奇跡の桜の木の下で、

花 千世子

奇跡の桜の木の下で、

私が生まれ育った所は、文字通り何もない田舎で特に観光名所になるような場所もない。


 ただ、桜の木が町のあちこちにあることはちょっと自慢。


 おまけに『奇跡の桜』なんて呼ばれてる大木だってある。


 奇跡の桜は樹齢百年とか、戦争を生き延びたからそう呼ばれているだけではない。


 その木の下に死んだ人を埋めると、生き返る。


 昔からそう噂されているのだ。



 〇


 私は食器を洗いながら、背中のほうから聞こえるテレビの音よりも大きな声で言う。


「今日の食事当番はいつきだからね。忘れないでよ」


「そーんなデカい声で言わなくても分かってるっつーの。もう献立は決めてあるし」


「カレーはやめてよ。今のお母さんには特に」


「そんなの分かってるって。椿つばきがそう言うのもお見通し」

 

 私は最後のお皿を洗い終え、水を止めてからゆっくりと居間のほうを振り返る。


 そして、こたつにもたれながらCMの度にチャンネルを替えている樹に向かって言う。


「樹は献立に困るといつもカレーライスにするからね」


「さすがに俺もそこまでガキじゃない。色々と考えてるんだよ」


 樹はテレビに視線を向けたまま言うと、リモコンをこたつの上に置いてこちらを見る。


「そういえばさ、はす向かいの田中さんのおばさん、最近よく見るよな。畑仕事にも出てるし」


「ああ、うん。去年ぐらいに激ヤセしちゃって、姿も見かけなくなっちゃったけど今は元気そうだよね」


「末期がんだったって噂だよ」


 樹はそこで言葉を切り、真面目な顔で続ける。


「だけど、おじさんがあの桜の木の下におばさんの遺体を埋めて、生き返ったんだって」


「なーに言ってんの。あんなの大嘘だよ。死んだ人が生き返るわけないでしょ」


「でも」


 樹がそう言いかけたところで、奥の部屋のドアが開く音が聞こえた。


 私と樹は、会話を途中で切り上げて、それから同時に立ち上がる。


「ごめんねえ。祝日で学校お休みだっていうのに家事を任せちゃって」


 母が申し訳なさそうな顔でこちらを見て、台所へ向かおうとした。


「もう食器は洗っちゃったから。それよりもお母さんは休んでて」


「椿が洗うと、食器はいつもぴかぴかだから助かるわ」


 母は優しく微笑み、それから激しく咳き込んだ。


「ほらほら。風邪ひいちゃうよ。まだ寒いんだから布団であったまってて」


「椿の言う通りだよ。お昼はお母さんの好きなうどんだし、夜はおでんだよ。楽しみにしてて」


 二人で母を奥の寝室に連れて行き、『一人で大丈夫なのに』と言う母を寝かしつけた。


 それから私は、寝室の隅にある机の上に置かれた一冊のノートを手に取る。


 表紙にきれいな文字で『日記』と書かれたそれは母のもの。今でも具合が良い時は書いているらしい。


 私は日記を机の引き出しにそっとしまうと、寝室を出た。


 

