転換
第1話*幕間_
――***——
――
教訓を与えるにしても、もう少し救いを与えてもよかろうに。手元の伝承を一瞥しながら、そう思った。
失わせるなら最初から与えたりせず、与えるなら最後まで与え続けろ、と。
結果が不幸なら、幸福な過程などなかったに等しいものなのに。
「でも、人は慈愛を知ったよ」
「恩人の抜け殻を
思わず鼻で笑ってしまった。もう少しまともな反論が欲しい。
「きっと後悔してるよ」
「失ったのを恨んでるのさ」
無かったことにしたいだけだ。じゃなければ世界の救済者の亡骸を、放り捨てたりしない。
「でも、七つの知識がなければ何も感じなかったよ」
「言ったろ? 失うくらいなら、そんなもの無いほうがましなのさ」
何度も言わせないでほしい。喜びは一瞬で、後に続く悲しみは無限なのだと。
「……バカ」
「悪口は叱られるぞ、ヴィータ」
言い合いは最後に笑っているほうが勝ちなのだ。論理的破綻など、勘定のうちには入らない。そういう大事な点を、こいつはまだ知らないと見える。
「でも、酷いって」
「……」
少女は純真な瞳で、声音で、悪気なく、臆することなく、言った。
――煩い。
「でも、救いがあっても良かったって」
「……」
少女はなおも続ける。まるで物分かりが悪い子供を諭すように。
――黙れ。
「そう、思ったんじゃないの?」
「――ッ!」
少年が敵意の視線を向けた先に、
「……ちッ」
小さく舌を打って、手に取った伝承を地面に落とした。こんなもの、もう必要ない。
地に落ちるより早く書物は宙に霧散して、消滅していた。くだらない伝承を書かれた紙きれだ。ざまあない。
「……さて、と」
一つ大きく息をついて、地に横臥した肉塊を気だるげに一瞥すると、その首を
「ハズレか」
これでは、また叱られるじゃないか。まったく、誰がこんな出鱈目な情報をよこしているのだ。自分は何度この徒労を味わえばいいのか。
夜が来て、朝が来る。これも自分にとっては似たようなことだった。
背後から近づき、頸椎ごと神経を破壊する。これなら痛みは感じていないし、きっと苦しくはないだろう。何より手間がかからず、作業効率も高かった。壊した後は、顔を確認して、違ったら消せばいいのだから。
問題はいつまでたってもアタリを引かないことだ。
対象は黒髪で、黒い瞳。背格好は平均よりやや低めで、年齢は16歳。
そんな人間、この世界には掃いて捨てるほどいる。というより、それはこの国の人間の特徴を並べただけのもののように思える。そんな情報だけでは、いくら探しても見つかるはずがない。
――見つけることが出来れば、きっと幸せなことがありますよ。あなたにとっても、その子にとってもね。
あの男の言葉を思い出し、反芻する。
「『幸せなこと』ね……」
一体それはどんなことだろう。どんなことが『幸せなこと』だと言うんだろう。そもそも『幸せ』とはなんだろう。
少年にはそれがわからなかったが、しかしそれが、強く惹かれるものであることもまた、確かだった。
夜空は、黒いカーテンで遮られているように何もない。月も、星も、何も見えなかった。この薄暗い路地にあるのも、消えかけた街灯だけ。無機質で、何処か息苦しさのある淀んだ空気が辺りを覆っている。昔、何処かで見た世界は、もっと明るくて、暖かかった気がするのに、ここは違う。
再び、地に伏した哀れな死体へと目を向ける。そろそろ後始末の時間だ。ひどくめんどくさいが、仕方ない。
掌を首筋に当てる。まだ身体は温かい。少年は魂を失った身体の隅々に意識を巡らす。皮膚、その下の筋肉、骨、血管、細胞……。
両の脚をつけた地の底から、自身の身体へと、『崩壊』を流し込む。そしてそれは、眼前の対象へ、熱が移動するように流れ込む。
刹那、死体は漆黒に染まり始めた。
虚の器を満たすように、『黒』が肢体を満たしていく。首から胴、胴から四肢、そして末端へ。数刻かからず、人だったそれは、ただひたすらに黒い何かへと変わる。
更に力を込める。何かは徐々に罅割れる。暗い夜闇を雷鳴が分断するかのように。
「サヨナラ、だ」
少年はそう呟くと、それを一息に押しつぶす。
次の瞬間、『黒』は泡沫の如く、弾けて、空に霧散した――。
破片はキラキラと、砕かれた幾千もの鏡の破片のように宙に散らばり、そして消えていく。
これが生命の最後の輝きなのだろうか、といつも考える。だとしたら、意外にも命というのは尊いものなのだろうか。そんなことを思った。もっとも、人の生き死ににさして興味はないのだが。
「……悲しい?」
「そんなわけないだろ」
少女の問いかけに、少年は毅然と答えた。
「じゃあ、嬉しい?」
「そんなこと、知るかよ」
これはただの作業だ。なんの感慨もない。
「いつか、わかるといいね」
「そうだな」
そんな日はきっと来ない。昨日がそうだったように、明日もきっとそうだ。永遠に続く無限の回廊に、喜びはきっとない。
「下らないこと喋ってないで、次行くぞ。ヴィータ」
少年が振り返ると、そこには今度こそ、少女の姿があった。
「うん、分かったよ。ルイン」
とたとた、と。頼りない足音を立てながら、少女は少年の近くへと歩み寄る。
「一人じゃ、さみしいものね」
「……減らず口が」
少女にきっと悪気はない。しかしそれが、余計に少年の心を逆撫でる。
これ以上、こいつに付き合うのは面倒だ。少年は少女の辿々しい歩調をかき消すように歩き始めた。
「怒ってるの? ルイン」
「わかりきったことを訊くなよ」
「ねぇルイン、お腹すいた」
「我慢しろ」
そうは言ったものの、少年も確かな空腹を感じていた。道すがら、なにかを食べていこう。
「ねえ、ルイン」
「今度はなんだ?」
少年は苛立ちを隠すつもりもなく、棘のある口調で訊く。
「次は、会えるといいね」
「……」
心が微かに揺れるのを感じた。その台詞を聞いたのは、これで何回めだろうか。
路地を出ると、先ほどまでの視界の薄暗さが嘘のようだった。
――眩しい。
夜の闇を搔き消さんばかりに、街は喧しい光で溢れている。明かりは、どこまでも続くかのような巨大な摩天楼を照らし、この街の輪郭を世界へと焼き付けていた。
止まぬ喧騒と人々の往来、
それがこの街の姿で、この世界の形だった。
――旧帝国ルクス領、王都ダルシス。
決して終わりの見えない光の中へと、少年は消えていった。
――*****——
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