第8話*幕間_



 ――***——



 その少女は、この世界に生じた一種の不具合エラーだった。


 死の恐怖を知らず、それに向き合おうともしない人間たち。そもそも、この世界で『死』という概念を生み出したのは、あるいはその少女だったのかもしれない。



 ――みな平等に消えるのに、何のためらいがあろう。いつか消えるとしても、それは常というものだ。不滅なるものなどいない。



 それは単純な疑問だった。少女は訊ねた。『死が怖くないのですか』と。その問いに、男は平然を装って答えた。


 しかし、男は心の内で身震いをしていた。


 少女は訊ねる。『死とは何ですか』と。


 男はその回答を知っていた。もっとも、他の誰かの言葉を借りてきただけの、空虚な答えだったが。それでも、この場を凌ぐ答えくらいにはなるだろう。


「死とは再生だ」


 そう答えた。


 少女の問答は猶も続く。


「なぜそれがわかるのですか」


 男はその言葉に当惑する。何故それが分かるのか。そんなこと考えたこともない。


「死した人は、もう二度と戻りません。なのにどうしてそれが分かるのですか?」


 少女の無垢な疑問が、この身を抉っていくのが分かる。自分を作り上げてきた思想が、突き崩されていく。こんな一人の少女に。


 二人の会話に耳を澄ませていた聴衆が、動揺にざわめき始める。どうして、何故——。そんな言葉が、まるで質の悪い流行病のように伝染していく。


 しかし、男にそれを止める手立てはなかった。


「木の葉を見なさい。あれは葉を落とすことによって、樹木そのものを守っているのだ。我々もそれと同じ。だからわかる」


 咄嗟に思い付いたたとえ話。それにしては上出来だった。


「大きな何かを守るため、次に来る再生のため、我々は死んでいくのだ」


 これでこの少女も黙るはずだ。


 しかし、男の予想は外れた。


「大きな何かとは、この共同体コモンのことですか? それとも、この世界それ自体のことですか?」


 ――鬱陶しい。


 平静を装う男の顔は、もう心根を隠せてはいなかった。


「この世界はもうじき終わります。後に続くものはありません。では、私たちは何のために死んでいくのでしょうか」


 その言葉は人々を深い奈落へと突き落とした。この先には何もない。全て無意味。生きることも、死ぬことも全て。


 もう男は、それ以上語る言葉を持たなかった。



 ――***——



「もうすぐ、か」


 覚悟を決めて、少女は再び大地の裂け目へと振り返る。


 私は生きる意味を知らない。最後まで分からなかった。次に繋ぐものが何もないこの世界で、それを見つけることはきっと難しかったんだろう。でも――。


 その場に屈み、両の手で畳んだ足を抱え込む。心の荒波が、少しずつ静かに凪いで行くのがわかる。やはりここは居心地がいい。世界の端で、もう何もかも終わるというのに。


 瞼を閉じる。陽の光を伝って、血潮が通っているのを感じた。息を吸うと、再び生命の脈動が肢体を駆け巡る。


 世界と自分の境界線が消えていく――。



「ああ、でも――」




 ――その時だった。



 異様な感覚。まるで天に浮いているかのようだ。


 堪らずセプティは瞑っていた目を開く。



「ここは……?」



 何処までも続いているようで、どこにも通じていないような、そんな白い空間。体は水に溶けてしまったかのようで、存在が明瞭に感じ取れない。


 ここは一体どこで、自分は一体どうなってしまったのだろう。


 あるいはこれが『死』というものなのだろうか。だとすれば、案外悪くない。あんな風に司祭様を困らせたりしなければよかったと、セプティは少し後悔した。


「君は、誰——?」


 声がした。自分と齢の変わらぬ、少年の声だ。


 振り返ると、そこには珍しい黒い髪をした少年がいた。


「私はセプティ。巡礼の徒。でも今はもう違うかも」


