地獄のような現実の中で、踏み迷う人々の幸運を祈りながら

ほうこう

暗い絶望の中で、幸せを祈りながら

 辺りは硝煙の匂い、銃撃の音、人々の悲鳴そして死臭によって支配されていた。


 黄土色の街の中には、爆撃で焼け焦げ銃弾で穴だらけの建物と、武装した兵士と無垢な市民の死体が無造作に配置されていて、元からこれがここの自然な形であり、風景の一部であるように調和している。以前見たことがある綺麗な街並みなどは、もはやどこにも見当たらなかった。


 思わず職業病だろうか、無造作にぶら下げていたカメラのファインダーをのぞきそのままシャッターを切る。


 だが頭の中はそんな地獄のような光景をまともに受け取ることを拒否するように、もやの中に包まれていた。だがそんな状況でも自分は生きているのだと主張するかのように、心臓は強く鼓動し、まるで頭まで心臓になってしまったかのようにドクンドクンと視界まで脈打ち動いていた。


「おい!姿勢を低くしろ。スナイパーに狙われるぞ!」


 その声で反射的に腰を折り、中腰の姿勢を取ると、すぐに呼びかけてきた男の後ろへと移動した。


 どうしてあの光景に私は目を奪われてしまったのだろうか。いつの間にか建物の角の開けた場所で棒立ちし、どのくらいの時間かそのままでいたらしい。私もこの仕事は長いというのにいつまで経っても、この光景に慣れることは出来ないでいた。


 私の仕事は簡単に言えば戦場カメラマンであり、ルポライターでもある。

 海外からの取材の依頼を受けたり自分から現地に行って、写真を撮ったり現地についてコラムを書いたりする仕事だ。とはいっても元々私が戦場カメラマンかと言うと、それは違うと言える。そもそも私はこの国で生まれ育ち、色々なスクープを取材し写真に収めたりし、新聞社や雑誌社に売るフリーの記者に過ぎなかった。


 だがそんな事が出来たのは、国が戦場になる前であればの話だ。


 民主化運動をきっかけとした内戦の勃発によって、元から中央政府などの行政はあまり機能していなかったが、政府からテロリストと呼ばれる反体制派とその他の武装革命勢力によって行政機能は破壊され。この国はいつの間にか戦場へと変わっていた。


 確かに今の大統領、いや一党独裁の政治はお世辞に言っても自由とは程遠いものではあった。政府の秘密を暴きスクープにしようとすれば秘密警察に連行され、主だって独裁に反対するものは逮捕し長期間拘留し拷問され最悪殺される。


 確かにひどいものだった、私も表立って反対したことはなかったが、表現の自由や民主化を得られるように影ながら協力したりもしていた。しかし表立って動いていた友人の一人はいつの間にか消えてしまい、その後一度も見ていない。だがこれは本当に最悪だったのだろうかと最近になってよく思う。


 最悪なのは今の状況だ。

 こうして戦地の取材を行い、私は硝煙と死臭にまみれあまり深い眠りにつけなくなる日々を過ごし、久しぶりに我が家に帰った私を見て。二歳の娘は誰だか分からなかったのは、とても悲しい事ではあるが当然であるのかもしれない。


 それでも私はこの国に何かをしたいと思うその為、この仕事を止めようと思ったことはない。


 だがこの内戦は泥沼だ。

 政府軍、反政府軍、武装勢力の利害やイデオロギーが複雑に絡み合い、それに加え大国からの介入によって、終息の見通しは全くつかずひどくなるばかりだ。なぜこんな事になってしまったのか、公に知られている理由は当然知っているがそれが納得がいくかどうかとは別問題だ。


 そんな考え事は周囲から鳴り響く銃撃によって打ち消され、緊張感は一気に高まる。

 目の前には今回住民へ物資を運ぶついでに、私を一緒に連れて行ってくれている反政府勢力の部隊三人が周囲とスナイパーを警戒しながら立っている。その中の髪を短く切り揃え褐色の肌に口ひげを生やした軍の男が、心配しないようにと陽気に笑いながらこちらに語り掛けてくる。


「大丈夫か?何か考え事か?」


「ああ、すまん。ちょっと娘の事をな……」


 私がそう言うと目の前の男はどこかを遠い目で見た後、先ほどと同じようにこちらに笑いかける。

 それで思い出したが目の前の男は、この内乱が始まった当初に、外国から来た武装勢力の攻撃によって家を焼かれ奥さんと子供両方を失っているのだ。だが目の前の男はそんな事をおくびにも出したりしない。この国ではありふれた光景であり、嘆いて足を止めたやつから死んでいく、その事を彼は知っているのだろう。


「そうか、娘さんは可愛いか?」


「あ、ああ。だがあまり帰らないからか、俺の顔を見てもあまりなついてくれないんだ」


「ハッハッハッ、しょうがないさ。俺たちは敵の銃弾の雨の中を進まなきゃいけない難儀な仕事なんだ。顔の形ぐらい変わっていてもおかしかぁないさ」


「確かにな、昔と比べたら多くが変わってしまったかもしれないな」


 俺のその返答に、だろうなと笑いながら返事を返してくるが、私には彼が何を考えているのかは分からなかった。

 それからは彼は何もしゃべらなくなり黒いサブマシンガンを片手に持ち、ただただ機械的に周囲を伺っているように見えた。


 そんな銃弾の音が響く中、瓦礫の陰に隠れながらの足止めの銃撃戦が一時間ほど続いた後、辺りは急激に静まり返る。うっすらと聞こえる人の話し声と砂煙、降り注ぐ日差しだけが辺りを埋め尽くしている。


