのは偶然とは思えなかった。
真人は午前中を伯母の家で過ごし、昼食を終えると服を着替えて外出の準備をする。
「あら、出掛けるの?」
「ちょっと知り合いに会ってくる」
そう伯母に答えると、真人は伯母の家を出た。
真人は市内の山の中にある神社まで来ていた。
神社の社務所の扉を開くと壁中にガラス扉がついたアンティーク調の本棚や家具が並んだ部屋の中で、本が山積みにされたテーブルの横に二つの二人掛けソファーが並んでいる。
「……乙舳(おつとも)さん、いますかー?」
真人は室内に人が誰も見当たらないと、中に向かって声をかける。
「……はい」
すると部屋の奥から声が聞こえ、真人が声のした方へ歩いていくと、本棚の間に線の細い眼鏡をかけた男が挟まるように座って本を読んでいた。
「どうも、乙舳さん」
「あれ? 真人さん。今はお正月休みをとっているはずでは?」
真人の姿を見た乙舳は、読んでいた本を閉じると立ち上がりながら聞いた。
「ちょっと聞きたい事がありまして……」
「……取り合えず掛けてください」
乙舳が言うと、真人はソファーへ腰掛ける。
「乙舳さんは正月休みとらないんですか?」
真人はソファーに腰掛けると手持ち無沙汰になり、床に積んでいた読み終わった本を片付ける乙舳に話しかけた。
「僕は好きでここの仕事をしてますから、休みの日もここにいますよ」
全ての本を棚に戻した乙舳は真人の向かいのソファーに腰掛ける。
「それで聞きたい事というのはどのような事でしょうか?」
「その前に確認したいのですが、猫の神様や神話ってありますか?」
「猫ですか……、確か猫は元々ネズミ防除対策のために平安時代以前に日本へ持ち込まれたらしいので、古事記や日本書紀の時代に日本に猫はいなかったはずです。後になって猫を神として祀った神社がいくつかできたみたいですが、猫に関しては民間伝承にいくつか描かれてるくらいで、神として描かれてるものはありません」
「……そうですか」
そう言うと真人は黙って考え込む。
「何かあったんですか?」
真人の様子を不思議に思った乙舳が聞くと。
「実は……」
真人は今朝見た夢の事を乙舳に説明した。
「なるほど、確かに何かの暗示なのかもしれませんが、そこまで深く考えなくてもいいと思いますよ。真人さんは普通の人よりそういう感覚が鋭いから夢を見てしまっただけで、その度に気にしていたら身が持ちませんよ?」
「それはそうかもしれませんが……、その民間伝承に出てくる猫というのはどういうものなんですか?」
真人は少し悩んだが、やはりどうしても気になってしまい乙舳に聞いた。
すると乙舳は、やれやれと溜め息を漏らしながら。
「一般的な民間伝承などについては私も詳しくないので、もし調べるなら公立図書館とかですかね。猫についての民間伝承の資料があるかはわかりませんが」
「わかりました。有難うございます」
真人は乙舳に礼を言うと、そのまま市内の公立図書館に向かった。
横浜市立図書館は市内十八区にそれぞれ一つの図書館があり、全館で約四百十万冊の図書を収蔵している。
中でも真人が訪れた図書館は所蔵数では日本でニ番目の大型図書館であるという。
ここなら参考になる資料くらいはあるだろう。
早速、民間伝承関係の本がある社会科学部門の民俗のコーナーで民間伝承について書かれている本を探していく。
背表紙に書かれた本のタイトルを確認しながら参考になりそうな本を探してみるが、民間伝承の本だけでも思った以上に数があり、タイトルだけではどれを見たら良いかわからなかった。
結局、タイトルだけでは判断がつかず、気になった本を数冊抱え席につくと一冊ずつ内容を確認しては、また戻して次の気になった本を抱え席について確認する。
そんな作業を繰り返していると。
「何か調べものですか?」
突然、図書館の職員らしき眼鏡をかけた女性から話しかけられ、真人はどう答えたらいいかわからず女性の顔を見たまま固まってしまった。
「私は司書というご利用者が求める資料に辿りつくための手助けをさせていただく業務を行っています。先程から、何かを調べてらっしゃる様子でしたので、宜しければお手伝いいたしますが?」
司書とは、毎日図書館の窓口に寄せられる、資料に関する様々な問い合わせをデータベースや参考図書を使いながら、利用者が求める資料に辿りつくための手助けをしてくれる。いわゆるレファレンス業務を担当する職員であり、経験と知識がものをいう業務である。
「あっ……、それじゃ、猫に関する民間伝承が書かれた本をお願いします」
「それは童話など創作物は除きますか?」
「ええ、史実に残っている日本のものでお願いします」
「かしこまりました。調べてきますのでお席でお待ち下さい」
それからしばらくして、席で自分が持ってきた本を確認していると。
「お待たせしました」
先ほど話しかけてきた女性司書が三冊の本を持って話しかけてくる。
「猫に関する民間伝承や言い伝えなどが載ったものはいくつかありましたが、中でもこちらの三冊が詳しく載っていまして、他のものに載っている内容は細かい違いを除けばこちらにすべて載っています」
女性司書は真人の前に本を置き説明する。
