第4話 火防の神

 神奈川県総合防災センターでは秋の恒例イベント、かながわ防災フェアが開催されていた。

 防災用品や消防車両の展示をはじめ、ちびっこ消防隊・レスキュー隊といった体験コーナーなど、災害に対する備えや災害が起きたときの対応などについて楽しみながら学ぶ事ができるイベントである。

「ふう……」

 消防士の帷子(かたびら)は自分の出場する訓練披露が終わり、休憩所で一休みしていた。

 横浜市の消防士になってまだ数年で配属された消防署では一番の新人になる。

 帷子の勤める横浜市消防局は、市内に十八消防署七十八消防出張所を配置し、約三千七百人の消防職員、約六百台の消防車両を最大限に活用して、横浜市全域を火災や災害などから、二十四時間体制で守り続けている。

 また、消防局に総務部、予防部、警防部を設け、消防訓練センター、横浜ヘリポート、各消防署と連携を取り合いながら、あらゆる災害への迅速かつ的確な取組を推進し、住む人はもちろん、訪れる人たちが安全・安心を実感できる防災都市ヨコハマを実現している。

 休憩のため帷子が休憩所で休んでいると休憩室の扉が開いた。

「香取(かとり)さん……」

 帷子が勤める消防署の署長である香取が、中の様子を窺うように覗き込み、帷子しかいない事を確認すると逃げ込むように中へと入ってきた。

「ああ、いいよ。休んでて、休憩中なんだろ」

 帷子が慌てて立ち上がろうとすると、香取は気を使うなと帷子を制して奥に入り、パイプ椅子に腰かけ疲れたようにため息をつく。

「……どうしたんですか?」

「ん? ああ、いや、今日は一般市民が大勢見に来ているから、常に気を張っていた所為で疲れてしまってな」

 香取は自分の肩を叩きながら言った。

 一般人も多く訪れる防災フェアが堅苦しくなり香取は休憩室に逃げ込んできたらしい。


 翌日。

「あの人は飄々としていると言うか、何を考えてるのかわからないからな」

 帷子は勤務する消防署で、昨日のフェアの時に香取と話した事を先輩で機関員の常盤(ときわ)副士長に話していた。

「俺はあの人がここの署長なのが不安になってきましたよ」

 帷子は日頃の香取の振る舞いを見て、香取が署長である事が不安になっていた。

「でも、香取さんって昔あった大規模な火災で活躍したらしくて、当時を知る人たちからは英雄扱いされてる人だぞ」

「なんですか? その大規模な火災って?」

「確か、一九九五年(平成七年)に起きたカトリックの老人ホームの火災だったかな。気になるなら調べてみたらどうだ? 結構有名な火災だから、わざわざ消防局に資料を見に行かなくても、インターネットで検索すれば詳しく載ってるんじゃないか」


 翌日。

 帷子は自宅のパソコンで常盤から聞いた香取が活躍した老人ホームの火災を調べていた。

 一九九五年(平成七年)カトリック 老人ホーム火災とキーワードを入力し、インターネットで検索してみると、探していた情報はすぐに見つかった。


 聖カトリック老人ホーム火災。

 聖カトリック老人ホーム火災とは、一九九五年(平成七年)二月十七日、神奈川県横浜市で起きた火災。

 国道沿いに神奈川県から正式に老人福祉施設(ろうじんふくししせつ)として認可を受けて運営していた。

 なお、同敷地内には修道院と聖堂も開設されていた。

 収容者は、六十歳以上の老女たちで、老衰や病気でほとんど腰が立たず、生活保護を受けているものが多かった。

 当時百四十三人の老女が老朽化した木造二階建ての、非常口も少なく火災対策もほとんどなされていない建物に収容されていた。


 火事のあらまし。

 一九九五年(平成七年)二月十七日午前四時三十四分ごろ、老女の捨てた懐炉の漏電(およびタバコの火の不始末説もあり)により老人ホーム一階から出火。消防と警察およそ二百人が消火にあたったが、木造ニ階建て(延べおよそ八百坪)と修道院聖堂(およそ七十坪)を全焼し、午前六時十五分頃に鎮火した。この火事で、収容中の老女百四十三名(内四名は出火当日は不在)のうち職員ニ人を含む計九十九人が焼死、八人が負傷する大惨事となった。

 被害が大きくなった原因として、付近の消防水利が路上駐車された車に阻まれ使用できなかった事(消防ポンプ車はそのためおよそ一キロメートル先の国立病院から消火用水をとらざるを得なかった)、収容者が就寝中でしかも足腰の立たない高齢者がほとんどで自力での避難が困難だった事などがあげられる。


 火事のその後。

 火災発生当時、院長は出張中で不在にしていた。そしてニ日後のニ月十九日に帰国した時に初めてこの悲報を知った。

 死者数の内訳は入所者九十五名、職員ニ名、不明者ニ名の合計九十九名で、不明者ニ名は入所者の親族などが無届で泊まりに来ていたものと警察では推察したが現在に至るもニ名の身元は不明のままである。なお、この死者数の特定には時間がかかり警察が発表したのは火災発生から四日後のニ月二十一日になってからだった。


 だが、いくら調べても、インターネット上には香取がなぜ英雄扱いさるようになったのか推測できるような事は書かれていなかった。


 まあ、それはそうか……。


 インターネットに載っている情報は火災の規模や被害者の事など公表されているものだけで、一人の消防官が何かしらの活躍をしたとしても、世間からしたら、ただ消防が消火活動を行ったというだけで、消防官の活躍が話題に取り上げられる事はない。


