5-6 星曼荼羅・天体図
全長十メートルはある巨大な蜘蛛が、吹雪の雪山に身を潜めている。
全身の各所が鎧を模した鉄に覆われており、ギシギシと軋んでいる。太く丸い胴体の真ん中には、兜の意匠が施されたドクロが浮かんでいて、不気味な眼差しで辺り一帯を睥睨していた。
その姿は、伝承される土蜘蛛のそれだったが、各所に見られる要素からは、全く別の印象を抱かせる。
しかし、当人にはもはや、それが何なのか、認識すら出来なくなっていた。
土蜘蛛の烙印を押された化物。
それが、今のソレを表す的確な表現だった。
「
聞くものを不快にさせる不気味な金属音を響かせながら、ソレは緩慢な動きで周囲を見渡す。
目的もなければ、意思もない。
ただソレは、本能の赴くままに、破壊の対象を求めて、怨念で構成された身体を動かしていた。
そして。
土蜘蛛は、雪面のくぼみに足を踏み込んだ。
次の瞬間、つんざくような爆音とともに、爆発が土蜘蛛を襲った。
※ ※ ※
「
土蜘蛛が絶叫を上げる。
大地を震撼させるような叫び声は、土蜘蛛の周囲に降り積もった雪ごと、地面を吹き飛ばす。
それは攻撃ではなく、あくまで土蜘蛛の防衛行動だったが、それだけで人間ならば粉微塵になりかねない膂力があった。
暴れ狂う土蜘蛛に向けて、大量の鎖がその巨体に巻き付く。
それは、つい先程も使われた、孔雀経法による呪縛式である。
霊力で編まれた鎖は、その巨大な身体をガチガチに固めると、そのまま絞め殺そうと戒めを強くする。
土蜘蛛はその巨体を跳ね上がらせながら、鎖を引き剥がそうともがく。
そこに、巨大な刀剣が振り下ろされた。
柄の先が三叉に分かれる装飾の宝剣だった。
名を、『
不動明王が右手に握りしめる退魔の剣であり、密教僧に伝わる最高峰の仏具である。
およそ五メートルはあろう大きさの宝剣は、土蜘蛛の胴体を貫いて地面に縫い付けると、続けてその身を焼き尽くさんと、浄化の炎を噴出させる。
「
立て続けになされた必殺の攻撃に、さしもの土蜘蛛も、その動きを止めざるを得なかった。
土蜘蛛は辺りに構わずのたうち回る。
それだけで大地が削れ、木々が粉々に砕かれる。その圧倒的な破壊力は、一キロ離れた場所にすらも、その破片を撒き散らす。
その姿を離れた位置で観察していた風見ジュンは、そばにいる冬空テンカへと指示を出す。
「今だ、冬空!」
「了解ですわ!」
テンカは全身に雪の風をまとうと、猛スピードで吹雪に包まれた大地を疾走する。
雪の神霊である彼女だからこそ、この吹雪に囲まれた結界において、普段以上のステータスを発揮することが出来る。
現実界で実体化していることを感じさせないほどに、彼女は空間を突っ走っていく。
その姿を見送りながら、ジュンは魔力で護符を編んでいく。
「
土蜘蛛は金切声とともに魔力を噴出させると、自身を縫い付けている三鈷剣を粉砕してみせた。
護符によって顕現していた三鈷剣は、高密度のエネルギーを前に、あっけなくその身を砕かれた。
降魔の三鈷剣は、ジュンが持つ最大の退魔手段である。
それが破られた今、彼がこの土蜘蛛を討伐することは、事実上不可能となった。
しかし、それは織り込み済みである。
「不意打ちは終わりだ」
ジュンは手に巻物を広げる。
彼が持ち出したのは、『
仏尊の姿を描いた絵図で、星回りを図解したものである。いわば古代における天体図であり、描かれた神仏の姿は、それぞれが宿星を司っている。
宇宙観そのものを体現したその天体図は、単純な天体の位置のみでなく、その宇宙に生きる全ての生命体に直結する、概念的意味を内包している。
「星の縮図をここに――『
彼が広げた星曼荼羅は、辺り一帯の空間に、概念的な結界として溶け込む。
それは、彼の『魔術』の因子を元にしたアクティブスキル。
彼が認識できる空間――この場合は、土蜘蛛が作り出した吹雪の結界範囲――における、概念的な位置関係を、任意に置き換えるというものである。
簡単に言えば、西と東、北と南といった方角の『意味』を入れ替える――太陽が西から上ったり、方磁石のN極が南を指したりするようになる、ということである。
それだけでは、ただ方角の呼び名を入れ替えただけでしか無いが――ここに、彼のもう一つのアクティブスキルを加えることで、状況は一変する。
「『
風見ジュンは、宿曜盤を刻んだ手袋を手にはめると、さきほど空間に溶け込ませた星曼荼羅へと、自身の意識を直結させる。
宿曜占星術とは、密教の一分野で、星占いの類である。
星回りを割り出して、いい効果ならば強調し、悪い効果なら相手に押し付ける。ジュンは普段これを使い、味方には強化を、敵に対しては弱体化を図るという戦い方をしている。
これの利点は、うまく行けば僅かな魔力で大きな効果を得られることにあるが、あくまで位置関係や星回りに左右されるため、自由度はそれほど高くない。
