入ってすぐのところにパーティションがあって、そこには「タップ」が過去に制作したアニメ番組の宣材ポスターが何枚も貼られている。とはいえ、「タップ」がメインで制作した訳ではない。ほとんどが下請けで制作したものばかりだ。

 制作室に入ると、目の前にスケジュール表を書いたホワイト・ボードが壁に架かっている。ボードにはマジックで「打ち合わせ」「作画イン」「回収」「スキャニング」「編集」などの文字が様々な色で書かれ、その間には矢印が何本も引かれている。

 アニメの制作がデジタルに移行して、それまでのフィルム撮影は完全に姿を消した。以前のスケジュール表には、「撮影」「現像」などの文字があったが、今は「スキャニング」が替わりに記されるようになった。

 市川は眉を顰めた。

「誰もいねえのか……?」

 独り言を呟くと、ぺたぺたとスリッパの音を響かせ、ずらりと並んだ制作デスクの間を歩いていった。

 デスクにはそれぞれ、パソコンが用意されている。アニメにコンピューターが導入されて長い。制作室の片隅には、大き目のサーバーが、でん、と設え、微かなアクセスの音を響かせていた。パソコンの画面には「タップ」のシンボル・キャラクターのスクリーン・セーバーが、ゆっくりと画面をランダムに動いていた。

 と、市川の足が止まる。

 灰色のデスクの向こう側から、両足が突き出している。両足の持ち主は、スチール椅子を何脚も並べたその上に、ひょろ長い身体を横たえていた。

 市川は足音を忍ばせ、横になっている人物の顔を覗きこんだ。

 身体もひょろ長いが、顔もまた長い。秀でた額に、高い鼻梁。いわゆる白皙の美青年といった形容がぴったりくる顔立ちだ。青年は椅子の上に仰向けに寝そべり、両目を閉じている。微かに寝息が聞こえる。眠っているのだ。

 ぴくぴくと市川の唇が痙攣した。市川は自分の顔が、見る見る険しくなるのを感じていた。怒りの衝動が込み上げる。

「おいっ!」

 金切り声を上げ、同時に脚を飛ばし、青年が身体を横たえていた椅子を蹴り上げる。

「はっ、はいっ!」

 がたたん、と大袈裟な音が制作室に響き渡り、青年は椅子から転げ落ちた。市川は喉も張り裂けよと思い切り叫んだ。

「三村っ! 人を呼びつけておいて、呑気に寝ているとは、何だっ!」

 三村、と呼びかけられた青年は、じたばたと見っともなく蜘蛛のように長い両手両足を足掻かせ、床にぺたんと尻餅をついた姿勢で市川の顔を見上げた。

 瞳がまん丸になり、驚愕の表情が浮かぶ。

「あっ! す、すみません! つい、仮眠を……」

 三村健介みむらけんすけ。市川と同年齢である。アニメの制作進行を担当している。三村は市川にどうしても今夜「タップ」に来るよう、懇願をしていたのだ。

 三村は、ようやく立ち上がり、ぺこぺこと何度も頭を下げた。三村の身長は百九十センチあまり。上下に引き伸ばされたようにほっそりとしていて、彫りの深い顔立ちをしている。黙って立っていれば、どこかの男性モデルにしか見えない。

 しかし口に出す言葉は「すみません」「御免なさい」「申し訳ありません」を連発するため、人からは軽く見られがちである。

 何しろ市川は、三村が道を通り過ぎる野良猫に頭を下げている場面を目撃している。うっかりぶつかった電信柱にすら謝る、とさえ揶揄されている。

 ぐいっと市川は三村の顔を見上げ、叫んだ。身長は三村が頭一つ分は軽く高く、どうしてもそうなる。

「今夜、打ち合わせなんだろう? できんのか?」

 市川の追及を受け、三村は困ったように眉を狭める。視線が何度も、制作室を彷徨った。

「そ、そのつもりなんですが……。監督が……」

「監督が?」

 三村の視線が天井に向けられた。市川は親指を立て、天井を指し示した。

「ずっと演出部屋か?」

「はあ……」

 三村はガクガクと何度も頷いた。まるで操り人形のような動きだ。

「市川君、来たのかい?」

 のんびりとした声がしたので、市川は首を捻じって振り向いた。

 制作室の奥にある会議室のドアが開き、一人の肥満した中年男が顔を見せていた。どこをとっても丸々としていて、髪の毛は長く、後頭部で纏めている。顔の半分は無精髭で覆われ、人の良さそうな笑みを浮かべていた。

 山田栄治やまだえいじ。年齢は五十近い。

 職業は美術監督で、アニメの背景の総てを監督する。背景画は、アニメ業界でもっともコンピューター導入の影響が小さく、背景を描く人間は、今でも筆と絵の具を使って、背景画を描いている。

 山田の背後から、もう一人、こちらは小柄な女が顔を覗かせた。

「うっるさいわねえ……。市川君、少し静かにできないの?」

 ぐっと眇めた瞳で睨みつける。丸顔で、小柄なのも手伝い、年齢の見当がつかない。髪の毛は染めておらず、化粧気のない顔立ちのせいで若く見られがちだが、実際は三十代だと市川は推測していた。

 宮元洋子みやもとようこ。職業は色彩設計。要するに、アニメのキャラクター、作画される総ての色を決める役割だ。かつては色指定と呼ばれていた。

 昔々、アニメがセルと呼ばれる透明なシートに線と絵の具で描かれ、フィルムで撮影されていた頃は、一枚一枚、手作業で絵の具を塗っていた。だが、今はコンピューターのソフトで、一気に着色されてしまう。アニメの中でも、もっとも省力化が進んだ分野である。

 洋子の言葉に、市川は「うへっ」とばかりに舌を出して見せた。

 すでに立腹は収まっている。市川は瞬間湯沸かし器のような性格で、すぐ怒りの沸騰点に至るが、怒りを忘れるのも呆れるほど早い。すでに三村に怒鳴りつけた時の怒りは、すっかり消え去っている。

「少しお待ちを……」

 哀願するように三村に言われ、市川は肩を竦めて会議室へと歩み寄った。

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