第10話 雨宮香里
私が橘水樹と出会ったのは、中学2年生の時だった。私が部活で使うコントラバスを苦戦しながら運んでいると、彼が私に声をかけ、運ぶのを手伝ってくれた。出会いはそんな小さなことだった。
私は小学校1年生の頃から約2年間、父から虐待を受けていた。両親は共働きで、父は私と2人きりの時にしか虐待をしなかった。
虐待というと暴力のイメージが強いかもしれないが、それだけではない。例えば、1日中ご飯を与えられなかったり、罵詈雑言で精神的苦痛を与えられたり、徹底的に無視をされたり、私に対する虐待はそういうことが大半で、暴力を振るうのはたまにだった。きっと、体に跡が残ると面倒だったからだあろう。
でも、父は家族3人でいる時は普通の父親だった。優しく、笑顔で、温かい。だから余計に不気味で、気持ち悪くて、怖かった。
ある日、私は父と2人っきりだった。今日は何をされるんだろう。そう考えていると、鈍い痛みがあった。思わず吐きそうになる。そっかお腹を殴られたんだ。自分のことが他人事のように感じられる。髪を捕まれ、また殴られると思ったとき、母がいつもより早く帰ってきた。娘が殴られている光景を目の当たりにした母は私から父を引き離し、そのまま家を出た。母に今までのことを話すと、信じられないという表情をしていたが、気づいてあげられなくてごめんね。と涙を流しながら私を抱きしめてくれた。私はそこで初めて泣くことができた。
その後は、話が早く進んでいった。母は父と離婚し、親権を得た。父は私が高校を卒業するまで養育費を払うこと、これまでのことに対する慰謝料を払うことが課せられた。
母は強い人だった。そして、父は弱い人だったのだろう。なぜ父が私を虐待していたのかは今でも分からない。知りたいとも思わなかった。
そして、父に虐待をされて以降、私は男が怖くなった。
小学校では男子を避け、決して関わらないようにしていた。中学生になるとこのままでいいのかなと思い、男と接するよう努力した。しかし、うまくはいかなかった。男と話すときは緊張し、目を見ることができず、震え、汗が吹き出し、会話の受け答えも曖昧だった。これでも良くなった方だと、自分に言い聞かせながら男性恐怖症を克服しようとしていた。そして、中学3年生になる頃にはなんとか会話ができるまでになった。しかし、男と接することは相当なストレスだったため、香里はうんざりしていた。こんなことをして何になるのか、いつまで続けなければいけないのか、本当にこれが治るのか、そんなことばかりを考えてしまう。限界だった。
そんな時、橘水樹に出会った。
「重そうですね。手伝いましょうか?」
最初に声をかけてきたのは水樹だった。
私は疲れていたが、相手が男だったため断ろうかと思っていた。しかし、彼は私が断ろうとする前にコントラバスを抱え、笑顔でどこに持っていきますか?と聞いてきた。その笑顔を見ると、なんだか断りづらくなってしまい、彼の厚意に甘えることにした。
「ありがとう」
私がそういうと彼は笑顔でどういたしましてと言った。
「あのー、先輩ですよね?」
私たちの学校は学年ごとに上履きの色が分かれており、水樹は私の足元を見ながらそう言った。
「また何かあったら手伝いますよ。それじゃあ」
そして、彼は帰っていった。
優しい子なんだな。と香里は思った。
それから、廊下ですれ違う度に挨拶をするようになり、いつの間にか話しをするようになっていた。水樹と話しをするのは、他の男と比べて苦にはならなかった。それは、水樹が物理的にも精神的にも一定の距離を保っていたからだった。たったそれだけのことだったが、それが1番難しいことを香里は知っていた。水樹が意図してそうしていたのかどうかは分からなかったが、香里は、もしかしたらこの子とは仲良くできるかもしれないと思った。
そうして、仲良くなるうちに家が近所であることやお互いローリエを知っていることを知り、私が部活を引退してからは、帰り道や近所の公園、ローリエで話しをするのが当たり前になっていった。
特に真面目な話をするわけでもなく、いつもくだらないことばかり話していた。それでも、香里にとって男とこんなに会話をするということが今までなかったため、水樹との会話はとても新鮮に感じられた。
テストが近くなると、放課後の教室に2人で勉強をしたり、水樹の課題を手伝ったりもした。後輩から頼られるというのは照れ臭くはあったが、自分が必要とされることは素直に嬉しかった。
私は水樹のことを人懐っこい後輩だと思っていた。私は一人っ子だったため弟がいたらこんな感じかなと、水樹を弟のようにかわいがった。
そんなある日、水樹と2人で遊びに行くことになった。きっかけは水樹の洋服選びに付き合うというものだった。男と出かけるなんて初めてで、洋服選びを手伝うことになったからには、ダサい格好はできないとがんばってオシャレをした。私服を見せることに恥ずかしさはあったが、それ以上に楽しさがあった。
それからも、私と水樹は2人で遊びに行った。遊園地や水族館などデートと言えばデートだったのかもしれない。水樹はどうやら私に好意を寄せているようだったし、私も水樹のことは嫌いではなかった。でも、今まで恋愛を経験してこなかった私にとって、好きという感情がどういうものなのか分からなかった。
そして、私の卒業が近づくにつれて、2人でいる時間は多くなっていった。放課後は毎日のように一緒に帰り、ハロウィンには変な仮装をし、クリスマスにサプライズでプレゼントを渡すと水樹もプレゼントを用意していたり、大晦日には年が明けるまで長電話をしたり、バレンタインにはチョコを渡したり、とても楽しかった。香里は生きていて今が1番楽しいと思った。
そして、卒業式の日。いつものように2人で帰っていた。
「今日で終わりかぁ」
「感慨深い?」
「んー、よく分からない」
香里は卒業することになんの未練も無かった。学校が楽しいと思えるようになったのは3年生になってからだし、それは水樹がいたからだ。だから、卒業することに未練があるとすれば。
「水樹と会えなくなるのは、ちょっと寂しいかな」
素直に思ったことを口にする。
すると、水樹は私を抱きしめる。その瞬間、今まで感じたことがないくらいの恐怖を感じて水樹を思いっきり振り払った。
「やめて!!!!」
私はその場に立ち尽くしてしまう。何が起こったんだろう。何をしたんだろう。頭が混乱する。気が付くと涙が溢れていた。
水樹にこうして触れられるなんて考えもしなかった。いつも心地いい距離感で接してくれていたからこそ裏切られたような感覚になる。
私はこれ以上、その場に居たくなくて、水樹にこんな姿を見られたくなくて、走り去った。
どうして、どうして、誰に対して、何に対してかは分からなかった。ただ、どうしてと思うことしかできなかった。
そして、私たちはその日以来、連絡を取らなくなった。
ずっとあの日のことを後悔していた。私は水樹の好意を知っていたし、水樹は私の男性恐怖性のことを知らなかった。なのにあんなひどい別れ方をしてしまった。そしてなにより、水樹に会えない辛さが私は水樹のことが好きだったんだと気づかせる。
水樹に会いたかった。会って謝りたかった。でも、会いに行けるような状況じゃなかった。
もう前みたいには戻れないのかな、会いたいよ。水樹。
香里はずっとずっと泣いていた。心に雨が降っているように。
そして、4年が経ち、再会した。
あぁ、こんな雨の日に会うなんて。どんな顔したらいいんだろう。
この再会はやり直すチャンスなのか、それとも罰なのか、でもできるなら。そう思い香里は水樹に声をかける。
「久しぶり。水樹」
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