しかし、先に展開した『星曼荼羅・天体図』は、その自由度を際限なく向上させる。
これにより、ジュンはこの場における星の位置を、自由に変えることが出来る。互いの位置関係や、年度に日付。それのみならず、対象の誕生月や、自身の出生すらも改変することが可能だ。
それはすなわち、好きなように強化や弱体化の魔術を使えるということになる。
処理すべき情報が多く、また『星曼荼羅・天体図』の展開にかかる魔力は膨大であるが、この結界を展開している間、ジュンはこの場における全ての力関係を操れる。
「さあ、こっちを見ろ」
暴れまわる土蜘蛛の猛威が、すぐそばに迫っている。
不意打ちを仕掛けた時は、五百メートル以上の距離を取っていたが、もはやその距離のアドバンテージは無い。
しかし、土蜘蛛がジュンを見ている間は、大丈夫だ。
彼が守るべき子どもたちは、ジュンのいる方角の真反対に隠れている。
隠れているかまくらには、認識阻害と危機回避の加護が施され、更には『星曼荼羅・天体図』の効果で、最も安全な星回りが約束されている。
あとは、助けが来るまで、土蜘蛛を引き付ければいい。
「そら、こっちだ!」
右手に鉄扇を握り、左手には護符を用意する。
如何に星回りを操作しても、運命を凌駕するほどの膂力までは防げない。圧倒的な暴威を持つ土蜘蛛を相手に、僅かな道筋を手繰り寄せて、時間を稼ぐ。
「
「ぐっ、こん、の!」
迫りくる土蜘蛛の足を避けるが、その余波だけで腕の骨が粉砕される。
一番命の危険から程遠い星を選んでおきながら、この有様である。
すぐさま治癒の呪術を使うが、絶え間なく暴れまわる土蜘蛛の猛攻に、ジュンの全身が軋みを上げる。
腕が吹き飛ぶ。
胴体に穴が開く。
そのたびに、肉体をツギハギするように修復する。立て続けに負った重症は、『星曼荼羅・天体図』を利用した概念操作がなければ、修復は不可能だっただろう。
相対して数秒ですでに致命傷だ。
しかし、ここで諦める訳にはいかない。
「ああ、そうだ。それでいい」
土蜘蛛を引きつけるように逃げながら、ジュンは護符を構えて土蜘蛛を睨む。
「――限界まで遊んでやる。だから、俺から目を離すんじゃないぞ」
再び右腕を吹き飛ばされながら、彼は決死の防衛戦に挑むのだった。
※ ※ ※
背後で、轟音とともに大地が吹き飛ぶ音が聞こえる。
冬空テンカは、吹雪に包まれた雪山を、疾風に乗るようにしながら駆け下りていた。
雪山というフィールドは、テンカにとってこれ以上無いほどのホームグランドである。
積雪の中を流れるマナは、自然と彼女へと流れ込み、因子の活動を活性化させる。現実でありながら、テンカは霊子庭園にいるときと同等の影響力を持つことが出来ていた。
(時間がありませんわ。とにかく、速く――ッ!)
まずは、この吹雪で囲まれた結界を抜けなければならない。
風見ジュンの解析によると、この結界は上級コースと裏山を囲むような形で、五キロ四方に展開されているらしい。
結界の境目までの距離はニキロ。更にペンションまでの距離は一キロほどあるので、合計三キロの距離を往復し、さらに救援を呼ばないといけない。
『――おそらく、外でもこの結界については察知しているはずだ』
作戦会議の時、ジュンはテンカに対して、丁寧に指示を出してくれた。
『他に、この結界に巻き込まれた人間が居ないか確認したが、誰も居ないようだ。でも、外からはそれがわからない。だから、すでに外では捜索隊の編成が始まっていてもおかしくない。ペンション村についたら、まずはハクアの叔父を頼れ』
『わかりましたわ。結界の境目は、普通に通れるんですの?』
『呪術的な防壁は張られていないはずだ。お前の能力にも、それは無いだろう』
慎重に作戦の内容を練り、確実な救援方法を探った。
ジュンは淡々と、彼我の戦力差と状況を読み取り、事実をありのまま語った。
『俺は出来る限り土蜘蛛を引き付けるが、あまり長い時間は難しい。それに、お嬢の失血も問題だ。二十分が限度と思ってくれ』
テンカはジュンとの会話を思い出しながら、一心不乱に雪山を駆け下りる。
(二十分――ペンション村で事情を説明して、救援を送ることを考えると、五分以内にたどり着かないといけませんわ。正直厳しいですが――やるしか、ありませんわ)
積雪を踏みしめる足が熱を持つ。肌は絶対零度の寒さなのに、その内には燃えたぎるような意志があった。
自身の因子を活性化させればさせるほど、テンカの体温は下がっていくのに、それに比例するように、感情が熱を持つ。際限なく冷えながら、積み重なるように熱がその霊体を包んでいく。
(遅い、遅いですわ。もっと速く! もっと、速く走れるはずなのに! ああもう、なんでこの身体は、こんなにも遅いんですの!)
