神域の管理人

田澤 邑

第1話 神域の女神たち

 夢を見た。

 真人(まさひと)には子供の頃に毎日遊んでくれる女性がいた。

 その女性はとても優しくて、真人はその人に会うために毎日その女性のところに通っていた。


 プルルルルルッ。

「んっ……」

 真人はスマホの着信音で目が覚めた。

 ピッ。

「……はい」

「あっ真人? あんたこんな時間まで寝てて、ちゃんとやってるの?」

「ああ、大丈夫だよ伯母(おば)さん。今日は休みだから」

 寝起きの頭に響くほど大きな伯母の声。

 何かと心配してくれる伯母の存在はありがたいと思いつつも、正直、お節介で真人は少し苦手だった。

『たまにはちゃんと連絡寄こせ』や『ちゃんと食べてるのか?』と聞かれ。『大丈夫だから心配いらない』と返すと『ちゃんとやりなさいよ』と一方的に喋り、切ってしまうのがいつものパターンである。

 電話を切り、何か夢を見ていた気がするが、伯母の声で何の夢を見ていたか忘れてしまった。

 しかし、よくある事だと自分を納得させる。

「……今日も何もする事がないな」

 もう三十路を過ぎて数年、なるべく他人と関わらない様に日雇いの仕事で最低限生活できるだけの金を稼ぎ、後は何をするわけでもなく毎日をただダラダラと過ごしていた。

 十八歳から働き始め、真人を子分のように扱う先輩や、部下である真人のやってきた事すべてを自分の手柄にする上司へのストレスで入院。退院後、次の職場では厄介事ばかり押し付けてくる上司の所為でうつ病になり辞めてしまった。

 その後、仕事を転々とするが様々な厄介事が続き心身ともに疲れ果てた。

人並みに恋愛もしたが、付き合いだした直後に自分勝手な理屈や価値観を押し付けられ我慢できず別れ。他人の思惑に振り回されて気づいた頃には仕事も友人も失っていた。

 最終的な決断をしたのは自分なのかも知れないが、真人は他人と関わるのが嫌になっていた。

 それ以来、ダメな事は理解してるが特にやりたい事もなくしょうがないと自分を誤魔化して過ごす毎日。

 幸い両親は横浜の繁華街から離れた小高い丘の上に木造の平屋を残してくれていた。

 真人が生まれてすぐに二人とも死んでしまい、幼い頃は父方の姉である伯母が育ててくれた。高校を卒業してすぐ、伯母の家を出て一人で生活したいと伝えると両親の残したこの家を教えられ、 それ以来ここに一人で暮らしている。

 今日はどうしようかと考えながら台所に移動し冷蔵庫を開けるとほとんど物が入っておらず、買い物に行かなければならなかった事を思い出す。

 簡単に顔を洗い、まだ寝起きでぼーっとする中、身支度をすると近くのスーパーへ向かう。

 真人の住む家から一番近いスーパーは坂を十分ほど下った丘の梺の大通り沿いにある。


「んっ?」

 通りなれた坂をしばらく下り大通りに出る手前に見慣れない通路がある事に気づく。

 こんな所に道なんてあっただろうか? 最近できたのか? と見てみると、初めて見るはずなのにその通路はまるで何年も前からあったかのような雰囲気があり、かなり奥まで続いていて一番奥は日の光が差し込んでいるのか、ここからではよく見えない。

 その通路に興味が出た真人は面白そうなので、奥に何があるのか確認しに行ってみる事にした。

 立ち入り禁止など他人が入れないような所ならすぐに引き返せばいいと考え進んで行くと通路の手前からでは日の光で見えなかった部分が少しずつ見えてくる。

「ずいぶん古い建物ばかりだな」

 日の光で見えなかった奥はすべて両側を古い建物に挟まれた通路が続いていて人の気配などがまったくないとても不思議な雰囲気がする。

 さらに通路を進むと先に何やら背の高い物が見えてくる。

「あれは……、鳥居(とりい)か? って事はここは神社か?」

 目の前に現れた鳥居を抜けた先には開けた広場があり、そこには小さな社があった。

「こんな場所が近場にあったのか」

 そこは周りを木々で囲まれているにも関わらずとても明るく心地の良い場所だった。

 心地よい居心地に瞳を閉じて深呼吸をすると、町中とは思えないほどの自然の香りがまさに心身ともに癒しを与えてくれる。

 ――だが、その香りに酔いしれていると突然、目眩(めまい)に襲われ、頭を抱えてよろけると背後から突然声をかけられた。

「あなたは――人間ですか?」

 目眩に頭を抱えながら振り向くと、そこには袴(はかま)姿の少女がこちらを向いて立っていた。

「ここに人間が――迷い込むとは――珍しいですね」

 二十歳くらいのとても綺麗なその少女は、無表情でこちらを見つめながら喋りかけてくるが、目眩のせいでうまく聞き取れない。

「しかもここで――意識を保って――いられるなんて」

 しっかり聞き取ろうと声に集中すると、まるで頭が聞くのを拒むかのように目眩が強くなる。

「まだそんな人間が――いたのですね」

「けれど――まだ慣れては――ないようですね」

 少女は目の前まで近付いてきて両膝をついて座り、首を傾げながら聞いてくるが目眩のせいで返事ができない。

「外まで――ご案内しましょう」

 少女に手を引かれながら、だんだん意識が遠退いていき真人は気を失った。


 翌日。

ピンポーン。

「うっ……つぅぅ……」

 酷い頭痛に頭を抱えながら真人は目覚めた。

 昨日、真人は気づいたら道に座り込んでいて、何かあったのかよく思い出せないままあまりのダルさにすぐ帰って寝てしまった。

 ピンポーン。

 ……誰か来てたのか?

 真人は玄関のチャイムに気づき、もぞもぞとダルさの残る身体を布団から起こし玄関に向かう。

「……はい」

 玄関を開けると白髪のとても背の高い老紳士が一人立っていた。

「どうも、私(わたくし)神奈川県神社庁の師岡(もろおか)と申しますが、真人さんでよろしいですか?」

 師岡と名乗るその老紳士は軽く会釈をすると、やわらかく微笑みながら名刺を真人に差し出し聞いてくる。

「突然で申し訳ないのですが、少しよろしいですか?」

「……はぁ」

 名刺に書かれた神社庁という言葉に宗教の勧誘だと思い、真人は何も考えずに玄関を開けた事を後悔した。

 睡眠を邪魔された上に頭痛に苦しみながら出て、宗教の勧誘をされたと考えたらだんだんと苛立ちが顔に出てしまう。

「説明をする前にまずは……神奈(かんな)さま」

 その顔を見て一人で来ているはずの師岡が誰かの名前を呼ぶと。

「……はい」

 どこからか声が聞こえ、師岡の横の景色がまるで蜃気楼(しんきろう)のようにゆらゆらと揺れだし、それはすーっと袴を着た少女の形に変わっていく。

「神奈と申します」

 突然現れた少女は丁寧にお辞儀をして自己紹介をするが、目の前で起きたあまりにも現実離れをした出来事に真人はどう反応したらいいかわからず、現れた少女の顔を見ながら固まっていると、その少女の顔に見覚えがあるような不思議な感覚がした。

 すると神奈は一歩前に出て真人の手を掴んだ。

「……えっ?」

 手を掴まれた瞬間、真人は急に目眩に襲われたかと思うと、今朝目覚めてからずっと痛んでいた頭痛がゆっくりと引いていく。

 今まで経験した事のない奇妙な体験に、真人は事態がよく理解できず、神奈の顔と掴まれた手を交互に見ていると。

「あっ……、何で忘れてたんだ」

 今まで頭の中にかかっていた靄が晴れたかのように妙に頭の中がすっきりして、昨日、通路の先の神社で神奈に会った事を思い出した。

「昨日(さくじつ)、あなたは神域(しんいき)に迷い込んでしまい、そこで神威(しんい)に耐えられなくなり、現世(うつしよ)に戻った時のショックで神域での記憶を失ってしまったのでしょう」

 その様子を見ていた師岡が記憶を失っていた理由を説明する。

「……その神域とか神威っていうのは何なんですか?」

 説明の中によくわからない言葉があった。

「神域とは神様が住まう空間の事です。普段は我々のいるこの現世とは切り離されているのですが、ふとした切っ掛けで繋がる事があるのです。そして神威というのは神様の持つ力の事で、普通の人間なら触れただけで耐えられずに気を失ってしまうのですが、あなたの様に神域に自ら迷い込む人間は特別で、さらに神威にも耐えて意識を保っていられる人間は貴重なのです」

 師岡は申し訳ないと笑い、神域と神威の事を詳しく説明した。

「俺が……、貴重?」

 真人は師岡の説明があまりに常識離れした内容だったため、状況がよく理解できない。

 生まれてから三十数年間、誰かに必要とされた記憶などなく、それどころか迷惑をかける事の方が多かった。

 そんな自分を会ったばかりの人物に貴重と言われても、素直に受け入れられる訳がない。

「実は我々に手を貸していただきたくて伺いました」

 そんな真人の心情を知ってか知らずか師岡はかまわず話を続けた。

「……はあ」

 真人は話の内容についていけず曖昧な返事を返す事しかできなかった。

「実はあなたに神域の管理をお願いしたいのですが」

「……管理? どういうことですか?」

 突然訪ねてきた人に奇妙な体験をさせられ、神が実在しその神の住む場所を管理をしてほしいという話にますます頭が混乱してきた。

「今の神域はずいぶん荒れてしまっていて、誰かが行って管理をしなければならない状態でして」

「……なぜ俺が? よくわからないのですが、俺もその神威に耐えられなかったから気絶して記憶をなくしていたんじゃないんですか?」

 本来ならただの宗教の勧誘だと思いすぐに追い払うのだが、目の前で起こる現実離れした出来事に真人は冷静に考える事ができず、混乱する頭の中で疑問に思った事を素直に聞いてみた。

「はい、ですがあなたは普通の人間とは違い神域で直接神威に触れても意識を保っていました。記憶を無くしたのは慣れない神威に触れ続け、神域から解放され現世に戻った時のショックのためでしょう」

「何で俺なんかが……」

「あなたは神の加護を与えられていますから」

「……へ?」

 突然喋り出した神奈の言葉に真人は驚き、間抜けな返事をしてしまった。

「あなたは神様から強い加護を与えられていて、昨日はその加護に反応して神域への通路が開いてしまったようです。まだ、ここまで強い加護を与えられている人間がいるとは思ってもいませんでしたが」

