乙女の反抗声明 後編

 午後三時。瞳子はこっそりと下宿先へと荷物を取りに来た。四時限目? ――大事件が起きたから、エスケイプだ。佐々さんに見つかる前にめぼしい荷物を持ち出しておかなくちゃ。見つかったら面倒なことになる。


 玄関のドアには鍵がかかっていた。佐々さんはまだ大学にいるらしい。遠慮なく自分の持つ鍵で中に入る。まっすぐに寝室に向かった。


 佐々さんと瞳子は二人で住んでいるため、ほかの下宿生よりもちょっとリッチな間取りの部屋を借りている。トイレとお風呂、リビングと寝室はそれぞれ別で、寝室には大きな衝立を入れて互いのテリトリーを確保していた。


 瞳子は壁の収納スペースからパステルピンクのトランクを引っ張り出す。元は買ったトランクに自分で薄茶のベルトを二本巻いて、フリルを付けたもので、東京に遊びに行くときにいつも重宝している。その中に着替えや化粧品、アクセサリーなどの〈生活必需品〉を詰めていく。最終的にトランクが爆発しかけるところまで詰め込んで、あとは紙袋の中に。乙女の準備は色々大変なのだ。


 一通り終えたところでふとベッド脇のコルク板を見た。ピンで止めたイルカの形をした水晶のネックレスを手に取る。


 佐々さんが大学進学のために家を出ていく時、気まぐれに瞳子に渡したものだった。イルカの大きさが不自然なほどに大きかったから一度も付けずに放置していたものだ。大方、「大きい割に値段が安い!」とでも思って衝動的に買った後で後悔し、瞳子に押し付けたのだ。


 だから佐々さんにはセンスがないんだ、と呟いて、ネックレスをコルク板に戻す。


 玄関から出たところで佐々さんに出くわした。きゅうっと佐々さんの太目の眉が寄り、細目を作る。瞳子を馬鹿にするように、


「何してるの。今日は帰らないんじゃなかったっけ?」


 と、挑発してきた。瞳子は引いてきたトランクを前に出した。見せつけるように。


「帰らないよ? それどころか、しばらく帰らないつもり。心配しないで。ちゃんとやるから。あたし、佐々さんみたいに真面目一辺倒な堅物の、おかめモンスターじゃないもん」

「あんた、前からそんなことを思っていたわけ。姉を一体何なんだと……」


 続きを飲み込んだ佐々さんは声をひそめた。


「父さんと母さんには何て言うの」

「佐々さんがチクらなければ何でもないでしょ」


 実家にいる両親とこれまでも頻繁に連絡を取っていたわけでもないから、報告でもしない限り何も気づかれない。今頃はのほほんと夫婦二人で緑茶をすすっていることだろう。喧嘩が絶えない娘二人から解放されているはずだから。


「じゃあチクるよ」

「馬鹿じゃないの。佐々さん、何もわかってないじゃん。それは何の当てつけ? あたしさ、以前からずっと佐々さんに苛々し続けていたんだけど。佐々さんは色々とあたしに干渉してくるけどさぁ……」


 それは余計なお世話ってやつなんだ。

 佐々さんに言ってやればすっきりした。瞳子にだって言えた。簡単なことだった!


 すれ違った時の佐々さんの顔は見物だった。何にもない。空っぽ。今度こそ佐々さんの心にも響いたはず。しばらく反省していればいいのだ。


「緊急の連絡の時ぐらいは電話に出てあげるから。ちゃんと一人で暮らしていてね」


 ほとんどの家事をこなしていた瞳子がいなくなれば、きっと佐々さんは困る。片付けなどはまったく得意でない人だから。瞳子のありがたみを感じて日々を生きたまえ。


「佐々さん、お元気で」

「ちょっと、瞳子!」


 怒った時だけ妹扱いをする残念な姉をさっさと後にする。

 アパートの一階に下り、大通りに出たところで黒塗りの高級車が止まっていた。スキンヘッドの男性が出てきて、頭を下げる。


「花村さま。こちらに」


 開けられた後部座席のドア。お嬢様よろしく腰から入る。

 奥にはすでに三宮スズが美少女マネキンのように伏し目がちに座っている。膝には変な形の風呂敷包み。どうやっているのか瞳子にはわからないが、器用にねじりを加えたりしてかさばる荷物をまとめているようだった。


「ごめんなさい、スズちゃん。お待たせしてしまったみたいだから」

「……こちらも今来たばかり。お姉さんとは話できた?」

「あんな人、知らない」


 エンジン音とともに車が発進する。返答がない空間で気まずさを覚えてきた瞳子は、あ、そうそう、と話題を変えた。


「……ねえ、スズちゃんってすごく古風な匂いがする」


 隣ににじり寄って鼻を近づけると、やっぱりそうだった。香水とは違う『大和撫子』な匂い。さすが『大和撫子ちゃん』と感心する。


 スズは返事の代わりに帯と着物の間から口が閉じられた小さな袋を取り出して、自分の鼻に近づける。それからすぐに瞳子の鼻先にも。


「……これ?」


 小さく首を傾げる。さらさらっと、夜空の星のように艶めく黒髪。

 惚けていた瞳子は慌てて肯定した。そう、それ!


「匂い袋だったんだぁ。いいねぇ、そういうの」


 ちりん、と匂い袋につけた小さな鈴が鳴る。気づけば瞳子の手のひらに匂い袋が乗っていた。


「……あげる」

「え?」


 瞳子が聞き返そうとした時には本人は青白い顔を正面に向けている。


 瞳子は戸惑った。確かに内心、これ可愛いな、くれないかな、という下心はあった。でもこんなにあっけなくくれるなんて。逆に罪悪感が湧いてくる。アイスを買ってきても一口たりともくれない佐々さんがこう言ったのならば遠慮なく分捕ってやるのに。これが金持ちの鷹揚さというやつなのだろうか。瞳子の周囲に金持ちがいないからわからない。


 瞳子はもう一度だけ匂い袋を鼻に近づけた。彼女はお香に詳しくないから何の香りがわからなかった。


 だからこれは瞳子にとって「三宮スズ」の香りになったのだ。

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