すでに時速五十キロは出ているが、先走る意識がもどかしさを覚える。あふれるほどのマナを吸収した霊子体は、際限ないパフォーマンスを主張するのに、それに彼女自身の能力が追いついていなかった。
自身の身体能力の理想と、現実における身体との落差に、テンカはじれったさを感じていた。
吹雪で視界が悪い山道である上に、山道には木々などの障害物があるため、直線距離での走破は不可能だ。
何度も障害物にぶつかりながら、それを強引に叩き潰して、テンカは一秒でも速く斜面を駆け下りようと必死だった。
(早く、早くしないと、あの拳銃娘が……ハクアが……ッ!)
土蜘蛛は確かに脅威だが、それ以上に、大量の失血をしているハクアは、この環境自体が死を呼びかねない。
この雪山で凍死することの意味を、テンカは誰よりも理解していた。失血による体温の低下は、雪山ではそのまま生命の危機に直結する。
かつて凍死を経験した少女の記憶を持っているテンカには、その恐怖がまざまざと想像できた。
(ハクアだけじゃない、コウヤも、そしてジュンも……わたくしが……わたしがっ、なんとかしないとっ、みんな死んでしまうんだッ!!)
努めて作っていた言葉遣いが崩れるほどに、彼女は動揺していた。
瞳からあふれる涙は、零れた瞬間に凍結して、風に砕かれて粉々になる。外気よりも遥かに低い体温を、更に下げながら、テンカは更に一歩、積雪を踏みしめた。
そして――何かに、蹴躓いた。
「ぎゃっ、きゃうんっ」
足を取られた物体を思いっきり蹴り上げながら、テンカはその場で一回転して地面に叩きつけられる。
時速五十キロ以上のスピードが一瞬にしてゼロになるわけもなく、交通事故に等しい転び方で、二回バウンドしてようやく勢いが停止した。
盛大に巻き上げられた積雪が、吹雪を一層濃密なものにする。
「あ、いた、た……。な、なんですの!」
こんなところで油を売っている時間はないと、頭に血を上らせながら勢い込む。
そこに、テンカが足を取られた物体が目の前に落ちてきた。
雪を舞い上げながら落下してきたのは、人間の身体だった。
「な、なに、これ……ひっ!」
氷点下の体温でありながら、テンカは思わず背筋が凍りそうになった。
一瞬遅れて、ボールのようなものが、コロンと転がってきたのだ。
それには目があり、口があり、鼻があり、耳があり――そして、首から下がなかった。
「あ、あぁ……そんな。これって」
その空洞のような濁った瞳が虚空を眺めている。
テンカは後じさりしながら、必死に首から目を離そうとして、今度は胴体の方に目が行った。
登山服を着た、中年男性だった。
肌は土気色で、すでに血が通っていないのを見れば、生命活動が停止しているのは嫌でもわかる。いや、それ以上に、その肉体は無数の刀傷を負っていて、首から上が無いのを見れば、死体であることは一目瞭然だ。
「か、刀……あの、刀?」
何かが符合しそうだが、それが何なのかが理解できない。
如何にファントムと言っても、テンカはまだ発生したてであり、死に触れた回数はそう多くない。動揺した精神では、目の前の情報がどういう意味を持つのか、うまく処理しきれずに居た。
「……だ、駄目、ですわ。落ち着きなさい。落ち着くのですわ、テンカ」
自身に言い聞かせるようにしながら、彼女はよろけながら立ち上がる。
『氷雪』の因子を最大限に発揮しながら、体の温度を下げていく。動揺して落ち着かない感情すらも凍らせながら、今やるべきことを思い出す。
「……時間。そう、時間が、無いのですわ」
躓いてからどれくらい時間を損しただろうか。その間にも、ジュンは土蜘蛛に追い詰められ、コウヤとハクアは死の危険にさらされている。
氷点下に下がった感情に、熱が灯る。
目の前のことはわからない。ただ自分には、やるべきことがある。
(ジュンは言っていましたわ。この雪山に、生きた人間はいないと。ならば、気にすることではないんですわ)
考えることはあとでも出来る。
今はまず、助けを呼びに行かなければ。
「待っててくださいまし!」
一瞬にしてトップスピードまで加速したテンカは、そのまま転がり落ちるように、ペンション村までの道を駆け下っていった。
雪山に残された死体は、吹雪によって大量の雪が降り積もり、やがて見えなくなった。
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