 神奈の言葉に師岡が説明を付け加える。

「……神の加護」

「神様の加護というのはあらゆる災厄から守護する力で、神様が選んだ人間に与えるものです」

「なぜ俺に加護なんてものが?」

「それは加護を与えた神様にしかわかりません。今わかるのは貴方が強い加護を与えられた人間であるという事だけです」

 到底理解できない事に真人はどう反応したものかと考えていると、目の前で突然神奈が景色に溶け込むように消え、慌てて辺りを見回すと、遠くで座り込んで野良猫を見つめている神奈がいた。

「いきなりすべてを理解するのは無理でしょう。まずはどういうものなのか一度試してみてはいかがでしょう? 報酬もそれなりにお支払いできますが」

 内容はあまり理解はできなかったが、目の前で神奈が起こす不思議な現象が師岡の話が真実だと告げていた。

 ――だが、真人はその現象が理解できずに放心状態で考える事ができずにいた。

「いきなりの事なので考える時間は必要でしょう。明日の正午頃は御在宅ですか?」

 真人の様子を見て、今すぐ答えを聞くのは無理と判断した師岡は明日まで考えて決めてほしいと言い残し、遠くで野良猫を見つめ続ける神奈に声をかけ二人は帰って行った。


 翌日、正午。

 昨日、真人は師岡たちが帰った後に一人で冷静になっていろいろ考えてみたが、まったく理解できずにいた。

 昔のように神への信仰が深かった時代ならまだわかるが、今の日本で神が存在する様な事を言われても素直に受け入れられる人間はいないだろう。

 もちろん、それは真人も同じで、一人で考えても答えは全く出ず、誰かに相談しようにも、こんな事を相談できる知り合いもいない。

 もし、いたとしても内容が内容だけに相談しても騙されてると言われて笑われるのは目に見えてる。

 しかし、神奈という少女が目の前に現われて消えるのを真人は確かに見た。

 あんな風に体が透けて、景色に溶け込むように消えたり出たりする事なんて人間にできるはずがない。

 今朝、目覚めた時に夢だったのではないかとも考えたが、テーブルに置かれた師岡の名刺が昨日の事が真実だと証明していた。

 真人はこのまま悩んでても仕方ないので、それなら師岡の言うとおりどんなものか一度試してみて、それからいろいろ聞いて判断しようと考えていると玄関のチャイムが鳴り、開けると約束通り師岡が訪ねてきた。

「こんにちは」

 師岡は昨日と同じように軽く会釈をして、柔らかい笑みを向けてきた。

 真人が師岡に会釈を返し、きょろきょろと周りを見て神奈の姿を探していると。

「昨日は口で説明するよりも見ていただいた方が早いと思い、神奈さまに来ていただきましたが、今日は話の理解と確認をしていただきたいので、神奈さまがいては冷静に判断ができないのではと私(わたくし)一人で参りました」

 どうやら真人が話を理解できない事を予想していたらしく。

 それならあまり疑って話しても無駄と考えた真人は気になっていた事を素直に聞く事にする。

「あの子は一体何なんですか?」

 真人は一番気になっていた事を聞いてみる。

「神奈さまは神域の守人(もりびと)という神様の住まう空間を守っている方です」

「守人? ……何から守ってるんですか?」

「昔はそういう事も必要だったらしいのですが、今の神域は平穏そのもので危険な事はありませんから安心して下さい」

「……確か管理をしてほしいと言ってましたが、具体的に何をすればいいんですか?」

「基本的には荒れた家屋の手入れや伸び放題の雑草の草刈りなど、難しい事はありません」


 大工仕事や庭の手入れって事か。


「わかりました。ここでいろいろ考えてても仕方ないですし、一度試させてもらってもいいですか?」

 それくらいなら自分にもできるかも知れないと真人は引き受ける事にした。

「ええ。説明だけではわかりにくいでしょうから、そうしていただいた方がいいでしょう」


 提案を受け入れると師岡はさっそくと真人を連れて人気がない山の中にある小さな社に案内した。

「お待ちしてました」

 社の中から声が聞こえ格子扉を開けて出てきた神奈は真人の姿を確認して丁寧にお辞儀をすると、そのまま虚ろな目で真人を見つめて格子扉の傍らに立ち中に入るように促してきた。

「神域へはこうした社から入る事が出来ます。同じような社は全国に無数にありますが、それぞれ神域の別の個所に繋がっていますので、慣れるまではこちらの入り口を使って下さい」

 神奈に促され社に近づく真人とは違いその場に留まって師岡は説明をする。

「えっ……、ここから俺一人ですか?」

 当然、師岡も一緒に行くものだと思っていた真人は慌てて師岡に確認する。

「申し訳ないのですが私(わたくし)は神域には立ち入れないのです」

「じゃ仕事は誰に教われば?」

 いくら試してから決める事が出来るのだとしてもこの少女と二人で見知らぬ地に放り込まれるとなれば話は違ってくる。

 正直、真人には神奈が人に何かを教える事が出来るとは思えなかった。

「向こうに行けばいろいろ教えてくれる方がいるはずですので、その方に教わってください。貴方なら上手くやれるはずです」

 何を根拠に上手くやれると言ったのか、そう言って笑う師岡の顔はどこか寂しそうにも見える。

 その顔を見て真人は何か悪い事でも言ったのかと少しだけ罪悪感を感じたが、続けて笑顔を向けてくる師岡の顔を見たら何も言えなくなる。

「まだ、行きません?」

「あっ……、いや、……行きます」

 ずっと格子扉の傍らで待っていた神奈に声をかけられ、ここまで来て今さら引き下がれないと真人は腹を括り、師岡に軽く会釈をすると暗い社の中に足を踏み入れた。

 真人に続いて神奈も社に入ると格子扉を閉める。

 外から見た時は格子扉に日が当たり中にも光が入っているように見えたが、扉を閉めると日の光は一切中に入らず、暗闇の中で神奈の事だけが不思議とはっきり見える。

「気にする事はないですよ」

「……えっ?」

 扉を閉め暗闇を先導するように歩きだした神奈は前を見ながら話しかけてきた。

「師岡様は神域に入れませんので」

「気付いてたのか……」

 感情的な部分がないように思えた神奈が師岡の表情を察していた事に真人は少し驚いた。

 しかし、それでもそんな神奈を見ていると向こうでいろいろ教えてくれる方とうまく意思疎通がとれる気がしない。

 何より一番の不安は、普通の人間が立ち入る事の出来ない神域にいるという事は間違いなく人間じゃないって事だ。

 さすがに神に教わるなんて事はないだろうが……。

 そんな事を考えているとすぐに前方に明かりが見え、近づいていくとそれは入ってきた扉と同じ格子状の扉に外から光が当っているのだとわかる。


「着きました」

 光の漏れる格子扉を開け外に出る神奈に続いて真人が外に出てみると、入ってきた社と全く同じ形の社に出たのだが周りの様子はまったく違っていた。

 地形などは同じなのだが建物どころか道らしい道もなく、肩ほどの高さまで草が延びた荒れ野原が広がっていた。

 その光景に呆けているとガサガサと遠くの草が動き、草を掻き分けて何かが真人たちに素早く近付いてきた。

「何だ?」

 真人が声を出した瞬間、白い大きな影が草の中から飛び出し草むらの手前まで出ていた神奈に襲いかかった。

「なっ……⁉」

 倒れ込んだ神奈の上に覆い被さる様に、真っ白で大きな獣が真人を睨みながら唸り声を出して威嚇してくる。

「……っ!」

 殺される……。

 真人はその獣のあまりの迫力に逃げ出す事もできずにその場にへたり込んでしまった。

 直後、その獣がいるのとは逆の草むらから音がし、ゆっくりと大きな獣がもう一匹現れた。

 あまりの事態に真人は息を呑み、とにかく物音をたてない様に務めた。

 二匹を交互によく見ると、体高は人の背丈ほどもあり毛の色は真っ白だが違う種類なのがわかる。

 先に現れた獣は白い狼のようにも見えるが、後から現れたのは白い虎のように見える。

 白い虎は真人を見ても表情ひとつ変えずに白い狼に近付いていき、覆い被さった白い狼が退くと神奈を覗き込むように顔を近付けた。

「……大丈夫」

 殺されたかと思っていた神奈の声が聞こえ、白い虎の足元の神奈をよく見ると手で白い虎の顔を撫でながら語りかけ起き上った。

「……あっ、……神奈、……さん?」

 起き上がった神奈に二匹の獣は身体を擦り付け、白い虎はゴロゴロと喉を鳴らし、まるで神奈にじゃれついてるように見える。

「その二匹はいったい……?」

 二匹の獣は神奈に馴れているようだが、その身体の大きさに真人は緊張を解く事ができず同じ姿勢のまま神奈に聞くと。

「この子たちはここへの入口を守護する獅子神と犬神です」

「獅子神と犬神?」

 神奈は真人の方を向かずに目の前に並んだ二匹の目を見たまま答える。

「まさか……、俺を襲いに来たのか?」

「……今教えたので大丈夫です」

 二匹が頭を下げると神奈は立ち上がり二匹の頭を撫でてやる。

「……そうか」

 どう教えたのかよくわからないが、二匹からは先ほどまでの険しさは失せ、まるで飼い馴らされた犬猫の様に見える。

 真人はその様子を見ながら、もし神奈がおらずここに一人で来ていたらと想像し身震いがした。

「それと私の事は神奈で、敬称は要りません」

 神奈はじゃれつく二匹に多少されるがままになりながら、真人が自分の呼び方に戸惑っている事がわかったのか、自分を呼び捨てるよう真人に要求する。

「あ……、しかし、師岡さんがさまをつけてるのに、俺が呼び捨てにするわけにも……」

「要りません」

 神奈にまっすぐに見つめられながら言われ、真人は何も言えなくなる。

 正直、何と呼ぶべきか困ってはいたが、いきなり呼び捨てなんかにしてしまってよいものか悩んだが、神奈本人が望んだのだからかまわないだろうと、真人はそれ以上考えるの止めた。

「では、付いて来て下さい」

 真人が納得したのを確認すると、神奈は先程までの凶暴性はすっかりなくなった獅子神に跨がり、その横に犬神が並ぶと揃って進みだした。

 真人は慌てて後を追うように神奈と二匹の後を追いかけた。


 社があった荒れ野原から神奈たちに付いてしばらく歩くと、一軒の日本家屋が見えてくる。

「あれは?」

「私たちの家です」

 どこまでいっても変わらない景色の中、目の前にぽつんと建つ一軒家を見つけ真人が聞くと、神奈はそう答え。

「……まじで⁉」

 家の目の前に着き、改めて家を見た真人は驚きの声を上げる。

 その家は多少荒れてはいるものの瓦屋根に家の周りをぐるりと廊下が囲んでいて、ちょっとした料亭でも開けると思えるほど立派な日本家屋だった。

「ずいぶん立派だな、他には誰が住んでるんだ?」

 先ほど神奈はこの家を『私たちの家』と答えた。という事は少なくても神奈以外の誰かがここに住んでおり、今ここに来れる人間が真人しかいないという事は、その誰かは間違いなく人ではないため、真人はそれがどんな者なのかが一番の気がかりだった。

「私の他には宇迦(うか)と御饌(みけ)が住んでいます」

「宇迦と御饌?」

 その二人が師岡の言っていた教えてくれる方なのだろうか?

