第33話 汝、理解を恐るることなかれ



 オリエント魔法研究学院、研究棟。


 この五階建ての建物は、大学部の施設であり、またオリエントに勤務する教師たちの研究室でもある。

 高等部の学生棟からは徒歩十五分ほどかかるので、高等部の教師は普段なら職員室を居場所にしているのだが、休日などの時間がある日は、ここで自身の研究などを行っていることが多い。


 オリエントの認識学教師である明里宗近も、この研究棟に研究室を一室与えられていた。


 認識学とは、情報界を含めた認知について魔法論的に考察する分野のことだ。

 哲学的認識論から科学的認識論まで含めた、現実世界での人の認知の過程を丁寧に分析するのがこの学問の意義であり、それは突き詰めていけば魔法士がどのように魔法を知覚しているのかを解き明かす学問といえる。


 明里宗近は三十四歳という若さでありながら、認識学の分野において一定の功績を上げており、オリエントでは研究室を与えられるほどの鬼才だった。


 そんな彼は、応接用のテーブルの前に座り、空中に立ち上げた仮想ディスプレイ越しに教頭と話をしていた。


「――以上で報告を終了とさせていただきます」

「ふん。随分と派手にやったようだな、明里」


 宗近の報告を聞いて、オリエントの教頭である嶽本左京は苦々しそうに言った。

 彼は苛立ちを隠そうともせず、指でトントンとテーブルを叩く。その神経質そうな態度にはどこか恐れが混じっていた。


 教頭は確認をするように尋ねる。


「本当に、証拠は残していないんだろうな?」

「もちろんです。そのためにグリフを派遣しましたから」


 教頭の不安を和らげるために、宗近は堂々とした態度でゆるりと答える。

 断言する宗近の言葉に安心したのか、そっと教頭は息をつく。しかし、それでもまだ一抹の不安が残るのか、強い言葉で重ねて言う。


「もし万が一、関与が疑われるようなことになった時のことは考えているのか?」

「ご心配なく。先日の退学者をスケープゴートとして用意しているので、こちらまで捜査が及ぶことはまずありません。それに、警察側の捜査の担当者とも交渉をしているので、学院側には一切の負担を強いることはありません」

「しっかりとやっているようだな。なら、これで奴はリタイアと考えて良いのだな?」


 疑り深い教頭の態度に、さすがに苦笑を漏らしながら、宗近は言った。


「腕を切断された二日後に登校できるような学生はそういないでしょう。もし、何らかの手段で回復したとしても、病み上がりの体力はたかが知れる。そう心配されることはないですよ」

「う、うむ。そうだな……」


 最後まで不安を隠しきれない態度を取りながら、教頭は映像通話を終了させた。

 上司への報告が終わって一息ついた宗近は、気が抜けた笑みを漏らしながら愚痴をこぼす。


「まったく、心配性な老人だ」


 言葉と態度を崩しながら、彼は皮肉げな笑みとともに正面を向いた。


「襲えと言ったのは自分のくせに、随分と注文が多いことだ。なあ、カザリ。なかなか好き勝手なことを言ってくれるとは思わないか?」


 宗近は肩をすくめながら同意を求める。

 対面するように座っていた神夜カザリは、不愉快そうに吐き捨てる。


「僕からすりゃ、面倒臭さじゃあんたも大して変わんないけどな」

「おや、これは手厳しい。うちのグリフが助けてやったというのに、感謝の一つもないか」

「使いっ走りで危険を犯したのは僕のルルだ。感謝をされるならまだしも、なんでしなきゃいけないんだ」


 ギロリと睨みながら、刺すような声でカザリは言う。

 そんな彼の剣呑な態度に、宗近はクツクツとくぐもった笑い声を漏らした。


「これは失敬。ああ、確かに、君のルルは良い働きをしてくれた。結果だけを見れば、これ以上無いくらい上等な結果だ」

「うちのファントムが重症なことを除けばな」


 宗近の手放しの称賛に、カザリは吐き捨てるように言う。


 現在、カザリのバディである渡良瀬ルルは、因子の半数近くが破壊されて休養中だ。幸い、彼女の原子の根幹となる『時流』と『変化』という二つの因子が無事なので、治癒のスキルを使って一日もあればファントムとしての機能を回復させることが出来るだろう。だが、もし破壊された因子が少しでも違えば、この程度の休養では済まなかったはずだ。