「それでは、また何かありましたらお声掛け下さい」
「ありがとうございます」
真人が礼を言うと、女性司書は微笑み戻っていく。
真人はさっそく女性司書が持ってきてくれた本の中から一冊を手に取ると目次を確認して猫について書かれたページを開き読んでいく。
本に書かれた民間伝承などにある猫の種類は四つ。
猫又(ねこまた)。
尾の先が二股に分かれていて、化け猫と混同される事が多いが、その区別は曖昧である。
年をとった飼い猫が変化した妖怪とされる。
人に呪いをかける時、猫が跨いで呪いをかけるから、猫またぎ、略して猫又という。
人語を解し、人語を話す。
人を喰い殺して、その人に成り代わる事もある。
総じて踊り好きで、手ぬぐいを被り、仲間を誘って踊りに出掛ける民話が多く残されている。
化け猫。
猫が変化した妖怪で、猫又がさらに年を経ると化け猫になる。
逆に、化け猫がさらに年を経ると猫又になる、と言われる事もある。
身の丈は五尺(一、五一五メートル)とも九尺五寸(ニ、二八八メートル)とも一丈(三、〇三メートル)とも言われ、とにかく巨大である。
死体を躍らせたり、葬式で死体を奪ったりする。
夜行性で目が光り、血や行灯(あんどん)の油をなめる。
猫鬼(びょうき)病猫鬼(びょうびょうき)。
「蠱毒(こどく)」の一種。
猫を締め殺して四十九日の間、これを祀り、その霊を呪殺、あるいは、財産を奪う為に使う呪法、また、その使役する霊。
また、年を経た「山猫」の精を変化させたもの。
猫神(ねこがみ)
「諸国風俗問状答(しょこくふうぞくといじょうこたえ)」に、「狐蠱(ここ)あり、狐つかい等なり。猫神、猿神、犬神の類なり」とある。
中国の猫鬼に由来すると思われる。
また、鹿児島市磯(かごしましいそ)の仙巌園(せんがんえん)には、日本で唯一猫を祀(まつ)るという『猫神神社』がある。
そういえば昨日見た、近所に迷惑行為を行い訴えられた男の部屋の扉前から去っていった小さな白い何かは猫だったようにも思える。
はっきりとは見えなかったので見間違いかもしれないが。
そんな事を考えながら読み終えた本を返却しようとするが、女性司書がこの本をどこの棚から持ってきたのかわからず真人はカウンターに返却場所を聞きに行く。
「あの? これ女性の司書の方に探してもらったんですが、どこの棚に返せばいいですか?」
「あっ、でしたら、こちらでお預かりしますよ」
カウンターの女性はなれた様子で真人から本を受け取った。
図書館を出ると日は傾いて空は茜色に染まっていた。
図書館からの帰り道、真人が住宅街の中を歩いていると、後方から道路の隅を、子猫ではないがまだ大人とは言えないくらいの大きさの白猫が前方に駆けていくのが横目に見えた。
夢に出てきた白猫は子猫だったので違うとは思いつつも何気なく目で追っていくと、白猫はその先にある家の敷地内に入って行く。
歩きながら横目でその猫が入っていった家を見ると、白猫がその家の玄関前に座り真人の事をじっと見つめていた。 野良猫が近づく人間を警戒して見つめる事はよくあるが、夢の事もあってか真人はその白猫が少し気になったのだが、他人の家なので勝手に入る事もできずにどうしようかとその場に立ち止まり白猫の様子を窺っていると。
「あの……、何かご用でしょうか?」
その家の住人らしい老女が庭から現れ怪訝そうな表情で真人に聞いてくる。
「あっ、いえ、その猫を追っていたらここに入っていったので」
真人は言いながら玄関前の白猫を指差すが。
「はあ……、猫ですか……」
老女にはその白猫が見えていないのか、目の前にいる白猫に気づかず、きょろきょろと辺りを見渡している。
「あっ……、いえ、もう奥に行ってしまったようで、すいません」
その様子を見て、真人は老女に頭を下げると、早々にその場を離れた。
どうやらその白猫は普通の人には見えていない様だった。
翌日。
真人は昨日の白猫が気になり、もう一度会えないかと白猫が入った家の近くまで捜しに来ると、何やらその家の辺りが騒がしい事に気づき急いで騒ぎの中心に駆けつけた。
すると、その家の前には人だかりができていて、家の目の前にはパトカーと数人の警察官の姿があり、昨日、玄関前に白猫が座っていた老女の家から住人らしき男が警察官に連れ出されてくるところだった。
家の前の野次馬の会話の内容から、どうやらその男が家の中で暴れだし、母親である老女の悲鳴が聞こえたので近所の住人が通報したとの事。
警察官に連れ出されてきた男の目は血走り、怯えたように周囲を窺っていた。
そういえば図書館で読んだ本の猫又の説明には人に呪いをかける時、猫が跨いで呪いをかけると書かれていた。
もしかしたら昨日の白猫は猫又で、この家に呪いをかけたのではないかと真人は考えた。
一昨日見た、近所に迷惑行為を行い訴えられた男の部屋の扉前から去っていった小さな白い何かも猫又で、あの家も呪いをかけられたのではないか。
もしそうなら急いであの白猫を捜し出さなければ、またどこかの家に呪いをかけるかもしれない。
すぐに真人はその白猫がいないか住宅街の中を捜し回った。
くそっ! ……ダメか!
