【序】Ⅴ『Drift bygone』
〇 〇 〇
とんでもない有り様だった、とヴァネッサは苦笑する。あの青年のみならずベンジャミンまでもが医務室から姿を消したのだ。
その際に千鳥達スタッフは大慌てで指令室を飛び出し、別室で今回の件を調査していたレイモンドまでもが探しに行ってしまう始末である。
ミランダは頭を抱えて深い溜め息を吐くと上層部への報告書作成のために指令室を後にした。桃花は平然と何事も無かったように引き続き職務遂行に勤しんだ。
そして灰沢はと言うと目を光らせてくる人物達の不在を利用してヴァネッサに『ある物』を差し出したのだ。
(彼の正体、突き止めて貰っても良いかね?)
灰沢から託されたのは医療用のビニールパックに収められた小さな脱脂綿である。
本来の白色を侵食するように彩られた【紅】を発見した直後、ヴァネッサは動揺を隠せない様子で突き返した。
(此処で一番、疑念を抱いているのは君じゃないか?)
そう指摘された直後、彼女は断るために用意した言葉を飲み込む羽目となった。
(安心したまえ。これはケガの消毒で使用された脱脂綿だ。それに彼からの了承を得た上での調査さ。)
まさにWin‐Winの関係だよ、と灰沢はヴァネッサに告げてから【情報の断片】が入ったビニールパックを再び差し出した。
わざわざ語り聞かせて渡してくる灰沢にヴァネッサは訝しげな表情を浮かべる。
colorsのメディカルチェックを中心に医療行為全般は医師免許を持つ彼の専門分野である。
その灰沢が得意分野の『化学』を投げ出して【医者】をするのは何かしらの意図が働いている場合だ。
【医者】の彼に対して生物学的サポートをするのが同じ科学者であり、『生物』を得意分野とする自分なのだ。
だが分野が違えば考え方も異なる。調査に裏があることを直感するや否やヴァネッサは率直に断、れなかった。
断ることを予測していたのか、灰沢は有ろう事か蚊帳の外に置いていた筈のシオンにも話題を持ち出したのだ。
『調査』以外の選択肢を絶った灰沢に怒りを覚えたが、「彼が何者なのか知りたい」というシオンの純粋な願いを否定出来なかった。
交渉は成立される運びとなり、調査に至ることとなった。そして現在、ヴァネッサはシオンに助手として立ち会って貰いながら自分の研究室で調査を進めている。
灰沢から提供された脱脂綿から血液サンプルを採取し、不純物を除去すると遺伝子レベルまで分析する。研究室に備わった検査装置にサンプルを収納、目視可能な数値に変換する。
その結果を研究用コンピューターに転送した後、デスクトップに表示した。
「な、何だ?これは。」
「かれ、いでんし、へん。」
出力された数値にシオンは驚愕し、ヴァネッサは唖然とする。画面に映し出された結果は数値のみではなかった。
素人であるシオンの目から見ても【異常】としか言い様の無い遺伝子配列が図式となって表示されていたのだ。
「ヴァネッサ、君から見てどう思う?」
「かれ、いでんし、ふつう、ちがう。」
困惑しながら訊ねる彼にヴァネッサは動揺を隠せない様子で回答するしか出来なかった。
基本的な遺伝子構造は地球人、それも極東の国に暮らす『日本人』の物だが配列の所々には異星人の遺伝子情報が組み込まれていた。
信じられないものを見てしまった表情でヴァネッサはコンソール画面をぎこちなく操作し始める。
与えられた【情報】を隈なく解析する彼女の中で一つの結論が浮上した。
『家畜やペットが人間の都合で品種改良されたように、彼もまたそうなるように生まれた存在なのでは?』と。
オカルト専門誌が面白おかしく誇張して執筆した記事を真に受けているわけではない。しかし、どの惑星でも水面下で暗躍する秘密結社や組織が存在している。
経緯は不明だが、もしそれらが星々のみならず全宇宙を繋げる存在を生み出すために儀式的な子孫繁栄を行ってきたならば確証は得られる。
何よりもコネクトインナー未着用のまま、未調律のギアを扱って無事で済むなど理解不能にも限度がある。
奏甲を纏うには生身の肉体を保護し、強化する【壁】としてコネクトインナーは必要不可欠だ。
それを着用せずにギアを発動させて奏備するなど自殺行為以上の愚行でしかない。
ギアを構成する無彩色メタルを開発したのは三人。レイモンドの母である雪村六花、灰沢の同期である■■■■、そして灰沢本人だ。
その一員である灰沢の言葉を信じてミランダや千鳥達スタッフは行動したに違いない。
一般人である青年に対しての愚かな無謀、裏付け出来る動機が無ければ実行など不可能だ。もし現時点で明かされていない【秘密】があるならば、話は別である。
ヴァネッサは何かを思い出したようにとある方向へと目を向ける。検査キットなどが散乱する机の上で横たわる【もう一つの情報】に手を伸ばした。
「ヴァネッサ、それは?」
「どくたぁ、くれた。たぶん、なにか、じょうほう、ある、かも。」
何の変哲もないUSBメモリを手に取るとヴァネッサはコンピューターの専用差込口に差し入れる。USBメモリに保存されているフォルダーをクリックし、データを開示した。
そこに現れたのは一人の青年のカルテであった。氏名は【unknown】とされ、症状欄には様々な外傷名とともに『記憶喪失』を意味する名称が記載されていた。
他のデータではリハビリテーションの記録や治療方法、術後の経過などのあらゆる個人情報がコンピューターのデスクトップを埋め尽くす。
「全部、あの一般人のデータなのか?」
「かれ、ひんし、じゅうしょう。でも、かんち。あと、」
ヴァネッサはコンソール画面を操作し、『ある情報』を拡大した。
「あの、ひ、の、せいぞんしゃ。」
カルテに記載された日付にシオンは愕然とする。
「嘘だ!あの惨状で生存者が居たなんて信じられない!」
「でも、じじつ。」
「第一この回復力は馬鹿げている!まるで」
バケモノじゃないか、と吐き出しかけた言葉をシオンは慌てて飲み込んだ。普通の人間ではないことを理由にバケモノと呼ばれるのは誰だって嫌な気分にしかならない。
3年前の出来事が起こる前、あの青年がどのような経歴を持っていたかは不明である。もし記憶喪失が彼にとって一種の『救済』になる出来事が、例えば強化人間になるべくして不可抗力の人体実験を施されたのならば確証を得られなくはない。
「しおん、いう、したい、きもち、すこし、わかる。」
罪悪感に苛まれるシオンにヴァネッサは一瞥を投げると、カルテのデータ・ウィンドーを全て閉じた。
フォルダーごと『ごみ箱』アイコンに収めて削除した後、空になったUSBメモリに今回の調査結果を保存する。
そして邪魔者を追い払うようにコンピューターに差し込まれていたUSBメモリを引き抜いた。
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