第9話*転換
――***——
闇が晴れていく。立ち込めていた暗雲が、霧散していく。
眼前の大蛇の怪物は、力なく地に伏せている。表情、などというものは存在しないのかもしれないが、どこか安らかに見えた。
ハルトは蛇の頭にそっと手をのせると、その体に意識を巡らせる。皮膚、骨、血管、細胞、そして世界——。
地の底から、熱せられた鉛のようなものが体内に入ってくるのを感じる。気を抜けば、体はたちまち四散してしまうだろう。だが問題はない。この力は、もう自分のものなのだから。
「ありがとう。さよなら――」
その言葉が契機だった。
大蛇の体が崩れていく。跡形もなく、徐々に、徐々に。虚空に消えていく。
「『アンフィスバエナ』——汝にその名を与えよう」
声がした気がした。儚く、消え入りそうな呪詛の声。
「ハルト!危ない――」
声がした。懐かしい友の声が。しかし、それはかき消された。
――激痛。
ふと、自身の躰を見やる。
左脇腹の肉が、無い――。
身悶えながら振り向くと、消えかけた大蛇のもう一つの頭が、血を滴らせていることに気付いた。
「——っ!」
文字通り、身を引き裂かれたような痛み。
しかし、この身体はまだ力尽きてはいない。まだ、この力がある。
「
一瞬の後、大蛇に迫る。そして大蛇の鎌首へと手を横に薙ぐ。
刹那、大蛇の首は切断されていく。否、それは『斬る』でもなく、『断つ』でもなく、それはまさしく、獲物を『分解』していた。
――アアああ嗚呼!
悲鳴を聞いたような気がした。人の、憎悪に塗れた声を。しかし、それもすぐに止まった。
大蛇の頭は胴から切り離されたのち、放物線を描きながらその体躯を宙へと霧散させていく。固体から気体へと変わる物質の昇華のように、跡形もなく消えていく。
「——ぐっ!」
腹が痛む。今まで味わったことのない激痛が身体を苛む。
「ハルト――!」
その場に倒れたハルトにアシモが駆け寄る。
「おい!しっかりしろ!おい!」
意識が再び朦朧としていく。消えゆく感覚の中で、アシモが幾度も自分の名を叫んでいるのが分かった。
「素晴らしい……」
何処からともなく、男の声が聞こえた。
「見事だよ、ハルト。君はその役割を、見事演じて見せてくれた」
まるで酷く酩酊しているようだった。男の声がゆがんでいる。
「さあ、傷を癒すといい。次は気を抜かないことだ」
「おい! お前、ハルトに何をする気だ!」
「案ずるな。ただの治癒だ」
次の瞬間、ハルトを暖かい光が覆った。
痛みが消えていく――。
まるで最初から、傷などなかったかのように、傷口が塞がっていく。と、同時に身体へと意識が戻ってくるのを感じた。
「アシ、モ……」
「ハルト!大丈夫か!?」
目を開くと、そこには酷く憔悴したアシモの顔があった。
「僕、一体なにを――」
瞬間、体を強い力で抱きしめられるのを感じた。
「馬鹿野郎!」
「ちょ、アシモ……!」
アシモは一つ憎まれ口を言うと、ハルトを抱きしめる腕に力をこめる。
「痛い!いたいよアシモ!」
「うっせえ!心配させやがって!」
窮屈なアシモの胸の中で、ハルトは確かに温もりを感じた。それは体温と、もっと違う
「ふふ、美しい友情だね」
声が響く。穏やかではあるが、内に何かを確かに宿している、得体のしれない声。
「……黙ってろ」
アシモが静かに言う。明確な敵意と憎悪。それらが、男へと向けられる。
「ふふふ」
男は相も薄ら笑いを受けべ、こちらを眺めていた。
ハルトはアシモの腕を退かすと、声の主へと視線を向ける。
「な……!」
そして、固まる。
「一体、誰なの……?」
「知るか。ただこいつは危険だ。まともじゃない」
ハルトが発した疑問の言葉に、アシモが答える。
「慧眼だ、アシモ。狂気は私の一部であり、本質だ」
大袈裟な所作を交えながら、男は言う。
「そして、君も同じだ。その在り方が違うだけで、根源は私と同じ」
「おめえと一緒にすんじゃねえよ」
