第2話 穢れと清浄の神

 横浜市にあるこの街では最近ある噂が話題になっている。

 人が呪い殺されたと。

 しかも悪霊や妖怪などではなく神様に呪い殺されたと。


 朝、一成(いっせい)が遅刻ギリギリに教室に入ると、いつもと違い教室中がやけにざわついていた。

「うい~す」

 席に着くとクラスで仲良しの古屋(ふるや)が話しかけてきた。

 一成がこの高校に入ってから知り合ったのだが、妙に気が合い、いつも一緒にいる為かお互いに古くからの知り合いのような感覚になっていた。

「みんなやけにざわついてるけど何かあったのか?」

「あ~、なんか一組の男子が度胸試しで呪いの神社にイタズラをしたら本当に神様に祟られて呪い殺されたんだってよ」

「呪い? なんだそれ。よくある七不思議みたいなやつか?」

「えっ……知らないのか? 駅近くの山の上にある神社だよ。もうあそこに行った人間が何人も死んでて神様の呪いなんじゃないかって」

「そんな呪いなんてあるわけないだろ。それにその一組のヤツはイタズラした事がわかっても、他の人も神社にイタズラをしたのか?」

「それは……、確かにそうだな……」

 一成の言葉に古屋は腕を組んで考え込む。

 そんな話をしていると教室の戸が開きクラス担任がやってきた事でその話は中断した。


 昼休み。

 古屋に誘われ食堂へ。

 食事中の話はやはり一組の呪い殺された男子の話。

「またその話か。神様の呪いなんてあり得るのか? だいたい神様が存在するのかも疑わしいのに」

 古屋は朝話しかけてきた時は話にあまり興味がなさげだったが、一成に『他の人も神社にイタズラをしたのか?』と聞かれてから何やらずっと考え込んでしまっていた。

「どうした?」

「いや、何でイタズラしたら呪われるって話になったのかと気になってな」

「呪い自体より、話の経緯の方が気になるのか?」

「まあ、呪いなんて話はよくありそうだからな」

 古屋は考えながら昼食を食べているためか食事は一向に進まない。

「だめだ。何でイタズラすると呪われるってなったのかが気になって仕方ない」

「早く食べないと昼休み終わるぞ」

 古屋が考え込んでいると一成は先に食べ終わり後片付けをしていた。

「このままじゃ埒が明かないから、放課後一組の知り合いにどういう事か聞いてみるわ」

 そう言うと古屋は食事を口に一気に掻き込んだ。


 放課後。

 さっそく古屋は呪い殺された男子がいた一組の知り合いに話を聞きに行く。

 一成は古屋に言われて教室で古屋が戻るのを待っていた。

「俺は別に何も気になってないんだけどな……」

 そんな事を呟きながら窓の外を見て呆けていると古屋はすぐに戻ってきた。

「待たせてすまんな」

 戻ってきた古屋は一成の隣の席に座ると呪いについて話し出した。

「知り合いの話だと死んだのは苑田(そのだ)という奴でクラスでは浮いていたらしい。苛められたりしていたわけじゃないけど、自己中だったらしくてクラスに馴染めていなかったんだと。そいつが学校の近所で数年前に神社にイタズラをして呪い殺された男子中学生の話を聞いて、度胸試しにその男子中学生が呪われた方法を試したらしく。それで同じように呪い殺されたのではないかと言われているんだが、イタズラに確かな方法があるわけではないらしい」

「その男子中学生と苑田がした事に共通してる事はないのか?」

「どんなイタズラをしたのかはわからないが、ただ二人ともイタズラしたところをスマホで撮影をしてたらしくて、知り合いが言うには他の死んだ人も神社をスマホで撮影したんじゃないかって。ただスマホで撮影すると呪われるってだけじゃよくある都市伝説みたいで信憑性がないよな~。何か決まった撮影の仕方があるのか、何でもいいから神社を撮影すると呪われるのか」

 古屋は面倒くさくなったのか、また呪いに興味をなくし、どこかを見つめたまま呆けてしまう。

「それなら帰りにその神社に寄ってみるか? 聞いた話だけで考えてたってわかるわけないだろ」

 古屋の様子を見て、一成はこのまま考えてるより実際に見た方が早いと考えた。

「まあ、特に予定もないし構わないけど、危なそうなら俺はすぐ引き返すぞ」

 少し動揺しながら言うと古屋は自分の席に戻り帰り支度を始めた。


 帰り支度を済ませると二人は揃って駅近くの山の上にある呪いの神社にやって来た。

 神社に特に変わった所はなく、どちらかというと定期的に手入れもされているようで少し寂しい感じはするが呪いとは無縁なように見える。

「なあ、本当にここなのか? とても呪われるような神社には見えないんだが」

「だな、一組の奴も噂を知ってるだけでここには来た事ないみたいだったし」

「じゃ、やっぱりただの七不思議みたいなものか……」

 そう言って一成が社を見ると社の前に何やら黒い塊が見える。

「んっ?」

「どうした?」

 一成が目を擦ってもう一度社を見ると黒い塊は消えていた。

「あー……、多分見間違いだ」

「そか……、なんか拍子抜けしたし、帰るか」

「ああ」

 見間違いに違いない。そう思って一成はあまり深くは考えずに古屋と共に神社を後にした。


 神社に行くために慣れない山登りをしたためか一成は帰宅途中から身体が妙に怠くなり、家に着いて早々着替えもせずにベッドに倒れ込みそのまま寝てしまった。


 次に気付くと一成は帰りに寄った神社の境内に一人で佇んでいた。

 なぜこんな所で佇んでいるのか理解できずに辺りを見渡すと、同じ神社のはずなのに帰りに見た時に比べると雰囲気がずいぶん違い、何やらとても暗い場所に思えた。

 ふと社を見ると帰りに見た時と同じ場所に今度ははっきりと人ほどの大きさの黒い塊が見えた。

 それを見て一成が思わず後退りすると、塊は一成が後退りしたのと同じ分だけ前進してくる。

 一成は何やら恐ろしくなりその場にへたり込んでしまったところで飛び起きた。

「はぁはぁっ……、ゆっ……、夢か……」

 あまりの恐怖に鼓動は早まりYシャツは大量の汗で肌に貼りついて気持ち悪かった。

 制服を脱ぎ洗面所に移動すると汗だくのYシャツを洗濯カゴに投げ入れ、シャワーで汗を流し部屋着に着替えて部屋に戻る。

 ベッドに腰掛けさっきの夢を思い出す。

 普段なら見た夢はすぐに忘れてしまうが、さっきの夢は今でも鮮明に思い出せる。

 夢なのにまるで本当に体験したような不思議な感覚。

 何よりあの黒い塊を思い出すと恐怖で震えてしまう。

 なんて事はないただの黒い塊のはずなのになぜかとても恐ろしい。


 翌日。

 昨日、一成は目が覚めてから一睡もできずにいた。眠れば、またあの黒い塊の夢を見てしまうのではないかと思うと眠る事ができなかった。

 寝不足で視界が定まらず、ふらつきながら登校していると。

「あの……、ちょっといいかしら?」

「……ん?」

 突然、背後から声をかけられ振り返ると、同じ高校の制服を着ているが、高校生にしては妙に大人びた美人が立っていた。

「ういーす、一成」

 直後、その女子の後方から古屋が声をかけながら近づいてきた。

「あれ結(ゆい)さんじゃん。どうしたの?」

 すぐそばまで来て美人の顔を確認した古屋はその美人を知っている様子で声をかけた。

「古屋の知り合いか?」

「んや、俺が一方的に知ってるだけだけど、こちら三組の結(ゆい)さん」

「どうも」

 古屋に紹介されると結はばつが悪そうに一成に頭を下げた。

「一成に何か用?」

 古屋は一成の横に並び結に聞く。

「一成……くんに古屋くん。貴方たち昨日あの神社で何をしてたのかしら?」

 神社という言葉に一成と古屋は固まってしまう。

 どうやら昨日二人が神社に寄ったのを見られていたらしい。

「別に、ちょっと興味本意で行ってみただけだよ」

 死んだ男子生徒について調べていた事を悟られないよう、古屋はなるべく平静に答えた。

「そう、貴方も同じ?」

 古屋の答えを聞くと、結は一成に視線を移し同じ事を聞く。

「……ああ」

「ちょっと! ずいぶん具合が悪そうだけど大丈夫?」

 返事をした一成の顔色のあまりの悪さに、結は心配して近くまで駆け寄り声をかけた。

「確かになんか具合も悪そうだし、取り合えず保健室に行った方がいい」

 結の言葉を聞いた古屋も一成の顔を見ると、その顔色のあまりの悪さに気付き一成に肩を貸す。

「結さん。話はまた後で、今はこいつを保健室まで運んでやりたい」

 すると、結の返事を聞かずに古屋は一成を保健室まで運んで行った。


 保健室まで運ぶと養護教諭が不在のため古屋は一成をベッドまで運び、そのまま横になるように言いベッド横にあった丸椅子に腰掛けた。

「いや~、危なかったな。死んだ奴の事を調べていたなんて言ったら何言われるかわからないからな」

「……なんか上品な雰囲気の人だったな。あんな美人がこの高校にいたのか」

 一成はあまりの怠さにフラフラとベッドに倒れ込みながら言った。

「えっ、知らないのか? 三組の結さん。うちの高校でもトップクラスの美人だって評判が高いんだぞ。勉強は学年首位争いのメンバーだし、スポーツも万能。それでいてあの容姿だ。校内で知らない人はいないぞ」