 そんな時に軍の男の一人が持っている無線から、ボソボソとした雑音が混じった声が聞こえてくる。


「どうやら援軍が来て奴らは後退したらしい。今のうちに居住区まで突っ切るぞ」


 髪の長いこの隊のリーダーであるその男が指示すると、私を含め全員が頷き、中腰の姿勢のまま足早に建物の間を縫うように進んでいく。道端には黒こげの死体や、銃弾で撃たれ穴だらけの死体が、哀悼を捧げるものもいないまま放置されているそんな光景は見慣れていると思っているが気分が悪い事には変わりがない。短くアッラーに祈りを捧げると足早にその場を立ち去った。


 そのまま瓦礫の多い廃墟の中を突き進み、何度かスナイパーに狙われやすい危険な場所を通り抜けるが、幸い攻撃を受けることがなく居住区まで到着することが出来た。


 居住区とはいっても元は学校になるはずの内装もまだされていない建物で、子供から大人まで5世帯17人ほどが支え合うように暮らしていた。ここから離れた場所には避難民のキャンプが設置されてはいるが、故郷の街を捨てられずここで暮らしたいというものが集まって暮らしているのだ。


 私たちが建物に近寄り建物の中に呼び掛けると、一人の女性が出てくる。

 良く知っている女性だった。黒いヒジャブと呼ばれるムスリムの女性が頭に巻いている布を身に着け、こちらを虚ろな視線で見つめていた。


 私は彼女になるべくいつもと変わらない笑顔で挨拶をする。それで相手の気分が軽くなるなら、そう思って私はいつもこうしていた。


「やぁこんにちは、ご無事で何よりです!何か困ったことはありませんか?できる事なら力になりますよ」


「ええ、ありがとう。わたしたちの方は変わりないわ。あなたたちの物資のおかげでもう少し頑張れそうです。それよりもこの前逃げるように歩いている男の人がいまして、今にも倒れそうでしたのでこの建物で今も休んでもらってるのですが……」


 そう言いながらヒジャブの布を垂らして俯いている女性に、何だか嫌な予感を覚えながらも何とかここの人たちの役に立てたらという思いが背中を押す。


「分かりました。任せてください。私が話してみますので、その彼がどこにいらっしゃるか教えてもらえますか?」


 私がそう言うと、女性は先ほどよりも少し顔が明るくなったような気がした。私も役に立てたと少しだけだが心が温かくなる。この地獄のような世界で、この人と人との触れ合いや交流までなくしては、この世に生きている意味さえなくしてしまう。そんな気がする。


 彼女に案内されるまま施設の中を進んでいく。

 所々でシャッターを切り、ここに住んでいる人々の暮らしの様子をカメラに収めながら、前を歩く彼女に置いていかれないようについていく。


 施設の中は電気は通っておらず、窓や屋根のついていない天井からの明かりだけなため薄暗い、扉なども設置されていないので代わりに布で間仕切りされている。それはトイレも同じで間仕切りの中に簡易トイレが設置されているだけだ。


 そこにいる大人たちは、未来への希望がないからか多くの人が陰鬱な表情で座り込んでいる。しかし子供たちは子供たち同士で大きな声を上げることはないが、楽しそうにオオカミゲーム(日本の鬼ごっこ)をして遊んでいた。


 なぜこんな所で生活している。避難民キャンプにでも行けば電気も食料もあるだろう。

 そういう事を言う人はたくさんいる。確かに多くの人はその通りに、このような数百メートル先で武装勢力と政府勢力が抗戦している危険地帯から離れ、難民キャンプで生活している。だがそれでもこの施設で暮らしている人たちに故郷を捨てて避難しろとは私には言えない。

 それは私も同じだからだ。私も内戦が始まった頃にいくらでもこの国を捨てて、隣国に家族を連れて避難する選択肢を選ぶ機会などいくらでもあったのだ。

 だが私はここを離れなかった。なぜならこの国が好きで、故郷を愛していて、この祖国のために何かしたい、そう思ったからだ。ここで暮らす人々も似たような理由だろう。そしてどうしても離れなくてはいけなかった人たちも多くは同じ想いだと思う。私たちと避難した人の違いは、諦めが悪く馬鹿であったかどうかだけだと私は思っている。


 だから彼らの暮らしの手伝いはしても、避難を勧めたりは決してしない。例え彼らがここで死んでしまうことになるかもしれないと分かっていてもだ。


 そうして案内してくれているヒジャブを被った女性が立ち止まったのは、隅の方にある部屋の前で間仕切り代わりのカーテンの前だった。


「この中にいるのですか?」


 私のその質問に彼女は頷くと複雑そうな表情で答えを返す。


「この中にいる人は、今、絶望にくれています。そして多分近いうちに壊れてしまうかもしれません。それでも彼が心安らかにいられるように話してあげてもらえますか?」


「……分かりました。私にできる事をやってみましょう」


 私がそういうと、彼女は苦しい生活のために荒れているが温かい手で私の手を強く握りしめ、そのまま何も言わずにその場を立ち去って行く。


 目の前のカーテンの奥から漂う暗い気配に、私は気を引き締めようと大きく深呼吸してから前に足を踏み出し、垂れ下がっている布をめくりあげた。


 瞬間、よく嗅いでいる匂いだがそれよりも強烈な、まるで体にまとわりつくような死臭が充満した。

 部屋の中は奥にある窓ガラスが嵌っていないただ四角い穴から、ほのかに差し込んダ光しかないため薄暗く、ベットが二つやっと入るだろうが何もない、そこはただの四角い箱の中のようだった。