 ……よし。


 帷子はインターネットの画面を見ながら何かを確認すると、すぐに着替えて外出した。


 数時間後、帷子は火災があった聖カトリック老人ホームを訪れていた。当時と同じ場所には、火災が起きたとは想像もできないほどキレイに建て替えられた老人ホームが建てられ、木造だった建物も鉄筋コンクリートに変わっていた。

「……あの、何か御用でしょうか?」

 帷子が老人ホームの建物を見上げていると、老人ホームの敷地内から一人の上品な老女が現れ帷子に話しかけてきた。

「あっ……、ちょっと、昔起きた火災の時の事を……、調べてまして……」

 帷子は途中まで言いかけると、関係者に対して、ここであった火災の事を調べているなんて言うのは、不謹慎なのではないかと考え言葉を詰まらせた。

「もしかして、消防士の方ですか?」

 そんな帷子の様子を見た老女は、不審そうな顔をすぐに笑顔に変えて聞いてくる。

「なぜ……、わかったんですか?」

 この日、帷子は非番なので消防官とわかる制服などはもちろん着ておらず。

その他にも消防官とわかるようなものは一切持ってはいなかった。

「香取さんに憧れて、ここを訪れる消防士の方は多いですから、後は雰囲気で何となく」

 帷子が消防官とわかって安心したのか、老女は帷子に近づいてきて親しげに話しかけてくる。

「あの……、香取さんがなぜ英雄と言われるようになったのか知りたいんですが、何か知りませんか?」

 老女が事情を理解しているとわかると、帷子は余計な事は考えずに素直に聞いてみる事にした。

「私でよければ、こんなところで立ち話もなんですから、中へどうぞ」

 老女は笑顔で帷子を老人ホームの中へ招き入れた。


 老女は帷子を老人ホームの理事長室へ通すと、『こちらで少しお待ち下さい』とだけ言って出ていってしまった。

 理事長室の中は来客用なのか、部屋の中央にテーブルが置かれ、それを囲むようにソファーが並び、奥には理事長と書かれたプレートの置かれた机が置かれていて、誰もが想像する理事長室といった感じだった。

「お待たせしました」

 帷子が室内を見渡していると、すぐに先ほどの老女がお盆にお茶を乗せて戻ってきた。

「どうぞ、座って下さい」

 老女に言われ帷子がソファーに座ると、老女は帷子の前にお茶を淹れた湯飲みを置き、自分も向かい側に座る。

「さて、では何をお話ししましょうか」

 老女は笑顔で帷子に聞く。

「え~と、あっ……、香取さんが署長の消防署に勤めている帷子と言いますが」

 帷子はまだ名前を名乗っていなかった事を思いだし、軽く頭を下げると自己紹介をする。

「そういえばお互い自己紹介もまだでしたね。私はここの理事長をしてます木下(きのした)といいます。当時はここで事務員をしてました」

「当時も働いてたんですか?」

「ええ、あの火災で自力で逃げ出した人以外で助かったのは消防士さんによって救出された一人だけで、他の逃げ遅れた方は全員亡くなってしまいました」

「その救出した消防士が香取さんなんですよね? 木造ニ階建ての、非常口が少なく、火災対策もされていない建物から救出したから、英雄と言われるようになったって事ですか?」

 帷子は今一つ納得ができなかった。

 確かに大変な火災だったのかもしれないが、同じような火災は他にもあるはずなのに、なぜ香取だけが英雄と言われるのか。

「私も後から聞いたんですが、消防士さんたちが到着した時には、とても立ち入る事ができる状態ではなくて、私がいた区画に行く事も不可能に近かったらしいのですが、香取さんは迷わずそこまでたどり着いて、見事に私を救出してくれたのだと」

「……待って下さい。という事は救出された一人って……」

 帷子は木下の言葉を聞いて驚きながら聞いた。

「ええ、その時、香取さんに救出していただいたのが私です。香取さんは到着すると、まるで私がまだ生きていて、どこにいるのかわかっているかのように迷わず私の元までたどり着いたのだと、教えて下さった消防士の方もなぜわかったのか不思議に思っていました」

 確かに、とても立ち入れる状態ではない火災現場(かさいげんじょう)で、下手すれば自分も死ぬかもしれないのに、まだ要救助者がいるという、おそらく勘だけを頼りに進入し、要救助者がいる所に迷わずたどり着いて救出したのであれば奇跡に近い。

 英雄と言われるようになったのも納得できる。

 当時の様子は資料から想像するしかないが、まず要救助者がいるとしても、そんな無謀な救助活動は許されない。下手すれば自分が新たな犠牲者になりかねない。

 しかも、そんな状況から要救助者を救出なんてできるのだろうか?

 今は新たな装備も開発され、当時とは比べ物にならないほど安全性は増したが、それでも帷子には想像もできなかった。

「そういえば、最近ほとんどの仕事を若い人に任せて手が空いたせいか、当時の事をよく思い出すのですが、香取さんに救出された時、香取さんはホースを持っていなかったのに、まるで魔法でも使っているかのように炎が私たちを避けているように見えたんですよね」