「……そうか」

「まあ、すごく面倒見がいいというか少しお節介なところがあるけどな……って、本当に大丈夫か?」

 横になった一成は額に腕を当て辛そうにしていた。

「ああ、少し寝不足なだけだ」

「そうか。じゃ俺は教室に行くから寝ちゃえよ。先生には伝えとく」

「ん、サンキュ」

 保健室から出ていく古屋をベッドから見送り、一成はそのまま目を閉じるとすぐに深い眠りについた。


 一成が眠りについてからしばらく経つと。

「どうですか神奈(かんな)さま?」

「一部を授かってますね。多少ですが穢(けが)れも受けています」

「じゃ、やっぱり?」

「いえ、この人は穢れの影響を受けやすい体質なだけで、直接穢れを受けたわけではありません」

 一成が保健室で眠っていると、すぐ横から誰かの話し声が聞こえてくる。

「じゃ心配する必要はないのですね?」

「はい、殺される心配はありません。穢れの影響で徐々に身体が弱まるので死期は早まりますが」

「そんな⁉ ………どうすればいいのですか⁉」

「……この人を死なせたくないのですか?」

「何を言ってるんですか! 当たり前じゃないですか!」

「この人は殺されるわけではありません。穢れという災厄を受けて死ぬだけです」

「それでも少しでも長く生きたいのが人間です!」

「私にはわかりません」

「……ん」

 あまりの大声に一成は目を覚ました。

「あっ……」

 一成は目を擦りながら起き上がり、声のした方を見ると今朝声をかけてきた結が一人で立っていた。

「具合はどう?」

 目が合うと結は一成に聞いた。

「ああ、だいぶ楽になったけど、……一人?」

 一成は結の他に誰かいないか辺りを見渡した。

「ええ」

「そうか、誰かの話し声が聞こえた気がしたんだけど、……今何時かわかる?」

「さっき最後の授業が終わったところよ」

 壁の時計を見ると時刻はすでに放課後になっていた。

「そんなに寝てたのか……、ははっ……」

 学校の保健室で当日のすべての授業を眠ってサボってしまったのだと一成は自分に呆れた。

「やっぱりこのまま放っておけないわ……」

 結はまだ顔色の悪い一成の顔を見て呟く。

「えっ?」

「ねえ、今日はなにか予定ある?」

「いや、特にはないけど……」

「一成くんに会わせたい人がいるの」

「……会わせたい人って?」

「うまく説明できないけど。一成くん、昨日あの神社で何かあったんじゃない? 例えば変なものを見たとか」

「ん~、……信じてもらえないと思うけど。実は神社で黒い塊みたいなものを見た気がして。昨日の夜その塊が夢にまで出てきて、それからあまり寝れなかったんだ。ははっ……」

 一成はいい歳して、怖い夢を見て寝れなかったという事が情けなく誤魔化すように笑いながら答えた。

「ううん、そんな事ないわよ。信じるから」

 真剣な顔で答える結に一成は気を使って言ってくれているのだとしても、この人なら信じてくれるのではないかと、神社で見たものや昨夜見た夢の内容を伝えた。


「……と言う事は受けた穢れを払えば、……もっとよく調べてもらわないとわからないけれど力になれると思うわ。一緒について来て」

 夢の内容を聞き終えると結はしばらく何かを考えるように俯きながら呟き、何かを確信したように言う。


「ここよ」

 結の後についてしばらく歩くと、昨日とは別の神社にたどり着いた。

 そこは常に管理されているようで昨日の神社と違い明るく開放的な雰囲気だ。

「ここは?」

「私の家よ」

「へっ?」

 突然、神社に連れて来られたと思ったら、そこが結の家だという事に一成は状況が理解できずに混乱する。

「ここでちょっと待っててもらっていいかしら? 荷物を置いてくるわ」

 神社の敷地内にある家の前まで行くと、結は一成を残し家の中に入っていった。

 一人になってあらためて辺りを見回すと何の変哲もない神社のはずなのにそこはとても居心地がよかった。

「お待たせ」

 声が聞こえ振り向くと結は制服から袴に着替え、仕草もなんとなく物腰穏やかになったように感じた。

「それじゃこっちに来て」

 結はそのまま社まで一成を案内すると、そのまま社の扉を開けて中に入っていく。

「え、入って大丈夫なの?」

 一成はあまり神社の事は詳しくないが、それでも社の中は簡単に入ってもいい場所ではない事くらいは理解していた。

「もうここに神様はいないから大丈夫よ」

「もういないって、そんなのわかるわけ……」

 言いながら一成が恐る恐る社の中を覗くと。

「……空っぽ?」

 十畳ほどの社の中には御神体どころか、物らしいものが何もなかった。

「私が生まれるずっと前はここにも神様がいて、依り代も祀られていたらしいんだけど、今は神様がいないからすべて撤去されたみたいなのよ」

「依り代って?」

「依り代は神様が憑依するものの事で、こういう神社にある鏡や御札とか人形の事ね」

「その依り代を撤去したから神様がいないって事?」

「そうじゃなくて……うまく説明できないんだけど……」

「……結」

 その時、一成と結しかいないはずの社の中で他の人の声が聞こえた。

「……え?」

 一成が声のした方を見ると、何もない壁の前が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れ、そこから袴を着た少女が現れた。

「神奈さま!」

 何が起きたのか理解できない一成を余所に、結はその少女に駆け寄った。

「……私がいた方が説明が早いのでは?」

「そうですけど、こんなに何度も現世(うつしよ)に来ても大丈夫なんですか?」

「この人を死なせたくないのではなかったのですか?」

「あっ……」

 神奈に言われて結が一成を見るが、一成は何もないところから突然少女が現れ、さらにその少女が少し透けて見えている状況に頭が理解できず茫然と立ち尽くしていた。

「えっと、一成くん?」

「……えっ? ……うん」

 結に腕を掴まれ声をかけられると、一成はようやく正気に戻った。

「一成くん。こちらは神奈さま。なんというか信じられないかも知れないけど、神様のいる神域(しんいき)という所の守人(もりびと)をされている方で、この神社にはよく出入りをしているの。私には小さな頃から見えるけど普通の人には見えないらしくて」

「神……さま? ……いや俺には見えてるけど……しかもなんかちょっと透けてるし……神域?」

 一成はあまりの事に混乱しながら数歩後ずさり、結と神奈を交互に見る。

「ふふっ、私は慣れちゃってるけど普通は怖いわよね」

 一成の反応を見て、結は口元を隠しながら笑った。

「神域っていうのは神様の住む空間の事で、神奈さまはその空間を守ってる方なんだけど」

「……ん~と?」

 一成はますます混乱し頭の中の整理がつかなくなっていた。

「まあ、今は神奈さまの事は置いといて。一成くん、昨日神社に行ったでしょ? そこで穢れっていうよくないものを身体に受けてしまったみたいで、その穢れを払わなければ危険なの」

「……危険って、俺も呪い殺されるって事?」

「ううん。一成くんは元々穢れを受けやすい体質らしくて、あの神社では多少穢れを受けてるけど呪われたわけじゃないの」

「じゃあ危険っていうのは?」

「ただ穢れを受けただけなら払うのは簡単らしいんだけど、どうやら禍津日神(まがつひのかみ)という災厄の神さまの一部を授かってしまったみたいで。このままだと穢れが溜まっていって、徐々に身体が弱まって死んでしまうらしいの」

 一成はあまりに突拍子もない話のため頭の中が整理しきれなかった。

「……その禍津日神という神様の一部を授かったってどういう意味なんだ?」

 一成は頭の中の整理は後回しにすると言われたままを受け入れる事にして自分の身体におかしいところがないか確かめるように見ながら言った。

「禍津日神というのは穢れを司る神様で、意思を持たずにこの世の均衡を保つために存在するらしいのだけど。今その禍津日神は世の中に増えすぎた穢れの影響で暴走してしまっているらしくて。あの神社で本来なら穢れだけを受けてしまう一成くんは禍津日神の一部まで授かってしまったらしいの」