 そしてその四角い箱の隅に、死臭を放つ人影はあった。

 まるでそこだけ暗闇に包まれているのではないかというほどそこだけ黒く見え、多分、男であろうがその顔も容易に見ることは出来ない。そして男の腕のあたりには小さな子供の形をした人影が、宝物のように大事そうに抱えられていた。


 地獄のように絶望的な場所には慣れている、というより慣れざる負えなかった。

 そんな私でも目の前の光景を見て、気軽に話しかけられるほど慣れ切ってはいなかった。だが座り込んでいる男の体には、どうしようもないほどの絶望が浮かび上がっているようで、私はまるで夢遊病患者にでもなったように男の方に近寄って行った。


 そして近くによるといっそう死臭は色濃くなっており、ハエなども目を覆うかのように飛び交っている。


「こんにちは。私はここに食糧を持ってきている者ですが。何か困っていることはありませんか?何か私にできる事があれば言ってください」


 その会った人間にいつも言っている言葉を、こんな状態の人間にも言えてしまう自分に内心、愕然としながらも男の反応を伺う。男は中々反応を示さず、これは話しかけるのは失敗だったかもしれない、そう思い始めるほど時間が経った時に、男はゆっくりと顔をあげてこちらをじっと見つめていた。


 元々白い男の顔は真っ青を通り越して土気色であり顔の骨も浮かび出て、眼窩がんかは落ちくぼみ瞳もほぼ死人のように濁っている。だがまだその瞳の奥には理性の光と呼べるものがぼんやりとだが見え、私は少しだけ安堵した。


 それからまた数分じっとこちらを眺めた後に、男はボツリと話し始める。


「いえ、俺は……何もほしくありません。ここで暮らしている、生きている子供たちに……食べ物をあげてください」


「ですが、あなたの顔色もひどいですよ。少しは食べなければ体が持ちません」


「いえ、本当にいいのです。俺には生きながらえる資格も意味も……ないのですから」


「そう……ですか。ですが、もし気が変わられたなら言ってください。食べ物を用意しておきます」


 そう言って立ち去ろうとする私を、男の振り絞るような声が呼び止める。


「ま、待ってください!」


「はい、何でしょうか?」


「……あなたのその胸の文字、ジャーナリストの方なんですか?」


 その言葉に私は自分の胸に書かれた文字を改めて見る。胸には『PRESS』の文字が書かれたエンブレムが付いている。別にジャーナリストはこれをつけなければいけないという決まりはない、だがあった人に対して自分の立場を明確に出来、ジャーナリストが人道的な立場と見てくれる人が多い為、いつも必ず身に着けていた。


「はい、そうです。ですがちゃんと皆さんに承諾を得てからでなければ、撮影などは行いませんから心配なさらないでください」


「いえ、そうではないのです。俺の……俺達の話を聞いていただけますか?まだ話せるうちに聞いていただきたいのです。記事にしていただいても結構ですから……だから」


「ええ、分かりました。こちらからもお願いいたします。あなたのお話をわたしに聞かせてください。それであなたの気持ちが少しでも楽になれば幸いです」


「ありがとうございます。あなたに会えてよかった」


 そう言いながら腕の中に横たわる少年の頭をいつくしむように撫で、男はゆっくりと話し始めた。


「俺はここから少し離れた村に住んでいました。妻が一人に息子が二人で幸せに暮らしていたのです――」


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 俺達が暮らしていたのは街から少し離れた寒村でした。

 農作物を作るのには適しておらず、牧畜と少しの農作物の栽培でなんとか生計を立てておりました。


 そんな村ですから。街を支配している武装勢力もあまり関心を示さずに、まるでないもののように扱われ。なので街の方からは爆発音や銃声が聞こえておりましたし、商品の取引で物価が上がっているよう思えましたが、比較的穏やかに暮らしていたのです。


 そんなある日、妻と息子二人で家畜の世話と農作業を終え、各々が部屋の中で寛いでいました。妻は夕飯の用意をし、子供たちは2人で何かをして遊んでいるようでした。そんな時に俺はふと、この生活は長く続かないのではそんな漠然とした不安が襲ってきたのです。


 俺はすぐに二人の息子を呼び寄せました。息子は6歳と7歳の1つ違いで髪色が茶色で肌の色が白く、目鼻立ちも似通っていて身長と体つきを除けば瓜二つのようにも見えました。


「それにしても、お前たち二人は似ているなぁ」


 そんな漏れ出た感想に、二人の息子は腹を立てていました。


「そんなことないよ父さん。弟はオレの真似ばっかりしてるから、顔も似てきてるんだ!」


「何言ってるんだよ!お兄ちゃんだって、僕の真似ばっかりしてるでしょ。僕の遊んでるの真似して一緒に遊んでいたくせに!」


「何を!やるのか!」


「止めなさい、二人とも!そうやって喧嘩していると天国に行けなくなりますよ。あなたもあなたです。子供たちが私たちに似ているのは、私たちの子供なのだから当然でしょう!」


 そう言いながら頬を膨らまして、まったく迫力に欠けた様子で怒っていたのが俺の妻でした。彼女は色が白く黒色の長い髪をしていて、俺は街に出たことはほとんどありませんが、ここら辺で一番の美人で働き者が妻だという事に、俺は密かに心の中で誇りに思っていました。

 そしてそんな彼女に俺は頭が上がらなかったのです。


「すまんすまん、俺たちの子供だものな、それは当然だった」


「ほんとにもう、あなたはいつもどこか抜けているんですから」


「そうか?俺は抜けているのかぁ全然気が付かなかったな。うん。それよりもだ息子達、今日はお前たちにいいたいことがあるんだ」


 そう真剣な顔で言うと、息子二人は怒られるとでも思ったのか、かしこまった様子でこちらを見ていました。


「お前たちも知っていると思うが、この国は今、内戦状態で街に行くのはとても危険だ。銃を携えた男たちが誰かれ構わず殺して周り、飛行機が爆弾を落として誰かれ構わず焼き払っている」


