第百話
(なんだか体が重いな・・・。)
凌馬は目を覚ますと体の不調に顔を歪めていた。
最近、あまり体の調子がよくない凌馬は、それでもなんとか起きると会社に行く準備をする。
季節は移り変わり、水族館に出掛けたあの日からもう五ヶ月が経過していた。あれ以降も何度かミウとナディとは出掛けることもあったが、ここ一、二ヶ月は仕事が繁忙期ということもあり、連日の残業が続いていたためあまり機会がなかった。
しかし、それももうすぐ終わる。季節は冬。行き交う街もイルミネーションで飾られており、人々の心もそんな雰囲気に自然と明るいものになっていた。
そして、それは凌馬も例外ではなかった。
今年のクリスマスのために休日出勤や残業にも耐え、ミウとナディのために頑張って来たのだから。
前にミウと約束した某巨大遊園地に一泊二日で出掛ける計画を立てていた凌馬は、超高倍率を勝ち残りプラチナなチケットを手に入れることに成功していた。
そのチケットを手に思わずこぼれる笑み。
(最近はミウと全然遊んであげられなかったからな。これで二人とまた今まで通りに戻ることが出来る。)
そう、凌馬は信じて疑わなかった。
「はぁ~、やっと残業地獄から解放された・・・。たく、人が居ないからって何でもかんでも俺に押し付けやがって。新人が入ってきてもブラック過ぎてすぐに辞めるし、このままじゃいつまで経っても俺が下っ端のままじゃないか。転職・・・マジで考えてみようかな。」
凌馬の不満も爆発寸前だったが、それよりもこれからのことを考えると嫌なことも忘れさせてくれる。
そう、このプラチナチケットがあれば。
凌馬は、急ぎ家路に着く。
(もうすぐアパートだ。早くミウとナディにクリスマスの予定について話さないとな。きっと二人とも喜んでくれるぞ。)
凌馬は足早にアパートのある通りへと角を曲がると、ナディの家を目指していた。
(あれは、ナディ?)
凌馬は、家の前にいるナディの後ろ姿を見掛けたため声をかけようとする。
「おーい、ナディ・・・・・・。」
しかし、凌馬が見たナディの体に隠れるようにもう一人いることに気が付くと、声をかけるのを止める。
そして、次の瞬間にナディの体がその人物に抱き締められるところを目撃してしまう。
(あれ・・・なんだこれ・・・、いったい何が起きているんだ?)
凌馬は目の前で起きている現実を理解できずに、茫然と立ち尽くしてしまう。
それは果たしてどのくらいの時間か、一分・・・二分・・・いや本当は数秒に過ぎなかったのかもしれないが、凌馬には永遠とも思えるほどの時間に思えた。
「それじゃあまた、お休みナディ。」
「───お休みなさい。」
男は車に乗り込むと、ナディの家の前から走り去っていく。
車が見えなくなるまでの間見つめるようにしていた彼女は、やがて家の中の入ろうと振り返るとそこに居た凌馬の姿を目にする。
「凌馬さん、何時からそこに。」
「あ・・・いや、さっき帰ってきたところなんだ・・・。」
「そうなんですか。」
心なしナディの様子がいつもより素っ気ないように感じ取れた。
「そ、そうだ。クリスマスの予定なんだけど、もしよかったらミウと三人で遊園地に行かないかい。ほ、ほら前にミウが行きたいって言ってたから、チケットを手に入れたんだけど・・・。」
凌馬は気まずい空気をぶち壊すために、切り札を取り出す。
「ごめんなさい。その日は予定があって。」
「そ、そうか、やっぱりクリスマスは家族と過ごすほうがいいかな。」
頭を掻きながらそういう凌馬だったが、ナディは首を振って否定する。
「いえ、大学の先輩なんですけど、その方にクリスマスにお誘いを受けているもので。」
「あ、そうなんだ。じゃあしょうがないよね。あはははは──────。」
ナディの告白にショックを隠そうと必死の凌馬は、乾いた笑い声を上げていた。
そんな凌馬の心を知ってか知らずかナディの雰囲気が冷たいものへと変わっていき、凌馬は言葉に詰まる。
「それと、もうこれからはあまり気安く誘わないでくださいね。周りの人たちに誤解されても迷惑なので。それでは、
他人行儀の態度で、ナディは凌馬と目を合わすことなく家の中に入っていってしまう。
「あっ。」
凌馬が無意識に伸ばした手は、しかし空を掴むことしかできなかった。
(約束したヤツってやっぱりさっきの男だよな。確か以前水族館で声を掛けていたヤツだった。なんだそうか、当然だよな。ナディは大学生であんなに綺麗なんだ。周りの人たちが放っておくわけないよな・・・・・・。俺みたいな冴えない男にミウのためとはいえ、今までいろいろ付き合ってくれていたこと自体がそもそも奇跡みたいなものなんだ─────。)
凌馬の視界は段々と色褪せていき、やがて白と黒の世界へと変わっていく。
(別にこんなのには慣れているさ。今までの人生だって同じことの繰り返しだったじゃないか。そうだ・・・それに俺にはミウがいる。それでいい・・・それでいいんだ。)
自分に言い聞かせるようにそう何度も呟いていた。
今まで女性と付き合うことのなかった凌馬。しかし、真相は今回のように親しくしていた女性に別の誰かが近付くことがあると、とたんに距離を置いてしまうということがあった。
裏を返せば自分が傷つくことを極端に恐れるがための防衛反応だった。
故に、今まで一度として唯一無二の───かけがえのない存在を作ることはなかった。
凌馬はこれまで関わってきた全ての人に対して、親兄弟ですらもどこか一歩引いて見ていたのだ。
もし仮に彼らが亡くなることがあっても、彼は涙ひとつ流すことはないだろう。
それは彼が薄情だからではない。
彼は自分の心を傷つけられるような事態を異常なほどに警戒し、そのような事態を無意識に避けてしまうのだ。
それは、心の奥底───魂からの避けられない勅令であるかのように。
だが、彼は変わった。この世界で様々な人達と関わり、そして彼女たちと出会ったことで・・・・・・それがもたらす結果の良し悪しは別として確かに変わったのだ。
・
・
・
ただ立ち尽くす凌馬には、これまでの記憶が走馬灯のように駆け巡っていた。
どこで選択を間違えてしまったのか答えを探るように。
そんな凌馬の視界に、一台の車が接近してくるのが写っていた。
車は凌馬の目前、ナディの家の前に停車する。
バタン!