「……どうすればいいんだ?」

「この神社はその禍津日神と対をなす直毘神(なおびかみ)という神様を祀る神社で、禍津日神が穢れをもたらした後には必ず直毘神が穢れを清浄にしてくれていたんだけど、さっき言ったとおりここにはその直毘神がいないから戻ってきてもらって清浄にしてもらわないとならないの」

「なんでその直毘神はここからいなくなったんだ?」

「最近は神様を信仰する人がいなくって。ほとんどの神さまは神域で眠りについてしまっているらしくて」

「眠っている神様を目覚めさせる事はできないとか?」

 やはり神様を簡単に起こしたりは出来ないのかと一成は思ったが。

「う~ん。普通の神様ならまた信仰が強まったり、場合によっては個人の祈りに応えて現世に現れる事もあるらしいんだけど。さっき言ったように直毘神は禍津日神と対を成す神様で信仰や祈りは関係ないらしくて……」

「目覚めさせる方法がわからないと?」

 結は一成の顔を見て頷いた。

「神奈さまは直毘神を目覚めさせる方法はわからないんですよね?」

「はい。……ですが神域を管理されてる方ならなんとかできるかも知れません」

 結に聞かれると何かを考えたのか少し間を空けてから神奈は答えた。

「その管理されている方なら目覚めさせる事ができるかも知れないという事ですか?」

「ええ、もしかしたらですが……」

「それでも可能性があるならお願いします」

「わかりました。では今日はこれで、何かわかりましたら連絡します」

 言うと神奈の身体は現れた時と同じように蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて消えていった。

「なんか……、神様とか、いまだに信じられないんだが、本当に不思議な存在っているんだな」

「うん。私は当たり前だと思ってたんだけど。取り合えず、今すぐ危険な訳じゃないらしいから神奈さまから連絡があったら教えるわね。あんまり遅くなるとご家族に心配かけちゃうでしょうから今日はこの辺で」

「そこは特に気にしなくても、うちの両親は共働きで帰りはいつも遅いから。……でも頭の整理もしたいから今日はこれで帰るよ」

 少し落ち着き辺りに視線を向けると、ちょうど日が傾いてきたので一成は家に帰る事にした。

 家に着くと一成は今日の出来事を思い返していた。

 突然、神様と言われて驚き混乱したが、一成は神や神社というものに対してあまり先入観がなかったので、何もないところから現れ消える神奈を見てそういうものなのだと受け入れる事ができ、昨夜、見た夢の中の黒い塊が、自分が授かってしまった禍津日神の一部なのだと理解する事ができた。


 深夜。

 気付くと一成はまたあの神社に立っていた。

 慌てて辺りを見渡すと社の前には昨日と同じように黒い塊が見えた。

 黒い塊は昨日より少しだけ大きくなっていて、見た目にはなんて事はないただの黒い塊のはずだが、なぜかとても禍々しく思え、一成がたまらず後退りすると塊はまた一成が後退りしたのと同じ分だけ前進してくる。

 一成は今度ははっきりと恐怖し、その場で動けなくなってしまったところで飛び起き目が覚めた。


 翌朝。

 一成は悪夢の所為で目覚めてから一睡もする事ができず、寝不足で朦朧としながら登校すると校門前で結を見つけて駆け寄った。

「結さん! あの人! ……神奈さまから連絡は⁉」

「あっ、おはよう一成くん。連絡はまだだけど……ちょっと! 昨日よりずいぶん顔色が悪いけど大丈夫⁉」

 結は一成の顔色があまりにも悪かったため慌てて一成の身体を支えるように寄り添うと、そのまま保健室へと一成を連れていった。

「また夢を見たの?」

「うん、昨日より少しだけ黒い塊が大きくなっていて、見てると、なぜか怖くなってきて動けなくなったところで目が覚めた」

「そう……。取り合えず今は連絡を待つしかないけど、神奈さまが言うには穢れの力も昼間なら弱まるらしいから昼間に寝ればその夢を見る心配はないだろうって、クラスへは私から連絡しとくから今の内に寝てしまった方がいいわよ」

「うん。ありがとう」

 結が保健室から出ていくと一成はベッドに横になりすぐに眠ってしまった。


 放課後。

「お~い、一成起きろ~」

 ぐっすりと眠っていた一成は古屋に肩を揺さぶられると深い眠りから目を覚ました。

「ん……、今何時だ?」

「もう放課後だって」

「マジで?」

 慌てて壁の時計を見ると時刻はすでに放課後を回っていた。

「また学校で一日寝てサボってしまった」

 言いながら一成は頭を抱える。

「そんな事より一成、お前、結さんと噂になってるぞ」

「……へ?」

「昨日お前が結さんと一緒に帰るところを目撃したヤツがいてな。それだけならたまたまで済んだんだろうが。今朝、結さんがお前に寄り添って保健室に連れて行った事が噂になってな」

「そうだったら、どれ程良かったか」

「なんだ違うのか?」

「すごく面倒見がよくてお節介だと言ったのはお前だろ?」

「そうだけど、そうじゃない場合もあるだろう? で、本当のところどうなんだ?」

「何にもないって。結さんはただ俺の事を心配してくれてるだけだよ」

 そんな話をしていると保健室の戸が開き結が入ってきた。

「体調はどう? 一成くん」

「ああ。うん、だいぶよくなったよ」

「良かった。まだ神奈さまからは何も連絡はないけど、悪夢を見ないためには昼間に寝て夜は起きてる方がいいって」

「あ~、……もしかして俺って邪魔か?」

 二人の様子を見ていた古屋は何か勘違いしたのか居心地悪そうにしている。

「だから、そういうのじゃ……」

「悪いけど古屋くん。今は遠慮してもらえる?」

 結は一成の言葉を遮ると二人の間に入り古屋に言った。

「……まさか本当に? ……」

「……えっと……」

 呟くように古屋が言うと、一成は結の意図がわからないため、その様子を黙って見ている事しかできなかった。

「ああ……、それじゃ俺は邪魔しちゃ悪いから先に帰るわ」

 一成の沈黙を肯定と受け取ったのか、古屋は数歩後ずさるとそのままフラフラと保健室を出ていった。

「……結さん、なんで?」

 一成は結がなぜあんな事を言ったのか理解できなかった。

「穢れや禍津日神の事を説明しても、たぶん古屋くんには理解できないわよ。もし理解できたとしても自分が切っ掛けで友人が死ぬかもしれないと責任を感じて神社を調べに行って呪われたりなんかしたら……」

「それは……、確かに切っ掛けは古屋だったけど、だからってあいつに責任なんて……」

 古屋が呪われると言われて一成は思わず焦る。

「……自分が死ぬと言われた時はまるで他人事みたいな感じだったのに、古屋くんが呪われるかもしれないとわかると途端に焦るのね」

 結は不思議に思い首を傾げながら言った。

「正直、結さんには悪いけど。俺は悪夢が嫌なだけであんまり長生きしたいとは思ってないんだ。今すぐ死ぬのは抵抗あるけど、苦労して長生きするくらいなら早く死にたいって質だから」

 一成は誤魔化すように笑って言う。

「なんとなく、自分が死ぬ事を気にはしてないんじゃないかと思ってたけど。でも、それならせめて古屋くんや他の人間が呪われないためにも直毘神を目覚めさせて穢れを清浄にしてもらわないと」

「それはもちろん、俺もここまできて何もせずに後悔するのは嫌だから」

 そうして話しているとだんだん日が暮れ始めていた事に一成は気付いた。

「それじゃ、そろそろ俺は帰るよ」

 寝なければ悪夢を見る危険はないとわかったが、穢れの力が弱まる昼間以外に外を出歩くのは避けたかったので、一成は日が暮れると早々に家に帰る事にした。

 家に帰ると、一成は昼間に充分眠ったとはいえ、うっかり寝てしまわないように注意しながら、今までの事を振り返っていた。

 自分が穢れを受けやすい体質である事。

 禍津日神が暴走していた時にあの神社に行ってしまったために、本来なら穢れだけを受けるはずが禍津日神の一部まで授かってしまった事。

 そのせいで身体に穢れが溜まってしまい徐々に身体が弱まって死んでしまう事。

 助かるためには神域で眠る直毘神を目覚めさせ、禍津日神が暴走している原因である増えすぎた穢れを清浄にしてもらわなければならない事。

 色々考えていると時刻はすでに夜になっていた。

 ベッド横の時計を見て夜明けまではまだ長いなとため息をつきながら身体の力を抜くと、充分寝たはずなのに突然眠気が襲ってくる。

 身動きができなくなるほどの急激なその眠気に、不自然さを感じながらも一成はその眠気に勝てずに眠ってしまった。


 気づくと一成はまたあの神社に立っていた。

 辺りを見渡し、もう見慣れた景色のためかあまり焦る事もなく社の前を見ると、そこには昨日と同じように黒い塊が見えた。

 その黒い塊は昨日より明らかに大きくなっていて、よく見ると所々に赤黒い部分があり、見た目にも禍々しくまるで生き物のように脈を打っていた。

 一成は恐怖はあったが今までの事を思い出し、自分が動かなければ黒い塊も動かないだろうとその場にじっとした。


「…………」

 どれくらい経っただろうか。

 恐怖から黒い塊から目を離せず様子を伺っていると、よく目を凝らさないと見えないほど細い黒い帯状のものがうねうねと黒い塊から延びているのが見えた。

 それはたまに途切れながら黒い塊の後方にある社に続いていて、社から黒い塊に向かって何かが流れ込み、それが黒い塊を大きくしている様に見える。

 しばらく見ていると黒い塊に流れ込んでいたものが社から薄れるように消えていく。


「……聞こえますか? ……起きれますか?」

 突然何処からか声が聞こえてきた。

「んっ……」

 一成が目を覚ますと目の前に星空が見え、自分が外で横たわっているのがわかった。横を見てみると大きくて白い獣二匹が自分を中心に左右から囲むように円を作り丸く向かい合って寝ていた。