一時間ほど住宅街を捜し回ったが、いたのは普通の野良猫ばかりで、昨日の白猫を見つける事はできなかった。
もしかしたらこの住宅街にはもうあの白猫はいないのかもしれない。
もしそうなら捜す範囲はかなり広くなり、見つける事なんて不可能に近い。
何か他にあの白猫を捜す良い方法はないだろうか?
そんな事を考えていると、一昨日、廃屋で神奈に会った事を思い出した。
神奈ならもしかしたらあの白猫を見つけられるかもしれない。
――だが、その神奈も今どこにいるのかなんて見当もつかない。
普段から一人で現世やいろいろなところを行き来しているらしいので今神域に戻ってもいると限らない。
どこか神奈がよく立ち寄りそうなところは……。
しばらくして、真人は街が一望できる高台に来ていた。
昨日、神奈が見つめていた猫の死骸からは穢れが立ち上っていた。
もし神奈が穢れの発生を察知してあそこにいたのなら、この高台からなら自分にも発生する穢れを確認する事ができるのではないか、そう考えたからだ。
しかし、そんな考えとは裏腹に、日が傾いても穢れの発生は確認できなかった。
高台から街を観察し続け、半ば自分の考えは間違っていたのではないかと考えていると街の中の一部から微かに黒い靄のようなものが立ち上っていくのが見えた。
それを穢れだと判断すると、真人は急いでその穢れが立ち上る場所へ向かった。
近づいていくにつれ、立ち上る穢れはだんだんと大きくなり、到着すると穢れの発生場所は道路横にある林の中だった。
その林を見た真人は何やらただ事じゃない雰囲気を感じた。
林からは今までに見た事もないような穢れが立ち上ぼり、まだ日の光が残る空を黒く染め上げていた。
その林の中をよく見ると一人の人影が見える。
「……神奈!」
人影が神奈とわかると真人は神奈の名を呼び急いで神奈に駆け寄った。
近づくと神奈の足元には黒い羽根が散らばり、神奈の見つめる先には何匹もの烏の死骸が散乱し、すべての死骸から穢れが立ち上っていた。
「まさかこれも人がやったのか⁉」
真人は目の前の烏の死骸を見て、一昨日の猫の死骸を見た時の状況を思い出した。
烏の死骸の足には紐が絡まり、何か罠のようなもので烏を捕まえ、殺した後にこの場に棄てられていた。
「とにかく、ここをこのままにはしておけないな」
真人はスマホを取り出し警察に通報すると、すぐに二人の警察官が二輪車に乗ってやって来た。
「これは酷いな」
林の中に入り、烏の死骸を見た警察官は愕然とすると、すぐに無線でこの場の惨状を本部に報告して応援を呼び、烏の死骸の処理を始めた。真人は警察官から事情を聴かれると、自分も疑われる事を覚悟していたが、こうした動物の虐待は最近増えているらしく、犯人がわざわざ通報するはずはないと判断したのか、意外とあっさり解放された。
「神奈は穢れが発生したからあそこにきたのか?」
警察官から解放され、その場を離れると、真人は神奈にあの場所にきた理由を聞いた。
穢れが多くなると様々な災厄を引き起こす危険があるのはわかる。確かに一昨日の猫や先程の烏から発生した穢れは今までに見た事ないものだったが、それでも災厄を引き起こすほど危険だとは思えなかった。
「動物は人間の様に感情を言葉で伝える事ができないので、恐怖などの感情がとても強く、私にも伝わってきます」
いつも無表情な神奈の表情からは感情を読み取る事ができないが、真人には神奈が怒っているようにも見えた。
「動物を殺した人間が憎いのか?」
「……前にも言いましたが人間が動物を苦痛や苦悩を発散させるために殺す事と、間引いたり食べたりするために殺す事は動物には関係ありません。それに猫や烏も私たちと同じように他の生き物を捕食しているのですから、それで人間に怒るというのは矛盾しています」
神奈の言葉に真人は伯母と食べた御節を思い出した。
御饌が作ってくれた御節には魚や鶏肉も入っていて、御饌たちは普段の食事でも同じものを食べている。
「それに先日の猫や先程の烏は人間の意思だけで殺されたとは思えません」
「……どういう事だ?」
「動物の恐怖の感情はこれまでも伝わってきてましたが、私がそこに向かったのは、その場に強い穢れを感じたからです」
「強い穢れって……、殺された動物から発生した穢れじゃないのか?」
「動物の負の感情が穢れに変わるのは死後しばらくしてからです。私が感じた穢れは動物を殺した人間がもつ強い穢れです」
「人間が悪意を持って穢れに堕ちたから動物を殺したんだろ?」
人はもともと清浄と穢れを有しているが、大量の穢れに触れると人の身でありながら穢れに堕ちる。
「私が感じた穢れは人間が持つ穢れとは違っていました」