「魔法……ですか……」

 木下の言葉に帷子はどう返事をすれば良いのかわからなかった。

「ええ、その時は朦朧としてましたし、見間違いだと思ったんですけど……、って、こんな話信じられませんよね。年寄りの世迷い言とでも思って忘れて下さい」

 帷子の反応に気づくと、木下は気まずそうに笑った。

「あ……いえ……、ははっ」

 話を聞き終わり、帷子が老人ホームを出ると、日はすっかり傾いていた。


 帷子は帰りながら木下の話を振り返っていた。

 確かに木下の話が本当なら英雄と言われるのも納得はできる。

 自分に同じ真似ができるかと考えたら、まずできないだろう。

 だが、木下の話す香取が、自分の知っている香取だとはどうしても納得できなかった。

 帷子の知る、得体が知れず、何を考えているのかわからない香取がそんな事をするだろうか。

 そんな事を考えながら歩いていると目の前に見知った人物が歩いている事に気づく。

「……!」

 その人物は勤務終わりで帰宅している香取だった。

 香取の姿を見て、帷子はさっきまで香取の老人ホームでの活躍を疑っていたせいか、どんな顔をして良いかわからず、思わず隠れてしまった。


 帷子はどうしていいかわからず、しばらく香取の後を付けていると、香取は人通りの少ない路地裏に入っていく。

 帷子がそのまま香取の姿を追っていくと、香取は街中に建てられた小さな社の前に行き、社の前で手を叩くとそのまま手を合わせた。

 普段の香取からは神様を参拝する事など想像もできず、帷子は隠れている事を忘れて身を乗り出してしまった。

「ん? ……帷子」

「あっ、……ははっ」

 香取に気付かれると、帷子は苦笑いしながら香取のそばまで近づいていった。

「こんなところでどうしたんだ?」

「いえ、たまたま近くにいたら香取さんの姿が見えたもので……」

「そうか、ついでだからお前もお詣りしておくといい」

「何の神様なんですか?」

「秋葉権現(あきはごんげん)という火防(かぼう)の神で、俺たち消防の神と言ってもいい神でな」

「そんな神様がいるんですね」

「元々は防災など暮らしを守ってくれる神らしいが、中でも火防の神として知られているらしい」

「ここへはよく来るんですか?」

「ん? ああ、別に信仰しているって訳じゃないんだが、ここに来ると出場の際、守られているんだって気になれてな」

「ああ、なるほど」

 つまり、香取はここに来る事で、仕事時の不安を押さえているのだと帷子は思った。

「それじゃ俺も」

 言うと帷子は香取と同じように社の前で手を叩くとそのまま手を合わせ自身の安全を願った。


 翌日。

 帷子たちが朝の申し送りをしていると出火報が署内に鳴り響く。

 無人の神社からの出火との事で帷子が所属する隊はすぐに通報のあった現場に向かった。

 横浜市の消防隊の勤務体制は、二十四時間のニ交代制勤務で、朝八時半から翌朝八時半まで(休憩時間八時間三十分を含む)勤務している。

 帷子の所属する消防隊は隊長の岩間(いわま)司令補、放水長の境木(さかいぎ)士長、機関員の常盤副士長に消防士で先輩の峰沢(みねざわ)隊員と同じく消防士の帷子隊員の計五名である。

 到着後、幸い火の規模はあまり大きくなく、初期消火だけで消火する事ができ。原因も無人の神社に塗料を拭った布が放置され、酸化し発熱して出火した可能性が高く、放火などではないとの事だった。

 消火後、帷子たちが警察と区域内を確認していると一般人らしき男が警戒区域内にいるのに気づいた。

「ちょっと、お巡りさん、あの人……」

 帷子が近くの警官に声をかけ男を指差すと。

「あっ、あの人はいいんですよ。なんでも神社庁の人とかで、上からも好きにさせるよう言われてますので」

「へえ……」

 神社の被害の状況を見に来たのだろうか。その男は、ぼうっと社を見つめたまま、まったく動こうとしなかった。

 社の壁の一部が焦げただけだったので安心して気が抜けたのだろうか。

 そんな事を思いながら帷子は敷地内に飛び火したりなど、その他の危険がない事の確認に戻った。

「鎮火だ。帷子戻るぞ!」

「はい!」

 岩間の鎮火確認が済み。峰沢に声をかけられ、帷子が水槽車に戻りながら先ほどの神社庁の人物を見ると、その人物が社を見ながら一人で何かを喋っているのが見えた。帷子が不思議に思って見ていると、その人物のそばに人ほどの大きさの白い靄のようなものが見え、帷子は驚き立ち止まった。

「……っ!」

 立ち止まったまま帷子が見つめていると、その視線に気づいたのか、その人物が振り返り目が合うと、帷子は慌てて水槽車に戻った。


 数日後。

「白いもやぁ⁉」

 帷子は先日、消火した神社で、消火後に現れた人物のそばに白い靄が見えた事を消防署で峰沢に話していた。

「ええ、しかも煙とか霧みたいに空気中に漂ってるものと違って、まるで意思でも持っているように、その人のそばを離れないような感じに見えて」

「それって、そいつが吐く息が白くなって、そう見えただけじゃないのか?」

「いや、あの日は別に寒くはなかったですから、息が白くなった訳じゃないはずなんですが……」

「そうだとしても、そこまで気にするような事か?」

 実際に見てない峰沢には帷子がなぜそこまで気にするのかがわからなかった。

「そうかもしれないですけど……」

 帷子はその人物のそばにあった靄が不自然に思えて仕方がなかった。


 翌日。

 帷子はまだ靄の事が気になり、その靄が見えた人物の事を考えていた。

 確か神社庁って言ってたな……。

 帷子はパソコンの電源を入れると神社庁の事をインターネットで検索した。


 神社庁とは、神社本庁の地方機関である。全ての都道府県に一つずつ設置されているが、都道府県や国の機関ではない。

 神社庁は、都道府県の神社の人事財政などの諸事務や、神社・神職の指導、祭祀・地域活動の振興を図る活動などを行っており、また、神社の活動の広報窓口となっている。神社庁の事務所は、ほとんどの場合その都道府県で比較的大きな神社の境内または隣接地に置かれている。

 神社庁の下部機関として、支部が置かれる。支部は、都道府県をいくつかの地区に分け、各地区に一つずつ設置されている。

 多くの神社庁は宗教法人となっており、その場合は、神社本庁の被包括法人である。その場合でも、その都道府県下の神社は神社庁ではなく、直接に「神社本庁」の被包括法人となる。

 記載されている内容に帷子が求める情報は見つからなかった。


「はぁ……」

 帷子はため息を漏らした。

 検索して何かわからないかと思ったが、靄の事など、どう調べればいいかもわからなかった。

 しばらくパソコンの画面を見ながらぼうっとしていると、香取がお詣りしていた神社の事を思い出した。


(えっと……、あきは……ごんげん?)