車のドアが開き、中から一組の夫婦と見られる男女が降りてきた。
「ミウ、お母さんよ。」
「パパも帰ってきたよ!」
バーン!
玄関が勢いよく開くと、ミウが飛び出してきて車から降りてきた二人へと抱き付いていた。
「パパー! ママー!」
「ミウ、ごめんね、今まで寂しい思いをさせて。」
「これからはずーとパパとママと三人一緒だよ。」
目の前の親子の再会劇に凌馬の思考がマヒする。
「さあ、国に帰ろう。」
「ミウのために新しい家を建てたんだよ。ミウの部屋もちゃんと用意してあるからね。」
「本当? 早く帰ろう、パパ、ママ!」
「ミ、ミウ!」
凌馬は何とかそれだけ声に出すことができ、目の前で繰り広げられる会話に割り込む。
「パパ?」
凌馬を見たミウの両親は怪訝な顔をしていたが、ミウは凌馬の元へと歩み寄ってくる。
「ミウ。パパ、ミウのために遊園地のチケットを手に入れたんだ。クリスマスに泊まりで遊べるプラチナチケットだぞ。約束したよな? 一緒に行こうって・・・。」
チケットをミウに見せると、すがり付くように話し掛ける。
「・・・パパ、ううん、凌馬
ミウの言葉に凌馬の時間が止まってしまう。
『ミウ、もう行くよ。』
「はーい。じゃあお兄ちゃん、
ミウは凌馬から視線を外すと車の方へと歩いていく。
凌馬にはまるで時間がゆっくりと流れているように見えていた。
「ミ・・・ミウ。」
しかし、凌馬の呼び掛けにもミウは振り返ることなく両親と車に乗り込んでしまう。
「ま、待ってくれミウ・・・パパ、もうミウだけなんだ・・・。もうミウしか居ないんだ・・・・・・。お願いだ、独りにしないでくれ・・・・・・。」
そんな慟哭は誰にも届くことなく、最早立つ気力も失い膝から崩れ落ちる。
そして、車はミウを乗せ走り去っていく。車が視界から完全に消えるのをただ見ていることしかできなかった。
そんな絶望を前に凌馬は地面に踞ると、体を震わせながらなにかに耐えるように自身の体を抱き締める。
「ぁぁぁぁぁあああああああアアアアアア─────────」
バリーン!
ガラスが割れるような音が周囲に鳴り響く。
そして、ついに凌馬の心は打ち砕かれた・・・・・・。
・
・
・
「くくくっ、あっはははははは──────。脆い、脆すぎる。何が甘く見るなだ。たった一度きりで既に立ち直れないほどのショックを受けておいて、よくもほざけたものだな。しかし、こやつの恐怖がまさかこんな下らないことだったとはな。正直拍子抜けも良いところだ。普通の人間なら自身では抗えない絶対的な力に対して恐怖するというのに。まあ、なんでもいい。これでお前の心は我の手中に落ちた。あとは偽りの希望を与えればそれで終わり。」
ヴィネにとっては慣れたものだった。凌馬の背後に降り立ったヴィネは凌馬に囁きかける。
「可哀想に。大切な人を失ってしまったのね。でも大丈夫、私が貴方の大切な人を取り戻してあげるわ。」
凌馬からはなんの反応も返ってはこない。
「貴方の大切な人を奪った人間を殺せば、また今までのような幸せな時間が戻るわ。私が貴方の幸せを壊そうとする者たちを教えてあげる。貴方はただ私の言われた通りに──────がぁっ!」
ヴィネはそれ以上言葉を続けることができなかった。
いつの間に立ち上がったのか、凌馬は振り向くことなくヴィネの首を締め上げる。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォ────────!!
体からどす黒いオーラが溢れだし、それによって全身を包まれた凌馬の姿はおよそ人間───いや最早生物と呼べるものではなかった。
(なっ・・・なんだ
『我を呼び覚ましたのはお前か?』
凌馬だったものがヴィネの方を振り向く───どす黒いオーラに包まれ顔も視認できないためそんな気がしただけなのだが、ヴィネにはなぜかそれが分かってしまった。
闇に対峙するヴィネは、自身が観察・・・解析されているような錯覚に陥る。
目など存在すらしているか分からないのに、ヴィネの魂までも覗き込まれているようなそんな感覚に。
『これで漸く救済を終えることが出来る。せめてもの感謝に、お前を最初に救済してやろう。恐れる必要は何もない、何もな・・・。』
「あ・・・あ・・・やめ───。」
それがなんなのか、聞かずとも理解できてしまう。
魂が激しく警鐘を鳴らしているのに、
ここに来てヴィネは知った。
自分が決して手を出してはならない何かに触れてしまった事実を──────。
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