 そんな重症で逃げ帰ってきたことを差し置いても、宗近は作戦を成功だと言った。


「十分すぎる成果だ。なにせ、。幸福に思うべきだ」


 その言葉にカザリは嫌そうに顔をしかめるが、宗近としては嘘偽り無い本音だった。


 遠見センリ――龍宮家が召喚したかの神霊は、先の霊子戦争でも活躍した傑物であり、発生して百年は経つと言われている古参のファントムだ。

 ファントムの平均的な存在限界は三~四十年であることを考えると、百年も存在を保ちつづけるのは異常であり、もはやその霊格は土地神と化していると言える。


 ファントムの強さは因子の数にも寄るが、何より情報密度の多寡が重要となる。

 それは『どれだけの逸話』を持ち、『どれだけの影響力』を有するかという問題であり、長く存在すればするほど、現実に根ざす割合が大きくなることを意味する。


 そうした意味でいうと、遠見センリは原始の逸話以外に、現実における戦闘実績が多く、更には存在時間も長いという、正に化け物じみた神霊であると言える。


「本来なら、魔法士もファントムも霊子庭園の方が魔法行使を行いやすいものだが、土地神クラスとなるとむしろ現実の方が力の影響力が大きい。なにせ、世界と直接つながっているのだからね。それを踏まえるからこそ、最良の結果だと言っているんだ」

「けっ。そんなもん、あんたのファントムがいたからなんとかなっただけだろうが」


 そう毒づくカザリに、宗近はにやりと笑ってみせる。


「だ、そうだ。喜ぶと良い、グリフ。お前は今、褒められているぞ」

「そうか。ソレは喜ばしい」


 宗近の言葉に答えるように、虚空から声が響いた。


 その声に、カザリはギョッと目を見開く。

 目にも映らなければ気配すらもないところから、急に声が聞こえたのだ。慌てて振り返ると、そこには全身包帯の人影が立っていた。


 頭の先から爪先まで全身を覆うように白い包帯を巻き付かせたその神霊は、まるで最初からそこに居たかのようにゆらりと立っていた。その姿は、怪奇モノのホラーによくあるようなミイラ男をイメージさせる外見をしている。


 グリフと呼ばれたそのミイラ男は、朴訥とした話口で淡々と言う。


「アノ場では、ファントムも厄介だったが、なにより外野が邪魔だった。何度も結界を破られそうになったから、肝が冷えたぞ」

「む? それは外側からってことか、グリフ」

「おかしな異能を持つ女と、的確な処理をする男だ。女の方はわからんが、男の方は龍宮クロアだった。先に女が結界を攻撃し始めて、それが止まってから数分後に、龍宮クロアがやってきた。オレが結界の維持に専念していて、正解だった」


 グリフの報告を聞いて、宗近は思案するように眉根を寄せる。


「私も遠隔魔法で監視はしていたが、女というのはわからないな……。だが、グリフが言うのなら確かに居たのだろう。念の為、そちらも探すとしよう」


 宗近の言葉に、グリフはコクリとうなずくと、直立したまま黙り込んだ。

 姿を消すこと無く、ただそこにいるだけで不気味なファントムに、カザリは不快な視線を向けた。


 そんな彼を木にした風もなく、宗近は話題を変えるように尋ねる。


「それよりカザリ。君は、バディ戦の準備は万端なのか?」

「ルルが重症だっつってんだろうが」

「だがそれも治るのだろう?」


 当然のような口調で宗近は言う。


「怪我を言い訳に負けられては、神夜家の関係者としては一言申したくもなる。下手をすれば、私の教育責任まで問われかねないんだ。だから勝ちなさい」

「はっ。ほんと、好き勝手なこと言ってくれやがる」


 不愉快そうに舌打ちをして足を組むカザリだったが、虚空の一点を鋭く睨みながら、ボソリと続けて言った。


「言われるまでもねぇ。負けるもんかよ」


 インターハイ予選、バディ戦。

 明日がいよいよ開始の日だった。



 ※ ※ ※



 比良坂キサキの目の包帯が取れたのは、夕方のことだった。


 念の為、精密検査を行うということで明日まで入院することになったが、肉体的には健康体である。魔眼の暴走による情報圧汚染にしても、魔力流路の一部を傷つけた程度で、数日も経てば元に戻るそうだ。