 うろ覚えでインターネットの検索窓に入力していくと候補に秋葉権現と表示されクリックする。


 秋葉権現は別名、秋葉三尺坊大権現(あきはさんじゃくぼうだいごんげん)といい家内安全、戦勝祈願、防災開運の神で静岡県や愛知県など全国各地に伝承が点在し、名古屋市熱田区(なごやしあつたく)の秋葉山圓通寺(あきはさんえんつうじ)、静岡県浜松市天竜区(しずおかけんはままつしてんりゅうく)の秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)、静岡県袋井市(しずおかけんふくろいし)の可睡斎(かすいさい)に鎮座する。

 秋葉権現は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合(しんぶつしゅうごう)の神であり。

 火防の霊験で広く知られ、明治ニ年十二月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地(ひよけち)が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。


 秋葉権現の諸説。

 秋葉権現の由来、縁起については文献により諸説あるが、遠州秋葉山(えんしゅうあきはさん)の古来からの土着神、山岳神説。

 同じく秋葉山に伝説を残す三尺坊という修験者が神格化された秋葉三尺坊権現説。

 両者が渾然一体となったもの。

 また、かつて複数の寺社が本山を自称しており、秋葉三尺坊は火伏(ひぶ)せに効験あらたかであるという事から秋葉三尺坊の勧請(かんじょう)を希望する寺院が方々から現れ、越後栃尾(えちごとちお)の秋葉三尺坊大権現の別当、常安寺(じょうあんじ)はこれを許可。これに怒ったもう一方の本山を主張する遠州秋葉寺(えんしゅうしゅうようじ)は訴えを起こし、江戸時代に寺社奉行において裁きが行われ、結果秋葉権現は二大霊山とする事とし、現在では信仰を広めた遠州の秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)を今の根本、行法成就の地である越後の秋葉三尺坊大権現は古来の根本となった。

 観音菩薩を本地仏とし、その姿は飯縄権現(いいづなごんげん)と同じく白狐に乗り剣と羂索(けんさく)を持った烏天狗(からすてんぐ)の姿で表され、七十五の眷属(けんぞく)を従えると伝えられる。


 飛行自在の神通力を得、観音菩薩の化身とされた。

 更に白狐に乗り狐の止まったところを安住の地と定め秋葉山に止まった。

 三大誓願(さんだいせいがん)

 秋葉三尺坊大権現における三大誓願は、以下の通り。

 第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。

 第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。

 第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。

 全国各地に秋葉山権現参詣のための講社が結成され、秋葉権現のある遠州にお参りすることが盛んとなり、全盛期には全国に三万ほどあったといわれる。

 江戸時代中期には時の天皇の勅願所(ちょくがんしょ)ともなった。

 明治時代以降、神仏分離に伴い秋葉山は火ノ迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が主祭神となり、秋葉大権現は可睡斎に遷座(せんざ)し、現在もそちらにて祀られている。


『俺たち消防の神と言ってもいい神でな』

 帷子は香取の言葉を思い出した。

 帷子にはあの香取が神頼みしている事が不思議でならなかった。

 普段のあの飄々とした香取の様子から、とても神を信仰しているとは思えなかった。


 翌日。

「あの、香取さん。この前の秋葉権現の事をインターネットで調べてみたんですけど……」

 帷子は消防署で香取に秋葉権現について調べた事を話した。

「ん? 急にどうした?」

「香取さんは、なぜあの神社をお詣りするようになったんですか?」

 帷子は昨日インターネットで調べてから香取がなぜ神を信じているのか気になっていた。

「なぜって……、こんな仕事なんだから、神頼みする奴は沢山いるだろ」

「それはそうですが、香取さんは、どちらかというと神なんて信じない人に思えて……」

 帷子は言いながら、それは香取に対する自分の勝手な印象であって、その印象を押し付けられても香取本人は困るのではないかととっさに考え反省した。

「まあ、別に神というものを信じてる訳じゃないが、あの神は特別でな。昔、たまたまあの神社が秋葉権現という火防の神様である事をある人から聞いてな。それ以来、なんとなくお詣りしだしたら現場で怪我する事が減ったんだよ」


 翌日。

 帷子はここ数日、いろいろ考えてばかりだったので、少し休んで気分転換するために何の当てもなく歩らついていた。

 しばらく歩らついていると、いつの間にか自分でも気づかぬ内に、以前、香取がお詣りしていた秋葉権現の神社近くまで来てしまっていた。そのまま、なんとなく神社の前を通りかかると、見知った人物が神社にお詣りしているのが見え、帷子は立ち止まった。

「あら? 確か……、帷子さん」

「どうも」

 老人ホームの理事長である木下が三十路くらいの女性と一緒に神社にお詣りに来ていて、立ち止まった帷子に気づいた木下に声をかけられた。帷子が軽く会釈を返すと、木下と一緒にいた女性もそれに気づき、ぎこちなく会釈を返してくる。

「もしかして、帷子さんもここにお詣りを?」

「いえ、たまたま通りかかっただけで……」

「そうですか。ここの神様は消防士の方のための神様みたいなものですから、帷子さんもお詣りされていかれては如何ですか?」

「はい。この前、上司からここの神社は火防の神様を祀ってると聞きました」

「香取さんにここが火防の神様をお祀りしている神社だと教えたのは、先日話した火災で亡くなった同僚なんですが、ここによくお詣りに訪れていて、その時たまたまここに来られた香取さんに、ここに祀られてるのは火防の神様だと話したらしくて、代わりに今は私がお祀りに……あっ、この娘はその同僚の娘さんの沙織(さおり)さんです」

