彼女の幸せ
あんこ
第1話
「見て、あの山のふもと。大きな桜の木が見えるでしょ」
彼女は生まれつきの病気だった。
幼い頃から入退院を繰り返していて、今もこうして病室のベッドに座っている。
詳しいことは僕には分からないけど、彼女の容体が芳しくないことは火を見るより明らかだった。
僕はそんな彼女の横顔をただ黙って見つめていた。
少しばかり空いた窓の隙間から、初夏の風が優しく君の髪を揺らしている。
時々目にかかるほど長く伸びた前髪を、彼女は邪魔そうに左手で整えていた。
僕の視線に気付き、そっと微笑み返してくれる彼女。今にも散ってしまいそうな優しくて儚げな笑顔が痛々しいほど綺麗だった。
「あれは、桜の木なの?」
「ええ。この前お医者さんが言っていたわ。春には綺麗な花を咲かせるそうよ」
「へえ~。お花見とか出来たらいいね。一日くらいなら医者もきっと許してくれるよ」
「私も一緒に見たかったな、桜……」
彼女は少し物憂げに溜息をつき、僕を見て一笑する。
「来年があるって……」
「えへへ、和樹君。急に呼び出したりしてごめんね。そのことなんだけど……それが……」
「言いにくいことなら、無理に言わなくてもいいよ」
これは優しさなんかじゃない。彼女の口から飛び出す言葉が、なんなのかを知っていたから。
現実から――彼女から逃げ出すように、僕は口を挟んだ。
「自分でもなんとなく分かってたけど、私、もう長くないんだ……。それも、もう少しらしいの」
しかし、彼女は告白を止めなかった。
――時間が止まったような気がした。僕もこの時間が長く続くとは思ってなかったけれど。
けれどそれが言葉になると残酷だ。
まるで鋭利な刃物で心臓を一突きにされているような。どうしようもない事実の壁が、僕と彼女の前に立ちはだかっていた。
「優香にしては冗談がきつすぎるよ、ちっとも笑えない」
もちろん彼女が冗談を言ってるわけじゃないことは分かっていた。
彼女も、僕が分かっていることを分かっている。お互い言葉は交わさずとも、考えていることは全部伝わってくる。
僕達はそんな関係だった。
「冗談だったら……良かったのにね。きっとあの桜の木の葉っぱが全部落ちる頃には、私も行かなくちゃならないんだわ。なんて」
「それなら冬までは大丈夫じゃないか。それに、僕がペンキで葉っぱを描くよ」
「ふふっ……ありがと。冗談よ。もう数日と持たないらしいの。お母さんとお医者さんの会話、盗み聞きしちゃった」
「盗み聞きは……良くないよ」
「聞こえちゃったものは仕方ないでしょ。本当に……もっと気を付けて話してよ、バカ」
出来ることなら僕が代わってあげたい。
――でも、それが出来たとしても、僕達は幸せになれない。
きっとそんなことをしたら、彼女が悲しむだろう。僕達は二人じゃなきゃ……駄目なんだ。
「ねえ、人生で最後のわがまま。いいかな?」
「なんなりとどうぞ」
「和樹君。私、あの山に行ってみたい。一番近くで桜の木が見てみたいな」
「医者からの外出許可は……?」
「もちろん貰ってないわ。貰えるわけないじゃない、クスッ」
久しぶりに優香の無邪気な笑顔を見れた気がする。僕はこんな時だってのに、思わず釣られて笑ってしまった。
「それじゃあ外には出れないよ」
「和樹君、お願い。私を連れて行って」
「それで優香の容態が悪くなったら大変だし、そんな真似は出来ないよ……」
「私は今更少し寿命が縮まったって気にしないわ」
「僕は気にするよ。それに、そこまでしてどうして行きたいんだ?」
「……ずっとここからあの桜を見ていたわ。こんな狭い病室に閉じ込められたまま終わるのは嫌なの。私は……せめてあの桜の木まで行ってみたいの」
