「会議室」とは一応ドアに表札があるが、実際は十平方メートルほどの小さな部屋で、片側に資料用のスチール棚が並び、真ん中には楕円形のデスクが一つ。

 スチール棚の向かい側には会議用のボードと、三十インチのモニターが一台だけある、何の変哲もない小部屋である。

 ぐったりと椅子に腰掛けた市川は、どさりと音を立て、肩から提げていたショルダー・バッグを置き、窓際に立って外を眺めている山田に話し掛けた。

「山田さん、設定は、少しくらいできた?」

「ん……」

 生返事をして、窓に見入ったまま、山田は背中で答えた。

 山田と市川は親子ほど年齢が離れている。が、まるで学生の先輩、後輩のような口調で会話している。それが少しも違和感が無い。単に市川が礼儀知らずなのか、それもと山田が気にしないのか、両方であろう。

 市川はデスクの上に目を落とした。数枚のA4用紙が散乱していて、市川は一枚を取り上げた。精緻な筆致で、歯車と鉄骨が剥き出しの、ごつごつとした建物が聳えていた。建物の前景には、路面電車らしきクラシックな乗り物が、軌条の上に走行している。全体に十九世紀末らしき雰囲気が漂っていて、画面の隅に『蒸汽帝国』とタイトルがあった。

 美術設定である。アニメの舞台となる背景のための資料で、監督からのOKが出れば、美術ボードの制作に山田は入る。美術ボードは色見本であるが、背景画のタッチなども、これで指示するようになっている。もちろん、原画マンなどは、美術設定を見本に、キャラクターを動かす世界観を共有するのである。

「ふうん」と市川も生返事で感想を漏らす。

 洋子は市川の真向かいに座り、両手に一冊の薄っぺらいマンガ本を手にし、視線を紙面に落としながら口を開いた。

「市川君は、どうなのよ?」

「少しは、な!」

 得意そうに市川は答え、バッグの中から一冊のクリア・ファイルを取り出した。クリア・ファイルの表紙には『蒸汽帝国・メイン・キャラクター表』とタイトルがあった。

 洋子がマンガ本をデスクに置き、手を伸ばして市川のクリア・ファイルを取ってぱらりと開く。透明なクリア・シートに挟まれ、市川の描いたキャラクター表が天井の明かりを受け、顕わになった。

「何よ、少しどころじゃないじゃない……」

 洋子の声に「どれどれ」と山田は窓から身を翻し、デスクの上に視線を落とす。

「ほお」と感心するように唇を丸くする。

「凄いな、こんなに描いたのか……」

 二人の賛嘆の声に、市川は有頂天になっていた。人から誉められると、すぐその気になる性格で、単純といえばいえる。

 市川の描いたのは、数人のキャラクターである。全身、顔のアップ、小物など、様々なキャラクターがいろんなポーズで描かれている。いわゆるキャラ表という奴で、原画マン一人一人にキャラ表が配られ、原画マンは描かれたキャラクターの指示を守り、作画する。

 しかし原画マンによっては、様々な癖が出る。それを修正するのも、作画監督の仕事である。市川の描いたキャラ表は、クリア・ファイルを、ほぼ半分ほど占めていた。一枚一枚、丁寧に見入っていた洋子は、最後のページになって顔を赤らめた。

「ちょっと、これ、何なのよ?」

「くくく……」

 市川は忍び笑いを洩らした。隣で洋子の繰ったページに見入った山田は、ぐずぐずと鼻を鳴らした笑い声を上げる。

「こりゃ、いい! こいつは、おれか?」

 市川の悪戯書きであった。市川と山田、洋子の三人が冒険者のような身形をして、辺りを警戒するような姿勢をとっている。

 市川は旅の盗賊、山田は杖を持った老魔法使い、洋子は肌も顕わな女剣士といった出で立ちである。市川の描いた三人のキャラクターは、思い切りディフォルメされているにも関わらず、はっきりと各々の個性が浮き出ていて、誰でも描かれた人物を特定できる。

「あたし、こんなに胸は大きくないわよう……」

 洋子は頬を真っ赤に染めながらも、それでも悪い気はしないようで、しげしげと見入っていた。市川の描いた洋子のキャラは、胸の谷間が思い切り強調された衣装を身に纏っていて、確かに実物よりは一・五倍……いや、二倍はバストが豊かに描かれている。

「おれ、こんなに爺いかい?」

 山田は自分のキャラクターに、感想を述べた。山田は半分ほど白髪になっているが、市川のキャラクターでは完全に白髪になっていて、髭も胸元まで伸ばしている。

「いいじゃんか! どっちにしろ、遊びだ!」

 市川は、ばっさりと切り捨てる。

 山田は油の浮いた顔をぺろりと撫でると、椅子に座って頭をがしがしと掻いた。

「それにしても打ち合わせ、本当に今夜中にできんのかな?」

 山田の言葉に洋子が目を光らせた。

「できないと、完全にアウトよね?」

 市川は無言で頷いた。アニメ業界に飛び込んで八年あまり。そろそろスケジュールも、駆け出しの制作進行よりは把握できてくる。

 どう考えても、今夜中に打ち合わせを済ませておかないと、最終アップには間に合わない。というより、すでに最終アップは過ぎている。今はギリギリの状況なのだ。

 デスクに放り投げられたままのマンガ本を、市川は取り上げた。

 タイトルは『蒸汽帝国』で、作者は木戸純一きどじゅんいちとある。

 この木戸なる人物が、今夜打ち合わせをする総監督本人である。

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