 最も、身体的に健康でも、精神の方が正常とは限らない。


 午前中に駆けつけてくれた久良岐比呂人や矢羽タカミにすら心を開かず、キサキは口を閉じたままふさぎ込んでいた。その様子は、昨年のインターハイで魔眼を暴走させた時とあまりにも似ていて、タカミ達は掛ける言葉が思い浮かばなかった。


 目の包帯を外した時、タカミは目の前でその様子を見守っていた。


「どう? サキ。痛かったりはしない?」

「………だいじょうぶ」


 ふるふると首を横に振って、キサキは目を伏せる。


 その目は鈍く光っており、魔力が通っていることがわかる。

 常に励起状態となっている魔眼は、少しでも力が入ればすぐに琥珀色に輝き、弱体視の魔眼を発動させるだろう。


 怯えたように目線を上げようとしないキサキを見て、タカミは困ったように小さく息をつく。このままだと気が詰まるだけだと思った彼女は、そっと立ち上がった。


「ちょっとコウヤくんの様子も見てくるね。面会終了前には一度戻ってくるから」

「………」


 こくんと首が立てに動いたのを見て、タカミは外に出ていった。


 あとに残されたキサキは、そのままじっと、電気もつけずに病室に居続けた。やがて日が落ちて部屋が暗くなり、視界がどんどん暗くなっていくのに任せる。


 目を閉じると、瞼の裏でパチパチと白い光のようなものが散っていく。


 それは次第に全体に広がっていき、瞼という蓋を透過してしまう。そうして見えるのは外の風景であり、日が差さなくなって暗くなったはずの病室を隅々まで見通してしまう。

 弱体視――空間の『暗い』という情報の密度を低下させ、明かりがないまま空間を透視する。


 昔はかなりの集中力が必要だったそんな魔眼の使い方も、今ではたやすくできてしまう。

 それどころか、少しでも力の加減を誤ると、意図する以上の効果を生んでしまう。そして制御を放棄してしまった時、まるでブレーキの壊れた車のアクセルを踏みっぱなしにしたように、際限なく現実の情報を削っていく。


 ふいに、背筋が凍るような感覚に襲われた。


「う、うぅうう……」


 それを振り払うように、キサキは立ち上がってヨロヨロと歩く。

 狭い空間にいると息苦しかった。酸素を求めるように喘ぎながら、キサキはなんとか病室を出る。視界が僅かに広がるが、その瞬間に目に映る全ての情報が色分けされ、細分化されていく。それらを理解するたびに、反射的に情報密度を分解し始めようとする自分に気づく。


「は、は、は、は……ッ!」


 パニックに陥りながら、キサキは思わず駆け出していた。


 すぐにでも感情を落ち着けて魔力を整えなければいけないのに、混乱してしまった彼女はただ闇雲に走ることしかできない。もっと広い場所に。もっと情報に溢れた場所に。ひと目見ただけでは処理できないくらいの、膨大な情報に囲まれないと、落ち着くことなんてできない。


「は、は、は、は―――ッ!」


 そして。

 屋上に辿り着いた。


 広がる夕焼けに、彼方まで続く街並み。視界いっぱいに広がる世界に、処理しきれないほどの情報が一気に飛び込んでくる。


 キサキの瞳が輝く。

 琥珀色に光る瞳は、やがて処理すべき情報の多さに、キサキの思考を求め始める。そこでようやく、魔眼の制御が効き始めた。


 落ち着いてきた瞬間、またしても身が竦むような恐怖が襲ってくる。


「はぁ、はぁ、はぁ――、く、ぅう、ぁ」


 目の前で空間上の生命全てが死滅していった光景がフラッシュバックして、恐怖にカタカタと全身が震えだした。

 ずっと考えないようにしてきたのに、その危機感は目をそらせないほど目の前に存在して、逃れようとするキサキを掴んで離さない。まるで、お前が悪いのだと証拠を突きつけるように、魔眼は常に魔力を求め続ける。