 二人で話をしていると、木下は一緒にいた女性が背後で取り残されている事に気づき、帷子に紹介する。

 女性は木下に紹介されると帷子に向かって軽く会釈する。

「……香取さんはお元気ですか?」

「えっ? あっ……はい、いつも何考えてるのかわかりませんが、元気だと思いますよ」

 今さっき、初めて会った人間から香取の事を聞かれ、帷子は戸惑いながら答える。

「よく考えるんですよね。なんで母を助けてくれなかったのかって」

 沙織は帷子から視線を逸らしながらいった。

「えっと……」

「ちょっ! ……沙織さん⁉」

 木下はとっさに沙織の肩を掴んで言葉を止めようとする。

「木下さんを助けてくれた事は感謝しています。木下さんがいなかったら私はもっと苦労していましたから。けど、母が好きだったこの場所に来ると……、近くにあの老人ホームがあるからか、どうしても考えてしまうんです……」

 沙織は視線を下げると、声と肩を震わせた。

「それは……」

 帷子は何て答えていいかわからず、その場に立ち尽くす事しかできなかった。

 確かに消防官は人の命や財産を救う事が仕事だ。

 だが、例えそこに要救助者がいるとわかっても、まず第一に自分の命を守らなければならない。

 無理な救助活動をして自分が要救助者になれば、自分を助けるために別の消防官が命を危険にさらす事になるからだ。

 もちろん、それは沙織も頭では理解している。

「どうしても考えてしまうんです。もしかしたら母を助けられたのではないかって……」

「沙織さん!」

 木下が沙織の言葉を制止するように叫んだ。

 木下に制止された沙織は視線を下げたまま、その場を逃げるように去ってしまう。

「あの娘が失礼を……」

 木下は帷子に深々と頭を下げながら謝罪した。

「あっ、いえ、大丈夫です。気にしてませんから」

 頭を下げながら謝罪する木下を帷子が慌てて気遣うと、木下は顔を上げて申し訳なさそうに微笑んだ。

「時々思うんですよね。私ではなくあの娘の母親が助かれば、あの娘は幸せだったんじゃないかって」

「……俺みたいなガキが言っても説得力ないかもしれませんが、もし木下さんが亡くなって、あの人の母親が助かっていたら、その人も自分じゃなくてあなたが助かればよかったと思ったかもしれませんよ?」

 帷子は暗くならないよう、苦笑いを浮かべながら木下の言葉を否定する。

「けど、独り身の私が助かっても……」

「木下さん! それは災害現場で救助活動をする俺たち消防を否定する言葉です! 俺たちは常に、すべての被災者を救助しようと活動しています!」

 木下の言葉に帷子は思わず声を荒げた。

「……ごめんなさい。変な事を言ってしまって」

 木下は再び深々と頭を下げた。

「あっ、いえ、俺こそ急に大声上げてすいません」

 頭を下げる木下に、帷子も頭を下げて声を荒げた事を謝罪する。

 帷子の顔を見た木下も同じように苦笑いを返すと、木下は沙織と同じ方向へ去っていった。


「取り込み中に申し訳ないですけど、少しいいですか?」

 帷子が立ち去る木下を見送っていると、突然、背後から誰かに声をかけられた。

「はい?」

 帷子が振り返ると、いつかの神社の火災で警戒区域内にいた神社庁の男が立っていた。

「あっ、確か神社庁の……」

 帷子はいつか見た時に、その男のそばに白い靄が見えて気になっていたので、男の顔をはっきりと覚えていた。

「先日はどうも、神奈川神社庁の真人(まさひと)といいます。突然で申し訳ないのですが、署長さんについて、いくつか聞かせてもらってもいいですか?」

「……もし香取さんが活躍した老人ホームの火災の話を聞きたいのでしたら、この先の老人ホームがそうですから、行けば詳しく教えてもらえますよ」

 帷子はこの人物も香取の活躍した話を聞いて興味を持ち、ここに香取がよくお詣りに来ている事をどこかで聞いたのだろうと思った。

 それなら人伝に聞いた自分より、実際に香取に救出された木下に聞いた方がいいだろうと、老人ホームの場所を教えた。

「いえ、火災の話もそうですが、まずはあなたに確認したい事がありまして」

「……俺は署の中では一番の新人ですから、人伝に聞いた事しか知りませんよ。老人ホームにいる人はその火災で香取さんに助けられた人なので、俺よりも詳しく知ってると思いますが」