「身体は動きますか?」

 声が聞こえ振り向くと神奈が円の外側で二匹の頭を撫でていた。

「あっ……神奈さま……」

 一成は神奈の姿を見つけ身体を起こそうとするが身体にうまく力が入らず、苦労しながら時間をかけなんとか身体を起こした。

「すいません。なんか身体がうまく動かなくて、ここはどこですか?」

「ここは神域です。ここを管理されてる方にあなたを連れてくるように言われました」

「神域って神様の住む?」

「はい。ついてきて下さい」

 神奈は一成が動ける事を確認すると立ち上がり歩き出した。

 一成が言う事を聞かない身体を動かし神奈のいる方へ歩き出すと、二匹の獣は一成を両側から挟むように一緒に歩き出した。

 一成が先を行く神奈になんとかついてしばらく歩くと。

「着きました」

「はぁはぁ、……ここは?」

 苦労しながらなんとか神奈について行き、案内された先は立派な日本家屋の家だった。

「私たちの家です」

「……えっ?」

 案内された家はとても立派でちょっとした料亭を思わせるほどだった。

「ただいま」

 玄関に向かって神奈が声をかけると。

「お帰りなさいませ。神奈さま」

 神奈が声をかけると同時に、まるで帰って来るのがわかっていたかの様に玄関の引き戸が開き。中から黒い着物と白い着物を着た二人の綺麗な女性が姿を見せた。

「お疲れでしょう。今お茶を用意しますから」

 黒い着物を着た女性が神奈に笑顔で声をかける。

 そのまま黒い着物を着た女性に促され神奈が家の中に入ると。

「あっ……」

 どうしたらいいかわからず取り残された一成は膝に手をつき息を整えながらその様子を見ていた。

「一成さまですね? 神奈さまからお話は聞いています。どうぞ中へ」

 黒い着物の女性が一成に言うと、白い着物の女性が無言で一成に駆け寄り肩を貸し、二匹の獣に目配せすると、二匹は静かに一成の側を離れていった。

「有難う御座います」

 一成が礼を言うと白い着物の女性は一成の顔を見て微笑んだ。

 床の間のある立派な和室に通された一成は用意された座布団に座ると、お茶を出されて、しばらくそこで待つように言われる。

 おとなしく待っていると、すぐに玄関の戸が開く音が聞こえた。

「ただいま」

「お帰りなさいませ」

 誰かが帰ってきたのか先程の女性たちが急いで迎えに行く足音が聞こえた。

「彼は?」

「もう客間にお通ししてお待ちですよ」

「そうか、わかった」

 自分の事を話しているのだとわかると一成は緊張して落ち着かない。

「待たせてすまない」

 客間の障子が開き現れたのは三十代ほどの普通の男性だった。

「いっ、……いえ」

「俺はこの神域の管理をしている真人(まさひと)という。一成くんでいいか?」

「はい」

「神奈に聞いて君が禍津日神の一部を授かったという神社の事を調べてきたんだが、君の同級生とその前に神社に行った三人がスマホやカメラで撮影した写真すべてに黒い塊が写っていた。今はその神社に黒い塊はなかったが神社に溜まっている穢れが君に流れ込んでいたので、これ以上君に穢れが流れ込まないように神奈に神域に連れて来てもらったんだ」

「じゃ今身体が動かないのは穢れのせいですか?」

「ああ、昼から夜へ変わる大禍時になると穢れは禍津日神へ自然と集まりだす。その穢れを清浄にして調整するのが直毘神の役目なんだが、その直毘神が眠ったまま目覚めないために穢れが禍津日神へ溜まってしまい、暴走するのを防ぐために、たまたま神社に来た穢れを受けやすい体質である君に、自身の一部を授ける事で溜まっていく穢れを流したらしい。幸い禍津日神の一部が穢れを受けているので精神は穢れなくて済んでいるが、このまま穢れを受け続ければ死期はさらに早まってしまうかも知れない」

「じゃ、今も穢れは俺に流れて来てるんですか?」

「いや、この神域は現世と隔絶しているから、ここに居ればこれ以上穢れを受ける心配はない。現世に戻れば、またすぐに穢れを受けてしまうからしばらく現世には帰らない方がいい」

「色々とありがとうございます」

「気にしなくていい。あの神奈が突然『友達を助けて下さい』なんて頼み事をしてきた時は驚いたが、それほど結って子が大事なんだろう」

 真人は嬉しそうに言った。

「色々と調べてみたんだが、元々穢れの神である禍津日神は人間が悪や穢れに直面した時、それらに対して怒り、憎しみ、悪を悪だと判断する人の心の働きを司る神だったのが、いつからか誠実に生きている人間が幸福になれないのは禍津日神の仕業だと言われるようになったために、あの神社を訪れる人は減り、廃れて呪いの神社なんて言われるようになってしまったらしいんだ」

「悪い神じゃないって事ですか?」

「ああ、君に一部を授けたのも精神が穢れるのを防ぐためだったのかもしれない」


「……俺に何かできる事はありませんか?」

 一成は真人の言うとおりなら、真実を確かめるためにも禍津日神のために何かしたいと思った。

「申し訳ないが今の君に何もできる事はない。それにまずは禍津日神の一部に溜まっている穢れをどうにかしないと」

「なんとかできるんですか?」

「清浄の神ほどじゃないが、穢れをなんとかする事はできるかもしれない」

 真人は立ち上がり障子を開けると。

「宇迦(うか)、ちょっと来てくれるか?」

「はーい、ただいまー」

 真人が呼ぶと、遠くから返事が聞こえ、すぐに黒い着物の女性が客間にやってきた。

「どうなさいました?」

「前に穢れを治療した時に使った塗り薬で彼の中の禍津日神の一部に溜まっている穢れを減らす事ってできないか?」

「あれは塗り薬ですので身体の表面の穢れにしか効果はありません。ですが厄除けの食物を食べれば減らす事はできなくても中の穢れを中和する事はできると思います」

「じゃ、御饌(みけ)にここにいる間の彼の食事は厄除けの食物を使ったものを出すよう伝えてくれ」

「畏まりました」


 翌日。

「じゃ行って来る」

 真人は神奈を連れて現世へ繋がる社へ向かう。

 社の格子扉を開き暗闇の中を進んでいく。

「……?」

 ふと神奈が立ち止まった。

「どうした?」

 真人が不思議に思い尋ねると。

「何かいます」

「えっ?」

 神奈に言われ真人は辺りを見渡し警戒する。

「ここの神域と現世の狭間は神や神の力を得た人間が行き来するための出入口であり、それ以外は何もない暗闇なのですが、先程から気配はするのですがまったく動きません。それに神より貴方や人間に近い不思議な気配です」

 そう言うと神奈は再び歩き始めた。

「放っといても大丈夫なのか?」

「危険な感じはしませんのでそっとしておきましょう」

 しばらく暗闇を進むと前方に出口の明かりが見えてくる。

 格子扉を開きそのまま、神奈川神社庁の神域を扱う部署へ向かう。


 市内のとある山の中にある神社。

 真人がその神社の社務所の扉を開くと壁中にガラス扉がついたアンティーク調の本棚や家具が並んだ部屋の中で、本が山積みにされたテーブルの横にある二つの二人掛けソファーの片方に線の細い眼鏡をかけた男が一人座って本を読んでいる。