 居間に戻ると私と樹は小さくため息をついた。


 母の腕はまるで小枝のようで、日に日に弱っていくのは嫌でも実感する。


 もともと体が弱かったとは聞いていたのだけれど、無理して私と樹を生んだから余計に負担がかかったんだ、と親戚に罵られたこともあった。

 そうなのかもしれない、と思う。


 母が寝込むようになったのは最近で、父が二年前に仕事中に事故で急死したことが今になってストレスになったんじゃないかと医者は言っていた。


 病院へ行っても、薬をもらうだけでこれと言った治療法はないし、手術で治るようなものでもない。


 私と樹は、母が弱って死に近づいていくのをただ見ているだけしかできなかった。

 せめて家事を分担するくらいだ。

 十六歳の私たちは、なんて無力なんだろう。


「俺、調べたんだよ。あの桜の木のこと」


 母が眠ったことを確認して、居間に戻ると樹が口を開いた。


 私は呆れて樹を見る。黙っていればイケメンだと言われるのに、双子とは言え兄なのに、なんか子どもっぽいんだよね。


「あの桜の木は不思議な力があるんだ。それは死んだ人を埋めれば生き返るってだけじゃない。死んだ原因になった怪我とか病気も全部、取り除いてくれるんだ」


「へー。そんな話が本当にあったらいいね」


「本当なんだよ!」


 樹はそこまで言うと口に手を当て、今度は声のトーンを落とした。


「中学の時の俺の友だちが、心臓の病気で死んだ妹を埋めたら、埋めた次の日に元気になって戻ってきたって言ってたんだよ。あ、これ誰にも言うなよ」


「言わないし言っても誰も信用しないよ」


「田中さんのおばさんだって、末期がんとは思えないだろ? それはあの桜の木のおかげだ」


 樹の顔は桜の木の噂を信用しきっているようで、私が何を言っても聞かないだろうな。そんな魔法みたいなことがあるって信じたい気持ちは、痛いほど分かるんだけど……。


 私がこたつに視線を落としても、樹は鼻息荒く続ける。


「でも、二つだけ気をつけなくちゃいけないことがあるらしい」


「ねえ、樹さ」


「ん?」


 私は樹を見て、それから奥の寝室に視線を向けて、それから黙りこんだ。


「やっぱいいや」


「なんだよ」


「なんでもない」


 私はそれだけ言うと、「お茶入れてくる」とだけ言って立ち上がる。


 すると、奥の寝室から激しく咳き込んでいる声が聞こえてきた。


 母が苦しそうに咳き込んでいるのを見たり聞いたりすると、胸が引き裂かれそうな気持ちになる。


 いつもはしばらくすると止む咳が、やけに長いことに気づいて、寝室へ急ぐ。


 私と樹がドアを開けた瞬間、母の咳はぴたりと止んだ。


「お母さん、大丈夫?!」


 母の元に駆け寄ってみるけれど、反応はない。


 その顔は眠っているように見えた。


 だけど、いつもとどこか様子が違う。


「お母さん?」


 呼んでも母は目を覚ます気配はない。


 樹が私を押しのけて、手首で脈を確かめ、そして顔に耳を近づける。


「息をしていない。心臓も止まってるみたいだ……」


 樹の言葉に、私は寝室を飛び出して居間の電話の受話器を取った。