「ただいま」

 獅子神から降り玄関に向かって神奈が声をかけると。

「お帰りなさいませ。神奈さま」

 神奈の声を聞いたか聞かないか、まるで帰って来たのをわかっていたかの様に玄関の引き戸が開き、黒い着物と白い着物を着た二人の綺麗な女性が姿を見せた。

「……あら?」

 真人を見て二人の女性は口元を隠し、黒い着物の女性は驚きの声を上げ、白い着物の女性は無言で共に微笑む。

「あっどうも、はじめまして……」

 二人の反応に真人は畏まり自己紹介をしようとすると。

「真人さまですね。まあ立ち話もなんですから、どうぞ中へ」

 真人は初めて会う二人が自分の名前を知っている事に少し驚いたが、これから自分たちの元で働く人間の事を事前に聞いているのは当り前なのかと納得した。

「お邪魔します」

 真人は和服姿の綺麗な女性二人を目の前にして緊張して思わず声がうわずってしまう。

 清純な少女のようで近寄りがたい神奈とは違い、二人は着物を着た綺麗な大人の色気を持っており別の意味で緊張してしまう。

「こちらで少々お持ちください」

 二人は床の間のある立派な和室に真人を案内すると、テーブル横に用意した座布団に座って待つように言って和室を後にする。

 真人は言われたとおり座布団に座ると室内をきょろきょろと見渡す、かなり年季の入った建物のようだが隅までとても奇麗に掃除されている。

 そんな事を考えていると部屋の外から何やら物音が聞こえ、障子を開いて外を見ると池のある立派な庭に獅子神と犬神が寝ているのが見えた。

 最初に見た時は警戒されていたのかとても怖く見えたが、今はその警戒も解けたのか二匹は真人に気づいても気にせず眠り続けた。

 もっとよく見ようと真人が障子から顔を覗かせて見てみると、その二匹の間で守られるように神奈が眠っているのが見えた。

「また神奈さまはあんなところで、現世に長い事いてよほど疲れたのでしょう」

 黒い着物の女性がお盆を持った白い着物の女性と共に廊下をこちらまで歩きながら神奈を見て呆れたように言う。

 真人がそれに気づき顔を引っ込めて用意された座布団に座り直すと、二人も部屋に入りテーブルの反対側に座り、姿勢を正してそのまま真人に向ってお辞儀をする。

「えっ⁉ ……あっ、あのっ……!」

 突然の事態にどうしていいかわからず真人が焦ると。

「ようこそお待ちしておりました」

 頭をあげた黒い着物の女性がそう言うと、二人は真人に向って微笑む。

「あっ……、いっ、いえ!」

 二人の様子を見て、真人は慌ててテーブルに頭をぶつけない様に座布団から後ろに下がり、二人と同じように深々と頭を下げた。

 真人が焦っている様子を見て、二人はともに微笑み。

「私(わたくし)は宇迦、こちらは御饌と申します」

 白い肌と背中まで伸びた白い長髪に白い瞳で黒い着物を着たどこか神秘的な女性は宇迦、対照的に隣の白い肌に肩くらいの長さの黒髪で黒い瞳に白い着物を着た怪しい雰囲気の女性は御饌と名乗り、お盆のお茶を勧めてきた。

「さっそく仕事の話をさせていただきたいのですが、師岡様からはどこまで聞いてますか?」

「あっと……、神域の管理? をして欲しいとだけ……、後はこちらにいろいろ教えてくれる方がいると」

 真人は宇迦に聞かれ、師岡に言われた事をそのまま伝える。

「あら、ではこちらで何をするのかは全く聞いてないのですね?」

「はい……」

 言いながら御饌と顔を見合わせる宇迦を見て、少し居心地が悪くなる。

「この神域は神々が住む空間なのですが、もともと自然が広がるただの空間だったのを人間の職人を呼び寄せ開拓させていたのです。ですが、この神域に入れる人間は次第に少なくなり、今では入れる人間がいなくなってしまい神域はだいぶ荒れてしまったため、真人さまには荒れた神域の修繕をお任せしたいのです」

 宇迦の話で仕事の事は何となく理解できたが、気になる箇所があった。

「今はここに入れる人間がいなくなったと言いましたが、俺はなぜ入れてるんですか?」

「真人さまは普通の人間とは違い神から加護を得ていますので」

「……普通の人間と何が違うんですか?」

「元々この国は神々が放つ力が大地や自然に宿っており、島国のためその力は散らずに人間はその力を作物や水を介して得ていました。その力を得た人間は我々を認識したり、この神域に入る事ができる人間もいて、何人かの職人や技術者に来ていただき、土地を開拓していただいたのですが、その力は弱く定期的に力を得なければ元から消えてなくなってしまうようで、他国のものを口にする事が増え、気づいた頃には力を失っていたのでしょう。五十年ほど前の師岡さまたちを最後にここに入れる人間はいなくなってしまいました」

 そう説明する宇迦の話に真人は気になるところがあった。

「……あのっ、お二人はその……五十年前の師岡さんを知ってるんですか?」

 見知らぬ世界に着いて早々犬神と獅子神という獣に襲われかけ、そんな中、頼れる存在が神奈だけで不安になっている時にやっとまともに話ができる相手に出会った事で、真人はすっかり忘れていたがここは人間が入れない場所。

 改めて目の前の二人を冷静になって見ると、髪と瞳と着物の色がそれぞれ対照的で何か普通じゃない不思議な違和感を感じた。どう見ても二人は異質な存在に見える。

「師岡さまは、かつてここで真人さまと同じように仕事をされていた方です。つまり真人さまの先輩ですね」

「お二人は神様なんですか?」

「……私たちの事は慣れてからでもいいと思ったのですが、そうですね。疑問を残したままでは仕事もしにくいでしょうし、隠す事でもありませんから」

 真人の言葉に質問の意図を理解したのか宇迦が笑いながら言うと、宇迦と御饌は咳ばらいをしながら姿勢を正した。

「改めまして、私は宇迦之御魂(うかのみたま)、こちらは御饌津(みけつ)といいまして、稲荷(いなり)でございます。

わかりやすく言えば狐ですね」

「稲荷の狐?」

 稲荷と言えば誰でも知ってる。狐の神様であり、もしかしたら日本で一番有名な神様だ。

 昔はその神社で悪戯をして祟られたり、鳥居を移転しようとして事故があったという話もある。

 言われてから改めて二人を見ると、何とも説明のしようもない異質なものに見える。

 なぜ普通に接する事が出来ていたのか真人は不思議だった。

「どうぞお気になさらず。神とは言われていますがそんな大したものではなく、我々も神に仕える身であって本物の神には足元にも及びませんから」

 この仕事を引き受けた時に理屈では理解していたのだが、まだ神が実在する事すら受け入れきれていない状態で、目の前にいる二人が稲荷だと言われ真人の頭はますます混乱していた。

「……昔から稲荷と言えば祟りや呪いが起きるとよく聞きますが、お二人はそれと関係あるんですか?」

 正直、稲荷と聞いて恐怖もあったが、気にしなくて良いと言うので真人はこれからの事を考え思い切って気になる事を聞いてみる事にした。

「私たちの様に特殊な力を持つ獣はたくさんおりますから、多くはそこに住み着いた力を持つ獣の仕業でしょう。どんなものでも自分の住処を奪われようとすれば怒ります。我々稲荷は普通の神ほどの力はありませんから、すべての稲荷神社に影響を及ぼすほどの力はありません」

 稲荷神社で祟られたからってそれが稲荷の仕業とは限らないって事か。

 宇迦の説明を聞いて真人は肩の力を抜いて少しだけ安心する。

「ご理解いただけたなら仕事を始める前に、一つだけ」

 真人の様子を確認すると宇迦は口元を袖で隠して笑い、話を続けた。

「神奈さまにも言われていると思いますが、我々に敬語や敬称は不要です」

 宇迦は庭で眠る神奈を見ながら言う。

「それは……、確かに言われましたが、さすがに神様と言われている二人を呼び捨てにするのは……」

 本物には足元にも及ばないと言うが、真人は神と言われる存在を、はいそうですかと呼び捨てにするのは気が引けた。

「神といってもいろいろいますから、人間が尊い敬えるような神はごくわずかで、ほとんどの神は人間以上に自分勝手で我儘です。それに真人さまは我々のために来て下さったのですから、我々が真人さまに敬語や敬称を使うのが当然です」