 身が竦むような恐怖に体を震わせて、キサキは怯えながら目元を両手で抑える。

 こんなことなら、いっそ――と。


 両目を覆った手に力を入れ、顔を上げようとした、その時だった。



「何をするつもりか知らんが、やめておけ、小娘」



 冷めた乱暴な声が屋上に響いた。


 キサキはその声に一瞬だけ体の動きを止めると、恐る恐る両手を下げて声の方を見る。


「……センリ、さん」


 屋上の塔屋の上に、長キセルを持った遠見センリが悠然と腰掛けていた。



 彼はキセルを手元で弄びながら、まるですべてを見通しているかのように声をかけてくる。


「そのまま後ろを振り返って病室に帰りさえすれば、折り合いをつけてことを終わらせることが出来る。だが――そのまま続けると言うのなら、お前だけでなく、周りにも禍患を振りまくことになるぞ」


 塔屋の上であぐらをかいたセンリは、手の甲に顎を乗せて、興味深そうにキサキを見下ろしている。二メートル近い大男から見下され、自然と緊張感を覚える。

 センリの言葉に僅かにたじろいだキサキだったが、その場に佇んで緊張をほぐすように唾を嚥下する。それから、挑むようにセンリを見上げた。


 弱体視の魔眼が遠見センリを認識する。

 その巨体の中には、恐るべきほどの膨大な情報密度が詰まっている。ひと目見ただけではすべてを見通すことはできない、途方もないほどの情報圧。仮に魔眼を暴走させたとしても、このファントムを消滅させるには時間がかかるだろう。


 そんな事実を確認しているキサキを見て、センリは気持ちよさそうに喉を鳴らした。


「カカカ! 遠慮なく魔眼をこちらに向けるとは、大した度胸だ」

「……別に。あなたなら大丈夫だって分かってたから」


 投げやりにそう答えるキサキに、センリは「ほぅ」と含みのある笑みを浮かべる。彼はキセルを手に持ち直すと、担ぐように肩にぽんと乗せる。

 その様子を見て、キサキは気を紛らわせるようにどうでもいいことを指摘する。


「……病院は禁煙だよ、センリさん」

「カカ! この状況で喫煙の是非を指摘するか。存外余裕があるようで何よりだ」


 愉快そうに笑い飛ばしながら、センリはキセルを雑に振りながら続ける。


「あいにくと、このキセルは見掛け倒しだ。人格の元となった何某かが愛用していたようだが、今の俺の好みではない。もっぱら、見せかけだけの伊達でしかない」


 そうは言いつつも、センリはキセルを手放す様子はない。雑に扱いながらも、それが愛用のものであるというのは間違いではないようだった。


「それより――」


 と。

 センリは微かに前傾姿勢になり、ためつすがめつ眺めるようにキサキを見つめる。


。死誘に目覚めてなお正気を保っているのだから、なおさら難渋と言えよう」

「……センリさんは、この眼のことを知ってるの?」

「知識としてだがな。実際に見るのは初めてだ」


 あっさりと言ってのけながら、センリは表情を厳しくしながら真剣な口調で続ける。


「とはいえ――魔眼を持つものとしては、誰しもそうなる可能性をはらんでいるものだ。何も特別と言うわけではない。眼を介した事象の改変は、恣意的な認知によるものだ。故に、魔眼持ちは誰しも死誘に至る可能性がある」


 識別も、現視も、死誘も――自己の認知を世界に反映させることに変わりはない。

 魔眼とは、自身のクオリアで現実を塗りつぶす魔法現象だ。それが破壊に向いた時、どんな魔眼も死誘を発現する可能性を持つ。


 比良坂キサキの弱体視は、それにあまりに近い性質を持っていただけである。


「お医者さんにも言われたの。まだ完全ではないけれど、覚醒したら最後だって」


 視たもの全てを消滅させてしまう死の魔眼。

 それは、一人の少女が持つにはあまりにも強大過ぎる力だ。ただ見るだけで存在を奪う魔眼など、恐怖の対象でしか無い。


 センリに見つめられて、キサキは視線を地面へと落とす。色々な感情がない交ぜになった今の心境は、あまりにも混沌としていてまとまりがなかった。


 そんな彼女に、センリは困ったように頬を搔きながら言う。


「ふむ。気にするな、と言うにはちと持て余す力だからな。確かお前のバディも遠見の瞳を持っていたが、こればかりは魔眼持ちでなければ理解できまい。故に――、一つアドバイスだ。比良坂キサキ」