彼女は遠くに行きたがってた。旅行の話は何度か出ていたが、結局一度も許可が降りることは無かった。
そのたびに独りでこっそり泣き腫らしていたのを、僕は知っている。
「そこまで言うのなら、分かったよ」
彼女は一度決めたことは曲げない。たとえ僕が連れて行かなくたって、地を這ってでも辿り着こうとするだろう。
それなら、せめて彼女のささやかな願いくらいは僕が叶えてあげたい。
「ありがとう、和樹君」
「それでも、君のパパには怒られちゃうかもね」
「これで和樹君を叱ったりしたら、私が天国でパパを呪うわ」
「……お願いしておこうかな」
彼女のなにも面白くない冗談を、僕はただ笑って流すことしか出来なかった。
…………。
……。
少しだけ雨の匂いが残る夜。外灯一つない真っ暗な道を、僕は優香を背負って歩いていた。
二人で病院を抜け出すこと自体はそう難しくなかった。
ここは都会の設備とは違い、田舎の町はずれにある小さな小さな病院だから。
別になにも難しいことはしてない。ただ窓からそっと逃げるだけだった。
「ありがと。和樹君、まるで王子様みたいだね」
「どういたしまして。でもどちらかと言えば、親指姫のカエルに近いんじゃないかな……」
彼女はもう何年も自分の足で歩いていない。
昔は足が速かったのになぁ……って頬を掻きながら笑う彼女が、僕には痛々しくてたまらなかった。
「和樹君におんぶされるのって、いつ振りだろうねっ」
「あいにくこれが初めてだよ、優香」
「ふふっ……家出みたいでなんかワクワクするねっ」
「そうだね」
あいにく僕はちっともワクワクしない。
それどころか自分から終わりへ向かっているような。六文銭を貰って渡し守をしている気分だった。
「見て、病院がもうあんなに遠く!」
「あんまりはしゃがないで、落ちちゃうよ?」
夏の夜空の真下に、僕と彼女が二人きり。あの山へと続くあぜ道をゆっくりと、ゆっくりと歩いている。
まるで世界から切り離されたような。僕と彼女の二人だけの世界だった。
「もうちょっと先だけど、大丈夫? 重くない……?」
「重いって言ったら……降りるの?」
「もう、意地悪。そこまで重くないもん」
彼女の体は林檎三個分よりもずっと軽い――そんな気さえした。これが年頃の女の子の健康的な重さではないと分かっている。
それでも背中からほんのりと伝わって来る暖かさが、僕には堪らなく愛おしかった。
――遠くから虫の鳴き声が微かに聞こえてくる。それは清涼感のある夏の夜の音色だった。
目を閉じると、幼い日の思い出が一つ二つと込み上げてきた。
「ほら、見て。遠くに見えるのが、僕達の町の灯りだよ」
「本当だ……。まるで大きな蛍みたい」
「確かに……そんな気もする。優香、覚えてる? 昔はよく、田んぼ道を一緒に走り回ってたよね」
「懐かしいっ! 私も覚えてる。泥んこになって、お母さんに怒られるまで遊んでたわ」
「君は本当に元気だったな。いや、今も十分元気だよね。病院から抜け出そうなんて普通は考えないよ」
彼女は昔は本当に元気だった。
嫌がる僕は彼女に手を引かれ、色んな場所に連れ回されたことを記憶している。
「人生は一度しか無いんだよ? 楽しまなきゃ損だって」
「一度しか無い人生だからもうちょっと慎重になっても良いと思うよ」
「もう! あーいえばこー言うの良くないぞ。和樹君。ほら、早く早く!」
優香は急かすように僕の足をばたばたと蹴り飛ばす。その力があまりにも脆弱で、足を止めてしまいそうだった。
『本当にもうダメなの?』
そう聞いてしまいたくなる口を必死で結びながら、一歩ずつ山へと向かう。
「ねえ、和樹君」
「何?」
「神秘な、遥かな旅に出る支度をしているときの魂ほど、世にも孤独なものはない」
