序_巡礼ト廃轤

 

 LUXよりUMBRAへ通告_


 AURUM/ARBOR/TERRA承認_


 PRIMUM/QUARTUM承認拒絶_


 ――***——



 一人になると聞こえてくる。いつ始まったかもわからぬ、心臓の鼓動。いつ終わるかもしれぬ、世界の脈動。今にも消えていきそうな、空間と自分の境界線。


 瞼を閉じて、掌で顔を覆う。それでも届く陽の光。瞼の裏側がじんわりと温かい。瞳に映るのは、浮かんでは消える、幾何学模様。


 呼吸をすると、肺には少し冷たい、澄んだ空気が流れ込んでくる。植物のにおいか、土のにおいか、それは生命を感じる香りだ。そしてそれは風にのって吹き渡り、意識をかき消そうとする。


 居心地がいいのか、からだはぴくりとも動こうとしない。じっとりとした甘さにも似た眠気が身体を包んでいる。


「目を開けたら、いつもと同じ世界」


 けれど、瞼を開かなければ、瞳に映らなければ、自分は、全くの別世界にいるのだ。


「でも、そろそろ……」


 岩のようになった腰をあげる。掌はそのまま、目は開かずに、ゆっくりと彼女は立ち上がった。顔を覆う掌を退ける。瞼の裏が陽の光に照らされて、赤い。


 再び、今度は大きく息を吸う。しゃがみこんでいた時とは違う、暖かく、柔らかい陽光の甘い香りが口に広がる。


 月明かりのような優しさのある銀色の瞳に、太陽に照らされた世界が入り込む。


 足下、眼下に臨むのは、果てし無く、終わりの見えない崖だった。その深い底からは、芯が凍るような冷たい気を孕んだ風が吹き上がってきている。


 ――此岸しがん


 この場所を人々はそう呼ぶ。大地の裂け目。世界の終わり。現世うつしよ幽世かくりよの境界。


 ならば、だとすれば、この先に見えるのはなんであろうか。なんてことはない。ただの暗闇だ。深い、深い、光の当たらぬ、闇だ。


 ともすれば、光を吸収する実体のある重力の波が、この深い闇の源なのかもしれない。ならば、自分が見ているのは、闇ではなく、重力なのだろう。


 この場所に来るといつも思う。自分は結局、世界の何もかもを知らずに死ぬのだろうと。目の前に広がっている地平のその先も。その上に広がる空の彼方も。そしてこの果てなく続く暗闇の底も。自分が何者なのかもわからぬまま。


 そう思うと、そう考えると、途方もない虚無感が襲って来るのだ。何もわからない。何も知らない。胸がざわついて、いらいらする。そんな自分が嫌で、嫌で。いっそのこと、この崖の下へと飛び込んでしまおうとすら思うほどだ。


 ふと、彼女は空を見上げた。太陽の位置から察するにそろそろ午後に差し掛かるかというところだろうか。随分と長い間、この場にいたらしい。どおりで折り曲げていた膝がじくじくと痛いはずだ。


 ここは居心地がいい。目を閉じて、風を感じていれば、この世の惨憺たる現実から逃れられている気がするからだろう。いっそこの場に永遠にとどまり、現世の果ての標となってしまおうか。そんな無理な考えすら浮かぶ。


「——」


 抱擁してくる現実逃避を振り払うように、一息に『此岸』に背を向ける。と同時に、視界に入る『黒』。


 ひどく見慣れた光景が、嘲笑を孕んでそこにいた。


 ――黒煙。


 晴れ渡る青い空を、黒い炭で塗りつぶしたみたいだ。先ほどまで肺を満たしていた酸素が淀んでいくのが分かる。土と陽光の温かい香りが、黒煙に押しつぶされて消えていく。


 ――慟哭。


 耳を優しく撫でていた風が、怨嗟と憎悪に染めあげられていくのを、自分には止めることが出来ない。耳を塞ごうと無駄だ。皮膚の孔から胸の奥に、とめどなく入り込んでくる。


 地獄だ。この薄暗い暗澹とした世界をそう呼ばずして何と呼ぼうか。


 此岸? 現世? 冗談じゃない。この世界が『幽世』でこの場所が『彼岸』だ。この地の底を流れる闇の河が、きっとこの世界と『現世』とを隔てる境界なのだ。そう思わずにはいられなかった。


