第5話*肆 暗転スル_譌・常



 ――***——



 ――……ルト、ハルト。



 遠くで声が聞こえた気がした。この名を呼ぶ声が。懐かしくて、憎たらしい。でも大切に思う、そんな声だ。


 しかしその声音はひどく憔悴しているようだ。それだけが、記憶と違っていた。


 なぜだろうか。頭の中がどんよりと曇っているような気がする。大事なことが、きっとあったはずなのに。それが思い出せない。


 いや、今はそんなことはいい。ここはどこだ? 夜なのか、辺りが真っ暗だ。それにこれは……。


 異臭。何かが焦げたような、あるいは腐ったような饐えた臭い。


 身体が揺れている。いや、揺さぶられているのか。それに、先ほどから自分を呼ぶこの声は——。



「ハルト!」


 その声は、はるか彼方に飛んでいた意識を体に呼び戻した。


「……アシ、モ?」


 上の空でハルトは答えた。目の前に入り込む鮮やかな銀髪。それは見慣れた友の姿だった。


「ハルト、よかった……。何度も呼んだのに返事しねえから、死んじまってるのかと思ったぜ」


「何度も……?」


 鸚鵡おうむ返しに訊き返す。そういえば、誰かが自分の名を呼んでいた気がする。


「それに、お前その血……。一体何があったんだ?」


「え、血?」


 ふと自分の手を見る。


「な……?」


 手が赤い。これはなんだ。どうして手が……。


 それだけじゃない。全身が深紅に染まっている。


「うわああああ!」


 ハルトは溜まらず叫びをあげた。困惑で動悸がし、視界は混乱でちかちかしている。この血はなんだ。自分の身に何が起きた。そもそも、ここはどこだ? 何もわからない。


「ハルト、落ち着け」


 アシモがいつもより低い声音でそう言った。


「なんで、血が……? それより僕は、今まで、何を……」


 ここ数刻の記憶がない。というより思い出そうとすると頭が痛む。確かアシモと428番街区に来ていて、アシモと別れて家に帰っている途中に……。


 そこで思い出す。


「——! そうだ、永久動力炉から煙が出て、人が。人が……」


 変わっていった。脳裏に浮かぶ崩壊と再生の歪な光景。誕生と腐敗の中でもがく人々の姿。


「ああ、状況は最悪だ」


 アシモは歯噛みしながら、視線を周りに移す。


「これは――」


 最初はそれが何かわからなかった。いや、認識するのを脳が拒絶したのかもしれない。一面に散らばっている、鮮血に彩られたそれらは、人だったもののだった。


 空は漆黒に染まり、僅かに灯った街頭とビルの明かりがその惨憺たる情景を描き出している。


「何が、どうなって……」


 自分が意識を失っていた間に何が起こったのだろうか。そもそも、どれくらい自分は意識を手放していたのだろう。



 ――嗚呼、アア、ああ――



 後方から何かのが聞こえた。


「くそっ!またなのか!」


 アシモは苦虫をかみつぶしたような顔で悪態をつく。


 数メートル先から、奇妙な形をした生物らしきものが近づいてくるのが見える。ゆらゆらと、覚束ない足取りで、ゆっくりと、しかし確かにこちらに向かってくる。


「ひっ……」


 恐怖が言葉にならない。ただ息をのむ。あいつはなんだ。何故近づく。近づいて何をしようというのだ。


「ハルト、走るぞ」


「え――」


 視界が揺れる。気づいたときには、もうアシモに手を引かれて、走りだしていた。


「あ、アシモ!?」


 よろめく足を必死に動かしながら、状況を把握しようともがく。


「あそこにいたら、どうなるか分かんねえだろ」


「でも、だって。どこに行こうっていうのさ!」


「此処じゃない何処かだ!」


 何処かって、どこだ。そんな疑問をさしはさむ余裕などなかった。


 角を曲がり、その先を駆け抜け、よろめき、路地を突っ切り……。


 心臓はすぐに限界を超えたようで、胸が苦しい。口の中には血液の嫌な鉄の味が広がっている。普段から体を動かしていない自分を呪った。


「ちょ、アシ、モ。ぼく、もう……」


「もう少しの辛抱だから我慢しろ!」


 殆どアシモに引きずられているような感覚で、もう自分が走っているのかすら曖昧だ。


 重心が斜め下に傾く。慌てて体勢を立て直そうと目を見開くと、階段を駆け下りていることに気が付いた。ここは地下鉄のホームに続く階段?


