摂理

第10話*序_玉座ノ骸



 その日、一人の王が死んだ――。


 長き安寧に身を任せ、遊興に耽溺した哀れな王。


 配された椅子に座り、滅びゆく国を傍観していた愚かな王。


 そして、分け与えることを知らなかった狭量の王。


「陛下……」


 その瞳は虚ろに光を失い、ただ虚空を眺めているかの如く。生気を失った褪せた白髪からは、かつての威厳など微塵も感じられなかった。


 かつての王はその玉座で、力なくこうべを垂れている。まるでその姿は、自らの晩節を懺悔しているかのようだ。


「陛下をしいし奉りしわが身を、どうかお許しください」


 胸に手を当て、恭しく膝をつく。


 しかし、王がその姿を視界に収めることはなかった。


 深々と刺さった刀剣は、心の臓を貫き、腑を抉っていた。もう王が目を覚ますことは二度とないだろう。そして、このルクスに王を僭称する者が現れることも、恐らくない。


 王はかつて、聡明な人物だった。帝政を廃し、主権を優れた国民の代表者へと譲渡し、さらには永久動力炉が齎す余剰生産物の一部を他国へ提供し、貧困に喘ぐ人民を救ったこともあった。国内外問わず、ルクスに慈悲の王ありとの称賛の声は絶えなかった。


 自分はこの国では珍しい異邦人だ。生まれたのは遥か辺境の小規模な国家。


 前時代的で牧歌的な、穏やかな国だった。今でも、あの安穏とした日々の記憶は確かにこの胸の中にある。果て無く広がる田園と、なだらかな稜線。人々の屈託のない笑み。それらが瞳に浮かんでは消える。まるで白昼夢のように。


 しかし、その国はもうない。隣国との闘争に敗れ、国は焼き払われたのだ。もう、あの優しい在りし日の情景を目にすることはないのだろう。



 ――憎悪。



 それしかなかった。あの時の自分の頭にあったのはそれだけだった。


 しかし王に取り立てられ、この国に来て数年。自分の心に巣くっていた憎しみはいつの間にかに消えていた。故郷が消えたのは、あくまで世界の在り方のせいだったのだと、そう思うようになっていた。


 それは、この国の王――イェクスの影響だったのだろう



 イェクスの政治的および外交の手腕は確かなものだった。独裁的性格を持っていた政治体制の見直しを図り、永久炉は天下万民のためにと、他国への資源供給を無償で行った。


 あの頃、自分に見えていた世界は、まさしく尊き黎明の世だったに違いない。新たな世界の幕開けに、王の隣に並び立つ無上の喜び。それがあの頃の自分のすべてだった。



 しかし晩年、賢王と讃えられた友の姿は、消えていた。


 国家の諮問機関として設立した元老院は、俗物が巣くう腐敗した組織となり下がり、あろうことか永久炉から生成される生産物の国外提供を全面的に廃止した。


 確かに国内の供給は安定している。政治的情勢も、全く問題はない。


 しかし、問題は世界だった。


 既にルクスからもたらされる無償のエネルギー資源に依存していた他国は、自国の生産では立ち行かなくなっていた。国は飢餓し、限られた資源を奪い合う紛争は絶えることがなくなっている。世界はルクスの指先一つで、敢え無く崩壊したのだ。


 ――陛下! なぜあのような狼藉を看過するのです!


 ――イシルドア、か。


 王は侍らせた愛妾をその胸に抱きながら、虚ろな声で名を呼んだ。


 ――今からでも遅くない! 条約を撤廃し、元老院を解体すべきです!


 ――ふむ。


 あの時の王の、まるで覇気のない瞳を、イシルドアは鮮明に思い出す。


 ――イシルドアよ、もう良いのだ。


 ――は……? 陛下、何が良いというのです?



 困惑に動悸がした。この王は、イェクスは――。



 ――予はこのルクスの王。国が平らかであれば、それで良い。



 あの瞬間に、この結末は決まっていたのかもしれない。


 イェクスが晩年、どうしてあのような愚王になったのかは判然としない。だが、一つ確かなことがあるとすれば、このままでは世界は黄昏こうこんに染まるということだけ。


 再び伏せていた顔を上げると、そこにはただの死体があった。かつて王だったものの骸が。


 もう、こうして跪くことも、傅くこともないだろう。これからこの国家を導くのは他ならぬ自分なのだから。


 堕落に目を濁らせた国民は、世界を知らない。いや、知ろうともしない。まずはその蒙昧で無知な性質を変えなけばならない。自分たちの平穏が、幾億の屍の上にあることを知らしめなければ、この世界の窮状は変わることがないだろう。


「イシルドア陛下――」


 後方からそう呼ぶ声が聞こえた。


「元老院十三人を拘束、連行し、現在ハエレシス城塞地下に移送中です」


「そうか、丁重にお送りしろ」


「は――」


 衛兵はそう言って、広間から出ていく。


「イシルドア陛下、か……」


 僅かに返り血のついた掌を見つめながら、イシルドアは嘆息した。


 積年の恨みを晴らし、野望は成就した。しかし、何故だかこの胸は、何かの破片が刺さったかのようにじくりと痛む。それは昔日に賢王と育んだ友愛の残滓だったのかもしれない。


 しかし、感傷に浸っている時間など自分にはない。国家元首となった自分を、王位簒奪者とみて反感を覚える国民も少なくないだろう。何しろ、これは紛うことなきクーデターなのだから。


 機を見て、元老院制度を廃止し、永久動力炉の余剰生産物を、世界全ての国家に分け与え、困窮からくる闘争を終わらせる。少なくとも、これで世界を取り巻く状況は改善されるはずだ。


 しかし、どうしてこんなあまりにも明確な解決策を、イェクスは為さなかったのだろう。これらは自身が生み出した画期的な策などではなく、過去にイェクスが為した政策の焼き増しだ。


「何故、陛下——イェクスは変わったのだろう」


 あるいはあの日の王が健在ならば、こんなことにはならかったはずなのに。


「——イシルドア陛下!」


 玉座へと繋がる扉が乱雑に開かれるのが分かった。


「何事だ」


 振り返ると、息を切らせ、ひどく憔悴した様子の衛兵が跪いてこうべを垂れていた。


「それが――」


 その瞬間、世界が傾いた。


 形を成し始めた理想は、脆くも打ち砕かれる。



「第七永久動力炉が突如として停止、破壊されました……!」



 ――***——

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