 少年の問いかけに、何故だか自分はそう答えていた。急に現れた目の前の少年に戸惑いや動揺はなく、心はどうしてか雨上がりのように澄んでいる。


「生前っていうのかな。私死んじゃったみたいだから」


 完全な憶測。しかし、現状を鑑みるにそうとしか考えられなかった


「そっか」


 少年は短く言うと、残念そうに目を伏せた。優しい子なのだろう。自分の死を労わってくれている。


「ね、あなたはだあれ?」


 唐突に現れた少年に、そんな疑問を投げかけていた。


ぼくは……」


 少年はそこまで言って黙る。なぜかは分からないが、もしかすると記憶がないのかもしれない。


「この人は、あなたと同じ」


 再び声がして、振り返る。


「世界に見捨てられ、そして選ばれた孤児みなしご


 そこには年端もいかない少女がいた。


「そう、あなたも一人なのね……」


 そういって、セプティは同情した。自分も生まれてから死ぬまで、身寄りのない子供だった。


「違う、違う。ぼくは……」


 少年は頭を振って否定の言葉を重ねる。


「あなたは弱いわ。だからこうして、この世界を見せられているの」


 少女は淡々と言葉を並べていく。


「この世界?」


 セプティが口を挟んだ。この世界を見せられている、とはどういう事だろう。


永久とこしえの闇に眠る世界。あなたがいたのはそういうとこ」


 少女の言葉は曖昧模糊で、要領を得ない。


「私のいた、世界……。永久の闇……」


 しかし、少女の言葉は確かにあの世界のことを指しているのだと、セプティには分かった。


「あなたの知らないあなた。現世うつしよはあなたを中心に廻っていたの」


「私が、現世の中心……?」


 依然として少女の話は不可解だ。


「あなたは人々の最後に悲しみと苦しみを添えたのよ、セプティ」


 その言葉で、セプティは思い出す。あの時の、人々の怨嗟の声を。慟哭を。


 やはり、人々は死を畏れていた。意味もなく消えるのを、怖れていたのだ。


「そう……。私が――」


 巡礼で自分が人々に投げかけた問いは、ある種の啓蒙のようなものだったのかもしれない。正しくはあるが、それゆえに啓かれた知恵は、死への恐怖を呼び覚ましたのだろう。なんてことをしてしまったのだろう。知らなければ、彼らは最後まで平穏でいられたかもしれないのに。


「君は悪くないよ」


 少年が沈黙を破って口を開く。


「君は悪くない。だってそれが普通だよ」


『普通』。そう少年は言った。


「死が怖くないなんて、そんなのおかしい。君の疑問は、決しておかしな考えなんかじゃなかった」


「……」


 それでも、この胸に巣くった罪悪感は拭えない。これは自分が背負うべき罪なのかもしれない。人々に知恵を与えた、そういう類の救いようのない罪。


「私で巡礼は最後だったの。世界がもう終わりだなんて、私は信じたくなかった」


 咄嗟に出たその言葉は、セプティの胸をぎりぎりと締め付ける。


「もうあの場所——此岸しがんの先に何もないなんて、信じたくなかった」


 気付けば、瞳からは熱い雫が流れていた。


「私は知りたかった。世界の在り方を、自分が何者で、どこに行くのかを」


 しかし、それは叶わなかった。


「無理なのはわかってた。でも、それでも……」


「——知りたい?」


「え……?」


 少女の言葉に、涙はぴたりと止まる。


「あなたには、少しだけ教えてあげる」


 少女はそういうと、頼りない足取りでセプティへと歩み寄る。


「よしよし……」


 気が付けば、少女に頭を優しく撫でられていた。



 ――心地いい。



「その代わり、あなたの世界をあの子にあげてね」


 セプティは微睡む。暖かな陽光に包まれているみたいだった。


 そうか――。


「今ならわかる。何故世界が闇に包まれたのか――」




 ――***——

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