「アシモ! 電車なんてもう動いてないよきっと!」


「んなこたぁ分かってるって!」


 そういうと、アシモは駅のホームの端でようやく立ち止まった。


「はあ、はあ、はあ。もう無理、もう走れない……」


 酸素が足りてないのか、頭が重い。視界の端が、時節暗転するかのように明滅している。完全にオーバーワークだ。


「少し休んだら、ここから歩くぞ」


 アシモは少し呼吸が乱れている程度で、調子を整えながらそう言った。こんなにも体力に差があるなんて、正直実感を伴うまで知らなかった。


「地下鉄の、レールの上を、歩いていくの?」


 乱れに乱れた呼吸を必死で正しながら、思いついた疑問を投げかける。


「地上を歩いていくのは危険そうだからな。かといって、地下が安全だとも限らねえけど……」


 そういいながら、アシモはジャケットの内ポケットから携帯端末を取り出してライトを点灯させた。


「ほら、お前の携帯。勝手に持って行って悪かったよ」


 アシモは取り出したもう一つの端末を投げてよこす。背面にお気に入りのキャラクターの絵が張ってある。間違いなく自分の端末だ。


「ほんとだよ、もう……」


 取り返した端末を見て、力なく呟く。アシモが部屋に来て、ハルトの携帯を持って行った。そんなやり取りがあったのが、もう遠い昔に思えてならなった。


「で、地下を行くのは僕も賛成だけど、どこに向かうの?」


「適当な駅から地上に出て、安全そうな建物とかでひとまず救助が来るのを待とう。それもダメなら国外逃亡でもするかな」


「国外って、この国の外ってこと?」


「まあそうなるな」


「海はどうするのさ」


 このルクスは四方を海に囲まれた島国だ。他の大陸まで到達するのはかなり困難だろう。


「そこまで考えてねえよ……」


 アシモは困ったように言う。


「ただ、絶対にお前を死なせはしない」


「アシモ……」


 その言葉に嘘偽りはなく、いつになくアシモの表情は真剣だった。


「……ぷっ」


 しかし何故だろう。現実にそんな台詞を、しかもこいつから聞くと、こんな状況にも関わらず笑えてくる。


「お、おい!今のは感動する場面だろうが!」


「だって、『絶対にお前を死なせはしない』なんて、そんな言葉ゲームでしか聞いたことないよ」


 張りつめていた緊張の糸が少しずつほどけていく。


「うっせえな!そんなこと言うくらいなら、もう休憩は終わりな!」


 アシモはそういうと、ホームからレールの上に飛び乗った。


「あ、待ってよアシモ!」


「早く来ねえと、置いてくぞ」


 地下鉄の構内に反響するアシモの声。慌ててホームから降りると、はるか先は闇に包まれている。端末を取り出して明かりをつけても、それはさして変わらないように思えた。


「しかし真っ暗だな……」


 アシモが呟く。


 永久動力炉に何かあったとすれば、ここら辺一帯に電力の供給はされていないのだろう。非常灯のわずかな明かりと、手元の端末の明かりだけが、今は唯一の光源だった。


「一体何が起きたんだろう。永久動力炉からの煙もそうだけど、人が……」


 変容する人々。此処に来るまでの道程で、普通の人間を見た記憶がない。


「どうしよう、僕らもあんな風になったら……」


 そういうと、ハルトは慌ててかぶりを振る。


「今は考えるな。俺たちの体には、何も……」


 そこまでアシモは言うと、何かに気づいたように黙る。


「アシモ……?」


「ハルト、お前。俺が来るまでに何があったんだ?」


 一瞬の沈黙の後、アシモが口を開く。


「その血は、一体どうした?」


「それが……」


 ハルトは再び困惑した。


「自分でもわからないんだ……。気が付いたら、アシモがいて、周りは死体だらで……」


 気が付けば、自分の体は血に塗れていた。


「たぶん、いや、きっと気を失っていたんだと思う」


「そうか……」


 今の要領を得ない回答で、納得した筈もないが、アシモはそれ以上訊いてくることをしなかった。


 人気のない地下を、二つの足音が反響していく。


「そういやお前、最近学校サボって何してたんだ?」


 唐突にアシモが訊く。


「え、なに、急に」


「いいだろ、別に。で、何してたんだよ」