「……最近おかしな人が増えてるのはもしかしてその穢れが原因なのか?」
「すべてがそうではありませんが、動物を殺した人間から感じた穢れは、人間が元々持っている穢れとは別の穢れでした」
神奈と会話しながら真人は猫の死骸を見た日の夜、少女と白猫の不思議な夢を見て気になり、図書館で猫に関する民間伝承の本を調べた事を思い出した。
「一昨日、猫の死骸を見た日の夜に少女と幸せに過ごす真っ白な子猫の夢を見たんだ。すると、昨日少し大きいがその夢に出てきた子猫によく似た猫を見かけて、気になって何気なく目で追っていくとある家の玄関前に座ってこちらを見つめてきたので。その家の住人にその猫の事を聞いたんだが、目の前にいるのにその住人にはその猫が見えていなかったんだ。しかも今日、気になってもう一度その家に行ってみたら、その家の住人がおかしくなったと騒ぎが起きていた。もしかして最近、人がおかしくなってるのはその猫が原因なんじゃないか?」
「そこまではわかりませんが、もしそうならその猫をそのままにしておくと、おかしくなる人間はこれからも出て来るでしょう」
「その猫をなんとか見つける事はできないか?」
「動物を殺しているものの穢れは特定できたので居場所はわかります」
「……人と動物の穢れの違いだけじゃなく、穢れ一つ一つに違いなんてあるのか?」
真人は穢れとは邪(よこしま)な心の事で、黒い靄のようであり、触れると火傷したように痛み肌が黒くなる事くらいしか知らなかった。
「穢れにはそれぞれ個性があります。気持ち悪いものや寒気を感じるもの、中には穢れなのに心地よいものや安らぎを感じるものもあります。今回の穢れは気持ち悪く息苦しい圧迫感があり害意を感じます」
「害意って他を傷つけようとするものだよな? じゃあ、あの猫は故意に人をおかしくしてるのか? 今あの猫はどこにいるんだ?」
言いながら真人の頭の中には伯母の顔が思い浮かんでいた。
離れて暮らしてずいぶん経つが、真人のとっては唯一の肉親であり、その伯母が危険な目に遭うかもしれないと考えたら気が気ではなかった。
「ついてきて下さい」
神奈に案内され真人は市内にある山の山中に来ていた。
「暗いな」
着いた時には日もすっかり沈み。案内された山の中は一歩入ると何も見えないほど真っ暗だった。
そのまま前方を行く神奈の後について山中を登っていくと。
「あそこです」
神奈は立ち止まり暗闇の先を指差す。
ようやく暗闇に目が慣れてきた真人が神奈の指差す先に目を凝らすと。
「あれは……、祠か? いや違う……何かの墓か」
そこは少しだけ開けた広場になっていて中央に少しだけ土が盛られ、そこに墓標代わりに石が置かれ、手前には何かお供え物がされていた形跡がある。
何故こんなところに墓がと考えながら近づくと、墓の回りには空き缶や菓子や弁当の包装などのゴミが散らばっていた。
「何だここは?」
真人がゴミに気を取られていると、墓から黒い靄が立ち上ぼり、それは大きな獣の形を成していく。
「なっ……⁉」
その獣は体高だけで真人と同じくらいの高さがあり、唸り声をあげると今にも真人たちに襲いかかりそうだった。
「逃げて下さい」
その様子を後ろで見ていた神奈が真人と獣の間に入ると獣を見つめながら真人に言った。
「……えっ?」
「あれは祟り神です。私たちだけでは対処できません」
神奈に言われ、真人がその場を慌てて離れようとするが。
「神奈!」
神奈は獣を見つめたまま、その場を動こうとしない。
「二人一緒に逃げれば、すぐに追い付かれます」
「……だからって置いていけるわけないだろ!」
真人が背を向けたままの神奈に向かって言うと、神奈は真人を一瞥して。
「貴方が逃げた後に私も逃げるので気にする必要はありません」
「……わかった」
真人はこのまま言い争っていても事態が悪化する恐れがあると、神奈の言葉を信じてその場から急いで離れた。
真人が山から離れて街中に着く頃には真夜中になっていた。
神奈は無事逃げれただろうか。
あの場ではつい慌ててしまったが、神の住む神域の守人を任されているほどなんだから心配はいらないはずだが。
(しかし、まさか祟り神とは……)
何かの物語などでは多少聞いた事はあるが、どういうものかはわかってない。
このまま相手をするのは危険すぎる。
まずは宇迦に祟り神の事を確認した方がいい、そう考えると真人はすぐに神域へ戻る事にした。
「……祟り神ですか」
神域に戻った真人は今までの経緯をすべて宇迦に話した。
現世で人がおかしくなっている事。
虐待されて死んだ猫の死骸から穢れが発生した事。
猫の死骸を見た日の夜に少女に飼われた真っ白な子猫の夢を見た事。
現実でその子猫ではないがまだ大人とは言えないくらいの大きさの普通の人には見えない白猫を見た事。