 宇迦に神奈と同じく、まっすぐに目を合わせながら言われ、真人は何も言えなくなってしまう。

「では、さっそく仕事の説明をさせていただいてもよろしいですか?」

 その様子を見て宇迦は立ち上がり部屋から廊下に出ると、真人に一緒に来るよう身振りで合図する。

 このあとようやく仕事か……。

 どうなる事やら。

 今までの事を振り返り、真人は自分がここでうまくやっていけるのかと疑問に思った。


 仕事を始めて一ヶ月後。

「ふう……」

 神域の中はかなり荒れていて、誰も行かないようなところはすべて肩くらいまで雑草が伸び、そこにある建物はずいぶんと痛んでいた。

 真人は宇迦が用意してくれた作務衣を着て、汗だらけになりながら雑草を切り開き、その中心にある建物の上で屋根の修理をしていた。

「真人さま」

 建物の下で様子を見ていた宇迦が汗だらけの真人を見て真っ白な手拭いを差し出してくれる。

「ああ、ありがとう」

 真人は建物に立てかけられた梯子を使って下に降りると、宇迦から手拭いを受け取り汗を拭う。

「最近ようやく慣れてきましたね」

 始めはぎこちなかった言葉づかいも畏まる度に注意され。

 半月も経つと自然になり、一月経った今では完全に真人が主のようになっていた。

 もちろん、普段の振る舞いや仕事を手伝ってもらう際は、三人を無下に扱ったりはしないが、宇迦と御饌はそれでも不満らしく、何かにつけては真人を立ててくる。

 真人が首の汗を拭いながら切り株に腰掛け一休みすると、宇迦は無言で水筒を差し出す。

 形は古いがとても立派な木製の水筒で、日本の伝統工芸って感じがする。

 一ヶ月間いろいろ見てきたが神域には立派な作りの物が多い。

 食器類は漆塗りのものや焼き物ばかり、家具や生活道具もよく見るとすべて立派であり。

 特に家は、一見何の変哲もないように見えるが釘などの金属を一切使っておらず、よく見るととても丁寧な作りのもので下手に手を出せば逆に痛めてしまうと思えるほどだ。

 ここを開拓した職人や技術者が当時の持てる技術のすべてを使って神様へ最高のものを贈ったのだろう。


 それだけ昔と今では神様に対する考え方が相当違ったのだろう。

 神と言えば……。

「なあ、ここって神の住むところなんだよな?」

 真人はここにきてからずっと疑問に思ってた事がある。

 二人以外に神というものを見た事がないのだ。

 ここ一ヶ月、神域の修繕のために何ヵ所か出歩いたが、神どころか神奈と宇迦と御饌、後は獅子神と犬神以外の生き物に出会った事がない。

「ええ、人間の世界に居を構えている神もいますが、それでもここには多くの神が住んでいますよ」

「その神というのは、もしかして俺には見たり認識する事はできないのか?」

「……そういえば詳しい説明はまだでしたね。ここでは神は皆眠りについています。住んでいるというよりここに休みに来ていると言った方が正しいですね。ここは神の寝所ですから」

「寝所……。じゃここにいる神ってのは皆寝てるのか?」

「はい。真人さまが家で寝て、起きて外に出ていくのと同じように。神もここで寝て起きると外に出ていくという事です」

「……それでも俺は寝ている神や寝所らしいものを見た事がないぞ?」

「ここで神の寝所に近づけるのは神奈さまだけです。我々はおろか神同士も他の神の寝所に近づく事はありません」

「じゃあ、俺がこの一ヶ月間修繕してきたところは何なんだ?」

「真人さまに修繕していただいてるのは、すべて私達のために用意された領域です」

 真人はこの一ヶ月間かなりの範囲の修繕をしたが、一番遠い場所へは歩いて数時間かかる。

 実はとんでもない仕事を引き受けてしまったのではないかと考え身体から気が抜けると、ぐぅっと真人の腹が鳴る。

「ははっ、御饌は夕飯の準備か?」

「くすっ……、ええ」

 真人が照れながら言うと、宇迦は口元を隠しながらくすくすと笑って答える。

 最近知った事だが稲荷というのは穀物・食物を司る神と言われるくらい食べ物に詳しく。この神域でとれる少ない材料で、見事な料理を作り上げる。

「そろそろ暗くなるし、今日はここまでにするか」

「はい、お疲れ様です」

 真人は水筒の蓋を閉め仕事道具を片づけながら宇迦に声をかけると、宇迦は笑顔で応えて片づけを手伝い家へと向かった。


「ただいま」

 家に着き奥で夕飯の準備をしているであろう御饌に帰った事を知らせる。

 すると奥からトコトコと早足で近づいてくる音が聞こえ御饌が玄関に駆け寄ってくる。

 炊事の途中だったのか紐でたくし上げた着物の袖を解きながら出てくると真人から水筒や手拭いを受け取る。

「ありがとう」

 御饌に礼を言い居間に移動するとテーブルにはすでに夕飯が用意されており美味しそうな香りが食欲をそそる。

 テキパキと夕飯の準備を進める御饌を横目にテーブルに並べられた色とりどりの料理の数々に真人は生唾を飲み込む。

 小さな頃から食事は空腹を解消するためのもので楽しみにした事はあまりなかった。

 しかし、ここにきて御饌の用意した料理を食べてから真人は食事が楽しみになっていた。

 すべての用意が整ったのか御饌は食事時の定位置に座りお盆を横に置くと真人を見て微笑む。

 御饌は必要な時以外全く喋らない。

喋れないというわけではなく、宇迦の話では御饌の声には言霊というものが宿っており発した言葉が現実の事象に対して様々な影響を与えてしまうらしい。

 その影響は御饌にもわからないらしく喋ると何が起きるかわからないので喋らないようにしているらしい。

 身支度を整えた宇迦もテーブルに着くと神奈の姿が見えない。

「そういえば。最近、神奈や獅子神と犬神をあまり見ないな」

 仕事を始めたばかりの時は用もないのに近くをうろついていたが次第に見かける回数は減り、最近では家でたまに見かけるくらいで顔を合わせる事はほとんどない。

 何か嫌われる事でもしたのだろうか……。

 真人がきょろきょろと神奈の姿を探しながら席に着くと。

「神奈さまは最近何やら忙しいようで、先にいただきましょう」

 その様子を見た宇迦は、お茶を入れた湯呑を真人の前に置きながら言うと料理に向かって手を合わせる。

 それに倣って御饌も手を合せ真人の号令を待つ。

「……いただきます」

 真人の号令で宇迦と御饌の二人はお辞儀をして食事を始める。

 これは何回やっても慣れないな……。

 二人にとっては真人の方が上になるらしいが、どうしてもそれだけは受け入れる事が出来なかった。

 自分に何か特別な力があるならわかるが、真人のしている事は日曜大工と大差なく、そんな自分の方が上になる事は真人には受け入れられなかった。

 真人にとってはここへは仕事をしに来ているのであり、二人はここでの真人の仕事以外の生活などすべての面倒を見てくれているのだから感謝はしても下に扱えるわけがない。

「神奈もいる時に話そうと思ったんだがな……」

 食事をしながら二人に話しかける。真人は前から考えていた事が最近ようやくまとまったので神奈と宇迦と御饌が揃った時に話そうと思っていた事があった。

「どうなさいました?」

「……」

 真人の言葉に宇迦と御饌が箸を止め、話を聞こうと畏まる。

「実は、一度帰ろうと思うんだが……」

 二人の態度に、話さないわけにもいかなくなり、真人は箸を置いて考えていた事を話す。

「……何故です! 何かご不満がございましたでしょうか⁉ もし私たちに不手際があるようでしたら……」

「……」

 真人の言葉を聞いて真剣な顔をして詰め寄ってくる宇迦の肩を御饌が掴んで落ち着くよう制止する。

「違うんだ。ここへはどんな仕事か一度試してみて、それから本当に働くかどうか決めるって話で来たから、一度戻ってこれからも働きたい事を師岡さんに話す事と、何の準備もしないで来てしまったから、長い事こちらにいても大丈夫なようにいろいろ準備をしてきたいんだ。伯母にもこの一か月連絡をとっていなかったから、もしかしたらかなり心配させてるかも知れない」

「……そういう事ですか」

 説明すると宇迦は、ほっと胸をなでおろして落ち着いた。

 真人はここに来てから宇迦と一緒に行動する事が多かったが、それは言葉でしか意思疎通ができない真人のために仕方なく宇迦がそばにいる様にしているのだと思っていたが、宇迦の意外な反応にそういうわけでもないようだと真人は少し驚いた。

「こほん……お戻りはいつ頃に?」

 宇迦は取り乱した事を誤魔化すように軽く咳払いをして姿勢を戻すと何事もなかったかのように聞いてきた。

「……取り合えず、いろいろ済ませると戻るのは翌日になるかな」

「畏まりました」

 宇迦が笑顔で承諾すると、その背後で様子を見てた御饌がくすくすと笑っていた。

 師岡さんにはこの仕事を紹介してくれたお礼もしないとな。

 そんな事を考えていると、真人はここに来る時の師岡の寂しそうな表情を思い出した。

「そういえば師岡さんはここにいる時はどんな感じだったんだ?」

 真人はあの師岡の表情はここで何かがあったのが原因ではないかと思って聞いてみた。

「師岡さまですか?  さあ、師岡さまは若い時にここに来る職人たちの弟子として一緒に来ていたと聞いてますが、あまり気にしていなかったので」

 そう答える宇迦の肩に御饌が手をそっと乗せると、どこかを指差して立ちあがった。

「……何か知ってるのか?」

 真人は宇迦と顔を見合せ御饌に聞いてみると御饌は立ち上がり居間を出て外に向かう。

 よくわからないまま御饌の後に付いていくと、御饌は外にある大きな山桜の前まで行き上の方を指差す。

「ん~……」

 真人と宇迦が御饌の指差す先を見ると、桜の枝に何かが引っ掛かっているのが見える。

「あれは金槌……、いや木槌か」

「木槌……、ああ……、もしかしてあの時の少年が……」

 宇迦は自分に確認するように呟く。

「何か思い出したのか?」

「ええ、確かに昔、何人かの職人に付いて若い少年が一緒に来ていた事があったのですが。その少年が木槌を誤ってこの桜の枝に引っ掛けてしまったらしく。怒られると思ったのか誰にも見つからないように一人で登って取ろうとした際に足を踏み外して落ちてしまい、倒れていたのを御饌が見つけて何日か介抱した事があったのですが……」

「それが師岡さんだったと?」

「おそらく、それからその少年は御饌の事が気になって仕方がなかったようでいつも御饌の姿を目で追っていて」

 真人は師岡がもう会えない御饌の事を思い出してあんな表情をしたのだと納得した。

 罪悪感を感じた師岡の表情を思い出して少し顔を合わせづらいと思っていたが原因が自分じゃないとわかって真人は安心した。

「すべての作業を終えた最後の日、ここを去る前に御饌にその想いを伝えたのですが御饌は首を横に振るだけで……。師岡さまは立派になってまた必ず会いに来ると諦めなかったのですが、師岡さまがどうかなさいましたか?」