 俺のその言葉に、おびえた様子と街への憧れが一緒になって、複雑な顔をしていました。それはそうでしょう。息子らが生まれてからすぐに内戦が始まりましたから、生まれてから一度もこの村を出たことがありません。大きな街に一度は行ってみたいと思うのは無理からぬことだと思うのです。


「だけど大丈夫だ。この村は何もない場所だから悪い奴らも襲ってこない。それでも万が一という事もある。もし悪い奴らが来たらすぐ逃げて、叫んだり話したりしないで、じっと息をひそめて相手がどこかに行くまで待つんだ。出来るな?」


「はい、父さん!俺は言われた通りにします!」


「ぼ、僕だって。言われた通りちゃんとやるもん!」


「ホントにちゃんとできるのか?泣いてちゃダメなんだぞ。」


「出来るもん。僕は泣いたりしないもん!」


 そう言って素直に返事してくれる息子たちが無性に可愛くなり、乱暴に頭を撫でてしまう。乱暴に撫でられてすこし痛いのか顔をゆがめていましたが、嬉しそうに笑っている表情を見ると息子たちの成長に俺もとても嬉しくなりました。


「みんな、もうそろそろ夕飯よ。準備しておいてね」


「よし、それじゃあ夕飯にしよう。その前に礼拝を――」


 続きを言いかけた時に、ドアを慌ただしく叩く音が聞こえてきました。なんだかその音には焦りや凶兆が含まれている気がして、俺は不安な気持ちを抑えて、すぐにドアを開けました。


 開けた先にいたのはこの村で村長のような立場にいる名士でした。立派な顎髭と口ひげを生やし顔に深いしわを刻んでいる名士の男は、深刻そうな面持ちで、明るく挨拶をした俺に余り心のこもっていない挨拶を返すと、すぐに集会場に来るようにとだけ告げて足早に去っていきました。

 すぐに俺は先に夕飯を食べているようにだけ家族に告げると、急いで服装を整えて集会場へと向かいました。


 集会場は村の中央にある井戸の近くにあって、そこにはすでに俺の父親や兄弟もいて車座になって座っておりました。とは言っても村の全員が知人で友人でもあり、家族みたいなものなので、知らない人間など一人もおりません。


 そんな家族ともいえる人々全員が、これから葬儀でも始めるのかと思われるほど暗い顔をして集会場に集まっていたのです。いつもであれば、うちの息子が娘が、家畜の調子はどうだ、農作物の様子はどうだと、世間話に花を咲かせていたでしょう。ですがこの時はそんな様子もなく、ただただ暗い顔でいつ話が始まるのかと座っているだけでした。


 多分ほとんど全員が、いつかこのような時が来るのを予感していたのでしょう。噂だけでも武装勢力は街を恐怖で支配し、一般市民を虐殺しているという噂を聞いていたのです。その火の粉がこちらに絶対来ないと断言できるものなど、その場には誰もおりませんでした。


 そして少ししたのち、やってきたのは先ほど俺の家に来た名士の男と、街から商品の取引を任されている男でした。その男はいつもはとても陽気で人当たりが良く、明るく笑う男でした。ですがその時は青い顔で深刻そうな顔で立っていました。


 そのまま集会が始められるとすぐに名士に促されるように、商品取引をしている男は震えるような声をして今日聞いた出来事を話始めました。


 その話の内容は、俺たちを真っ黒な谷底のような絶望へと引き込むには十分なものでした。


 曰く、本日、商取引をしていた場所でそこの代表をしている信頼できる男に、大事な話があると言われたという事でした。今までその街は武装勢力の支配下であり街中では市民への暴行や虐殺は蔓延しているが、村とは今までは何とか物価が上げたりするなどだけで、商品を取引だけは出来ていた。

 だが最近になって西側諸国の支援する反政府組織の本格的な街の奪還作戦が始まり、空爆と物量作戦により武装勢力は次第に追い詰められつつあり、今後は取引は出来なくなるだろうという事でした。


 それだけであれば特に悪い事ではありません。街の方々に申し訳ないとは思いますが、我々は村の事だけで精いっぱいでしたから。

 だがこれにはまだ続きがありました。追い詰められた武装勢力は物資の不足から周辺にある村々から略奪し、それを使おうとしているとの情報があったという事でした。そしてそれには俺たちの村も当然入っているというのです。


 ただ物資を奪われるというならまだマシです。少しでも物資が残っていればそれを食いつないで、生きていくことは出来るでしょう。ですが問題はそんな事ではありません。武装勢力は確実に男はすべて殺し、女は犯し奴隷にするか殺すでしょう。そしてそれは子供も同じようなものだと話に聞いていました。


 話を全て聞いた後、その場をずっと何も聞こえない無音が支配しているように思えました。そんな時一人の男が立ち上がり言いました。『武器を持って戦おう、我らの土地を奪おうとするやつらを殺してやるんだ』ですがその男の言葉尻が震えた台詞は俺たちの胸にむなしく響き渡るだけでした。


 だってそうでしょう?