 すると受話器を持った右腕を掴まれる。


「なにするのよ、樹! 救急車はやく呼ばなきゃお母さんが!」


「もう母さんは死んでるんだよ!」


「死んでない! 病院に行けば助かるの!」


「病院に行ったってどうせ治してくれないじゃないか!」


 声を荒げた樹に、電話のボタンを押そうとしていた私の手が止まる。


 樹の言う通りだ。病院に行って心臓が動いたとしても、もうきっと母は長くない。


 そう思った途端、力が抜けて、私はその場にぺたんと座りこんでしまった。


「椿、母さんを運ぶのを手伝ってくれ」


「え?」


 私が顔を上げて樹の顔を見ると、彼は早口で言う。


「亡くなってから二十四時間以内に桜の木の下に埋めないと効果がないんだ」


「だからあれは、もう、」


「もう一つ、気をつけなきゃいけないことがあるけど、それは後で教える」


 樹はそう言って、その場から動かない私を置いて寝室へ戻った。


「本当に……生き返るの……?」


 私はぽつりと呟いて、よろよろと立ち上がった。



 樹と二人で動かなくなった母をカモフラージュの毛布をかけてリヤカーで運んだ。


 母はやせ細っていたから、二人でも簡単に運べた。体の軽さを感じる度に、母がこの世からいなくなってくような気がした。


 桜の木の下に母を埋めた後は、ものすごい罪悪感に襲われた。


 本当は救急車を呼ぶべきだったんじゃないのか。あの時、樹をなんとしてでも止めるべきだったんじゃないのか。

 私だけではどうにもならないなら近所の人を呼ぶべきだったんじゃないのか。


 いろいろな後悔が頭の中をゆらゆらと漂い、それは消えるそぶりを見せない。


 母を埋めて家に戻ってからは、電気もつけずに私と樹はただただ、膝を抱えて黙り込んでいた。


 あんなに桜の噂を信じていた樹も、生気が抜けたように大人しい。


 なんでこんなことになってしまったんだろう……。



 次の日の朝、いつの間にか寝室で眠っていた私は、目が覚めて落胆する。

 昨日のことが夢ならどんなに良かったことだろう。


 私は鉛のように重い体を引きずりながら、朝食を作るべく台所へ行く。

 すると、居間と台所の仕切るのれんの前で樹が突っ立っていた。


 私に気づくと、口をぱくぱくと開けて何かを言おうとしているが、どれも言葉になっていない。


「なに?」


 私は樹を押しのけて台所に入って、それから自分の目を疑った。


 辺りに響くリズミカルな包丁の音、かつおぶしの香り。


 誰かが朝食をつくってくれているのだ。こちらに背を向けているけれど、この後ろ姿は……。


「お母さん?」


 私が無意識のうちにそう呼ぶと、女性は振り返る。


「あら、椿。おはよう。樹もおはよう」


 優しい笑顔も柔らかな声も、全部、母だ。


 私は目をごしごしとこすってから、そっと母の背中に触れてみた。その背中は少し冷たいけれど、おばけじゃない。人間の感触。


「なぁに? もうすぐご飯だから顔を洗ってきなさい」


 いつもと変わらない母の様子に私はどう答えていいのか分からなかった。

 すると、樹に腕を引っ張られる。

 