 帷子は先ほどの木下たち会話で気を使った所為で、これ以上、気を使いそうな人の相手はしたくなかった。

「確認したいのは署長さんの事ではなく、あなたが見える人間なのかです……」

「ですから、俺に聞くより……、見える人間ってどういう事ですか?」

 帷子は構わず会話を続ける真人に苛立ちながら、気になる言葉に反応してしまう。

「口で説明するより見てもらった方が早い。神奈……」

「はい」

 真人が誰かの名前を呼ぶと、何処からか少女のような声が聞こえた。

「……⁉」

 帷子が声の主を探そうと周囲を窺っていると、いつの間にか真人の横に先日と同じような白い靄が現れ、帷子は驚きのあまり言葉を失った。

「本当に見えるみたいですね」

 帷子の様子を見て、真人は帷子が見える人間だと確信した。

「前にも見ましたけど、その白い靄は何なんですか?」

「……?」

 帷子の白い靄という言葉に真人は疑問を抱く。

「どうやら、はっきりと認識する事はできないようです。私の声も聞こえはしますが、言っている内容までは聞き取れてないようです」

 神奈は帷子の様子に自分がはっきりと見えてえない事に気づき真人に説明する。

「……神様が本当に存在するって言ったら、信じられますか?」

 真人は神奈の説明に頷くと帷子に質問した。

「神様ってこういう神社に祀られてる?」

「ええ、今ではほとんどの人が見る事もできなくなりましたが、多くの神は実際に存在していて人間に様々な影響を与えています」

「じゃあ、その……、白い靄も神様だと言うんですか?」

 帷子は恐る恐る白い靄を指差しながら聞いた。

「神ではないんですが、似たような存在で我々を助けてくれています」

「……それで、俺にいったい何を?」

 普通なら真人の話は到底受け入れられるものではなかったが、目の前に存在する白い靄が真人の話に説得力を持たせていた。

「実は、ここに祀られている秋葉権現の行方を探しているんですが、どうやら署長さんに憑依している可能性があるんです」

「憑依って、取り憑かれてるって事ですか?」

「取り憑かれてる訳ではなく、署長さんの場合は神懸(かみがか)りと言って神霊が人に乗り移る事で、それによって乗り移られた人間に悪影響が出る事はありません。それに秋葉権現は火防の神ですから、消防官である署長さんを守る目的で憑依した可能性があります。何か一緒に働いていて気になる事とかありませんでしたか?」

「と言われても署長である香取さんはあまり現場には出ませんから……」

 途中まで言いかけて、帷子は木下の話を思い出していた。

『……香取さんに救出された時、香取さんはホースを持っていなかったのに、まるで魔法でも使っているかのように炎が私たちを避けているように見えたんですよね』

 そう木下は言っていた。

「……まあ、今すぐに理解するのは無理だと思いますが、はっきりと認識はできなくても、そういうものが存在する事を知った今なら署長さんに憑依した秋葉権現に気づけるはずなので、その頃にまた伺います」

 そう言うと真人は帰っていった。


 翌日。

「おはようございます」

 朝の申し送りを済ませると、帷子は書類仕事をしながら香取の様子を伺っていた。

『……今なら署長に憑依した秋葉権現に気づけるはずなので……』

 昨日の真人の話しを思いだしながら香取を観察しているが、秋葉権現どころか、今までと何も変わった様子はない。

 やはり、神が存在するなんて話は嘘なのだろうか。あの神社庁の男も自分をからかっただけで、あの白い靄もからかうために用意したものなのではないかと考えていた。


 そのまま出火報もなく、半日を書類仕事に費やしながら、半ば香取に神が憑依している話を忘れかけ、日が傾きかけた頃、署内に出火報が鳴り響いた。

 ホームセンターから出火との事で帷子たちはすぐに現場に向かった。

「……ホームセンターか、厄介だな」

 現場に向かう水槽車の中、境木が呟く。

「確認してみないと何とも言えないが、木材や家具、寝具などの可燃性物品が多いと延焼が早い、更に最近は一般人の防災意識も低下してきている! もし塗料やシンナー等の火気厳禁の商品への防火対策も怠っていて、それに引火してしまったら爆発的に燃え広がるぞ!」