「いや……、そういう事なら別にいいんだ」

 大人の女性に子供が憧れるという、よくある事だと真人は納得した。

「そうですか。いつ頃発たれますか?」

「そうだな~……」

 空を見るともう日が暮れかけていた。

「明日の朝かな。今からじゃ時間的に、向こうに着いても何もできないだろうからな」

「かしこまりました。ではお食事に戻りましょう」

 宇迦が笑顔で言うと、二人は両脇から真人の腕に手を絡め一緒に食事に戻った。


翌朝。

「こんなものか」

 玄関から外に出ると真人は自分の荷物を確認する。

 元々すぐ戻ると思っていたので大した物は持ってきてはなく、来る時に持っていた財布や電波が届かないため、ずっと電源を切っていたスマホをポケットに入れ準備を済ませる。

「お気をつけて」

 一緒に準備を手伝っていた宇迦は真人の背後にまわり袖を通した私服の乱れを正してくれる。

「御饌は?」

 宇迦に聞くと同時に御饌が風呂敷に包んだ荷物を抱えて家から出てきた。

「これは?」

 真人が聞くと御饌は荷物を持ったまま風呂敷を解き、包まれていた重箱の中身が真人に見えるように蓋を開けて見せる。

「わざわざ作ってくれたのか」

 見ると重箱の中には、御饌の作った料理の中で真人が美味しいと言っていたものばかりが入っている。

 朝から台所で御饌が慌ただしく何かをしているのを見ていた真人は、自分のために朝早くから料理を用意してくれたのだとわかり喜んだ。

「ありがとう」

 お礼を言うと御饌は微笑み、風呂敷で包みなおした重箱を真人に持たせてくれた。

 社まで見送るために三人でこの一ヶ月間真人が手入れをした道を歩いて向かう。

 肩ほどの高さまで草が延びただの荒れ野原となっていた所は、すべての草が刈られ元々あった道がはっきりとわかるようになった。

 我ながら一か月でよくここまでできたものだと真人は自分が手入れした道を確認しながら歩いた。

 そんな事を考えながら道の先に社が見えてくると初めて獅子神と犬神に出会った広場に差し掛かる。

 途中で神奈に会えるかも知れないと真人は少し期待をしていたが結局会う事はできなかった。

「神奈さまは今日も忙しいようで……」

 真人の考えがわかったかのように、宇迦が申し訳なさそうに言う。

「すぐに帰って来るし、いいさ」

 本音を言えば少し寂しかったが、すぐに戻ってくるのだから気にする程でもないかと真人は神奈に帰る事を伝えるのは諦めた。

 社の扉を開き「行ってらっしゃいませ」と揃ってお辞儀をする二人に見送られ真人は社の中を進んだ。

 真人がしばらく暗闇の中を進むと前方に格子状の光が見えてくる。

 この社は神域と現世を往来できるものが入ると出口だけが光るようにできているらしく一人でも迷う心配はないそうだ。

 光の漏れる格子扉を開け社の外に出ると遠くにあるビルや道路などが見え、一ヶ月しか経っていないのに妙に懐かしさを感じた。

 時間を確認しようとスマホの電源を入れると画面にすぐ留守番電話が二件ある事を知らせる表示が出る。

 一件目は、約一週間ほど前に師岡からで、神域から戻ったら連絡してほしいとの内容。二件目は、三日前に伯母からで、いつものようにちゃんと生活できているか心配する内容だった。

 取り合えず、まずはすぐに連絡しなければ面倒になりそうな伯母にその場で電話をかける。

「真人! あんた生きてるの⁉」

 スマホの表示で真人からだとわかったのか、開口一番大声で名前を呼ばれ真人は思わずスマホを耳から遠ざける。

「ちょっと仕事が忙しくてなかなか連絡ができなったんだ。大丈夫だから」

 これからやる仕事が忙しくて、たまにしか連絡できない事と危険なわけではないので心配はない事を伝えて電話を終える。

 伯母の家に住んでいた頃は何かにつけては口を出してくるのが嫌でたまらなかったが、一人暮らしを始めてからは唯一の肉親という事と家を出た後も変わらず心配してくれる伯母の存在がとてもありがたかった。

 師岡の方は落ち着いてからの方が良いだろうと後にする事にして家に戻った。

 家に戻り着替えや必要なものを用意した袋に詰め込み不必要な電源やコンセントを抜いて、しばらく帰らなくても済むように家の中を確認する。

 確認が終わり充電していたスマホを見るとちょうど充電も終わっていた。財布から師岡の名刺を取り出し、名刺に書かれた番号に電話する。

 数回コール音がした後、電話に出た師岡に戻って留守番電話を聞いた事を伝えると、これからの事など色々話したいので今から家に行ってもいいかと聞かれ真人も師岡にこの仕事をこれからも続けたいと伝える必要があったので二つ返事で了承した。

 案外職場がこの近くなのか、一時間もかからずに師岡は真人の家にやってきた。

「どうも、お久しぶりです」

 家にきた師岡は真人に丁寧にお辞儀をするとやわらかく微笑んだ。

「お久しぶりです。どうぞ上がって下さい」

 玄関先で長々立ち話させるのも申し訳ないと師岡を居間に通して真人がお茶を用意していると。

「この一ヶ月試してみてどうでしたか? 何もない所なので仕事以外のあちらでの時間は退屈だったのでは?」

 師岡はさっそくと仕事の感想を聞いてきた。

「いえ、今までは何をするでもなくただ毎日を無意味にだらだらと過ごしていただけでしたから」

 大げさかもしれないが、真人はこの仕事に出会って初めて生きている実感が持てた。

「なので、これからもこの仕事をやらせて下さい」

 もう、前と同じ生活に戻りたくないと真人は真剣に師岡に頼んだ。

「そうですか、それは安心しました。実はもう何年も神域に行ける人間はいなかったので、こちらからお願いしておきながら、現在あちらがどうなっているのか誰にもわからなかったので。神奈さまから心配はないと伺ってはいたのですが、もしかしたら何か危険な事があるのではと……、本当に申し訳ありません」

 言い終わると、師岡は頭を下げた。

「いえ、そんな……、危険な事なんて何もありませんでしたから、それにこの仕事を紹介してもらって感謝もしています」

 真人は申し訳ないと頭を下げる師岡の言葉を慌てて否定し、感謝している事を伝えた。

「これから正式に神域の管理を行っていただけるという事で、すべてをお話しして、それから改めて引き受けるかを決めていただきたい」

 先ほどまでの笑顔だった師岡が厳しい顔つきに変わったため真人は真剣な話なのだと考え身を引き締めて聞く準備をした。

「まず、われわれ神社庁についてですが……」

 師岡の説明によると神社庁とは神社本庁の地方機関であり全ての都道府県に一つずつ設置されている。また名称からよく国の機関と思われるがそうではないらしい。

 神社庁は神社の人事財政や神社・神職の指導、祭祀・地域活動などを行っており事務所はほとんどが比較的大きな神社の境内または隣接地に置かれている。

そして神社庁の中で神域の事を知っているのは限られたごくわずかの人のみで、ほとんどの人は神域どころか神の存在にも気づいてない人ばかりなんだとか。

なので師岡など神域関係の仕事をしている部署は神社庁からは独立して活動を行っているという。

「……と、我々の事についてはこれくらいでしょうか」

 神社庁についての説明が終わると師岡は出されたお茶を一口飲み。

「ここからが本題なのですが、神域におられる神様をどう思われましたか?」

「……そうですね。確かに見た目は普通の人間とは違いましたけど話してみるとみんなとても親切でしたよ」

 師岡からの突然の質問に真人は神域での生活を思い出しながら笑顔で答えた。

「では、特に人間に危害を加えようという傾向はありませんでしたか?」

「……どういう事ですか?」

 真人には師岡の言葉の意図が理解できなかった。師岡がまるで宇迦や御饌を疑ってるような事を言ったのが真人には信じられなかった。

「危害なんて……そんな事あるわけないじゃないですか!」

 真人は宇迦や御饌が疑われた事に苛立ち、思わず語尾を強めてしまい言い終わるとすぐに我に返ったが、師岡の発言を許す事ができないため謝らずにそのまま師岡を睨みつけた。

「神様とはいったい何なのか考えた事はありますか?」

 師岡は真人が怒る事を予想していたのか真人の態度は意に介さず話を続ける。

「何なのかって、……それは神社などで人間に信仰されていて時には助けてくれたり……」

 真人は明確な答えを思いつかず世間一般的な考えを答える。

「神域で初めて宇迦様や御饌様を見た時どう思われましたか?」

「確かに思っていた神様のイメージとは違って違和感は感じましたが、危害を加えるような感じはありませんでした」

 淡々と師岡に質問を繰り返され真人は落ち着きを取り戻してくる。

「宇迦様や御饌様は人間に好意的ではありますが、神域では様々な神様が眠りについておられます。神社などに祀られ人々に恩恵をくださる神様はごく一部でほとんどの神様はいい加減で気に入らないというだけで災厄を起こしたり、過去には邪神、暴神、悪神など、直接人間に危害を加え恐れられた荒ぶる神様も眠っておられます。神域へ立ち入れない人間にとってはそれらの神様が実在しているという事は恐ろしくもあるのです」

 師岡の話を聞きながら真人は宇迦が神域は神の寝所だと言っていた事を思い出す。

「これからは仕事をしながら人間に危害を加えるような神様が眠りから目覚めないよう管理していただきたいのです。もし荒ぶる神が目覚めその力を使えば、世の中を混乱させたりその気になればこの世を滅ぼす事も容易いでしょう」

「じゃあ、俺に管理と修繕をさせた本当の目的は修繕よりもその管理をさせるのが目的だったって事ですか?」

「申し訳ありません。しかし我々にも貴方に頼る他に手立てがなかったのです。唯一我々と繋がりがある神奈さまは神様のための存在ですので」

 真人は頭を下げながら謝罪をする師岡の言葉に気になる部分があった。

「神奈が神のための存在ってどういう事ですか?」

「神奈さまは神様が神域の守人をさせるために創り出された方です。名前の神奈というのは『神の』という意味からそう呼ばれるようになったらしく本当の名前ではないと聞いております」