 俺たちは満足に戦ったこともありません。それに武器も名士の家に自動小銃が一丁に猟銃が三丁ほどしかありませんでしたから、それで戦って勝てるなどとは到底思えません。

 つまりは最初から結論は決まっていたのです。逃げるしか方法はない、そんな事は分かっていても祖先から受け継いできた土地ですから、そう簡単に離れようと自分から言えるわけがありません。


 ですがそんな中で意を決したように、声を上げた人物がおりました。


「みんな聞いてくれ!土地は後で軍にお願いしていくらでも取り返せよう。だが皆の命は妻の、子供の命は取り返すことは出来ない。祖先から受け継いできた土地だが諦め、全員一緒に逃げるのだ。それしか道はない」


 そう凛とした確固たる決意を秘めた声で言ったのは名士でした。誰もが言いにくかったことを名士が言ってくれたことで、一部に納得がいかない者もいたようでしたが、全員の賛成で逃げることに決まったのです。


 武装勢力がいつここに来るかは分からないとの事でした。ですが、なるべく早めに出ていった方がいいという事で、その日の深夜にも村を出ることになったのです。


 そうして各々準備をした村人たちは真夜中、集会場に集まり村にあるピックアップトラック四台にそれぞれ分かれて乗ることになりました。俺たち家族四台のうちの一台のトラックに乗り込み、すぐに出発することとなりました。


 妻を説得して、子供たちには不思議そうに質問攻めにされましたが、なだめるように俺は家族を連れて来ました。

 正直村を離れるのは不安でしょうがありませんでした。俺も人生のほとんどを村で過ごし、他の村や街などはほんの数回しか行ったことがありません。それに家の事、飼っている家畜の事などどうしても気になりました。


 しかし妻が目がしらに涙をためている姿や子供たちも不安そうに車に揺られている姿を見ては、俺が泣き言をいうわけにいかず。何度もまるで自分にも言い聞かせるように、妻や子供たちに大丈夫だよと言い続けていました。


 それから30分程車に揺られた頃でしょうか。急に車が止まり何が起こったのか耳を澄ませると、遠くから銃声のような音が聞こえきました。どこか遠くで戦闘でもあるのか、そんな暢気な事を考えていた俺は次の瞬間現実を思い知らされました。まるで爆竹が鳴ったような弾ける音が鳴ったのち、銃弾が車体に当たり弾ける様な金属音が鳴り響いたのです。


「みんな降りろ!草むらの方に隠れるんだ!」


 その運転手の声を聴いて、トラックに乗っていたみんなは混乱のただ中に放り込まれました。どう動けばいいか咄嗟に良く分からなくなった皆はバラバラにトラックを降りると、そのまま散り散りになり街道の方や武装勢力の支配する街の方などを無我夢中で逃げて行っているようでした。


「みんな待って!そっちじゃないわ戻ってきて」


「やめろ!今は隠れるんだ」


 妻が散り散りになっていく人々を止めるため、追いかけよう必死に声を掛けるのを何とか止めると、俺は子供二人を両脇に抱えて、草むらがある方へ隠れるために命がけで走りました。


 そうしてなんとか無事に草むらについて子供たちを腹ばいにして伏せさせ、自分も伏せようとした時に気付いたのです。


 妻がまだこちらに来ておらず、どこかに走って行ってしまった仲間たちを案ずるようにこちらに背を向け、道の真ん中で立ち止まってしまっていたのです。


 俺は必死に叫びました。


「何してる!早くこっちにこい!」


 俺のその声に気付いた妻はこちらに振り返り、こちらに近寄ろうと歩き出したその時でした。

 車のヘッドライトがまるでスポットライトになったかのように妻の体を照らし出し、その光の中に浮かぶ妻の体から、ものすごい速さの黒い凶弾が二つほど飛び出し、同時に赤黒い液体がはじけ飛ぶ光景が目に飛び込んできたのです。そしてそのままスローモーションになったように、妻の体はゆっくりと地面の中にできた影の中に倒れたのが私の眼には映っていたのです。


 俺は目を疑いました。


 一瞬何が起こったのか本当に理解できなかったのです。でも次第に頭の中が整理されていくにつれて、こんな事がこんな事があっていいわけがない。なぜ妻なんだ俺なら撃たれても構わないのにこれが夢ならどんなにいいだろうか。そんな思いが頭の中に濁流のように溢れました。


 ですが、こちらに目を見開きながら地面に倒れ伏していく妻の様子は、どう考えても現実のものでした。


 そんな様子を目撃し茫然自失としていた時に、次男がお母さんと呼ぶ小さな声が聞こえて。俺はやっと我に返り、今にも叫びだしそうな次男の口を押さえつけて、その場に伏せる事が出来ました。


 それからは倒れ伏して今はもう何も映っていないだろうガラス玉のような瞳をこちらに向けている妻に、どうしても駆け寄りたいというそんな衝動と戦いながら、子供たちと共に草むらの中、雷を怖がる子供のように伏せていました。


 この時は何時殺されていてもおかしくない状態でした。いえ、ここで殺されていた方が幸せだったかもしれないと今では思ったりもします。


 ですがこの時は幸か不幸か妻を殺した武装した男たちは、トラックにある物資を漁るとすぐにその場を後にしていきました。もしかしたら逃げて行った他の村人を追って行ったのかもしれませんが、今はもう知りようがありません。


 妻を殺した奴らは憎いです。しかし誰が殺したかもわかりません。それにその時は妻が死んでしまった事で頭がいっぱいで、他の事を考える余裕など到底ありませんでした。


 ヘッドライトをつけた車が走り去り、辺りに暗闇が再びやって来ると、すぐに俺たちは妻に駆け寄りました。

 妻の体はすでに冷たくなって全てが静止している体は、見ただけで死んでいるのは明らかでした。長男と次男はその事を中々受け入れられないようで、近くで体をゆするなどしておりました。