「どうも、乙舳(おつとも)さん。相変わらず本の虫ですか?」

「真人さん。突然どうしたんですか?」

 乙舳は真人に気付くと慌てて立ち上がり笑いながら言った。

「今一人だけですか?」

「師岡さんなら警察の知り合いの方に会うとか言ってましたが。師岡さんにご用ですか?」

「いえ、今日は乙舳さんに聞きたいことがありまして」

「僕に聞きたいことですか?」

「実は神域で眠っている直毘神を目覚めさせる方法を調べてまして」

「直毘神ですか? ……ちょっと待って下さい」

 乙舳は少し考えると山積みにされた本の中から数冊の本を取り出す。

「直毘神は神道の神で穢れを払い、禍を直す神とされ。日本神話の神産みにおいて、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓った時に、その穢れから禍津日神が生まれた。この禍津日神がもたらす禍を直すために生まれたのが直毘神である。『日本書紀』では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)が生まれた後に神直日神(かみなおびのかみ)と大直日神(おおなおびのかみ)の二柱の神が生まれたとしている。ナホは禍を直すという意味である。ビは神霊を意味するクシビのビとも、「直ぶ」の名詞形「直び」であるともいう。いずれにしても、直毘神は凶事を吉事に直す神という事である」

 乙舳は山積みにされた中から今取り出したにも拘らずまるで目的のページがわかっていたかの様にをすぐに開き読み上げる。

「つまりは禍津日神が禍をもたらせば、直毘神はその禍を直すために自然と目覚めるはずなのにいまだに目覚めないって事ですよね?」

「ええ、何が原因なのかがわからなくて」

「……いや、確かもう一人いたような」

 乙舳は頭を抱えて考えると、壁中に並んだ本棚のガラス扉を開けて順番に背表紙を確認しながら目的の本を探していく。

 本棚を何ヵ所か確認していくと。

「あった!」

 目的の本が見つかったのか乙舳は一冊の本を抜き出し、ソファーに座って待っていた真人に見えるように本を開いてテーブルに置いた。

「これは?」

「古事記の写本です。ここを見て下さい」

 乙舳が指をさした所を真人が覗き込むが。

「すみません。俺にはなんて書いてあるのか……」

 漢字ばかりで真人にはなんと書いてあるのかまったく理解できなかった。

「これは上代日本語(じょうだいにほんご)といって、奈良時代かそれ以前およそ千三百年以上前に使用されていた日本語なのですがここを見て下さい。古事記では八十禍津日神と大禍津日神が成った後に神直毘神(かみなほびのかみ)、大直毘神(おほなほびのかみ)と伊豆能売(いづのめ)の三柱が成ったと書いてあるんです」

「伊豆能売?」

「ええ、神直毘神と大直毘神の二神と一緒に三柱とされています。もしかしたらこの伊豆能売が目覚めない原因なのでは?」

「伊豆能売……、神なんですか?」

「どうでしょう……。ただ神なら「神」や「命」などの神号(しんごう)がつくはずですが伊豆能売にはつけられていないので、神ではなく巫女ではないかと考えられていますが、正確な事はわかってません」

「ん~、……伊豆能売か。神ではないとしたら探すのは難しそうですね」

 真人と乙舳が古事記を見ながら考え込んでいると。一緒に来ていた神奈が真人の横に座り退屈そうにしていた。

「神奈は伊豆能売が何処にいるかわからないか?」

「いえ、私も聞いた事がありません」

 神奈は正面を見たまま表情一つ変えずに答えた。

「えっ! 神奈さま一緒なんですか⁉」

「ええ、俺の隣にいるんですが」

「ん~……、やっぱり見えませんね」

 乙舳は真人の横を数秒見つめた後に肩を落として言う。

 乙舳は幼い頃から古事記や日本書紀などの本が好きで、神社庁に入った後にその事を聞いた師岡に神域を扱うこの部署に誘われたが神や神奈の姿を一度も見た事がない。

「見た事がないのに、よくこの仕事をしようと思えましたね」

「何を言ってるんですか! 古事記や日本書紀など文献を見れば神域や神様が存在する事は確かです!」

 乙舳は真人に詰め寄りながら真剣な顔をして訴える。

「あははっ……、ここじゃこれ以上はわかりそうもないので今日はこれで帰りますね」

 真人は詰め寄る乙舳にどう対応すればいいかわからず逃げるようにその場を後にした。


 社務所の外に出ると日はすっかり傾いていた。

「もう一ヶ所寄りたい所があるんだが大丈夫か?」

 神奈が現世に留まるためには力を消費するらしく長居する事はできない。

「お気になさらず」

「辛くなったら俺に構わずに神域に戻ってもいいぞ」

「はい」

 真人が立ち止まって後をついてくる神奈に言うと、神奈は返事をしながらまだ大丈夫だと訴えるように真人を追い越していく。


 真人たちはそのまま直毘神が祀られていた結の神社に向かった。

「あっ、神奈さま!」

 休日のため袴姿で境内の掃き掃除をしていた結は神奈の姿を見つけて駆け寄ってきた。

「大変なんです! 一成くんと連絡がとれなくて! 家に行っても誰もいないし。私にはどうする事もできなくて!」

「彼は神域にいます」

「……え?」

 慌てて状況を説明した結は神奈が何を言ってるのかすぐに理解できなかった。

「驚いたな。本当に神奈が見えるのか」

 そんな中、真人が結の前に出ていくと。

「えっと……、あなたは?」

「俺は神奈が住む神域の管理人をしている真人という」

「じゃあ、もしかして一成くんは助かったんですか⁉」

「いや、一時的に避難させただけで、まだ助かってはないんだ」

 結は一成が助かったと安堵したが、すぐに真剣な表情に戻る。

「それじゃ今日はどういう?」

「ここで祀られていた直毘神と共に三柱と呼ばれた伊豆能売というのがいたらしいんだけど聞いた事ないかな?」

「イヅノメ……ですか?」

「こういう字を書くんだけど……」

 真人はスマホで伊豆能売と漢字を表示して結に見せた。

「あ~何となく見た事があるような……」

「本当に? どこで?」

「確か……前にお婆ちゃんの部屋で見た本に同じ名前があったような……」

 結は記憶を遡りながら自宅へ向かう。

「あっ、こっちが居間なので上がって待ってて下さい」

 真人たちが玄関先までついていくと、結は居間の場所を示して、そのまま家の奥へと消えていった。


 真人たちが居間でしばらく待つと結が何冊かの本を持って来る。

「ここです」

 一冊の本を真人たちに見えるように開き伊豆能売の名前が書かれた箇所を指し示す。

「確かに……、ちょっと見せてもらっていいかな?」

「どうぞ。あっ、お茶入れてきますね」

「ああ、いや、お構い無く」

 本を見たまま返事をする真人を見て結は嬉しそうに笑いながらお茶を入れに居間を出て行った。

 結が持ってきた本は一冊は乙舳に見せてもらった古事記と同じ上代日本語で書かれていたが、それを結の祖母が現代語に訳したらしい物が数冊あり、それにはこの神社や直毘神と禍津日神の伝説や伊豆能売について書かれていた。

 伊豆能売は巫女であり禍津日神がもたらした禍を鎮めるため人身御供(ひとみごくう)として神への生贄とされ、後に信仰の対象となり神直毘神と大直毘神の二神と一緒に伊豆能売神(いづのめのかみ)という神に成り三柱とされるようになった。