 神奈が神のために創り出された存在であるという事はつまり神奈は自分のために生きる事はできないという事ではないのかと真人には思えた。

「これからは神域に何か変化があればすぐに私(わたくし)に知らせて下さい」

そう言うと師岡は真人に向かって深々と頭を下げ帰って行った。


 師岡が帰った後も真人はまだ頭の整理がつかなかった。

 確かに師岡の言う事も理屈では理解できる。普通の人間にとって言い伝えどおりの神が実在してそんな力を持っているとなれば怖くもなるだろう。

 ――だが、宇迦と御饌しかわからない真人にはどうしても素直に受け入れる事が出来なかった。

 真人は師岡が帰った後から日が暮れ始めるまで考え続けていたが、いくら考えても答えは出ず、現状ではこのまま考えていても答えは出ないと結論し、しばらく様子を見る事にして明日のために早く寝る事にした。


 翌日。

 何やら予感がして、朝早くに急いで着替えやちょっとした日用品を鞄に詰め込み神域へ繋がる社に向かう。

 社に着くと日はすっかり昇っていた。

慣れた様子で真人は社の格子扉を開け、しばらく暗闇の中を進むと前方に格子状の光が見えてくる。

 そのまま歩みを進めていると急に目眩がし、頭を抱えてよろけると前方に見える格子状の光が突然歪み、ふたたび元の形の戻ると扉から漏れる光が赤く変わっている事に気づく。

 不思議に思いつつ真人が社の外に出ると空は血のように真っ赤に変わっていて、辺りは禍々しい空気に満ちていた。

 何が起きたのかと辺りを見回すと手入れをしたはずの雑草も再び伸びていて、そこが違う場所だとすぐに気づいた。

 ここにいたら駄目だ。

 真人は本能的に危険を感じ出てきた社から戻ろうと格子扉に手をかけるがビクともしない。

「くそっ、どうなってるんだ⁉」

 思わず悪態をつくと再び何があったのかと辺りを見回し考えを巡らすが、真っ赤な空以外は初めて神域に来た時に見た出口の社とあまり違いはないが高く伸びた雑草の奥に道がある事がわかる。

 一刻も早くここを離れたい真人は雑草を掻き分けその道に駆け込む。

 駆け込んだ先は見慣れない場所で、どうにかして神奈たちの元に向かおうと彷徨い続け、中央に大きな大木がある開けた場所に出ると突然大木の前に禍々しい人影が現れ、すぐに景色に溶け込むように消えてしまった。

 一瞬だったがその人影のあまりの禍々しさに身震いし、その場を動けなくなった真人が辺りをきょろきょろと見回していると、遠くから獅子神に乗った神奈とそのすぐ後を犬神がこちらに向かって走ってくるのが見えた。

 それを見て安心した真人の体から自然と力が抜けると。

「……やっと……来てくれた……」

 誰かの声が囁くように直接真人の頭の中に響くと急激に意識が遠退き、視界が狭まりそのまま真人は気を失ってしまった。


「真人さま!」

 自分を呼ぶ声で真人はなんとか意識を取り戻し眼を開けると宇迦が膝枕をしながら御饌と一緒に真人の顔を心配して覗き込んでいた。

「くっ! ……」

 真人はまるで初めて神域に迷い込んだ時のように激しい頭痛に襲われ、苦しみながら周りを見渡していると初めて来た場所のはずなのに不思議と見覚えがある気がした。

 違う……初めてじゃない。

 真人は以前にもここに来た事がある事を思い出した。

 確か子供の時……、毎日のように……、ここに来てた……。

 何で忘れてたんだ?

「とにかく今はここを離れましょう」

 珍しく焦る宇迦たちは呆然とする真人を獅子神の背に乗せると御饌が横に寄り添い急いでその場を離れた。

「なんでそんなに焦ってるんだ? あそこは何なんだ?」

 真人は宇迦たちの様子に、なぜそんなに焦っているのか気になり、まだ痛む頭を抱えながら聞いた。

「あちらは大屋津姫命(おおやつひめ)さまの寝所です」

「大屋津姫命?」

「大屋津姫命さまは樹木の女神でこの国に木種を撒き緑豊かな国にした女神だったのですが、いつからかご自分の寝所に籠られ、以来姿を見た者はおりません」

 真人はあの囁く声や一瞬現れた禍々しい人影がその女神なのかと、さっき見た禍々しい姿を思い出し再び身震いした。

「真人さま!」

 その様子を見て宇迦が心配して真人を気遣うように声をかける。

「ああ……大丈夫だ。それよりなんで神域への入口が変わってたんだ?」

「どうやら真人さまがこちらに来るのに合わせて大屋津姫命さまがご自分の寝所近くへ入口を無理矢理繋いだようで、こんな強引な事をする神は初めてです」

「俺が来るのに合わせてって、俺と何か関係あるのか?」

「わかりませんが、今はとにかくここを離れましょう。ここはまだ大屋津姫命さまの領域なので留まっていては危険です」

 真人はそのまま獅子神の背に乗せられ、なんとか大屋津姫命の領域を抜け出すと自分たちの家まで戻った。

 家に着くと真人は御饌の入れたお茶を飲み干し頭痛が治まると落ち着きを取り戻した。

「教えてくれ宇迦、その大屋津姫命というのは俺と何か関係あるのか?」

「……実は真人さまがこちらに来られて以来、神域の一部で異変が起き始めていたようで、神奈さまは毎日それを調べに出ていたようなのですが原因はどうしてもわからなかったみたいで」

 真人が聞くと宇迦は姿勢を正し説明した。

「その原因がさっきの大屋津姫命だったのか?」

「おそらく、詳しい事は神奈さまでなければわかりかねますが……」

 そう言って宇迦が同じ部屋にいる神奈を見ると真人と御饌も神奈を見る。

 三人に見られた神奈は御饌が入れたお茶を両手で持ちながら話を聞いていなかったのか、なぜ見られてるのかわからないという感じで首を傾げる。

「神奈、神域で起きてた異変って言うのは大屋津姫命が原因なのか?」

「原因はわかりませんが異変の中心はあちらで間違いありません」

「あそこで何が起きてるんだ?」

「荒ぶる神が目覚めた事であの領域には穢(けが)れが満ちています」

 真人は師岡の話と朝の予感を思い出した。

「穢れって悪いものだよな? じゃ放っといたら神域すべてに穢れが広まるのか?」

「いえ、神域では穢れは神奈さまが広がらないように抑える事ができます。ですが荒ぶる神が神域から現世に出れば穢れは抑える事ができず現世に広がり様々な災厄を引き起こすでしょう」

 真人の質問を神奈に代わって宇迦が答える。

「それなら現世に行かれる前に何とかしないとまずいんじゃないか?」

「力が強まったおかげではっきりと穢れの気配が探れるので動けばすぐにわかります。まだあの場所から動いていません」

 言いながら宇迦は真人から視線を逸らしてその穢れの気配を探る。

「このまま放っていても問題はないのか?」

「穢れが他へ広まる心配はなさそうですが、なぜ真人さまが来られてから異変が起きたのかがわからなくて」

 宇迦に言われ真人はしばらく考えてみたがその原因に自分では全く見当がつかず言葉が見つからなかった。

「つまり俺が危険って事か?」

「そうですね。我々がいますし今すぐに危険が及ぶ事はありませんが、やはり今までと同じように仕事を続けていただく訳にはまいりません」

 宇迦は真人を心配し真剣な表情で言う。

「大屋津姫命にもう一度眠っていもらいます」

 様子を見ていた神奈が言った。

「では、神楽を舞われるのですか?」

 宇迦の問いに神奈はこくりと頷く。

「神楽ってあの巫女がやる?」

「ええ、神楽はその舞によって神を眠りから目覚めさせたり、逆に力を鎮めて眠らせたりと他にも様々なものがあります」

「その神楽で大屋津姫命をもう一度眠らせる事が可能なのか?」

「まだ意識が残っていれば可能ですが、もし眠らせる事ができなくても力を鎮める事はできますので真人さまの危険を減らせます」

「なんか俺のために申し訳ないな」

「とんでもありません。真人さまは我々のために神域で働いて下さってるのですから、真人さまが安心して働けるようにするのが我々の務めです」

 畏まる真人に宇迦が言うと御饌もそれに同意するように優しくも真剣な顔で真人を見て頷いた。


「ここで一度止まって下さい」

 再び大屋津姫命の領域の手前まで来ると宇迦が声をかけ、みんなは歩みを止めた。

 すぐ先にはまるで透明な壁かなにかでこちらと空間を遮っているかのように穢れが満ちた空間があった。

「これ以上近づくと真人さまに危険が及ぶ恐れがありますので」

 宇迦の言葉に真人が数歩下がって警戒すると、神奈はみんなから数歩前へ出て正座し目を閉じた。

 ――すると、先ほどまで吹いていた風が止まり、草木が揺れる音が止むと辺りは静寂に包まれ、周囲から神奈を中心に光の靄が集まり、それは段々と数人の人の形を成していく。

「あれはなんだ?」

「神域の自然に宿る精霊です」

 あまりに神秘的な光景に真人は神奈から目を離せずにそのまま質問すると宇迦も神奈から目を逸らさずに答える。

 人の形になった精霊は横笛や鼓などの楽器を持ち、神奈が立ち上がると一斉に演奏を始め、演奏に合わせて神奈が舞いだすと、そのあまりの美しさに真人は我を忘れて立ち尽くす。