 センリは塔屋から飛び降りると、キサキの目の前に立つ。


 大男の巨体が立ち上り、夕日を遮って影を作る。

 そこにいるだけでおびただしいほどの情報圧を振りまく霊子生体は、本来なら身の危険を感じる脅威である。しかし、今のキサキにとっては、その過多な情報密度は安心する要因ですらあった。


 そんなキサキを見下ろしながら、センリは言う。


「理解することを恐れるな」

「………」

「その魔眼は、条理を解き明かすことで本質を直視することに意味がある。理解に寄って事象の本質を暴くことで情報としての価値を下げる。それゆえに、どのような物質でも消滅させることが出来る。つまり、物質を消滅させてしまうのは結果に過ぎんのだ。ならばこそ――消滅に至るまでのプロセスを理解してみせろ」


 センリの言葉に、キサキは息を呑む。


 キサキの両目は、物事を選り分けることに長けている。視界に映る全ての事象を自身の価値観で理解し、分類していく。そうすることで彼女はこの特殊な魔眼と付き合ってきた。


 しかし、死誘に目覚めてからは、その景色が一変した。

 あらゆる物が脆弱に見えた。

 あらゆる事が空虚に視えた。


 少しでも手を触れればそれだけで崩れてしまいそうな砂上の楼閣。魔眼で見つめて、あらゆる要素をより分け理解し通せばするほどに、世界は儚く脆いものに思えた。


 だから――自然と、理解するのを拒むようになった。


「たとえお前自身が制御を手放しても、すでに理解している事象については魔眼が勝手に死に誘うだろう。だからこそ、お前が自分の意志でしっかりと理解するべきだ。見て、観て、視て、その果てに、自分の意志で物事の趨勢を見極めてみせろ」


 反射による結果ではなく、意思による行為によって事を成せ。

 押さえつけるでも逃げるでもなく、正面から向き合い理解しろ。


「時間はかかるだろうが、それが魔眼を持つものの心得だ」

「…………」

「もし理解することに恐怖を覚えた時はいつでも呼ぶが良い。他の有象無象ならともかく、この俺は多少の理解では本質を暴けはしない。消せるものなら、消してみろ」


 センリの言葉に、キサキは言葉を失って立ち尽くしていた。

 呆けたように表情がなくなり、眼を丸くしてそこにいる。しかし、その心のうちは、センリの言葉を必死に噛み砕いていた。


 今、彼女は新しい知見を得た。


 常識だと思っていたものが崩れ、方向を見失っていたところに、ようやく道標を見つけたのだ。すがるような気持ちでしがみつくその必死な様子は、まだ彼女の心が死んでいないことの証左でもあった。


 そんな彼女の様子に、センリは満足げに息を漏らす。


 その時だった。



「むむ、こっちからキサキの匂いがするにゃ……おーい、キサキ!」



 鼻をヒクヒクと動かしながら、猫耳姿の女性が屋上の扉を開けてきた。

 自分の名前を呼ばれたキサキは、不意に我に返って入り口に視線を向ける。


「え? め、メグちゃん……?」

「もー、探したにゃ……って、!」


 彼女――二夜メグは、にこやかに笑いながら屋上に足を踏み入れ――そして、遠見センリの膨大な情報圧を感じて瞬時に警戒態勢を取る。全身の毛を逆立てて身構えるその様子はネコ科の野生動物そのものの雰囲気だ。