 しかし、後の時代に伊豆能売神の信仰は薄れて神という神号が外され埋没神(まいぼつしん)となってしまったという内容だった。

「どうぞ」

 お盆にお茶をのせ戻ってきた結は真人たちにお茶を出す。

「ありがとう」

「何かわかりましたか?」

「ああ、直毘神と関係のある伊豆能売神という神がいた事はわかったよ。ただ信仰が薄れ神の神号を外されてしまった後の事がわからない」

「神域にもいないんですよね?」

「千三百年以上前の神だから正確な事はわからないが、神号が外されて神ではなくなってしまったのなら神域にはいないかもしれないな」

 言うと真人は結の入れてくれたお茶を一口飲み結の持ってきた本をまとめる。

「ありがとう。取り合えず後はこちらで調べてみるから彼の事は任せてくれ」

 言うと真人たちは立ち上がり玄関へ向かう。

「じゃ、俺はこれで」

「はい」

「そういえば神奈。ここにも神域と繋がる社があるのか?」

「ええ、あちらに」

 神奈が指差す方へ行くと境内の端に小さな社があった。

「こんなところに……」

 その社を真人が確認するように見ていると。

「あの、また来ますか?」

 結は真剣な顔をして聞いてくる。

「ああ、神奈がここに来るのを止めはしないよ。これからも神奈と仲良くしてやってくれ」

 何か神奈がここに来るのが悪い事だと思わせる事を言っただろうかと真人が疑問に思っていると。

「結が言ってるのは貴方の事ですよ」

「……え?」

 神奈に言われ見ると、結は真人を真剣な顔で見ていた。

「ああ、直毘神の事も詳しく知りたいし、解決したらまた来させてもらうよ」

 そう答えると真人たちは社に入り、二人を結は笑顔で見送った。


「結は貴方に好意を抱いているように見えました」

 社の中を真人の前を歩く神奈が前を向いたまま言う。

「そんな事……、あの子はまだ高校二年生だし、俺とは二十歳近い差があるんだぞ?」

「私にはよくわかりませんがいけない事なんですか?」

「いけなくはないが、もしそうだとしてもそれは初めて同じものが見える人に出会った事で勘違いしてるだけだろう」

「そういうものですか」

「ああ」

 これ以上この話を続けたくなかった真人は余計な事を言わないよう黙った。


 しばらく歩き。ふと、行きにここで神奈が何かの気配を感じた事を真人は思い出した。

「そういえば神奈。行きにここで感じた気配はまだするのか?」

 危険な感じはしないと言っていたがここを通るたびによくわからないものがいるというのは気分のいいものじゃない。

「まだいるみたいですが行きに比べるとずいぶん気配が弱くなっています」

「どういう事だ?」

「何かのきっかけで一時的に気配が強まったのかもしれませんが」

「俺たちが通ったのがきっかけなのか?」

「いえ、頻繁にここを利用する私たちがきっかけとは考えにくいです」

「俺たち以外の何かがきっかけって事か?」

「かもしれませんが、このまま消えるならそっとしておきましょう」


 神域に戻り、真人は現世で調べてきた事を家の居間で宇迦たちに伝えた。

「……伊豆能売さまですか」

 話を聞いた宇迦も知らない様子で考え込む。

「千三百年以上前となるとわたくしや御饌が生まれるずっと前ですから。ただ信仰が薄れ神の神号を外されてしまったのでしたら、埋没神(まいぼつしん)となって力を失い神域に立ち入る事ができなくなってるかもしれませんね」

「神号を外されると神域へは入れないのか?」

「信仰されて神になった人間は信仰が薄れれば神としての力も失ってしまい、神ならざる神となってしまいます」

「神ならざる神?」

「神として力を揮う事もこの神域へ入る事もできずに存在意義をなくした神の事です」

「何か探し出す方法はないのか?」

「……禍津日神がもたらした禍を鎮めるため人身御供となったのでしたら、禍津日神が近づけば何かしら反応があるかもしれませんが……」

「禍津日神が近づけば……」

 真人には宇迦の話に思い当たる事があった。

「いかがなさいましたか?」

「現世に行く時に狭間で神奈が何かの気配を感じたんだが、何かのきっかけで一時的に気配が強まったと言っていた。危険な感じはなく神や神奈たちより俺や人間に近い不思議な気配だったらしい。伊豆能売が元人間で力を失っているなら今は俺や人間に近い気配なんじゃないか?」

「そのきっかけが神奈さまが彼をここに連れてきた時だったと?」

「ああ、その時に彼の中の禍津日神に反応したんだろう」

「待って下さい。確かに辻褄は合いますが、もし伊豆能売さまでなく悪いものでしたら、気配に危険な感じがなかったとしても近づけばどうなるかわかりません。どんなものかもわからない以上、迂闊に近づくのは避けるべきです」

「……もう一度、彼を狭間へ同行させてみてはいかがですか?」

 障子越しに廊下から神奈の声が聞こえ障子が開くと神奈と一成が立っていた。

「聞いていたのか?」

「はい。御饌さんの厄除け料理のおかげで大分楽になりました。それにこれ以上迷惑はかけられませんし、他に方法がないなら」

 そう言う一成はまだ本調子ではない様に見えた。

「この神域を一歩出ればまた穢れが流れ込んできてどうなるかわからないんだぞ?」

「……やらせて下さい」

「……わかった。けど危険と思ったらすぐに神域に引き返す。それでいいか?」

 まだ心配な部分はあるが確かに他に方法がないため、真人は条件をだして提案を呑んだ。

「はい。ありがとうございます」

「後は伊豆能売だったとしたらどうするかだが」

 もし狭間にいるのが伊豆能売だとしても埋没神となってしまった伊豆能売が神域に入る事はできない。

「元神なので現世に小さくて構いませんので神棚を作っていただいて、伊豆能売さまを祀っていただければ神格は取り戻せるはずです」

「なら、神棚はこちらで用意して置場所は結くんの神社に頼もう。一時的になら神棚を置いてもらう事はできるだろう。後は伊豆能売を神として祀る依り代か」

「それも元神なら簡単な御神札で依り代の代わりになりますから私がご用意致します」


 翌日。

 神域の家の外にある倉の中には真人が神域を管理するための道具や材料が用意してある。

 神棚を作る材料を選ぶと慣れた手つきで木材を切り出し簡易的な神棚を作り出す。

「何の飾り気もないがこんなものだろう」

 作った神棚を持って真人が家に戻ると、すでに御神札を用意した宇迦が待っていた。

「では、まず真人さまが神棚と御神札を現世に置いていただき伊豆能売さまを祀って下さい。その間に神奈さまは御饌と一成さまを連れて伊豆能売さまの気配を探り居場所を特定して下さい。伊豆能売さまが一時的に神格を取り戻したかは気配で伝わるはずなので、すぐに伊豆能売さまの元へ行き伊豆能売さまを神域へお連れして下さい」

「わかった」

「悪いものでしたらその場は御饌に任せてお二人は急いで神域にお戻り下さい。もし穢れが現世から一成さまに流れ込んできた場合も神奈さまが精霊の力で防ぐ事はできますが、狭間には精霊が存在しないので防げるのは一時的ですので、すぐに神域にお戻り下さい」

「わかりました」

「……」

 一成は真剣な顔で返事をし、御饌も真剣な顔をして頷いた。

「後は……」

「そんなに心配し過ぎると宇迦の方が倒れてしまうぞ」

 心配の為か、これからの事を細かく確認する宇迦を見かねて真人が笑いながら落ち着かせようと声をかける。

「ですが、一緒に行けない私は見送る事しか出来ませんので……」

 言うと宇迦は淋しそうに笑う。

「誰にでもできる事とできない事がある。宇迦にはこういう時に頼りになる豊富な知識があるし、御饌は身を挺して穢れに飛び込む事ができる。神奈だって神域を守り精霊の力を借りる事ができる」