動物を殺している穢れを追っていくと山中の墓にたどり着き、その墓から祟り神が現れた事。
祟り神から自分を逃がすために神奈が囮になってくれた事。
すべてを話終えると少し考えてから宇迦は話し出した。
「まず、祟り神とは自然や動物、時には我々神とされるものたちが起こす災いの事で、理不尽に破壊されたり殺されたりする事で生じた負の念が合わさり、力を持ったために生まれた荒ぶる神の事を言います。よく呪いと混同されますが、呪いとは人が呪術や儀式によって発生する力の事で祟りに比べればその力は微々たるものです」
「と言う事は、あれは虐待されて殺された動物の祟り神なのか? でも、だったら何故人間に動物を殺させる。殺されたから祟ったんだろ?」
「祟り神に理性はありません。あるのは恐らく人間に対する負の感情だけです」
「負の感情って……人間を祟って動物を殺させる事がか?」
「祟られた人間は動物を殺すだけなのですか?」
「……いや、近所に迷惑行為をしたり、家で暴れて家族を傷つけたり、……祟り神が動物を殺させてるわけじゃないのか?」
「はい。祟り神は災厄を振り撒くだけですので」
「……なんとかできないのか?」
「今のままでは情報が少なすぎます。まずはその人間には見えないという猫が本当に祟り神なのか確認していただけますか? もしそうなら祟り神へとなるのは一時だけかもしれません」
「どうすればいいんだ?」
「見つけたら後を追って下さい。もし山中の墓に行くようでしたら本当に祟り神かも知れません。もし違ったとしても祟り神と何か繋がりがあるのであれば、そこから何かしら対処法が見つかるかも知れません」
「わかった。それと神奈だが……」
「神奈さまの事は心配ありませんので、私にお任せ下さい」
「……わかった。じゃ行ってくる」
返事をすると真人はすぐに現世に戻った。
「……もう出てこられても大丈夫ですよ。神奈さま」
宇迦が言うと居間の襖が開き左手から肩までを穢れに侵食された神奈が姿を表す。
「そのお姿を真人さまにお見せするのは避けたいですか?」
「あの人はこの姿を見たら自分を責めるでしょう」
「そうではなく、私が言いたいのは……いえ、それより今は少しでも身を休めて下さい」
宇迦は、普段から感情表現が乏しく、他者の事などまったく意に介さない神奈が真人に気を使い、更にその事を神奈自身が気づかず自然に行っている事に驚いた。
現世に戻ってきた真人は時刻がすでに深夜だったため、白猫を捜すには暗すぎると捜索は明日にして伯母の家に戻る事にした。
「あら、遅かったのね。ご飯は?」
「いや、今日は疲れたからもう寝る」
伯母にそう返事をすると真人はそのまま布団に倒れ込むように眠った。
翌日。
真人は白猫を捜すため朝からその白猫を見た街まで来ていた。
――だが、いざ捜してみると中々白猫は見つからず、気づくと時刻は昼近くになっていた。
仕方なく範囲を広げて捜し続けていると、いつの間にか先日猫の民間伝承を調べるため訪れた図書館の近くまで来ていた。
真人が何気なく図書館を見ると、ちょうど先日ここで本を探してくれた女性司書が図書館から出て来るのが見え、その女性司書の足元に捜していた白猫が後をついていくように歩いているのが見えた。
……!。
それに気づいた真人は焦って駆け寄ろうとするが、白猫が怯えて逃げ出してしまうかもしれないと考え、女性司書がどこかで落ち着いたところで話しかけようと、しばらく女性司書の様子を窺った。
女性司書は昼休憩なのか、近くの弁当屋で弁当を買うと、図書館の近くにある公園で昼食を済ませる。
「こんにちは、ちょっといいですか?」
食べ終わったのか、女性司書が弁当を片付けだしたところで真人は話しかけた。
「はい? あっ……、確か猫の民間伝承について調べていた」
「覚えてたんですか?」
「ええ、私も猫が好きなので、それでなんとなく」
すると、女性司書の足元で丸まって寝ていた白猫は起き上がるが、特に真人の事を気にする様子もなく、その場から動こうとはしなかった。
あの唸り声をあげながら真人たちに襲いかかろうとした祟り神の面影は目の前の白猫からはまったく感じられなかった。
白猫が見えていない女性司書は自分の足元を黙って見つめる真人を不思議そうに見つめる。
「猫は飼ってるんですか?」
それに気づいた真人は取り繕うように女性司書に聞く。
「いえ、今住んでいるアパートはペット禁止ですし、それに昔ちょっとトラウマがあって……、それ以来、どうしても飼う気になれなくて」
「……そうですか」
思わぬ返答に、真人はどう返していいかわからず、それ以上何も言う事ができなかった。
