第2話「オーク、最大の危機」

「おや、どうしました。騒がしいですね?」


 そう言って不思議そうに首をかしげながら稽古場に入ってきたのは、現在千糸部屋唯一の幕内力士『善人総出ぜんにんそうで 悪人あくひと』だ。

 糸のように細い目に常に微笑みを浮かべている一見力士らしくない風貌だが実力は確かで、とくに此処ぞの一番では何故か不調の相手を確実に倒すなど堅実な実力を見せることが多い。俺や丸眼鏡のような入幕したこともない力士にとっては雲上人だ。

 

「親方が連れてきた新入りが、桜田を倒したんでやんすよ!」

「へえ……それはそれは、興味深いですねぇ……」


 一瞬だけ、悪人関の細い目が少しだけ開かれたように見えた。


「新人クン、少し待っていただきたい」


 土俵から降りようとしていた豚田を、悪人関がとどめた。

 豚田の表情は伺えない。


「というか、豚の表情の変化とかわからないでやんすよね」

「言うなよ……」


 悪人関と豚田、睨み合う二人の間に無言の時間が流れた。

 先に口を開いたのは悪人関だった。


「どうですか。わたくしとも一番」


 どすん、と。地響きが稽古場を揺らした。悪人関が四股を踏んだのだ。これだけ戦意を露わにしているこの人を見るのは久しぶりだった。

 一方、豚田の反応は明らかだった。


「フゴォー!」


 シュインシュインと光の粒子を発散しながら浄化しかけてた。


「は、はい……?」

「……!!そうでやんすか!オークは邪悪な魔族でやんす!一方相撲は神事という側面も持っていて、四股には邪悪を払う力があると言われているでやんす!幕内力士高ランク聖職者の四股に豚田低ランクオークでは耐えられなかったんでやんすね!!」

「マジかよ」


 悪人関がもう一度四股を踏むと豚田から光の粒子を発散する速度が「なんでこの状況で追い打ちするんですか!!」

「いえいえ、まさかと思いまして」


 悪人関は悪びれた様子もない。彼のことだから本当にまさかと思っただけなのだろう。俺は信じている。


「ではこれではどうですか」


 そう言って悪人関はパンと手を打ち鳴らした。塵手水、と呼ばれる清めの動作だ。


「フゴォー!」」


 光の粒子を放つ速度が加速し「やめろって言ってんでしょ!!」

「いえいえ、まさかと思いまして」


 まさかと思ったなら仕方ない。俺はそう思うことにし「これ塩とかまいたらナメクジみたいになるんじゃないですかね」

「やめろっつってんだろ!!」


 悪い人ではない。悪い人ではないのだ。雨の中子犬を拾ってるところを見たことがある。けど俺は全力で悪人関を押しとどめた。


「なあなあ、試しに俺も四股踏んでみていい?」

「横綱経験者の四股はシャレになんないでしょ親方ァ!!」


 俺のツッコミに親方は上げていた片足をしぶしぶおろした。


「しかし、これは困ったものですねぇ……桜田クンよりも強いようですが……四股で浄化してしまうようでは力士になるのは難しいのでは?」

「ううん、たしかにそうだよなあ……しゃあねえ。こいつはどっかに放り出すか!」

「外来種を捨てるな!」


 環境破壊をしようとする親方をなんとか押しとどめたものの、四股で浄化してしまうようでは力士になれないという問題は依然として解決されていない。


「そもそもどうしてこんなの拾ってきたんですか親方……」

「えー、だってお前。普通新弟子拾う前に四股踏んで消えるかどうか確かめる?」

「オーク拾ってくる人が普通とか言うなよ……」


 豚田を見ると、どうにか回復してきたようで光の粒子の発散は止まっていた。


「ううん……なんか聖属性耐性がある装備をつけるとかで対処するしかねえかなあ」

「力士が付けられる装備ってなんですか……」

「マワシはもう付けてるから……髷?」


 そういえば、豚田はまだ髷を結っていない。頭にはふさふさとしたモジャ毛が生えているだけだ。

 他にどうすることもできそうにない、ということで髷を結うことを試してみることにした。



――――


 床山歴30年、床王はその日平時よりも早く千糸部屋に呼び出された。

 千糸部屋の所属力士は多くない。不惑をとうの昔に越え来年には五十歳を迎える。若い頃のように体力に任せて数をこなす自信がなくなった床王にはちょうどよい規模の部屋であった。

 連絡の電話はどうにも要領を得なかったが、なんでも新しい力士が部屋に入ったらしい。

 この歳になると、若い力士の髷を結うことは楽しみになってくる。

 緊張した子供が、力士に生まれ変わる瞬間に立ち会えるのは床山冥利につきるというものだ。

 床王はワクワクしながら稽古場の扉をあけた。

 そこには二足歩行する豚が居た。


「豚だー!」


 床王は叫んでから、異常に豚面の青年なのかもしれないと思った。

 だとしたら謝らなければならない。

 小さく息を吸い、吐く。呼吸を整えてから、もう一度見た。

 乳首が十二個あった。


「やっぱ豚だー!」

「あ、そのへんの下りもうやったんでそれぐらいにしてもらえるでやんすか?」


 千糸部屋の若い力士、丸眼鏡 解説太郎がそう言った。


「かくかくしかじかで、なんとかこいつの髷を結ってやってほしいんだ。できるかい、床王の旦那?」

「へへっ、面白いじゃねえか。俺も力士の髪を結ってきてなげえが、こんなやつ初めてだ。腕がなるぜ」


 親方に説明され、床王は豚田の髪に手を触れた。

 あまり長くはないが、ゴワゴワとして針金のように硬い。


「豚毛は工業用ブラシにも使われるぐらい剛性と靭性に富んでいるってインターネットの無料百科事典サイトに書いてあったでやんす」

「お前解説キャラなのにソースそこだけなのな」


 なるほど、と床王は思う。最近はそういう力士も居るのだろう。だが。


「へ……外国人力士の縮れ毛細毛と比べれば、この程度屁でもねえ!」


 床王を屈させるにはいささか力不足だ。

 鬢付け油で髪を柔らかくし、櫛で整える。元結で髪を縛るのは力が居るが、そこには培って来た技術がある。

 油を刷り込み、まとめ、紐で結っていく。床王がみるみるうちに豚田に髷を仕立て上げていく。

 それを見て、平凡川はあることを思っていたが、口に出すのをぐっと我慢した。


「なんかチャーシュー作ってるみたいな光景でやんすね」

「言わなかったのに!!」

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