 真人は宇迦をまっすぐ見つめて言った。

「申し訳ありません……。こちらで成功を願っております」

「ああ、稲荷神の願いがあれば心強い。じゃ行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」

 笑顔で言う真人たちを宇迦も笑顔で見送った。


 真人たちは一成を連れ神域の社から狭間に入り辺りを伺う。

「どうだ? 何かの気配はするか?」

 真人に聞かれると神奈は首を横に振る。

「二度目なので反応が小さいのかもしれません」

「やっぱり神格を取り戻させてから確認するしかないか」

 真人は祀る前に狭間の気配が伊豆能売か確認できないかと考えていた。

「じゃ俺は現世に行って伊豆能売を祀ってくる」

「はい」

「……」

 神奈が返事をして御饌が頷くのを確認した真人が現世に向かう。

「お願いします」

 遅れて一成も真人の背中へ返事を返す。


 伊豆能売を祀るため真人は結の家の神社に来ていた。

 境内で結の姿を探していると。

「あら、真人さん。何かあったんですか?」

 いつものように境内で掃き掃除をしていた結が先に真人を見つけて声をかけた。

「昨日の今日で悪いんだけど頼みがあるんだ」

 真人は事の詳細を結に伝える。

「そうですか、わかりました。では、ちょうどいい場所があります」

 そういうと結は、以前、直毘神が祀られていた社へ真人を案内する。

「立派な社だな。神はいないが居心地がいい」

「直毘神を祀っていた社です。伊豆能売と関係があるならここがいいんじゃないですか?」

「ありがとう。さっそく祀らせてもらっていいかな?」

「はい」

 結の返事を聞くと真人は神棚を取り出し中に御神札を納め用意した棚の上に置き、榊(サカキ)、米、水、塩を供え真人と結は手を合わせた。

 その頃、神奈と御饌と一成は狭間に残り、伊豆能売の気配を見逃さないように辺りの様子を探っていた。

 しばらく何もせずにずっとその場に留まり続けていると、まだ本調子じゃないために、一成が緊張でよろけとっさに御饌が手をとって支える。

「すみません。ありがとうございます」

 一成が礼を言うと御饌は無言で一成に笑顔を向ける。

 しかし、すぐに御饌はその笑顔を真剣な表情に変えて視線を横にずらし、何もない暗闇を見つめ警戒する。

「微かですが気配がします」

 神奈も御饌と同じ方向を見ながら言う。

「えっ⁉」

 一成はどうすればいいかわからず慌てると御饌が二人を守るように先頭に立ち、警戒しながら気配のする方向へゆっくりと進んでいく。

 しばらく進むと前方に微かな明かりが見えてくる。ゆっくり近づいていくと明かりの中で誰かがうつむいて座っているのがわかった。

 御饌たちがさらに近づくと、その人物はゆったりとした上着の下に縦じま模様の裾が広がったスカートのようなものをはいた女性だった。

 その女性はうつむいていた顔をゆっくりと上げ感情のない表情で御饌たちを見る。

「あなたたちは……誰? なぜ禍津日神の禍がその人間から出ているのですか?」

「……あなたが伊豆能売神ですか?」

「……私に神格を戻したのはあなたたちですか?」

 神奈が聞くと、伊豆能売神は無表情のまま三人の姿を確認し、返事の変わりに神奈に質問をする。

「……はい、私たちが戻しました」

「すぐに元に戻して下さい」

 伊豆能売神は神奈たちから視線を外して再び何もない暗闇を見つめる。

「現世で暴走している禍津日神を鎮めるため、神域で眠る直毘神を目覚めさせる方法が知りたいのですが?」

 神奈の言葉に伊豆能売神は微かに反応する。

「生前、私は禍津日神の禍を己の身を介して直毘神へ流し清浄にする巫女でした。ですが、ある時、酷い天変地異が起こると人々はその天変地異を禍津日神が暴走した為だと考え、禍津日神の暴走を鎮めるためと私を人柱(ひとばしら)にしました。私はそれでも人々を救うためなら構わないと、死後も禍津日神の禍を己を介して直毘神へ流し清浄にし続けていました。やがて天変地異も収まると人々は私を神として祀るようになり私もそれに応えました。しかし、しばらく時が経つと、なぜか私は神の名を奪われ、次第に人々からも忘れられ、神域に立ち入る事もできなくなりこの神域と現世の狭間に堕とされ、何百年もの長い間この場所に閉じ込められていました。その人間から出ている禍津日神の禍を感じて目覚めてしまいましたが、もう私は何もせずにこのままずっと眠り続けたいのです」

 伊豆能売神は暗闇を見つめながら悲しい声でここにいる経緯を話してくれた。

「それに直毘神を目覚めさせてもここ以外に私の居場所はありません」

「なら俺が神域にあなたの寝所を作りますよ」

 いつの間にか真人が現世から戻ってきていた。

「あなたは?」

「俺は神域の管理を任されているものです。貴女の神格も今は一時的に戻しているだけですが、直毘神が目覚めたら現世にある神社に直毘神と共に清浄の神として貴女を祀れば時間はかかりますが信仰も戻るはずです」

「……条件があります。その人間の身を介して禍津日神の禍を直毘神へ流し、直毘神を目覚めさせる事が出来たなら手を貸しましょう」

 真人が提案すると、伊豆能売神は真人の顔をまっすぐ見ながら条件を出す。

「それは……、彼はまだ子供です。それにただの人間に禍津日神の穢れを直毘神へ流す事ができるはずが……」

 伊豆能売神の条件に真人が焦ると。

「人間というのは元から禍福を有しています。いつからか人の心がより穢れに傾けば禍津日神が災いを、逆に清浄に傾けば直毘神が幸福をもたらすと言われていますが、元々は人の持つ穢れに禍津日神の分霊が働き、清浄に直毘神の分霊が働く。つまり人間は己で穢れを清浄にする事ができるのです」

「そうだとしても……」

「わかりました」

 説明する伊豆能売神に真人が反対しようとすると、後ろで黙っていた一成が声を上げた。

「……やらせて下さい。このまま何もしなければ助からないなら同じ事です」

 一成は辛そうにしながら真剣な顔で真人に言った。

「……わかった。だが、俺たちもできるだけの事はさせてもらう」

「ありがとうございます」

 真人に礼を言うと一成はあまりの怠さにその場にへたり込んでしまった。

 御饌がとっさに手を差し出すと、一成はその差し出された手を丁寧に断り再び立ち上がる。

「無理はしなくていい。厄除け料理で楽になったとはいえまだ辛い事に変わりはないんだ。神域に戻ったら少し休もう」

「すみません」


 伊豆能売神を連れて神域に来ると、真人たちは少し休憩を取り、直毘神の領域に向かった。

 伊豆能売神は場所を知っているのか、慣れた様子で神域の奥へと進んでいく。

やがて真人も来た事のない場所まで来ると伊豆能売神はある道の前で止まった。

「この先が直毘神の領域です……」

 直毘神の領域へ続く道は塞がれてずいぶん経つのか、精霊の力でできた透明な壁が白く変色していて、所々に草木が張り付き本来なら透明でわからないはずの壁が一目瞭然だった。

「神奈」

「はい」

 真人が神奈の名を呼ぶと神奈は塞がれた道の前に立ち両手をかざす。

 すると壁は白い靄に変わり周囲に散って消えていった。

「今はすべての神の領域が塞がれているのですか?」

「ええ、例え近しい神でも他の神の領域には入れません」

 伊豆能売神に聞かれ真人が答える。


 直毘神の領域へ入りしばらく進むと、鏡が置かれた小さな社が見えてくる。

「あれが直毘神の寝所ですね。では私の前に立って下さい」

 伊豆能売神はその社を確認すると一成に前に立つよう指示を出す。

 一成が言われた通りに伊豆能売神の前に立つと、伊豆能売神は一成の背中に両手を添えて目を閉じる。

 すぐに一成の身体は、まるで火傷をしたかのように所々黒く焦げていき、そこから黒煙が上がる。

「ぐっ! ……」

 一成は苦悶の表情を浮かべ身をよじるが必死に耐えながら社の中の鏡を見る。

「いきますよ」

 伊豆能売神が言うと一成の身体にできていた黒い焦げが身体から剥がれ黒煙と合わさり社の中の鏡へ黒い帯状となって流れていく。

 次の瞬間、鏡は強烈な光を放ち光の中から二つの何かが飛び出してくる。

「何事じゃ?」

「何者じゃ?」

 飛び出してきたのは白い袴姿の二人の男神だった。

「人間がおるぞ」

「いや、獣も一匹混ざっておるぞ」

「本当じゃ、獣もおる」

「人間が四人と獣が一匹」

 二人の男神は真人たちを確認しながら空をぐるぐると飛び回る。

「ん? 一人は伊豆能売神殿ではないか?」

「本当じゃ伊豆能売神殿じゃ」

 男神たちは伊豆能売神を確認するとその目の前に降り立った。

「久しいの」

「懐かしいの」

「神直毘神さま大直毘神さまお久しぶりです」

 伊豆能売神が頭を下げると直毘神たちは嬉しそうに笑う。

「では、先程の穢れは伊豆能売神殿のか?」

「違う、あの穢れはそちらの人間じゃ」

 神直毘神と大直毘神が共に一成を見て近づいていく。

「これは珍しい。禍津日神の一部を宿しておる」

「禍津日神を受け入れて生きておる」

直毘神たちは一成を見ながら言った。

「どれ」

「うむ」

 直毘神たちは徐々に白い帯状のものに変わっていくと一成の身体に流れ込んでいく。

「大丈夫なのか?」

 真人は慌てて一成に駆け寄った。

「はい。なんだか楽になったというか、力が溢れてくるというか」

 一成は徐々に顔色が元に戻り、ずっと辛そうにしていたのが嘘のように元気を取り戻していた。

「その人間に憑依する事で禍津日神の一部の力を抑えて下さったのでしょう」

 伊豆能売神は一成を見ながら言った。

「直毘神さまお願いがあります。今現世では禍津日神が暴走している所為で人が何人も死んでいます。禍津日神の穢れを清浄にしていただけないでしょうか?」

 一成は自分の中の直毘神に語りかけた。

「元よりそれが我らの使命」

「それが我らの役目」

 直毘神は一成の中からみんなに聞こえるように返事をする。

「ありがとうございます」

 一成は自分の胸に手を当て礼を言った。

「伊豆能売神も一緒に来てもらえますか?」

「私は直毘神のお二人に付き従います」

 真人が聞くと伊豆能売神は覚悟を決めた顔で返事をする。

 それを聞いてすぐに真人は神奈、御饌、直毘神に憑依された一成、伊豆能売神を連れて現世に向かった。


「まずは伊豆能売神。あなたを祀っている直毘神の神社へ行って御神札を使って示現(じげん)して下さい。そのままでは現世に留まる為にも力を使ってしまうので、弱った状態で禍津日神と対峙するのは危険です」