 自分はこの世界の『歴史』を知らない。累々と積み重ねられてきたはずのこの世界の生と死は、何を残すわけでもなく、ただ悪戯に生まれ、消えていくからだ。誰にも『誕生』を知られることなく、そして誰にもその『死』を知られることはない。だとするならば、そんな存在がいたということすら、きっとなかったのだろう。だから自分は『歴史』を知らない。


 眼下に広がる殺戮は、あまりにも整然としていて、一種の秩序とすら呼べるものだった。『殺す』という言葉は、あるいは不適当なものかもしれない。この世界の生物は全て、文字通り無に帰る。等しくないのは、それが先か、それとも後か、というだけの話だ。


 地平の先から迫る黒煙——。


 すでに視界の半分は、くらき闇へと飲み込まれている。ここもおそらく半刻程であの闇へと沈むだろう。


 この世界の中心にはぽっかりと開いた木のうろのような闇がある、と老爺に聞いたことがある。そしてそれは、夜に日が沈むように、大地を暗闇へと帰す、とも。それは何故かと尋ねても、それがこの世の摂理だ、と無知な子供を宥めるように言うだけで、それ以上老爺は何も語らなかった。


 消え行く人々の嘆きが聞こえる。恐怖が聞こえる。


 自分が今まで見てきた人間たちは、誰一人として恐れてはいなかった。嘆いてはいなかった。あの『暗がり』を見るまでは。


 ――みな平等に消えるのに、何のためらいがあろう。いつか消えるとしても、それは常というものだ。不滅なるものなどいない。


 そう嘯いていたのは、それが苦痛を伴うことを知らなかったからだろうか。


「結局何もわからなかったよ。フラム……」


 黒煙に飲み込まれていく人々と大地を見ながら、呟いた。こんな世界に生まれて、『巡礼』の使命まで帯びた『あの子』は、最後まで嘆かなかったというのに。


 この大地に落ちる黒点は、突如として出現し、周囲を侵食しながら、消滅する。その場にあったものは全て分解され、跡形も残らない。原因は不明。理由もわからない。世界の仕組みなど、自分には理解できようもなかった。



 ――巡礼こんなことになんの意味があるというの? 私で担い手は最後なのに……。


 ――でも、あなたは私に意味を与えてくれたわ。あなたがいてくれるから、私はここにいるのよ。セプティ。



 一つの共同体コモンが闇に飲まれるとそれを次の共同体に知らせるは、この世界で唯一、滅びを知るものだった。そして自分は最後の巡礼の使徒。この世の果てである『此岸』についた時点で、この使命の担い手は終わりだ。今はただ滅びを知り、そしてそれを座して待つただの人。


 人々は巡礼者の到来をどう思っていたのだろうか。本当に死を怖れてはいなかったのだろうか。いつか来るものが来ただけと、そのように一蹴できるものなのだろうか。


 もしかしたら、自分はこの、今際いまわまで嘆きを知らない世界に生まれた一種の不具合エラーのようなものなのかもしれない。



 ――嗚呼、ああ、アア――



『蒸発』といえばいいのだろう。炎に垂らした一滴の雫が消えるように、人々は最後に赤い飛沫をあげて、消えていく。遠目に見ると、一瞬の血風が赤い光のようにも見えた。


「もうすぐ、か」


 覚悟を決めて、再び大地の裂け目へと振り返る。


 私は生きる意味を知らない。最後まで分からなかった。次に繋ぐものが何もないこの世界で、それを見つけることはきっと難しかったんだろう。でも――。


 その場に屈み、両の手で畳んだ足を抱え込む。心の荒波が、少しずつ静かに凪いで行くのがわかる。やはりここは居心地がいい。世界の端で、もう何もかも終わるというのに。


 瞼を閉じる。陽の光を伝って、血潮が通っているのを感じた。息を吸うと、再び生命の脈動が肢体を駆け巡る。


 世界と自分の境界線が消えていく――。



「ああ、でも――」




 ――やっぱり、嫌だな。




 ――***——



 現時点を以てUMBRAを廃棄デリート


 以降の活動をNIHIL_に限定。

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