「ねぇ、お母さん。起きてよ、ねぇ起きてってば!」


「お母さん、ねぇおかあさん、おかあさん、おかぁさん、おかぁさん、おかぁさん!どうしたのさぁねぇってば!」


 その息子たちの必死の叫びに、俺は言葉をかけるのを最初はためらいました。俺も整理できておらず、息子達にも心を整理できる時間をあげたいそう思ったのです。

 ですがすぐに覚悟を決めて二人に語り掛けました。今のうちにこの場を離れなければ、いつまたさっきの奴らが戻ってくるかわからない、そんな不安がそれを後押ししました。


「二人とも静かにしろ!またさっきの奴らが戻ってくるかもしれないぞ!それにお母さんは……もう……死んだんだ。天国に行ったんだ。だから――」


「嘘だ嘘だ嘘だ!さっきまで僕と話してたんだ!また村に戻れるよって、また同じように暮らせるよってだから、だから……」


「どうして父さんは、母さんを助けてくれなかったの!目の前に倒れていたのに、なんでほっといたりしたのさ?なんで、どうして!」


「すまん……本当にすまん、だが聞いてくれ。今はこの場を離れないと不味いんだ。いいから俺の言うことを聞け!」


 今優しくしても、子供たちは余計に離れ辛くなる。そう思い、なるべく言い含めるるように、俺は頭ごなしに言ったのです。


「お母さんはどうするの?連れてくんだよね?」


「お母さんは……連れて帰れない。ここに置いていく、後で……後でまた迎えに来よう」


 俺のそれは子供にも分かる嘘でした。次男は泣き崩れ地面に座り込んでしまい、長男は泣きたいのを我慢するためにズボンを必死に握りしめていました。


 それを俺はそれをあえて無視するように、体を動かしていました。体を動かしていなければ妻を失った現実に握りつぶされるそう思ったのです。それで私は妻の体を街道に放置するのだけは嫌だったため、草むらへと隠すように運び、体の上に上着をかけてやるそれしかしてやれませんでした。


 そして泣きじゃくる次男を抱えながら長男と手をつなぎ、一度村へと帰ることにしました。持ってきていた荷物は妻を撃ち殺した奴らに奪われ、何もなかったため一度態勢を立て直すためにも必要な事でした。


 それからなんとか夜の暗いうちに村まで到着しました。村の近くは自分の庭の様なものであり、道に迷うという事はありません。そうして着いた村は人がいない為、もはや俺の慣れ親しんだ村だとあまり思えなくなっていて、ですが時たま鳴く家畜の鳴き声だけが、ここが俺の生まれ育った村だと教えてくれているようでした。


 それからは少しだけ自宅で休みました。

 精神的に参っていたこともあって倒れてしまいそうになりましたが、息子たちを助けられるのは自分しかいない、そんな思いで準備を進めました。子供たちは泣き疲れたのでしょう。寝床で眠ってしまっていましたが、その寝顔を見ていると何とかしなくてはいけないと、まだ俺は頑張れると、そう思えたのです。


 そうして準備を終えたのは、日の出の数時間前ぐらいだったと思います。

 長男を無理やり起こし、次男を抱えるとすぐに村を出発しました。先ほどはトラックで街道を走っていて撃たれた事もあり、街道は奴らが見張っているそう思い俺の考えた方法は、街の中に入りそこを突っ切って難民キャンプへと行くというものでした。


 今考えると無謀でしかないように思えますが、あの時には俺にはその方法しか思いつかなかったのです。


 俺たちは足早に近くの武装勢力が支配している街に向かいました。最初は次男を抱え、長男を歩かせて。途中からは長男を抱えて、次男を歩かせ。そうやって厚い雲のために月も出ていない荒野の中を、ひたすら歩き続けました。


 そして幸い誰かに見つかるという事もなく、街の中に入ることが出来ました。


 とはいっても街などほとんど入ったことの無い俺は、どちらに行けばいいかも良く分かりません。とにかくこの街の今いる場所の反対側に避難キャンプがある事だけは分かっていましたので、街の外周に沿うように時計回りで進むことにしたのです。


 街の中はひどい有様でした。銃弾の後がそこかしこにつき、建物は壊されたり荒らされたりするなどまさしく廃墟と言った感じでした。もしかしたら街の中央部に行けば案内をしてくれる人がいたりしたのかもしれません。

 ですがそちらに行く勇気はもちろん俺にはありませんでしたから、そのまま二人の息子を連れてなるべく早く歩いていたのです。


 かなりの時間歩いていたため、歩き疲れてそろそろ休もうかと思っていた頃でした。

 街中の遠くの方に何やら光が見えたのです。暗い中でライトであるのかランタンの光であるのか、それは分かりません。ですが肉体的にも精神的にも疲れ果てていた俺には、まるで以前の温かい妻と子供二人が笑い合う我が家の明かりのように見えたのです。


 しかし、そんなものは幻想にすぎないという事はすぐに分かりました。


 銃声が鳴り響き、それが建物に当たったのだろう何かが砕ける音が響きました。それでやっと俺は我に返り、長男の腕を引っ張り半ば引きずりながら建物の影へと、足をもつれさせながら出来の悪い機械のように走りました。


 そうしている時にも何度も何度も銃声の音が響いてきました。




 そんな時でした。長男と強くつないでいたはずの左手が、まるで俺の手から零れ落ちていく砂粒のようにするりと抜けていくのを感じ、その時は転んでしまったのだろうかなどと暢気に考え振り向いたのです。

 すると当時の俺には何が起こったのか正直良く分かりませんでした。ただ長男が転んで倒れているように見えたのです。ですがそんな薄い明りに照らされている我が子の体からは、赤黒い体液が建物からの明かりに照らされて輝きながら生命と一緒に流れ出していたを俺は見てしまったのです。


「■■■■ーー!!どうして、なんで、なにが!どうしてなんだ!?どうしてこんなことが!!」


 俺はこんな状況だというのに思わず叫びました。スナイパーがこちらを狙っている事などはもう頭にはありませんでした。


 俺が無知で無力で無価値なせいで、妻が長男が私の手を離れて遠くに行ってしまった。


 そんなどうしようもない後悔で頭の中がぐちゃぐちゃになっていました。妻を無理やりにでも引っ張っていって草むらの中に入れていれば、長男も一緒に抱えて逃げていれば、こんな悲劇は起こらなかったのだ!

