演出部屋は、四畳半ほどの広さしかない。床はリノリウム張りで、上に薄手のカーペットを敷き詰めている。

 ドア近くに、透過台を組み込んだ演出机があり、反対側に数個のキャビネット、スチール棚が、ごちゃごちゃと立ち並んでいる。

 棚の一つには、木戸が持ち込んだDVD再生機とモニターがあって、木戸は時々このモニターで、興味があるアニメや、特撮映像を楽しんでいた。木戸はオタクであった。

 演出机の棚には『蒸汽帝国』のフィギアが飾ってある。『蒸汽帝国』が伝説の漫画として神格化されると同時に、フィギアが発売され、コミケなどで販売されている。木戸は大喜びで見本を受け取り、自慢していた。

 ずんぐりとした身体つきに、薄汚れたTシャツ、ぴちぴちのジーパンという格好で、木戸は微動だにせず、立ち尽くしている。四角い顔に、小さな銀縁の眼鏡を架けている。顎には薄っすらと無精髭が浮いていた。落ち窪んだ瞳に、憔悴しきった色が浮かんでいた。

 ずい、と新庄が木戸の目の前に立ちはだかった。

「木戸さんっ! 説明してくれますね?」

 言葉は丁寧だが、ぶっすり突き刺すような口調である。

 再度、同じ言葉を繰り返され、木戸は「びくっ」と身を震わせた。虚ろな視線が不意にはっきりとして、目の前の新庄を認識したかのようだ。

「新庄さん……」

 わくわくと唇が震えている。新庄は口調を変え、穏やかに話し掛けた。

「どうしたんだ? 今夜、絵コンテ打ちなんだろう?」

 市川は視線を動かし、木戸の演出机に目を留めた。絵コンテ用紙が数枚、描きかけになっている。

 市川の視線に気付いて、木戸は慌てて机に飛びつこうとした。だが、市川は、すでに手を伸ばして絵コンテ用紙を掴んでいた。

 達者な筆致で、絵コンテ用紙にカット割が描かれている。

 あれ? と市川は絵コンテの絵柄を見て、内心「はて?」と首を傾げた。

 木戸の原作である『蒸汽帝国』の最初の出だしとは、随分と違っている。こんな場面、記憶には存在しない……。

 用紙の隅に記されている番号を確認して、市川は驚きの声を上げた。

「ページ番号は〝5〟じゃねえか! まさか、五枚しか描いてない、なんて……」

 木戸を見ると、消え入りたそうに身を縮めている。顔色は真っ赤である。

 新庄は両目を見開いた。

「まさか……本当に五枚だけなのか? 他にないのかっ!」

 市川は演出机を見回し、首を振った。

 傍らにはゴミ箱があって、その中には、ぎっしりと反故になった絵コンテ用紙が詰め込まれ、溢れそうになっている。

「うぐっ、うぐっ! えっ、えっ、えっ!」

 突然、木戸の両目に、涙がぶわっと噴き出た。鼻の穴から、たらりと鼻水が垂れ落ちる。

 ぺたり、とその場に蹲り、いやいやをするように頭を振った。

「や、やろうとしたんだよ……。一生懸命、絵コンテを上げようとしたんだ……! で、でも駄目だあ……おれには、できねえっ!」

 ぱたぱたぱた……、と天井の明かりが瞬いた。ぐわらぐわらぐわら……、と窓の向こうから雷鳴が聞こえてくる。

「何てこった……」

 新庄が呆然と呟いた。両手がだらりと力なく垂れ、両肩が下がっていた。表情には絶望がありありと見えていた。

 がたん、と背中を部屋の壁に押し付け、ずるずると膝を落とし尻餅をつくように座り込む。この中で最も絶望感を抱いているのは、新庄だろうと市川は想像した。全責任が新庄の肩に圧し掛かっているのだ。

 市川は推測するに、もしこのまま放映に穴が開くと、新庄は放送局に対し〝ペナルティ〟を支払う義務が生じる。そうなれば「タップ」は終わりだ!

 放送事故と同じ扱いの〝ペナルティ〟は、「タップ」の支払い能力を越えている。

 ぱ! と照明が完全に掻き消えた。

 停電か? 市川は暗闇で緊張感に身を強張らせる。

 ぴしゃーんっ! と物凄い音とともに、窓ガラスが真っ白に輝いた。

 わあっ! と木戸を除く一同は頭を抱える。

 窓ガラスから数回、稲光が演出部屋の内部を照らし出していた。

 ふらふらと、木戸は漂うような動きで立ち上がる。ぶつぶつと口の中で呟く木戸の声が、なぜか市川の耳に、はっきりと聞き取れていた。

「どうしても、おれは自分でシナリオ、絵コンテを担当したかった……。上手く行けば、それでおれは、もう一度、漫画家に復帰できると思ったんだ……。アニメ業界に潜り込んだけど、おれの本来の場所は漫画だと決めていた。だけど、どうしても描けない……。おれにはストーリーを作る能力がないって、厭になるほど判った……」

 木戸の言葉の合間、合間に「ぐわらぐわら」「がらがら」「ぴしゃーんっ」と、何度も雷鳴が轟いていた。その度に窓から真っ白な光が差し込み、木戸の全身をシルエットに浮かび上がらせる。

 木戸の背後のガラス戸に、一瞬、屋上の祠がシルエットで浮かび上がる。

 最後に木戸は天井を見上げ、全身全霊を込めて叫んでいた。

「お願いだ! この苦境を誰か、救ってくれ! 神でも悪魔でも構わねえっ! 頼む、助けてくれ……!」

 その時、木戸の背後の窓ガラスが一際強く、真っ白に輝いた。まるで真昼のような明るさで、眩しさに市川は目を閉じようとした。

 が、瞼はぴくりとも動かない。

 気がつくと、市川の全身は、完全に凍り付いていた。指一本、動かせない。

 瞬きもしない強烈な白い光が、部屋全体を照らし出している。眼底が焼き尽くされるような光量に関わらず、市川には、はっきりと周囲の総ての物が見てとれた。まるで一枚の写真を見ているようだった。

 視界の隅に、他の四人が同じように凍り付いているのを認める。市川の視線は真っ直ぐ木戸に向けられているので、四人の表情までは判らない。

 何だ、何が起きたんだ?

 不思議と恐怖は感じなかった。異常な状況にあるのに、市川は冷静に事態を見守っている自分を奇妙に思っていた。何か、自分が二つに別れ、もう一人の自分を観察しているような気分であった。

 と、〝声〟が聞こえてきた。

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