 境木の言葉を聞いた帷子たちは最悪の事態を想像して身震いした。


 現場に到着してホームセンターを見た一同は愕然とした。

 四階建ての大型のホームセンターは全体に火の手が回り、鉄筋コンクリートの店は炎に包まれていた。

「これは俺たちだけじゃ手に負えないぞ! 第二……、もしかしたら第三出場まで必要になる! 本部に応援を要請しろ」

 帷子たちはすぐに岩間の指示で消火活動を行う。

 帷子と峰沢がホースを手に放水し続けるが、火の手は衰えるどころか、次々と至るところから爆発が起きて延焼していく。

「このまま外から放水してたんじゃきりがないぞ!」

 放水しながら峰沢が叫んだ。


 すると、店の関係者に話を聞きに行った境木が慌てて戻ってきて岩間に何かを報告する。

「まだ中に取り残された客がいるのか⁉」

 境木の報告だと買い物に来ていた客から家族が見当たらないとの事。

「しかし、これじゃ俺たちも迂闊に中には入れないぞ!」

 岩間は店を見上げるように言った。


「帷子さん!」

 名前を呼ばれ帷子が振り返ると、木下が慌てて駆け寄ってきた。

「木下さん⁉ 危ないから下がって!」

 ホースの操作で手が離せない帷子が駆け寄ってくる木下に近づかないように叫ぶと。

「一緒に来ていた沙織さんが見当たらないんです!」

「えっ!」

 火災で亡くなった木下の同僚の娘である沙織がまだ中にいるという。


「峰沢、帷子! 中に入りたい! 入り口に向かって集中的に放水しろ!」

岩間の指示で二人は放水をホームセンターの入り口に集中させる。

「入り口があいた! 入るぞ!」

 放水により、入り口の炎の勢いが弱まったのを確認すると岩間の一声で、岩間に続いて常盤と峰沢がホームセンターの中に進入する。

「まずは要救助者の捜索だ!」

「はい!」

 岩間の指示に常盤と峰沢が返事を返し、峰沢が放水で活路を開きながら岩間と常盤が先に進んでいく。

「要救助者のいそうな所を徹底的に捜すぞ!」


 外に残った帷子が外から放水し続けるが、炎の勢いは全く衰える様子がない。

 くそ! こんなの俺一人の放水じゃどうしようも……⁉

 放水しながら、何か方法はないかと帷子が周囲を見渡すと野次馬の中に真人の姿を見つけた。

「あんた確か、真人さん! この際、神様でも何でもいい。何か中にいる人たちを助ける事はできませんか?」

「今の俺たちにはどうする事もできません。それより署長さんに何か気づく事はありませんでしたか⁉ 秋葉権現の力があれば、もしかしたら……」

 帷子に声をかけられ、真人は帷子と話せる距離まで近づいて答えると。

「帷子! 岩間たちは中か⁉」

「香取さん!」

 見計らった様に現れた香取に帷子と真人は揃って香取を見つめた。

「どうした?」

 遅れて現場に到着した香取は自分を見つめたまま沈黙する二人を見て何かあったのかと戸惑った。

「神奈」

 香取を見た真人が神奈の名前を呼ぶと、姿を表した神奈は香取に近づき身体に触れる。

 すると、香取は自分の身体に力が溢れてくるような不思議な違和感を感じた。

「何だ?」

 神奈が見えない香取には何が起きているのか理解できなかった。

「俺の眠りを妨げるのは誰だ?」

 すると、香取の身体から烏のお面をつけた天狗が現れる。

「秋葉権現、すまないが貴方の力を貸して欲しい」

 真人が言うと、秋葉権現は炎に包まれるホームセンターを見上げた。

「自ら付け火を行う人間に力を貸す価値はない。前にこの男の願いに応えて力を貸したが、人間による付け火はなくなるどころか一向に減る様子もない」

「すべての人間を救って欲しいなんて言わない! けど、今、目の前で死ぬかもしれない人をあなたの力で救えるかもしれないんだ!」

 真人は秋葉権現に訴えかけた。

「秋葉権現? おい、何を言っている?」

 秋葉権現が見えない香取には、誰もいないはずの自分の背後に向かって話す真人の様子に状況が理解できなかった。

「よくわからないが、俺は目の前で誰かが死ぬのが我慢できないだけだ! 神様でも天狗でもいい、助ける事ができるなら力を貸してくれ!」

 帷子には秋葉権現は神奈と同じ白い靄にしか見えていないはずだが、真人の言葉から秋葉権現が力を貸す事を拒否しているのだとわかり、真人が語りかける白い靄に苛立ちを見せた。