 連れて行かれたのは洗面所だった。


 樹は辺りをキョロキョロと見回してから、ボリュームをめいっぱい落とした声で言う。


「大事なことを言い忘れてた。あの桜の木の力でよみがえった人には、絶対に自分が死んだことを知らせちゃいけない」


「死んだ自覚がないってこと?」


「そう。だから、周囲や家族は、蘇った体だって口が裂けても言わないこと」


「もし、言ったら?」


「蘇った人は、死を知る。そうなると本当の死が訪れてしまうそうだ」


 樹の言葉に私はごくりと唾を飲み込んで「わかった」と頷いた。


 母はずっと生きていた。病気もなにもない。


 そう自分に言い聞かせて、気をつけて母と接しよう。せっかく生き返ってくれたのだから。



「今日は土曜日だったかしら」


 朝食を食べていたら、母が私と樹にそう尋ねてきた。


「そうだよ。だから買い物とか手伝うよ」


 樹が味噌汁をすすりながら答えると、母はふんわりと笑う。


「冷蔵庫のもので何とかなるわ。それよりも土曜なんだから、約束とかないの?」 


「いや、ないけど」


「私もないよ」


「あら、二人そろって予定がないのね。高校生になったんだから彼氏や彼女の一人や二人いてもいいのよ」


 母は少しだけ不満そうな顔で私たちを見るけれど、私と樹はお気楽な高校生じゃない。だけどそれを言葉にしてしまうと母を責めてしまうことになる。


 穏やかな空気を壊したくなくて、私は話題をすり替える。


「そうそう、樹はね、高校でもモテるんだよ!」


「いや、まて。俺の高校は男子校だ」


「高校は男の子ばかりみたいだけど、中学ではモテたじゃない。お母さん知ってるのよ。第二ボタンの子」


「えっ?! なにそれ初耳! 第二ボタン? だれだれ? 私の知ってる子?」


 驚きで思わず立ち上がった私に、樹は大きな大きなため息をついて、それからお茶椀を頭上高く掲げてこう言った。


「母さん、おかわり」


「はいはい。ちょっと待っててね」


 言いながら台所へ向かう母の背中を見つめ、それから樹のほうに視線を向ける。

 その横顔には穏やかな笑みが広がっている。



 母と共に洗濯を干して、掃除をして、テレビを観る。


 昔は当たり前だった家族の団らんが、こんなに幸せだとは思ってもいなかった。おまけに今は、母には病気がないんだ。


 今日、接している雰囲気だと、母は亡くなる数日前のことだけではなく、病気だったこと自体が記憶から消えているようだった。


 それならば、後は私と樹が真実を黙っていればいいだけだ。そうすればもう母はずっとこのままでいられる。


 そんなことを考えながら、昼下がりのサスペンスを母とぼんやりと見ながら過ごす。


 すると、画面には探偵役の女性が日記を書いているシーンが映し出された。


 私はそこで思い出す。


 母も、以前は日記をつけていた。

 今は記憶がないみたいだけど、母が寝室の机の引き出しを開けてあの日記を見つけたら……。


 そう思うと居ても立っても居られない。


 私はトイレに行くふりをして、そっと母の寝室へ入った。 


 部屋の隅の机の引き出しを開けると、日記はそのまま残されていた。

 私は急いで中を確認する。




   四月四日

       

   医者にも長くないと言われて三ヶ月が経った。もう私はいつ死んでおかしくないと感じる。

   樹と椿のことだけが心配。




 私はノートを閉じ、あらかじめ用意しておいた燃えるごみの袋の奥深くに押し込んだ。


 細く長いため息をついてから、はっとする。


 そうだ。母が病気だったことや、症状が悪化していたことを示すものはすべて処分しないと。


 母の目に触れてしまって、記憶がよみがえってしまうかもしれない。


 現在、母がのんびりとテレビを観ているということは、日記も薬も本人の目にふれていないということだろう。


 もし今、薬を見ても日記を読んでもなんのことなのか分からないのかもしれないけれど、亡くなる前の記憶を呼び覚ます手伝いになる可能性は高い気がする。


 そんな危ないものは置いておけない!