 舞がしばらく続くと手前の穢れの一部が次第にゆっくりとだが明るく変化する。

 しかし、横にいた御饌が突然立ち上がり穢れで満ちた赤黒い景色の先を睨むと。

「神奈さま!」

 それを見た宇迦が神奈の名を叫ぶと同時に、こちらと空間を遮っていた透明な壁がなくなり、穢れがこちらにまで広がり始めた。

「何が起きたんだ?」

 神奈が舞いを中断して精霊たちが姿を消したのを見た真人が聞くと御饌は今まで見た事のない速さで穢れの中に駆け込んで行った。

「御饌!」

 真人は御饌を引き留めようと手を伸ばすが間に合わない。

「御饌は大丈夫ですから真人さまはお下がり下さい!」

 宇迦は御饌を引き留めようと手を伸ばした真人の腕を掴み引き止めた。

「大丈夫って、中は穢れで満ちて危険なんじゃないのか⁉」

「詳しくは後で説明しますが御饌は我々より穢れに耐性があるので心配ありません!」

 腕を掴みながら真剣な顔で宇迦に言われ真人は素直に下がった。


 御饌が駆けて行ってからどれくらい経っただろうか、穢れはゆっくりとこちら側に広がり続けていた。

「御饌は元々人の世で人間を苦しめる妖狐だったのですが、ある神に出会った事で稲荷になったのです。ですが妖狐だった時の影響で言葉に呪が宿り穢れへの耐性も強いのです」

 お互いに落ち着くと宇迦は先ほど言ったとおり、なぜ御饌が穢れの耐性に強いのかを説明する。

「ですがそれは昔の事、どうか御饌を嫌わないで上げて下さい」

 言うと宇迦は真人に頭を下げて懇願した。

「当たり前だ。御饌が見ず知らずの人間の子供を看病した事や、俺の体調を気遣って何も言わなくても栄養のある料理を作ってくれるくらい優しい事を俺は知っている。周りのみんなが何と言おうと俺は御饌を嫌ったりなんかしない」

「……ありがとうございます」

 言うと宇迦は笑顔を見せ再び真人に深々と頭を下げた。

「あー……、そういえば神奈はどうした?」

 真人は照れ隠しのために話題を変えようと神奈の姿を探すと神奈は神楽を舞ったところから一歩も動かずに立ち尽くしていた。

「落ち込んでいるのか?」

 神奈が落ち込んでいるのだと思い真人は何と声を掛けていいか分からず神奈を見たまま宇迦に聞いた。

「いえ、おそらく穢れが広まった原因を考えておられるのでしょう」

「原因がわかるのか?」

「ええ、御饌が戻ればはっきりするでしょう」

「そうだ何で御饌は穢れの中に駆け込んで行ったんだ?」

 御饌が入って行った穢れで満ちた空間を見ながら真人が聞くと、その直後穢れの中から御饌が誰かを担いで出てきた。

「御饌!」

 御饌の姿を見て真人と宇迦は同時に御饌の名を呼び駆け寄った。

 御饌の身体はまるで火傷をしたかのように所々黒く焦げていて黒煙が上がっていた。

 御饌の姿を確認した神奈が穢れに向かって両手をかざすと周囲から白い靄が集まり透明な壁に姿を変えて消えると穢れはそれ以上広がらなくなった。

「傷が多すぎて、ここでは診きれませんので急いで家まで運んで下さい」

 御饌の傷を見た宇迦に言われ真人は急いで御饌たちを獅子神の背中に乗せその場を離れた。


 傷ついた御饌たちを運んでいると前方に家が見えてくる。

「宇迦! 二人を庭から入れるから先に行って庭の戸を開けてくれ」

「はっ……、はいっ!」

 家が見えてくると玄関から運ぶより庭から直接部屋に運んだ方が早いと、真人は宇迦を先に行かせ、庭の戸を開けさせると庭から直接御饌たちを部屋に運び入れ、用意した布団に寝かせると後は宇迦に治療を任せた。


 真人が部屋の外に出て庭に足を投げ出しながら廊下に座り、しばらく呆然としながら疲れた体を休めていると、物音で神奈と獅子神と犬神が庭にいる事に気づく。

「大丈夫なのか?」

 御饌たちを運んだ時に獅子神に穢れが移ったのか、獅子神の体から少しだけ黒煙が上がっていて神奈はそれを気づかうように、そばで獅子神の様子を見ていた。

「ええ、この子より自分の心配をしたらどうですか?」

「……えっ?」

 獅子神を見たまま神奈が言うと、真人は自分の腕が御饌と同じように所々黒く変色し黒煙が上がっている事に気づいた。

「くっ……!」

 自分の腕を見た途端、急に腕が痛み出し真人は苦痛の声を上げた。

 御饌たちを早く家に運ぶ事に没頭しすぎて真人は今まで自分の腕の痛みに全く気づかなかった。

「真人さま」

 御饌たちの治療が終わったのか、宇迦は障子越しに真人の名を呼ぶと薬の入った百味箪笥(ひゃくみだんす)を持って廊下に出てくる。

「腕を見せて下さい」

 宇迦は真人の横に座ると百味箪笥から塗薬を取り出し真人の変色した腕に丁寧に塗ってくれる。

「申し訳ありません」

「……なぜ謝るんだ?」

 宇迦が突然謝罪の言葉を口にするが真人には謝罪される心当たりがなかった。

「本当ならば御饌たちは私が家へ運び入れるべきだったのですが、御饌と違い私は穢れに耐性がないので真人さまに任せてしまって」

「気にしなくていい。確かに力なら宇迦の方があるが先に行って戸を開けるように言ったのは俺だ。それに穢れに耐性がないのなら、それこそ無理をして宇迦まで動けなくなったら今頃俺は薬の置き場所もわからず、ずっと探し回る事になっていた」

 もし誰かが傷つかなければならないなら誰が運んでも同じなので宇迦が謝る必要はない。

「ありがとうございます」

「だから、気にしなくていい。それより御饌が担いでたのはいったい誰なんだ?」

「あの方は大屋津姫命さまです」

「……大屋津姫命って穢れの原因なんじゃないのか?」

「いえ、私たちは勘違いしていたようです。そして、その勘違いのために事態をより悪化させてしまいました」

「どういう事だ?」

「大屋津姫命さまはご自分の寝所で荒ぶる神の力を抑えて一緒に眠りについていたのですが、我々が神楽舞で大屋津姫命さまの力を弱めてしまった事で荒ぶる神を目覚めさせてしまったようです」

「なぜ自分の寝所で一緒に?」

「詳しい事はわかりません」

「あのまま放っといても大丈夫なのか?」

「今は精霊たちに穢れを抑えてもらってますが、このままではすぐに壁は破られ穢れが広まってしまいます」

「どうすればいいんだ?」

「今は憶測で動いても、また事態を悪化させる恐れがあります。すべては大屋津姫命さまに話を聞いてからでなければ判断できませんので目覚めるのを待ちましょう。ですので真人さまも身体を休めて下さい」

 そう言うと宇迦は塗薬を百味箪笥に戻し御饌たちの眠る部屋へ戻ったので、真人も自分の部屋に戻り休んだ。


 翌日。

 早くに休んだためか真人はまだ日が出ないうちに目を覚ました。

 まだ早いが何かあった時に備えるため目を覚まそうと洗面所へ顔を洗いに廊下に出ると、御饌たちの眠る部屋の前に人影が見える。

「あっ……」

 寝起きの目を擦りよく見ると大屋津姫命が廊下に立って空を見上げていた。

「ご迷惑をお掛けしているみたいですね」

 大屋津姫命は空を見上げたまま悲しそうに言った。

「それは……」

 真人はなんと言えばいいかわからなかった。

「気を使わなくていいのですよ。私が妹を守るためにした我儘が原因なのですから」

「妹?」

「ええ、荒ぶる神と成り果て穢れを広めているのは私の妹の抓津姫命(つまつひめ)です」

 そう言うと大屋津姫命は真人を見て悲しそうに笑った。

「妹が荒ぶる神へと堕ちた時に私が妹を殺しておけば、こんな事にはならなかったはずです」

「そんな……、元々は俺が神域に来たのが切っ掛けで目覚めたんですから、それに実の妹を殺すなんて簡単にできるわけがありません」

「ですが、このまま放っておけば誰の手にも負えなくなり、穢れは現世にも広まるでしょう」

「……そうだ、抓津姫命が荒ぶる神になった原因はわからないんですか?」

 もしかしたら原因を解決すれば抓津姫命を元に戻せるのではと真人は考えた。

「……私たちは姉妹のためによく比べられる事があったのですが、それが嫌だったのか、あの子はよく神域を抜け出して人の世に遊びに行っていました。その時に一人の人間の男性と恋仲になり、自分が神である事も忘れてその男性と過ごしていたのですが、その時代の現世は戦乱の時代であり戦いに駆り出された男性は戦いに敗れ若い命を失い、男性を失った悲しみのあまり神域に戻った抓津姫命は寝所に籠り泣き続けていたのですが、ある時また神域を抜け出したかと思うと、どうやって知ったのか生まれ変わる男性の魂を見つけ出し今度こそは失うまいとその魂に自らの加護を与えたのです」

「……加護って……まさか」

 加護という言葉に真人は思わず反応する。

「貴方がその男性の生まれ変わりです」

 真人の様子にまったく動じる事なく大屋津姫命は告げる。

 意外な事実に真人は言葉を失う。

「当然ですが、生まれ変わった貴方には抓津姫命の記憶は残っておらず、その事で悲しみがより深くなった抓津姫命はこの世を恨み続け、いつしか荒ぶる神へと成り果てました」

「……それじゃ、抓津姫命を救う方法はないんですか?」

 最近、子供の頃に遊んでくれた、とても優しい女性の夢をよく見た事を真人は思い出した。

 毎日のように女性の元へ遊びに行っていたが小学生にもなると友達と遊ぶ事が多くなり女性の事も自然と忘れていった。

 この話を聞くまで、なぜ見ず知らずの子供にあそこまで優しくしてくれたのかとても不思議だったが、その女性が抓津姫命だったのだと理解した。

「抓津姫命は俺が子供の時に記憶がない事がわかっても、とても優しくしてくれました」

「仮にもし貴方に前世の記憶がなかった事が原因じゃなかったとしても今の荒ぶる神と化した抓津姫命を救う事はできません」

 真人の言葉に大屋津姫命は首を横に振ると悲しそうに俯き否定する。

「ならせめて殺す以外の方法はないんですか?」

「神格を断ち神を生まれ変わらす方法はありますが、それには穢れの中にいる抓津姫命に近づき直接神格を断たなければなりません。ですが我々は穢れに耐性がなく少しでも触れれば身動きができず、唯一耐性のある御饌もこれ以上穢れに触れるのは危険です」