 そういうアシモはいつもの強引さで回答を引っ張り出そうとしてくる。


「別に、音楽聞いたり、ゲームやったり、寝てたり……」


 別段何かしていたわけではない。ただ、学校に行きたくなかっただけだ。


「へえ。今度俺も学校サボってみるかな」


「アシモ皆勤賞狙ってなかったっけ? 別にサボらなくても……」


「いいじゃねえか。俺も一日ゲーセンに入り浸るの昔からやりたかったんだよ」


 明かりで足元を照らしながら、アシモは言う。


「今度のそうだな、月曜日とか……」


「今度、ね……」


 二人の間に沈黙が流れる。


 学校に行くのはいつになるのだろうか。そもそも、学校のみんなは無事なのか。これから自分たちはどうなっていくのだろう。もしかすると、このまま永遠に日常にもどることはないのかもしれない――。


 一瞬のうちに思考は暗転した。先ほどまでの会話が、全て妄想になるのが、怖かった。


「アシモ」


「ん?」


 ハルトの呼びかけに、アシモは歩みを止めた。


「無理に話振らなくていいよ。こんな状況だし、何を話しても……」


 無駄。きっと気分はよくならない。そう言いたかった。


「相変わらず根暗だなあ、ハルトは」


 そういってアシモは再び歩き始めた。


「関係ないじゃん、そんなの」


 少しムスッとしながら、ハルトは言い返す。


「起こっちまったもんは、もう変わらねえけど、気の持ちようくらいは変えられるだろ」


「無理だよ……。だって人が死んでるんだよ!」


 いつの間にか自分は声を荒げていた。


「この先どうなるか分からない! あの人たちみたいに、死んでしまうかもしれない!」


 叫びは残響を残しながら、暗闇に飲まれていく。


「それなのに、どうしてそんな話を……。アシモはどうしてそんなに平気なんだよ!」


「……」


 そこまで言って、ハッとした。アシモだってきっと平気なんかじゃないと。でも、暴走する感情を止める手立ては、自分になかった。


「今日だって、ここに、こんな街にさえ来なければ、こんなことに巻き込まれなかった!」


 自分の言ってることがどんなに理不尽で、質の悪い八つ当たりか分かっているはずなのに、この世界を取り巻く状況が、やり場のない怒りを目の前のアシモへと向けさせる。


「……悪かったよ」


 謝罪。滅多にそれを口にすることのないアシモが、そう言った。顔は暗闇で見えないが、その声が確かな罪悪感を抱えていることは嫌でもわかった。


「……ごめん」


 我に返って途方に暮れる。なんで、自分は。この状況でアシモを責めたってどうにかなるわけでもないのに。



 ――あの状況で、僕を守ってくれたのは、他でもないこいつなのに。



「ハルト、止まれ」


 アシモが足を止める。


「え、なに?」


 唐突な呼びかけに困惑する。


「ほら、あそこ。光が漏れてる」


 アシモが指さす方向を見ると、確かに何かが強く光っている。


「なんだろう、あれ。隣の駅に着いたのかな?」


「いや、まだそんなに歩いてない。それにこの状況で、あそこだけ明るいのはおかしい」


 そういってアシモは歩調を早める。


「じゃあ、あの光は一体……?」


「確かめてみるしかないな」


 光は徐々に大きくなる。近くによると、手元の端末の光が必要なくなった。


「これは、何かの入り口か?」


「わかんないけど、そうみたいだね」


 闇に慣れた目を掌で覆う。ぽっかりとあいた2メートルほどの大きな六角形の穴から、絶えず光があふれている。


「それに、この音は何?」


 周囲が微かに振動している。規則的な何かの起動音が、この先から聞こえてくるのが分かった。


「行ってみるか」


 アシモは迷った風もなくそういうと、穴の中へと踏み込んだ。


「え、待ってよ! 」


 慌ててハルトはそれに続く。


「こんなよくわからないところ、どうして進むの?」


「一応俺にも考えはあるさ。大丈夫だって」


「考えって、なにさ……」


 光の先に進むと、無機質な白い回廊が見える。汚れのない、そして温かみもない、冷ややかな白。そんな道が先まで続いていた――。



 ――***——

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