 私は薬や手紙や年賀状の類で、母の病気のことにふれているものはすべてゴミ袋に入れた。


 思いつく限りの、過去に病気を匂わせるものをゴミ袋に入れ終えたところで、寝室を出ると背後から声をかけられる。


「椿、さっきからなにしてるの?」


 心臓が飛び跳ねる。私は深呼吸してから振り返った。


 母が不思議そうな顔でこちらを見ている。


「あ、これはその、ゴミ、だよ」


 そう答える私の額から嫌な汗が流れる。やけに口が乾く。


 母がゴミ袋に視線を向けたので、私はそれをさっと背後に隠す。


「あの、ちょっと見られちゃ困るものとかね、あるの。私の日記とか」


「お母さんの寝室に椿の日記なんかないわよ」


「ちがうの。私の部屋の掃除をしたついでに、お母さんの寝室も掃除しようと思ったけど、きれいだったから」


 なんだか自分の言っていることがおかしい気がする。


 母はじっと私の顔を見つめて、それからため息をつく。


 私はごくりと唾を飲み込んだ。


「ただいまー」


 玄関の方から樹の声が聞こえると、母は「あら、買い物から帰ったのね」と呟き、玄関へ向かおうとする。


 そして、母はこちらを振り返って言う。


「そんなに恥ずかしいものならお母さん無理に見ないわよ」


 呆れたように微笑むと、玄関へと小走りに駆けて行った。


 私は安堵のため息をつきながら、壁に寄りかかった。



 次の日から私は家中の掃除をするようになった。


 母の病気に直結しそうなものはもちろん、生きているの時の記憶が蘇りそうなものはすべてゴミ袋へ入れる。


 父と母と私の樹の四人で写った写真もいくつか出てきて、これだけは残しておこうかと考えた。


 だけど、アルバムに入れて置の奥深くにしまったとしても、母が掃除をすれば何かの弾みで見つけてしまうかもしれない。


 私の頭の中は悪い想像しかよぎらなくなっていた。


 母と樹とご飯を食べていても、テレビを観ていても、母の記憶を呼び覚ましそうなものを処分することしか頭にない。


 なんだか虚しい気がするけれど、不安材料をすべて取り除けばいいだけの話。



 その日の夜、ようやく私は心置きなく家族団らんができた。


 不安なものはすべてゴミ袋に入れて、庭に出しておいたから気が楽になったのだ。


「あれ? 廊下にあったスーパーの袋しらない?」


 私が食器洗いをしていたら、樹が声をかけてくる。


「さあ?」


「白いスーパーの袋でさ、玄関のゴミ箱のすぐ脇に置いたんだけど」


「あ、それなら捨てたかも」


 私の言葉に、樹が「ええええ!」と抗議をしてくる。


「なんで中身を確認しないんだよ! あそこには今日、買った鶏肉とか豚肉が入ってたんだよ!」 


「じゃあなんでそんなところに置かないですぐに冷蔵庫に入れないの?! ゴミと間違えられてもしかたないでしょ?!」


「俺はトイレに入ってただけなんだよ! それをすぐに捨てたっていう椿のほうがおかしい」


 樹はそう言うと、小さくため息をついてから続ける。


「なんか昨日から変だよ。やたら物捨てまくってるし」


 私は居間の方を見て母がこちらのやりとりを気にしていないことを確認すると、声のトーンを落として答える。


「お母さんの過去の記憶につながるものは、全部、捨てなきゃ」


「気持ちは分かるけど。でも、そんなこと言ったらキリがないだろ。椿が物を捨てまくってたら母さんも怪しむ」


「じゃあ、どうすればいいの?!」


「『死んだ』ってことさえ知られなきゃいい。ただそれだけだ」


 樹はぴしゃりと言うと、居間に戻った。


『死んだ』ってことさえ知られなきゃいいだなんて、適当だ。最初にこれだけは注意してほしいと言ったのは樹のほうなのに。


 お母さんがもう二度と死なないように守るのが、私たちの役目なんじゃないの。


 そう考えると、今、洗っているこのお皿も、お茶椀も、みんなみんな、母の記憶を呼び起こすためにあるだけの悪魔のように見えてくる。


 お皿も処分してしまおうか。

 だけど、さすがにそれはやり過ぎな気がする。


 

 その日の夜はなかなか寝つけず、水でも飲もうと台所へ入った瞬間。


 妙な音が聞こえてきた。


 くちゃくちゃ、という奇妙な音。


 暗闇に慣れた目でよくよく見て見ると、母が冷蔵庫の前で何かにかぶりついている。


 かぶりついているのは、生の豚肉だった。


 私は悲鳴を上げそうになり、慌てて自分の手で口を抑える。


 そして、そっと寝室に戻った。


 どういうことなのかわからない。だけど、あそこで見ていることを母にバレてはいけないと本能で悟った。


 布団にもぐると、体ががたがたと震える。


 生の肉だなんて、母は前は絶対に食べなかった。


 なのに、なんで生き返ってから、そんなおかしな行動をするの?! それも生き返った反動?