「……俺にはその神格を断つ事はできませんか?」

 御饌の穢れが移っても耐える事ができ昨夜治療した腕の穢れはすっかり引いていた。

「確かに人間は清浄と穢れを有していますが、それ故に大量の穢れに触れれば人の身でありながら穢れに堕ちる事もあるのですよ?」

「大量の穢れに触れさえしなければ人間である真人さまでも神格を断つ事ができるのですね?」

 いつの間にか宇迦が傍で話を聞いていた。

「やらせて下さい。正直、前世とかわかりませんが子供の頃に優しくしてくれたあの女性が苦しんでいるのなら救いたい」

「穢れさえ注意すれば武神でもない抓津姫命さまの神格を切るのは難しい事ではありません」

 抓津姫命を救うため宇迦も真人の考えに賛同する。

「御饌、聞いていましたね?」

 大屋津姫命が言うと御饌が寝ていた部屋の障子が開き、見ると御饌が正座してこちらに頭を深く下げていた。

「抓津姫命のところに行くなら貴女の力が必要です。力を貸してあげて下さい」

 大屋津姫命の言葉に了解したというように御饌は再び頭を深く下げた。

「しかし、御饌はまだ治療が済んでないので無理をさせるわけには……」

 見ると御饌の身体にはまだ穢れでできた黒い焦げ跡が残っており、とてもまともに動ける状態には見えなかった。

「御饌には外から言霊で穢れの力を弱め、抓津姫命に近づけるようにしてもらうだけなので心配はありません」

「本当に大丈夫なのか御饌?」

 心配して真人が近づくと御饌は視線を逸らし気まずそうな顔をする。

 その顔を見て真人は御饌が元々人間を苦しめる妖狐だったという宇迦の言葉を思い出す。

「……これが済んで体が治ったら、また御饌の美味い料理を食べさせてくれ」

 真人は御饌の肩に手を乗せ笑顔で伝える。

 すると御饌は目を見開いて驚くと真人の顔を見て微笑む。

「覚悟はできたようですね。ではこちらを……」

 大屋津姫命が両手を前に出し手の平を向かい合わせると手の間に黄褐色の光が現れ短い刀の形に変わる。

「神格を断ち切る琥珀の刀です」

 刀は大屋津姫命の手からふわりと浮くと真人の手前で止まり、手を出すとそのまま真人の手に収まった。

「本物の刀としては使えませんが神格を持つ者には凶器となり、貴方に与えられた加護も切り裂く事が出来ますので気を付けて下さい」

「加護を切ってしまったら俺はどうなるんですか?」

「本来、神の加護はその人間を守るよう身体に与えられるのですが、貴方は魂と加護が混ざり合っているため加護を切れば魂も切れ貴方は死んでしまいます」

「そもそも魂は身体のどこにあるんですか?」

「特別な事がない限り魂は心の臓にあるものです」

 真人は自分の胸と刀を見比べ刃を当てないよう肝に銘じた。

「それでどうやって抓津姫命の神格を切るんですか?」

「御饌の言霊で抓津姫命の動きを縛れば穢れの勢いが収まりますので、近づいて抓津姫命の身体を琥珀の刀で切れば神格を切る事ができるはずです。神奈さまは何かあったらすぐに穢れの広まりを抑えられるように準備を、宇迦は何かあったらすぐ治療できるよう外で備えて下さい」

「わかりました」

「はい!」

 いつの間にか庭にいた神奈と宇迦が返事をし、真人と御饌はお互いに頷きあった。


 再び穢れで満ちる大屋津姫命の領域の手前まで来た真人たちは大屋津姫命から聞いた方法を確認する。

「準備はいいか?」

 琥珀の刀を持ち穢れを止めている見えない透明な壁の前に真人が立つ。

「中はどのような状態かわかりませんのでお気をつけ下さい」

「……ああ」

 真人は宇迦の言葉に返事をし、そのまま御饌に視線を移す。

 お互いに頷き合い真人が前方を見ると御饌が言霊である呪を放つ。

 それは呪と言うにはあまりにも綺麗な声で、まるで詩でも謡うかのように聞いた事のない言葉を言い放つと、真人の目の前の穢れで満ちた真っ黒な空間がうっすらと透けてくる。それを確認した神奈が片手をかざすと穢れを抑えていた透明な壁は再び白い靄に変わり周囲に散っていく。

「抓津姫命さまは、まだ大屋津姫命さまの寝所に居られるはずです」

 宇迦の言葉を合図に真人は穢れの中に駆け込んだ。

 手前とは違い中はまだ遠くまで見えるほど穢れが透けておらず、前に迷い込んだ時の記憶を頼りに抓津姫命の元を目指す。

 穢れの勢いが収まったとはいえ、中はまるで冷たい炎に囲まれているかのように空気は冷たいがチリチリと肌を焦がしていく。


 中央に大きな大木がある開けた場所に出ると大木の前に人影が見える。

 御饌が動きを抑えてるとはいえ真人はなるべく気づかれないように大木の裏に回り静かに近づいていく。

 抓津姫命の斜め後ろ、手を伸ばせば届く距離まで近づき琥珀の刀を構える。

 とっくに覚悟はできていたはずなのに、いざとなると緊張で動悸が激しくなる。

 深く深呼吸をすると覚悟を決め、抓津姫命に駆け寄り琥珀の刀を振りかざすが抓津姫命に違和感を感じて振りかざした腕を止める。

 顔を見ると抓津姫命は抉られたように黒く窪んだ目から涙を流し泣いていた。

「……あ……ああ……」

 真人の姿を確認した抓津姫命が真人の腕を掴もうと手を伸ばすと、抓津姫命の腕は炭のように黒く変色し動かすたびにぽろぽろと皮膚が崩れていく。

 それを見て真人が思わず後ずさりして腕を引くと、抓津姫命は声にならない声を発しながら真人の顔をすがる様に見つめた。

「……意識があるのか?」

 抓津姫命には意識があるのか真人に危害を加えてくる様子はなく、それどころかまるで真人に助けを求めるように再び腕を伸ばしてくる。

 今度は掴みやすいように真人が腕を差し出すと。

「こ゛……こ゛ろ゛し゛て゛……」

 抓津姫命は真人の腕と顔を交互に見て恐る恐る腕を掴み、殺してとすがりついてくる。

「意識があるなら何か救える方法が……」

 そう言いかけると真人の頭の中に抓津姫命の思考が流れ込んでくる。

「……も゛う゛……い゛や゛だ……」

 抓津姫命はこの世を恨んだ事はなく、ただ前世の記憶を持たず無邪気に遊ぶ子供の真人を見て、魂に加護を与え真人の人生を狂わせた自分の行いを後悔し、絶望しながら長年自分を恨み続け、死ぬ事もできずに気づくとまるで荒ぶる神のような姿に変わり果てた自分に苦しみ、妹が本物の荒ぶる神に変わったと勘違いして自分を眠らせようとする姉に素直に眠らせてもらう事にした。

 そして加護を与えた事で真人がもし神域に来る事があれば自分を殺してもらおうと考えていた。

 抓津姫命は真人が持つ琥珀の刀の刃を自分の首に当てる。

「……すまない」

 抓津姫命の想いを理解した真人が謝罪しながら抓津姫命の首を切ると抓津姫命の身体はぼろぼろと崩れ炭と化し、辺りに広がっていた黒い穢れも散るように消え、辺りは日の光が差し込んだように明るくなる。

 あまりの眩しさに目をつむり気が付くと真人は真っ白な空間に佇んでいた。


「ここは……」

 何となく予想はついた。

「そうか、俺は死んだのか」

 先ほどまでの出来事を思い返しながら呟くと、背後から女性のすすり泣く声が聞こえてくる。

 振り向くと一人の女性が伏せって泣いていた。

 見覚えのない女性だが、なぜだかわかる、彼女は……。

「……抓津姫命」

 真人の声に泣いていた女性は驚いて顔を上げる。

「私がわかるの?」

「何となくだけど、なぜかわかる」

「そう……、きっと魂だけになって前世の記憶が流れ込んできたのね……。ごめんなさい」

「……やっぱり俺は死んだのか」

 真人は自分は死んで今は魂の状態なのだと考えたが。

「いいえ、今は放たれた私の神格に呼応して一時的に魂の状態になっただけですぐに戻れるわ」

「なら、なぜ謝る?」

「記憶もそうだけど、関係ない現世のあなたを巻き込んでしまって」

「関係ないって、前世の俺の事なんだろ?」

「たとえ前世の事であっても生まれ変わる時に魂は洗い清められ、現世への繋がりはすべて断たれるから今のあなたにとって前世の事は関係ないのよ」

「確かにそうかも知れないが、今ここにいるのは俺の意志だ。それに女っ気のなかった俺が前世の事とはいえこんなかわいい女性に好意を寄せられたんだ。しかも女神だぞ。嬉しくないはずがない。最高の気分だ」

「なによそれ……、くすくす」

「ははっ、なあ、前世の俺と今の俺って全くの別人なのか?」

「そうね……。けど、今の貴方との会話はまるであの人と話しているようだった。生まれ変わりなんて関係ない。あなたは間違いなく彼よ。ありがとう。最後に笑って話せてよかった」

 笑顔で言いながら抓津姫命の身体はゆっくりと透けて消えいった。


 目を覚ますと宇迦が真人の胸にすがりつきながら泣き、御饌も近くに座り俯いて泣いていた。離れたところで神奈が獅子神と犬神を抱き寄せ黙ってどこかを寂しそうに見つめている。

「……くっ!」

「真人さま!」

 目覚めた真人は穢れで焦げた腕が痛み苦痛の声を上げ、それに気づいた宇迦たちは一斉に真人の顔を覗き込む。

「俺は生きてるのか?」

「見つけたら息が止まってて、もう助からないかと……」

 そこまで言うと宇迦はまた真人の胸で泣いた。

 真人がよろけながら立ち上がると御饌が肩を貸し支えてくれる。

 すると、大きな大木から広がるように一斉に種子が芽吹き、大木以外何もなかった場所が一瞬で大量の草花の新芽で覆われていく。

「これは?」

「新たな種子が芽吹き、この地が再び力を取り戻していきます」

 気づくと大屋津姫命が立っていた。

「すべての力を取り戻せば抓津姫命も生まれ変われるはずです」

「そうか、安心しました。もしかしたら救う事が出来なかったんじゃないかと思ったんですが、俺はちゃんと抓津姫命を救えたんですね」

「ええ、妹を救ってくれてありがとう」

 大屋津姫命は笑顔で真人にお礼を言った。

「いつつ……取り合えず家に帰ろう。今は御饌の料理を食べてしばらくゆっくり休みたい」

 真人は笑顔でみんなに声をかけた。

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