「あっ、そんな気を使ってもらうような事でもないんですよ。子供の頃、実家で真っ白な子猫を保護して、どこに行くにも私の後をついて来るのですごく可愛かったんですけど、すぐに里親を探すからと名前もつけてあげてなくて……、何日か経って私が椅子に乗って棚の上にあったお菓子を取ろうと引っ張ったら横にあった缶が落ちてしまって。真下にいた子猫はそれにビックリして窓から外に飛び出して行ってしまって。すぐに捜しに行ったんですけど全然見つからなくて、私も小さかったので暗くなると母親にもう諦めるように言われてしまって」
言いながらその当時の事を思い出したのか女性司書は悲しそうな顔をする。
「それから一ヶ月くらいその事を引きずってしまって、今でも猫を見ると悲しくなって、どうしてあの時、気を付けなかったんだろう。あの時、あの子猫は私が缶をぶつけようとしたと思ったんじゃないか。いきなり一匹だけになって寂しい思いをしてるんじゃないか。もしかしたら死んじゃったんじゃないかって……怖くて……」
そこまで話すと女性司書は黙って俯いてしまい、真人はどう声をかければ良いかわからなかった。
「……なんか、すみません」
女性司書は顔をあげてそう言うと、目尻に涙を溜めて悲しそうに笑う。
「いえ、こちらこそ」
真人は反応に困り、誤魔化すように苦笑いして応えた。
すると、女性司書の足元にいた白猫が突然何かに反応して起き上がり、どこかに歩いていく。
「あっ! ありがとうございました。すいません。ちょっと用事ができたのでこれで……」
「……はい」
真人が慌てて白猫の後を追うと、白猫の姿が見えてない女性司書は状況が理解できずに、ただ呆然と返事を返す事しかできなかった。
真人が後をつけていくと白猫は住宅街の中に入っていく。少し進んでは辺りを見渡すように首を動かし、また少し進むを繰り返しながら進んでいくお陰で真人は白猫を見失わずに後をつける事ができた。
住宅街の中をしばらく彷徨くと、白猫は急に何かに急かされたように駆け出し、真人は見失うまいと白猫の向かった方向へ急いで駆け出した。
幸い白猫は一本道を真っ直ぐ駆け出したので見失わずに追う事ができた。
しばらく追うと白猫は立ち止まり目の前の家に向かってにゃあにゃあと鳴き出す。
追い付いた真人がどうしたのかとその家を見上げると、突然その家から黒い靄が立ち上ぼりそれは大きな獣の形を成していく。
「なっ……!」
それは紛れもなく山中の墓で見た祟り神だった。
祟り神はその猫に気づくと、まるでその白猫から逃げるように、すぐにその場から去っていってしまった。
祟り神が去ると、白猫はまたその家の扉前まで行き真人を見つめてくる。
「この家の住人がおかしくなる事を伝えようとしているみたいですね」
突然、背後から声がして振り返ると、背後に発生した蜃気楼の中から神奈が姿を現す。
「神奈……、無事だったのか?」
「ええ」
真人は神奈の姿を見ると安心してため息を漏らす。宇迦から心配ないとは聞いていたが、自分の目で見るまでは安心できなかった。
「伝えようと……って、猫が何を言いたいのかわかるのか?」
「猫は言葉を持たないのではっきりとはわかりませんが、伝えようとしている感情だけは伝わってきます」
「この猫は何なんだ?」
「何らかの強い執着からこの世に留まり力を持ったのでしょう。人間たちから妖怪と言われる存在ですが、この猫からは穢れをまったく感じませんので、害はなく精霊などに近いものです」
「それが何でそんな事を伝えようとするんだ」
「動物は本能的に自分や自分が守っているものに危害を加えるものを警戒するものです。この家の住人がおかしくなって危害を加えるのを止めたいのではないでしょうか」
「……そういう事か」
真人は神奈の話ですべてを理解した。
「神奈、この猫に俺が協力したい事を伝えられないか?」
「もう伝わったようですよ」
「……えっ?」
神奈がそう言うと、白猫は二人に近づき、尻尾を立てながら真人の足にすり寄ってきた。
「本能的にあなたが理解した事がわかるようです」
真人が白猫を抱き上げると、白猫は何の抵抗もなく真人の腕の中に収まる。重みは感じないが心地よくとても安心する暖かさを感じ、何気なくその白猫の頭を撫でてやると、突然、真人の頭の中にいつか見た夢の少女と白猫の映像が見える。
我に返り腕の中で安心したように落ち着くこの白猫がいつか見た夢の中の白猫なのだと理解した。
「その猫に協力してもらえば祟り神を鎮められるかも知れません」
「どうするんだ?」
「理由はわかりませんが、祟り神はその猫に気づくとすぐに逃げ出しました。その猫がいればあの墓に近づいても襲われずに済むかも知れません」