アシモは敵意を向け続けている。まるで、捕食者を威嚇する被食者のようだ。
「あなたは、誰なんですか?」
「おや、君も覚えていないんだね。ハルト」
「覚えていない……?」
男の言葉に、ハルトは困惑する。
「まあ無理もない。君には少々、重すぎる役回りだからね」
意味が分からなかった。役回りとはなんだ。
そもそもここはなんだ。あれからどれ位経った。自分は何をしていたんだ。どうして記憶が曖昧なんだ。わからない――。
周りを見渡す。何もない、ただそこにあるのは、アシモと、謎の男。そして――
「あれは……?」
視線の先。そこにはもう一つの人影があった。
「ああ、あれはもう必要ない。欲しいなら君にあげよう」
男はまるで、興味を失った玩具を見るように、人影を一瞥した。
「さて、私はそろそろ行こう。次の役目があるのでね」
そういって、男は背を向ける。
「待て!」
アシモが叫ぶ。
「お前、一体何者だ。名前くらい名乗って消えろ」
「ふ、それは構わない」
男が再びこちらへと向き直る。
「大いなる知性は、我々を地に追いやった」
男は続ける。
「決して届かぬ天上に想いを馳せて、私は手足を捥がれた。二度と天を仰げぬように。永遠に泥土の底を這うように」
それはまるで、用意された台本を読み上げるようだった。
「私はサーペント。この物語の語り手だ」
サーペント。男は確かにそう名乗った。
「では、ハルト。それにアシモ。再び会おう」
男はそう言い残すと、陰に溶けるように消えていった。
「ちっ! 意味わかんねえ」
アシモが悪態をつく。
「あの人……」
霞がかる脳裏にある情景がうかぶ。
咽び泣く声、舞い散る血風、そしてそれを見つめる紺碧の瞳。遠い昔、ここではない何処かで、あの姿を――。
「それよりハルト、なんともないのか?」
「え、あ、うん」
意識がアシモの言葉で現実に引き戻される。
「傷口、塞がってるみたい。ウソみたいだけど……」
「そうか……」
『塞がっている』というよりは、傷が『消えている』と言ったほうが正しい具合に身体は元の姿に戻っていた。
「ほーんと、何が起こってんだろうな」
アシモは頭を抱えながら、困惑している。
「僕は……」
ふと、掌に目を向ける。いつもと変わらない、自分の掌。
しかし、何かが違う。この手は、この身体は、もう今までとは違うのだ。
「……っ」
「ハルト……?」
もう何が何だか分からない。頭は当惑と驚愕と恐怖で混乱していた。
「……ひ、っく」
「お、おい。どうした!?」
もうとっくに限界だった。この状況を把握するのも、得体のしれない恐怖を制すのも、あふれ出る涙を止めるのも。
「な、泣くなよ! まだどこか痛むのか?」
堰を切ったように、涙はとめどなく溢れる。嗚咽で息が苦しい。喉は焼けたようにひりひりと痛む。
「は、ハルト、頼むから泣くな……。な?」
目の前のアシモはどうしようもなく慌てていて、それが少しおかしかった。
「……はは」
嗚咽に交じって小さな笑いが零れる。なんだか泣いたのも笑ったのも、すごく久しぶりな気がした。
「いや、だからってなんで今ので笑うんだよ」
アシモが突っ込む。
「アシモって、やっぱいいやつだよね。ちょっとだけど」
「ちょっとってなんだよ。こんな良いやついねえだろ?」
そういってアシモは、いつも通りの悪戯な笑みを浮かべた。
日常。アシモの会話は、ハルトに在りし日の日常を見せる。二度と戻れない、あの頃の情景を。
「アシモ」
「ん?」
こんな機会でなければ、改まって言うこともないだろう。だから――。
「――ありがとう」
その日世界は動き始めた。
ぎりりぎりりと軋みながら、その歯車を歪に噛み合わせて――。
――***——
LUX及びSEXTUMの起動を確認_
――***——
第一章 転換_終
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