 なぜこんなにも理不尽で残酷な事がこの世界では起こってしまうんだ!俺が妻が、息子が何か罪を犯したのか誰か教えてくれ!誰が間違っていたのだ!妻か長男か、俺かそれとも世界か!誰か!誰か教えてくれ!




 それから俺の叫びで抱えていた次男は身じろぎをして、やっと俺は今やらなければいけない事を思い出しました。腕の中の息子を助けてやらなければいけない、それに倒れ伏している息子を連れて行ってやらなければいけない。

 俺はそう考えて次男を起こし歩かせ、代わりに長男を抱えて必死に走りました。


 その時のことも良く分かりません、ただただ頭の中は、なぜこんな事のなってしまったのか、もう絶対に息子を殺させない。そんな事で頭がいっぱいでした。


 それからもスナイパーに撃たれないように、身をかがめながら必死にもう一人の息子だけは撃たせたくない、今度こそ手を離さないと強く握りしめ、自分自身を壁にしながらとにかく走りました。


 日が明け始め、地平線から少しだけ日が顔を覗かせ始めた時、銃声は全く聞こえなくなり。俺と次男は建物の陰に隠れて休憩することにしました。


 抱えていた長男を壁にもたれかからせるように座らせ、俺は自身の服を改めて見るとべったりと血が染みつき、長男は顔は何が起こったのか分からないといった表情のまま固まり、体は冷えて今は生きていた温もりすら残ってはいなかった。


 次男はまだ長男が死んだことに気付いていないのか、疲れて何かをする気力もないのか、こと切れた長男の隣で建物に背中を預けて寄り添うように眠っておりました。


 誰の視線もない事にその事に気付いた俺は、服を噛んで嗚咽を噛み殺しながら泣きました。その時は本当にただただ涙があふれてきたのです。妻を息子を失いどうしたらいいか分からないそんな思いと、何とかもう一人の息子を助けなければならないそんな思いに、板挟みになって疲れ果ててしまって。

 知らないうちに子供のように泣きじゃくっていたのです。


 ですがその様に泣いている暇もあの時はありませんでした。


 早く生きている息子を安全な場所に連れて行きたい、そんな思いがだんだん強くなっていました。死んでしまった息子には申し訳ないと思いましたが、街の片隅に穴を掘りそこに埋めようと考え、近くに落ちていた廃材を使って俺は懸命に穴を掘り始めました。


 自分より長く生きどんな未来を生きるのだろう。そんな夢を見ていた頃が懐かしく、そして同時にとてもつらく、もっと何かしてあげられたのではないかそんな事を思うと、穴を掘っている最中にも関わらず涙が溢れて止まりませんでした。


 そんな大切で愛しい息子のために墓穴を掘る、そんな時間さえも奴らはちゃんと与えてくれなかったのです。


 再び銃声が鳴り響き、最初は遠くかと思っていた着弾場所が、段々近くになっているように俺には感じられました。本当はそんな事はなく俺の勘違いだったのかもしれません。

 でもあの時には長男が撃たれた時のことが頭によみがえり、冷静な判断が出来ていなかったのかもしれません。


 俺は必死で墓穴を掘りました。

 急いでこの場を離れなくてはいけない、そんな思いで必死に手がケガしてしまうことも考えずに掘り進めたのです。ですが掘り終えた時になんだか銃声がもっと近くになっているそんな気がして、俺は急いで壁にもたれかかっている息子を抱え上げ、穴の中へ入れ……必死に……必死に、土を……土をかけていったのです。



 俺は息子を穴に埋め終えました。そして壁にもたれかかった息子を急いで抱え上げて、街の路地の中を再び必死に走りました。この子だけはどうか殺さないでくれ、俺は撃たれてもいいから、だからどうか神様息子を連れてかないでくれと、銃声が響きわたり日が昇りかける薄暗闇の中、俺は必死に走ったのです。


 そうしてどれくらい走ったでしょうか。


 銃声が鳴りやみ日が昇り周囲が明るくなり始めた頃。俺は何とか生き延びれた、息子を助けられた。この息子だけは生き延びさせよう、俺の一生はこの息子のために使おう。

 そんな達成感のような使命感のような感情が湧き出てきたそんな時に気付いたのです。本当は走っている途中で気付いていたかもしれません。でもその必死に見ないようにしていた事実を、それは日の光が東から必ず昇ってくるようにどうしようもなく俺に気付かせたのです。




 俺が必死に抱きしめて守っていたのは、銃弾を受けて冷たくなった先ほど俺がだったのです。




 その時の絶望があなたに分かるでしょうか?最初は頭が真っ白になりました。何が起こったのかわからなかったのです。


 どうして俺は埋めたはずの長男を抱えているのだろうか?さっきまで次男を腕に抱えていたはずだというのに、息子を助けようと、一生を息子のために使おうと決めたはずだというのに。だというのになぜ腕の中にはすでに死んでいる息子しかいないのか?


