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──木戸はん……。
木戸は、ギクリと身を強張らせた。
あの〝声〟だ。
どっと記憶が蘇る。演出部屋で、雷鳴の中、破れかぶれで叫んだ瞬間、奇妙な光に包まれ〝声〟が聞こえてきたのだった。
「誰だ!」
誰何し、キョトキョトと宙に視線を彷徨わせる。
──誰でもおへん。わいは、ただの管理人。あんさんに少し、頼みがおますのや……。
「頼み?」
馬鹿のように鸚鵡がえす。
──そうや。あんたでしか、でけへん仕事なんや。
「仕事?」
──なんや、阿呆になったんか? わいの台詞、繰り返すだけやないか? しっかりしてくれんかな……。
〝声〟は一時、木戸の様子を窺うように言葉を切った。やがてもう一度、話し掛けた。
──木戸はん。あんた、言うたやないか。この窮地を救ってくれるなら、神でも悪魔でも構いまへん、ちゅうて……。
「神でも悪魔でも……」
思わず繰り返した木戸の胸に、再び恐怖が込み上げる。耳もとで囁く〝声〟は、どう考えても、神様とは思えない。
「まさか……!」
両目を裂けよとばかりに、一杯に見開く。〝声〟は慌てたように否定した。
──ちゃうちゃう! そのどっちでもありまへん。わいは、管理人とでも申しましょうか、下働きとでも申しましょうか、でけるのは限られておるんや。あんた、追い詰められておりましたなあ。絵コンテを描く時間がのうて、あのままではスケジュールに間に合わず、放映に穴が空く。そんな危機的状況やったの、違いますか?
「う、うん」
がくがくと震える膝頭に力を込め、木戸は椅子に腰掛けた。目の前に、見覚えのある自分の机が視界一杯に広がる。
机の上面は、やや手前に傾いで四角く切り取られ、合成樹脂の白い天板があって、天板は白く輝いている。透過台である。
透過台に光を当て、動画用紙を透かすと、下の紙に描かれた絵が判る。何枚も透かして、動きを確認して、動画マンや演出はアニメを制作するのだ。
透過台は戦前から存在しており、古くは白熱電球を使用していた。白熱電球は熱を帯び、夏などは堪らなかったそうで、蛍光灯が導入されたのは戦後である。
机の上には棚があり、そこにはチェック済みの動画用紙や、絵コンテを突っ込む。棚の下面の板には『蒸汽帝国』用のキャラクター表や、美術設定が何枚も貼られて、常に確認できる仕組みになっていた。
「おれに、何をしろと言うんだ……」
──やっと素直に話を聞ける状態になって、ほっとしましたわ……。
〝声〟は、わざとらしく安堵の溜息をついた。
──絵コンテや! 時間は、たっぷりありまっさかい、あんたの気の済む限り、描いておくれなはれ……。
「絵コンテ?」
木戸は大声を上げた。
「馬鹿を言うな! おれは絵コンテが描けなくて、逃げ出したいほどだったんだ! 今更、描いて下さいと言われて、はいそうですかと描けるわけない……」
──そうやろか? 本当にでけへん――と、あんた言うのでっか?
〝声〟の調子が変わった。猫なで声のような、あるいは誘惑するかのような声音に、木戸は、自分のうなじが、ぞわぞわと逆立つのを感じる。
──まあ、やってみなはれ。でけるか、でけんか、試して見るのもええや、おまへんか……。時間は、たーっぷり、ありまっさかい……。
徐々に〝声〟は遠ざかる。
「おい、待てよ! おれを一人ぼっちにするなよっ!」
ぱっ、と頭上から出し抜けに光が降り注ぎ、木戸は両手を顔に押し当てた。目の眩むほど、強烈な光だ。
やがて目が慣れてきて、木戸は辺りを見回した。
四角い四畳半ほどの小部屋。
「タップ」の演出部屋だった。
気がつくと、演出机にどっさりと絵コンテ用紙が山積みになっている。ペン立てには、ぎっしりと、愛用の2Bの鉛筆。一本を摘み上げ、机の左側に置いてある鉛筆削りに突っ込む。
がりがりがりがり……と逞しく鉛筆削りは2Bの先端を飲み込んでいく。引き抜くと、当たり前のように先が尖っていた。
鉛筆を凝視したまま木戸の指が、ぶるぶると震えていた。ぼきり! と鉛筆を手の中でへし折る。怒りの衝動が込み上げた。
「畜生! 誰の悪戯だ?」
ドアに突進した。ドアはきっちりと、元の通りに戻っていた。いつ修理したんだ?
がちゃり! とノブを掴んで外を目掛け、前も見ずに夢中になって飛び出す。
が、呆気に取られ、立ち竦んだ。
木戸の身体は元の演出部屋に立っていた。確かに、外に飛び出したはずなのに……。
ノブを掴んだまま振り返る。
演出部屋が見える。視線の先に、ドアのノブを掴んだ自分の背中が見えた。その自分の身体の先にもう一つの演出部屋があって、さらに視線の向こうに、またもう一人の自分の背中が見えて……。
まるで合わせ鏡のように、無限に続いている。木戸はぞっとなって、ノブを離し、ドアを閉めた。
これ以上、見続けていたら、気が変になってしまう。いや、もう、なっているのかもしれない……。
ばたり、と音を立て、ドアを閉め、そのままへたへたと演出机の椅子に腰掛けた。
頭を抱え、じっと待ち受ける。
何も起きない。
顔を挙げ、呟いた。
「判ったよ……やるよ、やりゃあ、いいんだろう?」
ふーっ、と息を吸い込み、決意したように鉛筆を掴み、絵コンテ用紙を広げる。
じいっ、と何も描いていない用紙を睨みつける。
さらさら……と、鉛筆の先が絵コンテ用紙の表面を走る。
描ける……!
あれほど苦渋していた絵コンテが、今では嘘のようにすらすらと描ける。後から後からイメージが湧き、止まらない!
木戸はもう、夢中だった。
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