 分からない。


 考えても考えても、悪い考えしか頭に浮かばない。


 初めて母を、怖いと思った。 



 そして一睡もせずに朝を迎えてしまう。


 今日は学校に行かなきゃいけないのに、それどころじゃない。


 樹に、昨夜見たことを話した方がいいんだろうか。


 そんなことを考えつつ、布団の中で丸まっていた。


「ぎゃああああああああああ」


 外から悲鳴が聞こえて、私は弾かれるように体を起こす。


 男性の悲鳴のようだった。


 寝室から出ると、樹も母も廊下に出てきた。


「さっきの声、聞いた?」


 私の声に、樹が頷く。母は心配そうな顔で言う。


「事件とかじゃなきゃいいんだけど」


「俺、見てくる」


 樹の言葉に、私は彼の腕を掴んだ。


「危ないって!」


「だーいじょうぶ。ヤバかったら逃げるから!」


 樹はそれだけ言うと、私の手を振り解いて玄関へと走った。


「すぐに戻ってきなよ!」


 私が樹の背中に声をかけると、「わかってる!」とだけ言って玄関を出て行った。


「大丈夫かしら……」


 母の言葉に「大丈夫だよ」と笑おうとするけれど、昨夜の光景がよみがえってうまく笑えない。  


「ねえ、お母さん。お腹とか、痛くない?」


「痛くないわよ? どうして?」


 そう言った母の表情は昨夜の雰囲気とは違う。怖さなんかない。


「ううん。なんでもない」


 私はそれだけ言うと、少しだけ笑う。


 もしかしたら、夢遊病の類なのかもしれない。

 うん。きっとそうだ。


 私はそう自分に言い聞かせるように、頭を大きく左右に振ると、台所へ向かう。


 すると、外からバケツをひっくり返したような音が聞こえてきた。


 驚いて窓から庭を見ると、私が必死でまとめたゴミが袋ごと破られて、中身が辺りに散らばっている。近所の子のイタズラだろうか。


 私は急いで庭に出て、散らばった写真を集める。

 母に見つからないうちに元に戻さないと!


 そう考えた時、背後から声が聞こえた。


「ねえ、これお母さんの字よね」


 驚いて振り返ると、母がノートを開いていた。あれは母の日記だ。


「だめ! 読んじゃだめ!」


 私が日記を母から奪い返そうとすると、母はぽつりと呟く。


「もしかして、お母さん、死んだの?」


「そんなわけないよ! こうして生きてるじゃない!」


「そうなのよ。だけどおかしいのよね……。ここ何年間の記憶が曖昧なのよ」


 私が何か言い訳を考えようとした時、人の気配をはっきりと感じた。


 辺りを見回すと、庭の隅でこちらに背を向けてしゃがんでいる人間がいる。


 恐る恐る覗くと、老婆が生の鶏肉にかぶりついていた。


「田中の……おばさん」


 私が呼んでも、老婆は答えない。ひたすらに肉を食べるだけ。


 そして、老婆が体中、血だらけだということに気づく。


 さっきの悲鳴。もしかしておじさんの?!


 そう思った瞬間、私は無意識のうちに母の腕をつかんで、走り出す。


 家の中に入ると、呆然としていた母がはっとする。


「樹は?! あの子、外に出たままじゃない!」


 玄関のドアに手をかける母の手を私は慌ててつかんだ。


「私が行くから!」


「ダメよ! 娘に行かせられないわ!」


「私は大丈夫だから!」


「お母さんなら大丈夫! 死なないわ!」


 その言葉に母を見る。

 母は穏やかな口調で言った。


「椿、お母さんね、日記を見て少しだけ思い出したの。自分が病気であと余命わずかだったこと」


「違う! お母さんは病気じゃないの!」


「じゃあ、どうしてお母さんの心臓は、動いていないの?」


「えっ?!」


 私が母を見ると、母はふんわりと笑う。


「冗談なのに。椿がそんな反応をするってことは、やっぱり私は死んだのね」


「ちがっ! ちがうの!」


 私がそう叫ぶと、母は糸が切れた操り人形のようにぱたんと後ろに倒れた。


 それと同時に、玄関のドアが不意に開いて飛び上がる。


 玄関のドアを開けたのは、樹だった。


「樹! 無事だっ──」


 そう言いかけて、樹の体中が血だらけなことに気づく。


 そして樹の背後には、田中のおばさんとおじさんもいる。


 三人とも無表情で、私を見ると無言で近づいてきた。


 後ずさりをすると、突然、後ろから抱きしめられた。


 直後に、肉を無理やりえぐり取られるような激痛が首に走る。


 母の匂いに包まれながら、私は静かに目を閉じた。


<了>  

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奇跡の桜の木の下で、 花 千世子 @hanachoco

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