「そうかもしれないが、もし、また襲われそうになったらどうするんだ? また神奈を囮にして逃げろと言うのか?」
「……今行かなければ、祟り神はまた人間をおかしくしますよ」
神奈の言葉に、真人は伯母の事が頭に浮かんだ。
「……わかった」
確かに急がなければ、また誰かがおかしくなり今度は伯母が危険な目に遭うかもしれない。
それどころか次におかしくなるのは伯母かもしれない。
それだけはどうしても避けたい。
だが、それよりも今の真人には目の前のいつもと様子の変わらない神奈が、なぜかとても焦っているように思えて仕方がなかった。
真人は白猫を抱えながら神奈と一緒に山中の墓へとやって来た。
近づくと、墓から黒い靄が立ち上ぼり、大きな獣の形を成していく。
祟り神が現れ真人たちに向かって唸り声をあげるが襲いかかろうとはせず、真人たちを睨み付けたまま動こうとはしない。
すると真人が抱えていた白猫が真人の腕から飛び降り祟り神に近づいていく。
祟り神は、なぜか目の前の白猫に怯み、再び唸り声をあげるが、白猫は構う事なく祟り神に近づいていく。
「神奈!」
真人が神奈の名を叫ぶと、先ほどまで山中に吹いていた風が止まり木々が揺れる音が止むと、辺りは静寂に包まれ、周囲から神奈を中心に精霊が光の靄となって集まり、段々と数人の人の形を成していく。
人の形になった精霊は横笛や鼓などの楽器を持ち、神奈が立ち上がると一斉に演奏を始める。演奏に合わせて神奈がしばらく舞い続けると祟り神から穢れが様々な動物の形に変わり解き放たれていく。
次第に祟り神から解き放たれる穢れが治まってくると、唸り声は止まり祟り神の姿は徐々にただの三毛猫へと変わっていく。
それを確認した神奈がゆっくりと舞いを終えその場に正座すると、それに合わせて演奏もゆっくりとおさまっていく。
「あれは何だったんだ?」
「あの猫が死ぬ間際に持った負の感情に感化されて、他に殺された動物たちから発生した穢れが集まり、死んだ猫の魂が集まった穢れの受け皿になり、長い間、魂が穢れを受け続けた影響で強力な祟り神に変わったようです」
三毛猫は状況が理解できないのか、周囲をきょろきょろと見回す。
すると真人たちが連れてきた白猫が三毛猫に駆け寄り、甘えるように身体を擦り付け、三毛猫も嬉しそうに身体を擦り付ける。
「どうやらあの二匹は親子のようです」
「そうみたいだな。俺には神奈みたいに動物の感情はわからないが、あの二匹の様子は親子にしか見えない」
白猫はよほど嬉しいのか三毛猫にじゃれつきごろごろと喉を鳴らす。
すると、三毛猫の身体が少しずつ淡い光に包まれだした。
「死んだ魂はすべて等しく常世に送られます」
神奈が言うと三毛猫はそのまま淡い光に変わり消えてしまい、白猫はそれを見届けると真人たちの前まで来て座り真人をじっと見つめてくる。
「どうした?」
真人が猫に向かって聞くと白猫はにゃ~と一声鳴く。
「人間の女性を心配しているようです」
「女性……、あの司書の事か? もしかしてこの猫は母親を元に戻したかったんじゃなくて、あの女性司書を祟り神から守ろうとしてたのか?」
真人は神奈の『動物は本能的に自分や自分が守っているものに危害を加えるものを警戒する』という言葉を思い出した。
「知ってるんですか?」
「ああ、この猫はその女性司書の後をついて歩いていたんだ」
「その女性が時々悲しい顔する事があり、それが気になるようです」
「じゃあ、あの女性司書が話してたのはやっぱりこの猫の事か」
言いながら真人は白猫の頭を優しく撫でてやる。
「けど、どうするか……」
この白猫が心配している事を伝えてもふつうの人には理解できないだろう。
もしかしたら気休めと思われるかもしれない。最悪、からかっているのではないかと怒らせてしまう事もある。
「その女性にこの猫を会わせれば良いのでは?」
「この猫は普通の人には見えないだろ?」
「この猫は精霊のようなものなので他の精霊の力を借りれば普通の人間にも見えるはずですよ」
そう言うと神奈は再び神楽を舞う。
山中に吹いていた風が止まり木々が揺れる音が止むと、辺りは静寂に包まれ、周囲から精霊が光の靄となって集まり、人の形を成していく。
精霊は横笛や鼓などの楽器を持ち、一斉に演奏を始めるて演奏に合わせて神奈が舞い始める。
すると、演奏をする精霊たちから暖かみを感じる黄色い光の帯が白猫まで延びる。
帯を伝い、演奏をする精霊たちから黄色い光が流れ込み白猫の身体が暖かく黄色い光に包まれていく。
それを確認した神奈はその場に正座し、演奏はゆっくりとおさまる。
「これでこの猫は一時的になら普通の人にも見えるはずです」
「そうか……」
言うと真人はまた白猫を抱えると急いで図書館へ向かう。