「……またO・ヘンリー?」
「あの人のお話、大好きなの。自分がこの立場になってみて改めて好きになったわ」
「やめなよ……優香」
「けど、私は今独りぼっちじゃないし、和樹君に感じているのはきっと友情じゃないわ」
「それは僕も同じだよ」
…………。
……。
襲いかかる沈黙を真っ二つに割るように、時々強い風が僕達の間を吹き抜けている。
――二人はお互いの気持ちが分かっていた。
僕が彼女を愛していると同じくらい、彼女も僕をきっと愛している。
――けれど、言えなかった。
どんなに心が近づいていても、『好き』の一言は閉ざされた扉のように。決して言の葉になることはなかった。
いや、二人は必要としていないのかもしれない。そんな思いを巡らせる。
言ってしまったら、やがて来るその時に耐えられなくなってしまうから。
――だから僕達は目を背けていたんだ。
「私ね、お嫁さんになりたかったんだ」
「えっ……?」
突然の告白に思わず気の抜けた声が漏れてしまう。
「誰かのってわけじゃないよ。ただ普通に大人になって。普通に恋をして。普通に結婚して。お嫁さんになりたかったの」
「そして、子供を産んで、幼稚園に、小学校に送り届けて」
「子供が成人して、子供の結婚式で感極まって泣いちゃうような。そんなお母さんになりたかったな」
彼女の抱く願望は決して高望みなんかじゃない。おおよその人に与えられるであろう普通の人生。幸せ。
それが優香の決して叶わぬ願いだった。
「……着いたよ、桜の木」
「わーっ、ありがと!」
この大木は樹齢何年なんだろう。見上げると首が痛くなりそうな程猛々しい桜の木。七月の夜風に吹かれてざわざわと生命が脈を打っている。
僕は彼女をそっと木の下の草むらにおろしてやった。
「すごい、やっぱり近くで見ると違うのね……」
「僕もここに来たのは初めてだよ」
彼女は木の下にちょこんと座り、艶めく黒髪を夜風になびかせていた。
――星空の下、心地良いくらいの虫の声、優しい風、そして少女。
まるで優香は絵本の中の登場人物のようだった。僕はそんな幻想的な光景に目を奪われてしまう。
「ねえ、和樹君。私の灰はこの木の下に撒いてくれる?」
「冗談でもさすがに怒るよ? 優香」
「ふふっ、ごめんなさい。でも半分本気よ。死んじゃってまで小さな箱の中に詰められるのはもうたくさんだわ。だったらいっそ、私は自由になりたい」
優香の伸ばした手のひらは空に届くことはなく、やがて何かを悟ったようにゆっくりと地に落ちていった。
「……体調辛くない? 平気?」
僕は返す言葉を失い、話題を変えようとする。多分それが優香にも伝わっているのか、彼女はそっと微笑んでいた。
「和樹君は心配し過ぎ。今なら駆け回れそうだわ」
「……ねえ、優香」
「ん?」
「もう君が長くないのは分かった。僕もわがままを言うのはやめるよ。優香が話したいことを話そう」
――諦めとも違う、この感情。
最後くらい思っていることを聞かせて欲しい。彼女がそれを望んでいるのだから。
「ありがとう……そうね。何から話したらいいかしら」
「話したいことを、好きな順番で聞かせてよ。いくらでも聞くよ」
僕はそっと彼女の隣に腰を下ろし、一緒に空を見上げる。この時間がかけがえのない大切な瞬間だった。
「……和樹君は平気? 私のいない世界で。私はそれだけが気がかりだわ」
「僕の心配なんてしなくていいよ……。今までも、そしてこれからも。きっとなるようになるよ」
正直な話。僕は将来なんてこれっぽっちも考えていない。
それどころか、明日明後日三日後。君のいない日常のことすら考えられなかった。
優香もそれを察しているからこそ、僕に問いかけて来ているんだ。