 そうすると冷静な頭の中の俺が答えるのです。


『お前が、お前自身が、愛する我が子を生き埋めにして殺したのだ。お前の単なる不注意で』と。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「俺が……俺がこの手で……この手で生きている……生きていた息子を埋めたのです!もちろん、もちろん戻って助けようとも思いました!でも俺は……もはや息子をどこに埋めたのか、それさえ覚えていなかった。必死で……必死に走って今、自分がどこにいるかさえ分からなくなったいたのです。俺の心はそれで折れてしまいました。もう何をどうしたらいいか、生きている意味も……何も分からなくなってしまったのです」


 そう言って独白した後、男は抱えている息子の遺体を強く強く抱きしめながら、枯れた涙の代わりに声をあげて泣いていた。


 私はその話を聞いて、その男の姿を見て私の眼には自然と涙が溢れてきたのです。私は大人になってから泣くことはあまりなかった。それでも目の前の男が流せない涙の代わりに私の涙はとめどなく流れ続けていた。


 私にも妻がいて娘がいる。そして目の前の男にも妻がいて、息子が二人いて。自分にもいつでも同じことが起こりうることであろう。そしてそれは同情とはすこしだけ違う、共感と言った方が正しいかもしれないそんな気持ちが私の心を占めていた。


 それから少しして男が落ち着いてきたところで、自分の涙をぬぐい私は彼に語り掛けた。


「良ければ……本当に良ければですが。あなたの息子さんを埋葬させて貰えませんか?このままでは息子さんもあなたにとっても不幸です」


「やめてくれ……やめてくれよ!この子を殺さないでくれ!この子を土に埋めて殺さないでくれ。俺にこの子を二度も殺させないでくれ!!」


 その答えで私は多くを悟った。彼の心はすでに壊れかけており、それを救う手段など私は持ち合わせていないという残酷な現実だった。


 そして先ほどの言葉を話したきり何も話さなくなった男の様子を見て、もう話したくない話せることはない、そういう事だと考え私は腰をあげた。これ以上いても男とその息子の静かな対話を邪魔するだけで何もできない。そう実感したのだ。


 しかし私はジャーナリストとして、一人の人間として最後に言わなければいけない、それが義務であり責任であると感じていた。


「あなたには辛い事を話させてしまって申し訳ありませんでした。聞いた話は必ず記事にしたいと思っています。あなたは自分を許せないし許す気もないのかもしれません。それでも私はあなたがとても立派な父親で、奥さんを息子さんを愛されていた事は真実で、とても尊敬すべきことだと思いました。だからあなたは確かに間違いを犯しました。それでもあなたは許されない事はやっていない。そう思います。奥さんも息子さんたちもあなたを天国で必ず許してくれる、そう確信しています」


 その言葉にも男は反応なく、ただただ腕の中の息子を抱きしめていました。

 私は感謝だけを述べるとそのまま退出しようとした所で、後ろから囁くような小さな声が聞こえてきました。


「こちらこそありがとう、あなたに話せて良かった」


 あまりに小さい声だったので、私の幻聴だったのかもしれない。

 それでもその答えを聞けただけで、私の心は満たされていた。

 振り向いてみた男の顔を見た私は、確かに男の顔に一条の光が射しているように見えました。しかしそれもわたしの幻覚だったのかもしれません。



 男の部屋を退出した私は、施設の中心に戻っていた。

 そこではサラートと呼ばれるイスラム教の礼拝で、その中で午後の礼拝アッサルと呼ばれるものを施設の中心の本当は中庭になる予定だった場所でおこなう時間だった。私もあまり最近ちゃんとできてない事を思い出し、一緒に参加することにした。


 ここは戦場である為、礼拝前のウドゥーと呼ばれるお清めはあまりちゃんと行えないが、手だけを綺麗にしてはじめる。


 そこにいる大人から子供顔はとても真摯な顔つきだった。

 キブラつまりカアバ神殿のある方角に向かって立ちながら、クアラーンの第一章を暗唱していく。


 アッラーは偉大なり。

 慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

 万有の主,アッラーにこそ凡ての称讃あれ

 慈悲あまねく慈愛深き御方

 最後の審きの日の主宰者

 わたしたちはあなたにのみ崇め仕え,あなたにのみ御助けを請い願う

 わたしたちを正しい道に導きたまえ

 あなたが御恵みを下された人々の道に,あなたの怒りを受けし者,また踏み迷える人々の道ではなく。

 ※クルアーン 第1章 開端章(アル=ファーティハ)


 祈りの言葉を唱えながら、私は心の中で叫び続ける。

 どうか全ての人の心に安らぎを。

 先ほどの男にもどうか許しを与えてください。

 そしてこの国に生きる全ての人に笑顔を。

 絶望している人に希望を与えてあげてください。


 そう心で訴えながら、周りと同じように手を組んだり、お辞儀の姿勢をしたり、床に頭と鼻をつけて跪拝きはいをしたりしながら祈りの言葉を唱え続ける。何度も。何度も。


 宗教のせいでみんな悲しんでいると誰かが言う。

 だけど私はそれは違うと言わなければいけないと思う。宗教は悪ではなく、善でもない。古代からある宗教の多くが、人々の祈りから、誰かが願った希望から、誰かが望んだ理想から生まれた、人々を良くしようとするシステムに過ぎないのだ。それが悪いものであるわけがない。そんな善でも悪でもないシステムを、人は欲望や野心などの欲求で、自分勝手に改悪し改ざんし曲解させ作り変えてしまう。

 まさに人間こそが根源であり、悲しみや苦しみを生んでいるのも人間自身であり、それはシステムではなく人間が背負うべき罪なのだと私はそう思う。


 だから私はアッラーに祈り続ける。

 誰かが悲しみや苦しみを乗り越え幸せにありますようにと、誰かが今日も一日笑顔で生きられますようにと。

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地獄のような現実の中で、踏み迷う人々の幸運を祈りながら ほうこう @houkou407

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