 そう言うと真人たちは直毘神の神社へと繋がる社を通って直毘神の神社の境内へ。

 すぐに結を見つけ伊豆能売神を祀った社へ入らせてもらう。

「えっ? 直毘神さまが一成くんの中にいるんですか?」

 真人が事の次第を説明すると結は驚きながら一成の様子を確認する。

「うん。禍津日神の一部の力を抑えてくれてるらしい」

 一成は自分の胸に手を当て結に説明する。

「へー、そういえば顔色もずいぶんよくなったような」

 結は不思議そうに一成を見る。

「伊豆能売神。これがあなたの御神札です」

 一成と結の会話を余所に、真人は伊豆能売神に依り代となる御神札を見せる。伊豆能売神が御神札に手をかざすと御神札は宙に浮き伊豆能売神の身体に重なるように消える。

「すごい、御神札が女の人に変わった」

 御神札を使って伊豆能売神が示現すると結にも伊豆能売神が認識できるようになった。

「これで現世に顕現するのに力を使わずに済むので禍津日神と対峙して力を使っても現世に留まれるはずです」

「では、禍津日神のところへ行きましょう」

 真人が言うと伊豆能売神は頷いた。


 みんなを連れて真人は禍津日神の神社へとやって来た。

 相変わらず神社の境内には誰もいなかった。

「なんか前来た時とずいぶん雰囲気が違うような」

 一見、以前と変わったところはなく、少し寂しい感じはするが定期的に手入れもされていて、呪いとは無縁の神社に見える。しかし直毘神に憑依された今の一成には、夢の中の神社と同じようにとても暗い雰囲気の場所に見えていた。


 そして真人たちに続き伊豆能売神が境内に入った瞬間、境内の空気は一変する。

「なんだ?」

 先ほどまでと違い、境内の空気は重くなり少し息苦しく感じる。

 すると禍津日神の社から穢れが少しずつ溢れだし、御饌は真人たちを守るように前に出る。

「想像以上にまずいのう」

「予想以上にまずいのう」

 一成の中の直毘神が反応する。

「神直毘神さま! 大直毘神さま!」

 伊豆能売神が直毘神の名を呼び前に出ると手を社に向かってかざした。

 すると社から出る穢れが伊豆能売神にゆっくりと流れていく。

 すぐに一成の中から直毘神たちが出て来て伊豆能売神に流れた穢れを自分たちに流して清浄にしていく。

「くっ……」

 伊豆能売神が苦しそうに声を漏らすと伊豆能売神の身体から黒煙が上がり始め、よく見るとところどころ肌が穢れて黒く変色していた。

「このままでは御しきれん」

「穢れが多過ぎて制しきれん」

 伊豆能売神の様子を見た直毘神たちが叫ぶ。

「小僧!」

「小童!」

「はっ、はい!」

 直毘神たちが後ろで見ていた一成を呼んだ。

「お主の中の禍津日神の一部を使う」

「禍津日神の一部から我らに穢れを流す」

「はい」

 言われると一成は直毘神たちの指示で前に出る。

 直毘神たちが穢れを清浄にしながら片手で一成の身体に触れると一成の胸から小さな黒い塊が半分だけ飛び出した。

「少しキツいが耐えろよ」

「死にはせん」

 すると社から溢れ出る穢れが一成にも流れていく。

「ぐっ……!」

 一成はあまりの辛さに思わずよろめいた。

「我慢せい! 伊豆能売神殿はもっと辛いぞ!」

「辛抱せい! 伊豆能売神殿はもっとキツいぞ!」

 直毘神に言われ伊豆能売神を見ると流れている穢れの量は一成に流れている量よりかなり多かった。

「くっ!」

 一成もそれを見て理解したのか身体に力を入れて必死に耐える。


 やがて境内の重く息苦しい空気が軽くなり息苦しさもなくなっていく。

「あと少しじゃ」

「もう一息じゃ」

 直毘神が叫ぶと社から溢れ出ていた穢れはなくなり神社は本来の明るさを取り戻していく。

 そして伊豆能売神と一成に流れた穢れもすべて直毘神が清浄にすると、ようやく禍津日神の暴走を鎮める事に成功した。

「よくやった小僧!」

「よくやった小童!」

 穢れの流れが止まると一成はその場で膝に手をつき肩で息をしていた。

「お疲れ、身体は大丈夫か?」

 真人が一成の肩に手を置き声をかけると一成は呼吸を整えながら真人に笑いかける。

「私だけでは静められませんでした。ありがとうございます」

 伊豆能売神は一成に礼をした。

「後は小僧の中の禍津日神の一部を戻すだけじゃな」

「小童の中の禍津日神の一部を戻さねばな」

 直毘神が一成の胸に手を当てると胸から黒い塊が出てくる。

直毘神たちが黒い塊を両脇から白い帯状のもので固定するとそのまま禍津日神の社へと向かう。

 すると社の扉が開き中に土でできたぼろぼろの人形が祀られていた。

「禍津日神とは禍そのもので、あれは禍を集めるために作られた人形です」

 伊豆能売神は状況が理解できないみんなに説明する。

「穢れは放置すれば、その場に留まり様々な災厄を招きます。それを防ぐために穢れを集める土人形を作ったのですが、いつしか集まった穢れが人形を介して様々な災厄を引き起こすようになり、それは禍津日神と呼ばれるようになりました」


直毘神たちが黒い塊を人形の手前まで持っていくと黒い塊は人形に吸い込まれ消えた。

「あの黒い塊が穢れを集める役割をしています」

「では、またこのまま放置すれば禍津日神が暴走する可能性があると?」

「直毘神のお二人がこれからも穢れを清浄にするのであれば私はお二人に付き従うだけです」

「すぐに神域にあなたの寝所をお作りします」

 真人は一成を御饌に任せると改めて伊豆能売神に言った。


 数日後。

「あっ、真人さん」

 真人が神域と繋がる社を通って直毘神の神社に来ると結が境内の掃除をしていた。

「その後の様子はどうかな」

「特には。禍津日神の神社も以前より明るくなって参拝者も増えてるみたいですよ」

「彼の様子は?」

「一成くんですか? 問題ないですよ。ここにもよく来てたんですけど、たまたま神奈さまがいらした時に来たら神奈さまの事が全く見えなかったみたいで、それ以来あまりここにも来なくなってしまいましたけど」

「そうか」

 一成は禍津日神の一部から解放された後、穢れを受けやすい体質を直すため、しばらく直毘神が憑依して体質改善をしてもらっていた。体質が改善され、直毘神たちが去るとすぐに神奈や伊豆能売神を見る事ができなくなってしまった。

「それがいい。見えても良い事ばかりじゃないからな」

「それより今日は?」

「ああ、伊豆能売神の寝所が用意できたから知らせに来たんだよ」

真人は伊豆能売神のために新しい領域を神域に用意し、寝所となる社を建てた。

「伊豆能売神さまはあちらに」

結に案内されて境内の一角、人が立ち入らない林の中に伊豆能売神は佇んでいた。

「伊豆能売神」

 真人が声をかけると伊豆能売神は返事をせずにただ首だけを動かした。

「聞きたい事があったのですが、直毘神を目覚めさせた時、直毘神たちは俺たちを見て『人間が四人と獣が一匹』と言いました。獣は稲荷神の御饌だとして、他の四人が人間なら元人間の貴女はわかりますが、神奈も人間だという事ですよね? ですが、俺は前に神奈は神に神域の守人をさせるために創り出されたと聞きました。しかし、もし神奈が人間なら神が神域を守らせるために神奈を縛っているという事じゃないんですか?」

「彼女が元人間なのは確かです。ですが彼女が神域の守人になった時、私は神号を奪われ神域に立ち入る事ができなかったので詳しい経緯はわかりません。眠りについていた直毘神のお二人も同じでしょう」

 伊豆能売神は真人の事は見ずに何もない林の中を見つめながら答えた。

「わかりました。突然変な事を聞いて申し訳ありません。では寝所にご案内します」


 伊豆能売神が真人に案内され神域へ着くと社の前に宇迦が頭を下げて控えていた。

「あなたは?」

「お初にお目にかかります。稲荷神の宇迦之御魂(うかのみたま)と申します。今この神域の事は私(わたくし)が一番承知していますので、何かございましたら、まず私にお声掛け下さい」

「わかりました。お世話になります」


 宇迦はそのまま伊豆能売神を寝所まで案内した。

 伊豆能売神のための領域は直毘神の領域の真横に用意されていた。

「直毘神さまに付き従うのであればこの方が良いかと、ちょうどこちらが空いていましたので」

 そこは前に直毘神を目覚めさせに来た時は草木が生い茂り足の踏み場もな いようなところだったが、きれいに整備されて以前とは見違えていた。

「これをあの人間がやったのですか?」

「真人さまは特殊な方で神から力を借りて操る事ができます。今回は以前お助けした神の力をお借りしたようです」

「そうですか。では私も何かありましたら力をお貸しするとお伝え下さい」

「畏まりました」

 宇迦が頭を下げると伊豆能売神は用意された領域の中に進んで行った。

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