「……いいだろう。そこの人間になら力を貸してやる」

 苛立つ帷子を見た秋葉権現は何かを納得したのか、急に態度を変えると、香取の身体から離れ帷子の身体に乗り移った。

「誰に言っている? おい、かたび……」

 香取が真人と同じように誰もいない自分の背後に向かって話し出す帷子に困惑していると、急に先ほど身体に溢れてきた力が無くなり、今度は不思議な喪失感を感じた。

「……何だ? 何が起きている?」

 香取は自分の身体に何が起きているのかわからず戸惑った。

「すごい、これなら」

 一方、帷子は秋葉権現が乗り移った事で五感が研ぎ澄まされ。

 炎で舞い上がる塵の一つ一つまで正確に確認できるようになり、集まった野次馬一人一人の話し声や、集中すると中に進入した岩間たちの会話も聴き取る事ができた。

「香取さん、俺に行かせて下さい。このままホース一本で放水し続けても効果は期待できません。その間に要救助者は死んでしまう」

「岩間たちが捜索のために進入してるんだろ? お前は外から援護注水して延焼を食い止めろ!」

「岩間さんたちは今出てきます」

「何を言っている? まだ中から無線連絡は入ってないだろ」

 香取がそう言った直後、入り口から岩間たちが外に駆け出してきた。

「岩間!」

 岩間たちはその場で崩れるように倒れこみ、肩で息をする三人に香取は駆け寄った。

「すいません香取さん、三階までは捜索できたんですが、四階は火の回りが思ったより早くて、とても捜索できる状況じゃ」


「香取さん!」

 香取の背後から帷子が叫んだ。

「境木! 捜索に入るぞ! お前も来い!」

 周辺住民や見物人の安全確認をしていた境木に声をかけると、香取は水槽車から防火服を取り出して袖を通し、消防斧を二本取り出す。

「俺が入るから一緒に来い! だが、絶対に無理はするな! 駄目だと思ったら必ず引き返せ!」

「はい!」

 帷子の返事を確認すると、香取は一本の消防斧を帷子に持たせ、帷子と境木を連れて入り口から燃え続けるホームセンターの中に進入した。


 ホームセンターの中は、まるで外からの放水なんて無意味だったのではないかと思うほど、至るところから炎が上がっていた。

「一気に四階まで上がる! 境木は後方から援護放水! 帷子は俺の後ろから要救助者の捜索! いいな!」

「はい」


 入り口近くの階段を境木の援護放水を受けながら進んでいく。

先に進入した岩間たちが瓦礫を避け道を切り開いてくれていたので、四階まではすぐにたどり着けた。


 しかし、四階の状況を見た帷子たちは愕然とした。

 一般的な体育館ほどの面積は、目に見える範囲すべてから帷子たちの身の丈よりも高い炎が上がり、とても生存者がいるとは思えなかった。

「これじゃ、さすがにもう……」

 境木は呆然と立ち尽くすと肩を落として呟いた。

「それは俺たちが判断する事じゃない。俺たちの仕事は可能性がある限り要救助者を探す事だ」

 言うと、香取は消防斧を握りしめた。

「人がいる場所が知りたいのか?」

 突然、帷子の頭の中に秋葉権現の声が響いた。

「わかるのか?」

 香取たちに秋葉権現の声が聞こえてない事を確認すると、帷子は香取たちに聞こえないように小声で秋葉権現に聞いた。

「音に意識を集中してみろ」

 秋葉権現の言葉に従い、帷子は目を閉じ周囲から聞こえてくる音に神経を集中する。

「……うぅ……熱い……」

「……ぁ……誰かぁ……」

「……死にたくない」

 すぐに、周囲の燃える音に混じって数人の人の話し声が聞こえてくる。

「こっちか……!」

 苦しむ人の声が聞こえる方向に帷子が進んでいくと、突然、真横で大きな火柱が上がる。

「帷子!」

 とっさに香取が帷子を突飛ばすと、帷子と香取たちの間に燃え盛る瓦礫が崩れてきた。

「香取さん!」

 崩れてきた瓦礫から勢いよく炎が上がり、境木は下敷きになりかけた香取を心配して駆け寄った。

「大丈夫だ」

 香取は境木に身体を支えられながら立ち上がる。

「帷子! 無事か⁉」

 香取は崩れてきた瓦礫の先に向かって叫んだ。

「はい!」

 香取のお陰で瓦礫の下敷きになる事は避けられたが、崩れてきた瓦礫の所為で帷子は完全に香取たちと分断されてしまった。

「帷子! その先に要救助者がいるのか⁉」

「はい!」

「いいか、まずは要救助者の安全を確保しろ! だが、さっきも言ったように絶対に無理はするな!」

「はい!」


「ぐっ……」

 言い終わると香取は腕を庇いながら呻き声をもらす。

「香取さん、その腕……」

「ちょっと痛めただけだ。心配ない」

 香取は帷子を助ける際、瓦礫に腕を挟まれ痛めていた。

「境木、すぐに戻るぞ!」

「ですが、まだ帷子が……!」

「あれは昔の俺と同じだから大丈夫だ。まさか神様が力を貸してくれてたとは思わなかったが……」

「は?」

 境木は香取が何を言ってるのか理解できなかった。


「……とは言うものの、どうしたものか」

 一人になった帷子は目の前に燃え盛る炎を見つめながら呟く。

「おい。俺が力を貸してやると言ったのを忘れてないか?」

 突然、黙っていた秋葉権現が語りかけてきた。

「まだ何かあるのか?」

「今のお前は俺が乗り移った事であの男と同じ様に元々持っている身体能力が上がっただけに過ぎない」

「あの男って、香取さんの事か?」

「だが、お前はあの男とは違って俺を認識して自らの意思で受け入れたんだぞ」

「何が違うんだ?」

「言っただろ、力を貸してやると」

 すると、突然、周りの炎だけが帷子を避けるように消えていく。

「これは……」

「手を横に振ってみろ」

「……!」

 言われたとおりに帷子が手を横に振ると、手の先から強力な風が巻き起こり振った先の瓦礫と炎はすべてかき消されてしまった。

「まるで工作車の大型ブロアーだな」

 帷子はすぐに人の声が聞こえた方向に向かって、少し弱めに腕を振った。

 すると、目の前の瓦礫から炎が消え、その先に要救助者の姿を発見した。

「大丈夫か⁉」

 帷子はすぐに要救助者たちに駆け寄り沙織を含む三人の生存を確認する。

 幸い、意識は失っているものの三人ともまだ息をしていた。

 すぐに三人の安全を確保し、脱出方法を考えていると。


「……か……びら! 聞こえるか⁉」

 後方から声が聞こえ、駆け寄ると壁だと思っていたのは壁と同じ色の窓であり、その窓を開けて外を見ると第三出場体制の中、はしご車のバスケットに乗った常盤の姿が見えた。

 戻った香取が帷子が向かった方向から予想して、帷子たちが無事に脱出出来るように、その一角だけを見事に消火し、はしご車を準備させていた。

「要救助者は⁉」

「三人発見しました。全員意識を失っていますが、息はあります」

 常盤が聞くと、帷子は見つけた要救助者たちを指差し、すぐに沙織を最初に要救助者たちを一人ずつ順番にバスケットで降ろしていく。


「帷子、後は俺たちに任せてお前は休んでろ」

 最後に帷子がバスケットから降りると岩間はそう言って消火に戻り、すぐにホームセンターへの一斉放水が行われた。


「行方不明だった人もすべて無事が確認されたみたいですよ」

 帷子が休んでいると真人が近づきながら話しかけてきた。

「あ……、あの、さっきはとっさだったとはいえ、すいませんでした」

 帷子は秋葉権現を説得する真人を無視して、勝手に秋葉権現と話を進めた事を謝罪した。

「いや、あそこで貴方が何も言わなければ死人が出てたかもしれないんだから、謝る必要なんてないですよ」

 真人は笑顔で答えた。

「……その袴の女の子は、もしかして白い靄に見えていた?」

 秋葉権現に憑依された帷子は神奈の姿がはっきりと見えるようになっていた。

「ええ、神奈と言って俺の仕事を手伝ってくれてます」

 帷子は神奈を不思議そうに見つめた。

「では、我々はこれで」

「秋葉権現を捜していたんですよね?」

「どこにいるのかわからなかったので、確認したかっただけです。見つかったので、今はこれで」

 そう言うと真人たちは帰っていった。

「結局、神社庁の人って事以外、よくわからない人だったけど、あの人は何者なんだ?」

 真人たちの去った方向を見つめながら帷子は秋葉権現に聞いた。

「あれは我々神の住む領域を管理する神域の管理人どのだろう。ちなみに普通の人間とは少し違うぞ」

「えっ……? 神の住む領域? 神域の管理人?」

 帷子は常識離れした内容に、もしかしたらとんでもない人だったのではないかと思い、恐縮した。


「せっかく見つけたのに、このまま帰ってしまってよいのですか?」

「ん?」

「秋葉権現の行方を捜していたのは最近また増えてきた放火へ備えるため力を借りるのが目的だったはずでは?」

 神奈はせっかく秋葉権現を見つけたのに何もせずに帰ろうとする真人の行動を不思議に思い尋ねた。

「そうだが、俺なんかより消防などの専門家に秋葉権現が力を貸して備える方が被害は抑えられるだろう」

 真人は笑顔で神奈に答えた。

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