「和樹君らしい……。私ね、夢に見るの。私のいない世界で和樹君が泣いてる夢を。私にはそれが辛くて、耐えられなくて」
僕は彼女に見つからないように、瞬きの回数を増やす。
……まだ泣いてはいけない。
「ねえ、和樹君。嘘ついちゃ駄目だよ。今しか聞いてあげられないから……」
「……君が心配することじゃないよ。だから……心配ないから」
「和樹君、ごめんね。……一緒に居てあげられなくて、ごめんね」
「謝るくらいなら……ごめん。忘れて」
抑えていた言葉の欠片が涙と共に零れ落ちてしまう。僕は咄嗟に腕で目を擦るが、もう遅い。
彼女は返す言葉を失ったように、ただ黙って桜の木を見上げていた。
…………。
……。
再び迫る沈黙を破ったのは、優香。
「今年の夏は、寒くなりそうね……。普段部屋の中にいたから、分からなかったわ。風がとっても涼しい」
もう七月の初めだというのに、連日肌寒い日々が続いていた。ニュースキャスターが言うには五年に一度の冷夏らしい。
「大丈夫? 寒くない……?」
「ええ、蒸し暑いよりはマシ。ちょうどいいくらいだわ。けど……」
「ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ疲れちゃった。横になってもいい? 私も駆け回れるなんて嘘ついて……ごめんね」
「……嘘は良くないよ、優香」
僕はそっと彼女に膝を差し出す。
優香はゆっくりと僕の膝を枕にして、草のベッドに横たわった。
――やっぱり彼女を外に連れ出したことは間違いなんじゃないか。
あの時僕は、彼女の不平不満を無視してでも説得しなくてはいけなかったんじゃないか。
立ち返ると溢れ出す後悔の念を無理やり振り払う。
「えへへ、ごめんね。でも大丈夫。こうなることは分かってたから……。大人しくしてても、もうあと数日の命」
「優香……」
「だったら君と夜逃げにした方が楽しいから。今死んだって、私は幸せよ」
優香を外に連れ出すということはこの手で彼女を殺していることと同義だった。
こうなってしまうことだって最初から見当がついたはずなのに。
「……寝心地はどう? 大丈夫?」
もう彼女の話に向き合うことが出来ない。気を抜くとまた零れ落ちてしまいそうだ。
「大丈夫よ。膝枕って、とっても気持ち良い。こうやって地面に横になったのなんて、何年振りかしら」
「確かに。そんな機会、子供の時くらいだしね」
「ええ。和樹君と遊んだ頃を思い出すわ。それに……見て、星がとっても綺麗」
何処までも広がる満天の夜空を、きらきらと目を輝かせながら彼女は見渡していた。
ここの夜空は本当に綺麗だ。都会じゃ見えない小さな光までくっきりと見える。
「病院の天井は無機質でつまらないわ。ずっとこうしてたいな……」
「僕も普段意識してないから久しぶりに星を見たよ。とっても綺麗だ」
日々の喧騒に追いやられて、いつの日かゆっくりと夜空を見上げることを忘れていた。
あの日見た一等星の数々が今も僕達の真上で輝いている。
「ねえ、少し目が疲れちゃった。……このまま寝てもいい? ちゃんとすぐ起きるから」
「……いいよ」
――駄目なんて言えなかった。
「ねえ、和樹君。最後に一つだけ、お願いがあるの」
「この前最後のお願いは使ったよ」
「ふふっ……じゃあ、最後の最後のお願い」
「仕方ないな、何?」
「……キスして?」
――その言葉を最後に彼女は動かなくなった。
僕は眠ってしまった優香の額に、そっとキスをした。
…………。
……。
彼女の幸せ あんこ @anco_anco
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