番宣{コーヒー・ブレイク}・その一
1
とぼとぼと、真っ暗な闇を、木戸純一が当てもなく歩いている。
なぜ歩いているのか、どこを目指しているのか、本人にもさっぱり判っていない。ただ、立ち止まるのが怖ろしく、かといって無闇と走り出す無謀さも持ち合わせず、こうして項垂れた姿勢のまま、歩いている。
闇なのに、自分の身体ははっきりと見てとれる。とぼとぼと歩む、自分の足下もちゃんと見られる。
木戸は、市川たちの直面したアニメ化を経験していない。視界に入る、自分の手許、足下はごく普通に見えた。しかし、どこに光源があるのか、それも見当もつかなかった。
演出部屋で全員に取り囲まれ、窮地に陥って叫んだ瞬間、何か奇妙な出来事が起きたらしい。が、何が起きたのか? 記憶は模糊として曖昧である。
いったい、いつから自分は、こうして目的地も定めず、歩いているのだろうか? 歩き出したのは、ついさっきのようであり、また随分と長い間、ひたすら歩いていたようでもある。
自分は、すでに死んでいるのではないか? ここは死後の世界かもしれない……。
不意に恐怖が込み上げてきた。ひやりとした汗が、背中を伝い、心臓が凍りそうな恐ろしさが爆発する。
厭だ!
木戸は走り出した。猛然と、歯を食い縛り、全身の力を足先に込めて、全力疾走を試みる。
足音は全くしなかった。全身全霊を込めて走っているのに、ぱた、という音すら、聞こえてこない。これほど全力で走っているのに、前方から吹き付ける風すら、そよとも感じない。
やがて、木戸の駆け足は止まり、立ち止まった。
ぜいぜい、ひいひい、はあはあと喘ぐ。
心臓は、ばくばくと大きく鼓動し、タップダンスを踊るように、陽気に胸の中で飛び跳ねている。
どっと熱い汗が額から零れ落ち、木戸はその場で、へたりこんだ。
手の平で、地面をまさぐる。
足下はすべすべしていて、そのくせ、材質が何でできているのか、さっぱり判らない。硬いようで、柔らかくも思える。
「おおおいぃぃ……!」
木戸は闇に向かって思い切り叫んだ。
すぐ後悔した。
叫び声は、完全に反響すらなく、闇に吸い込まれていく。
木戸は昔、残響を完全に消去するという無反響室なるものに入った経験がある。様々な形の板が壁一面に接続され、あらゆる音を吸収する無反響室の体験は、実に奇妙なものだった。
何かの音響工学機器メーカーの実験室とかで、自分の声がまったく反響しない部屋での滞在は、今になって改めて考えても、ぞっとするものだった。
今の状態は、それを思い出す。
何でもいい……何か、この、べったりとした闇に、変化が欲しい……。
狂おしく周囲を見回す木戸の視界に、小さな光の点が映った。
何だ、あれは!
木戸は立ち上がった。さっきの全力疾走で、膝元は頼りなく、よろよろとした動作だったが、心の中に希望が赤々と点っていた。
再び走り出す。光の点は、木戸の疾走に合わせ、着実に近づいてくる。木戸の下半身に、力が漲った!
ぱたぱたぱた……。
気がつくと、自分の足音が聞こえる。
光はぐんぐんと近づいてきた!
「やっほう──!」
能天気な歓声を、木戸は思い切り上げていた。自分の顔は今、ひどく晴れやかになっているだろうと想像する。両目は輝き、口元は笑いの形に貼り付いているはずだ。
遂に、光の正体が判明した。
木戸は立ち止まった。
これは……。
自分の演出机だった。光は机の表面に装着されている透過台から洩れていた。
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