日はすっかり落ちて仕事を終えた女性司書が帰宅のため公園近くを通ると白猫が近づいてきて足に身体を擦り付けてくる。
「どうしたの?」
女性司書がしゃがみ込んで笑顔で白猫に話しかけると。
「……!」
その白猫にいつかの子猫の面影を感じて驚く。すると白猫は女性司書から離れ公園の中に駆けていく。
女性司書が慌てて後を追うと。
「……貴方は昼間の?」
「どうも」
しゃがみ込んだ真人の元へ白猫が駆け寄ると、真人は優しくその白猫の頭を撫でてやる。
「……そうですよね。白猫なんていっぱいいますよね。それにもう十年以上前ですから生きてるはずがないですよね……。すいません」
女性司書は真人と白猫の様子を見て勘違いだったと肩を落として謝る。
「いえ、信じられないかも知れませんけど……」
真人が説明しようとすると、白猫は女性司書へ近づき足に身体を擦り付けて甘える。
女性司書がしゃがみ込み白猫を抱き抱えて頭を撫でてやると、白猫は嬉しそうに喉を鳴らし目を瞑る。
「……そんな事ありません。信じますよ……。ずっと会いたかったですから……、会いたかったんだよ。ずっと見つからなくて……、死んじゃったんじゃないかって……。ごめんね……。ごめんね……」
女性司書は身体を震わせポロポロと涙をこぼす。
怖い思いをさせた自分の事を恨んでいるのではないか。
そう思うと罪悪感に苛まれて仕方なかった。
「その猫はずっと貴女のそばにいて、貴女を守り続けていたんですよ」
真人の言葉に女性司書は涙を拭って白猫を見つめると。
「……ありがとう」
女性司書は白猫にお礼を言って微笑む。
すると、白猫の身体が少しずつ淡い光に包まれていく。
そのまま白猫の身体はすべて淡い光に変わると空へと上り消えていった。
女性司書はしばらく白猫の消えていった空を見つめていたが、やがて落ち着きを取り戻すと、真人にお礼を言って帰って行った。
後に、あの山は不良少年少女たちの溜まり場になっていた事がわかった。
三毛猫はその不良少年少女たちが虐待して殺してしまったので、そこに墓を作って埋葬したのだが、その墓に穢れが集まるようになると、少年少女たちの中で感の鋭いものが気味悪がり始め、やがて誰も近づかなくなり放置された後も、穢れは集まり続け三毛猫の魂は祟り神になってしまった。
後日、真人は山中の墓の周りをきれいに掃除すると水を供えた。
休みが終わり真人は神域に戻ってきていた。
「あんな事があっては本当にお休みになる事もできなかったでしょうから、もう少しゆっくりしてからでもよろしかったんですよ?」
台所で風呂敷に包まれた重箱を御饌に返すと宇迦が居間から申し訳なさそうに真人に言う。
「向こうにいても何かあれば休んでなんかいられないんだから、それなら宇迦と御饌がいるこちらの方が気が休まる」
真人は居間に移動すると自分の定位置に座り肩を解しながら言う。
「そうかもしれませんが、伯母さまともお久し振りでしたのに」
「伯母さんに余計な心配をかけないためにも、こっちの方が都合が良い。実際、今回もあまり顔には出さなかったけど心配かけたみたいだから」
真人が言うと御饌は真人の前にお茶を入れた湯飲みを置く。
「ありがとう」
真人がお礼を言うと御饌は笑顔でトコトコと台所に戻っていく。
「嬉しそうだな」
「真人さまがお戻りになられましたから」
「そうか……、そういえば神奈は相変わらずか?」
宇迦の言葉に、真人は照れながら話題を変える。
「神奈さまはしばらく療養が必要です」
「……どういう事だ?」
真人が聞くと宇迦と御饌の表情から共に明るさが消える。
「……神奈さまは祟り神の穢れに身体を侵食されてしまいましたので、しばらくは療養のためお休みになられてます」
「……もしかして俺を逃がすために一人で残った時か⁉」
宇迦の言葉をすぐに理解できなかったのか、真人は少し考えると真剣な表情をして語尾を強めながら聞いた。
「はい。ですが、祟り神相手ではそうするしかありませんでした。もし、神奈さまを祟り神からお守りするのであれば戦神くらいの力が必要です。ですが、人間である真人さまが祟り神に対応するには今まで通り知識しかありません。古来より人間はあらゆる事に知識で対応して来ました。それは神に対しても同じです」
「知識で神に?」
「はい、人間はその知識を使い、あらゆる事に対応する事に長けています。知識さえあれば神との力の差を埋める事も可能です。実際に今までそうして来たではありませんか」
「……わかった」
宇迦に言われ、真人は今までの事を思い出すと迷いを捨て覚悟を決めた。
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