 しかし――相手の顔を認識すると、すぐに警戒を解いた。


「にゃんだ。いつかの鬼じゃにゃいか。身構えて損したにゃ」


 どうやら気配だけで反応していたらしいメグは、謝ることもなく平然と悪態をついた。


 そんな彼女を見て、センリは怪訝そうな顔をする。


「む……お前は、いつぞやの化け猫。そういえば、お前はあの男のバディだったな」

「にゃぁ。そうだとして、なんか文句あるかにゃ?」


 どうやら面識があるらしい二人は、険悪とまでは行かないが、奇妙な緊張感を放つ程度の間柄のようだった。

 わずかながらの敵意を向けるメグと、それを愉快そうにニヤついて受け止めるセンリ。その二人に挟まれて、キサキは居心地悪そうに肩身を狭める。


 このままでは埒が明かないので、センリは魔眼を使ってメグを見通す。


「ふむ。どうやらな」

「え?」


 センリの口からこぼれた言葉に、キサキは不思議そうな顔をする。

 そこにかぶせるように、メグが顔を笑顔に染めながら言った。


「そうにゃ! キサキ、安心しにゃ。コウヤの左腕、アキラがバッチリ直してくれたにゃ。だから、あんま心配すんにゃ!」

「――ふむ。偽りはないようだな」


 嬉しそうに言うメグに対して、センリは遠見の魔眼を使って現在のコウヤの状況を確認してからゆるりとうなずく。


「そら、比良坂キサキ。まずは行ってやれ」

「……で、でも」


 促すセンリの言葉に、キサキは尻込みしたように口ごもる。


 そんな彼女の背中を乱暴にたたきながら、センリはキサキだけに聞こえるように言った。


。無知でいることは、自身の命運を他者に委ねることに他ならん」

「……ッ」

「喜ばしいことくらい、自分から見に行け」


 キサキがオロオロとしながら顔をあげると、そこにはシニカルに笑う大男の姿があった。

 その両の瞳は、千里の彼方までを見通す魔眼である。彼にかかれば、見通せないものなど無い。


 キサキの目の前で、「ほら、早くするにゃ!」とメグが腕を引っ張っている。それに連れられるまま、キサキは屋上を後にする。


「あ、あの!」


 屋上の扉を閉める直前になって、ようやく気持ちが追いついてきたキサキは、屋上に残っているセンリに向けて声を張り上げた。


「あ、ありがとう、……ご、ございます!」


 キサキのその不器用な感謝の言葉に、センリは手を振りながら背を向けて答えた。



 ※ ※ ※



 メグに連れられながら、病院の廊下を走る。


 見つかれば怒られるだろうし、他の入院患者とぶつかったりしたら大事なのは分かっている。それでも、逸る気持ちを抑えるのは至難の業だった。


 走る、走る、走る。

 気持ちは急いているのに、湧き上がる感情を理解することができなかった。


 自分はどんな顔をしてコウヤと会うつもりなのだろうか。キサキのために傷ついて、キサキが力及ばなかったために倒れてしまった幼馴染の少年。左腕を切断された。死んでもおかしくないほどの怪我を負った。そんな彼の痛みを、無念を、自分は少しも理解できていないのではないだろうか。


 怖くて身がすくみそうなのに、足が止まらない。メグが急かす。自分の心も急かしてくる。早く会わなければ。鏑木コウヤに。自分のせいで左腕を失ったコウヤの様子を、一刻も早く視なければいけない。


 理解しなければいけない。

 だって、あたしは――


「コウちゃん!」


 病室の扉を乱暴に開ける。


 その瞬間、病室内に居た人々が一斉に驚いたようにこちらを振り向いた。

 医師が一人に、看護師が一人。


 そして、あと二人――


「なんや、サッちゃんやん。もう大丈夫なんか?」


 金髪にアロハシャツのチャラい男が振り返る。夕薙アキラ。見知った年上の男性は、そばに身の丈ほどもある木製の杖を立てかけて、ベッドの傍に座っていた。

 そして、そして――


「キサキ?」


 ベッドの上で、鏑木コウヤが上体を起こして座っていた。

 その左腕が――


「あ、ぁあ、うわぁぁああああああ!」


 崩れ落ちるように、キサキはその場に膝をついた。


 涙が零れるのを止められない。次から次に溢れてくる涙は頬をつたって床にシミを作る。

 急に泣き出したキサキに誰もがギョッとしたが、お構いなしに彼女は泣き叫ぶ。


 泣き崩れながら、キサキは必死で気持ちを口にする。


「良かった、良かったよぉ……」


 コウヤと会った時に、どんな顔をするのだろう。

 その答えを理解した時、比良坂キサキは少しだけ自分に歩み寄ることができた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る