第九十八話

(──────ここは?)

 深い闇から光が現れるように意識を取り戻していく凌馬。

 目を覚ました凌馬が見たものは、見知っている天井であった。

 それは、凌馬が独り暮らしを始めてからずっと暮らしているアパートのものであった。


(あれっ、どうして俺はこんなところに・・・。)

 だんだんと覚醒をしていくと、自分の状況を思い出していく。



 俺の名前は如月凌馬、二十六歳。年齢イコール彼女いない歴の童貞男である。

 なんやかんやあった高校を卒業してから勤め始めた会社は、世間で言われているところのブラック企業というものであった。

 何時かは辞めてやると思いつつも、惰性で勤め続けているうちに今ではすっかりそんな生活にも慣れてしまった凌馬。


 しかし、勤め続けることができた理由は他にもあった。それは、凌馬が住んでいるこのアパートにあった。

 コンコンコン!

「凌馬さん。居ますか?」

「あっ、ちょっと待ってて。」

 ドン、ガン、バーン!


 慌ててパジャマから私服に着替えた凌馬は、来客を迎えるために玄関のドアを開ける。

「ごめん、お待たせナディ。」

「凌馬さん、休みの日に朝早くからごめんなさい。」

 彼女はナディ。このアパートの大屋さんの孫娘にして、北欧系のハーフで綺麗な銀色の髪を持ったまだ二十歳の女子大生であった。


「いや、もう起きるところだったから、ところでどうしたのこんな時間に?」

「あの───おかず作りすぎちゃったから凌馬さんにと思って、肉じゃがなんですけど・・・。」

 ナディは顔を赤くしながら肉じゃがの入った器を差し出してくる。


「本当に? ありがとう、助かるよ。最近は出来合いのものばかりでちょっと飽き飽きしてたんだ。」

「もー、ちゃんと栄養のあるものをきちんと食べないと体壊しちゃいますよ。」

「わかっては居るんだけど、ここのところ残業が続いちゃってついね。」

 凌馬は頭を掻きながらナディにそう言い訳をしていた。


 ナディからありがたく肉じゃがを受け取った凌馬は、しばらく談笑しているとアパートの入り口の方から小学生の女の子が元気よく走ってくる。

「ただいま~、あれ、お姉ちゃん。あ~パパやっと起きたんだ!」

 女の子は凌馬の姿を見付けると、タックルするように凌馬の体に飛び付いてきた。


「ははは、相変わらず元気がいいな。今日もラジオ体操に行っていたのかい?」

「うん! ねえパパ、今日はお休みなんでしょう? どこか遊びにいこうよ。」

 この凌馬のことをパパと呼ぶ白髪の少女の名前はミウ。ナディの親戚の子どもで今はナディの家で暮らしている。


 勿論彼女は凌馬の娘ではない。童貞男に子どもが居るはずもなく、そもそも彼は女性と付き合ったことすらないのだから・・・。

 では何故、少女は凌馬をパパと呼ぶことになったのか。


 それは、ミウの両親が仕事で海外に出張している間、ナディの両親が日本で面倒を見ることになったことから始まる。

 まだ小さかったミウを海外のあちこちに連れ回すことに不安を覚えた両親は、治安の良い日本にミウを残しうしろ髪を引かれる想いで日本を離れていった。

 娘に一年後には必ず戻ることを約束して。


 ところが、ミウの両親は忽然とその消息を絶つことになる。

 そして、消息がわからぬまま二年の月日が流れていった。その年の春に、凌馬はナディの祖父母が管理人をしているアパートに引っ越してきた。


 凌馬がミウと初めて出会ったのは、とある休日だった。

 凌馬は、何時もアパートの近くで一人寂しそうに遊んでいる小さな白髪の少女の存在に気が付いた。


 その性格・・は兎も角として、弟や親戚の子どもたちの面倒をよく見ていた凌馬は、そんな少女を見て見ぬふりをすることなど出来なかった。

 早速、少女に話し掛けた凌馬は少しずつ警戒心を解いていくように、彼女の遊び相手を務めその話を聞いていくうちに、ミウは徐々に凌馬に心を開いていった。


 そうして休みの日には時間を出来るだけ作り、一緒の時間を過ごしていく内何時しか凌馬のことをパパと呼ぶようになっていった。

 凌馬もミウが両親の居ない寂しさを埋めるための代償行為であることを理解して、彼女の好きなようにさせようと受け入れていた。


 そして、凌馬はミウのパパと相成ったのだ。

 ミウを通してナディと知り合うことになった凌馬は、生まれて初めて大人な女性と良い感じに過ごすことが出来たのだった。

 今では、三人で休日に映画や遊園地、ショッピングに行くようになり、その度にミウからパパと呼ばれる姿を周りから見られることとなる。

 ミウを挟んだ反対側で手を繋ぐナディはまだ年若い母親なのかと、男たちの嫉妬や怨嗟の視線が凌馬に向いていた。


「ねえ、パパー。」

「ミウちゃん、先週も連れていってもらったばかりでしょう。凌馬さんにも予定があるんだから、あまり迷惑掛けちゃ駄目よ?」

 ミウが凌馬の腕にしがみつきながらおねだりするのをナディが窘める。


 ミウは悲しそうな顔をしながら、俯いてしまう。

「そんな事気にしなくて良いよ。俺にとっては、ミウと一緒にいることが何より大切な事なんだから。ほら、顔を上げてパパに笑顔を見せてくれ。ミウに悲しい顔は似合わないよ。」

 ミウの頭を撫でながらそう語り掛けると、先程までの表情は一変してまるで満開の桜が咲く春のように明るくなっていた。


「パパありがとう。」

「もー、凌馬さんは甘いんだから。」

 凌馬に抱き付くミウと、それをしょうがないなあと言うように眺めているナディ。

 先程の言葉もナディは凌馬のことを気遣っての発言であって、なんだかんだ言ってもミウが喜んでいる姿を見るのはナディも嬉しいものである。


「それで何処に行きたい?」

「うーんとね、パパと一緒ならどこでも良い!」

 ミウは特別何処かに行きたかった訳ではなく、ただパパと一緒に居たかっただけであったのだ。

 そんなミウの気持ちが嬉しかった凌馬は、ふと先日職場の先輩から貰ったものを思い出して部屋からあるものを持ってくる。


「実は、この間の連休明けに職場の先輩から水族館の割引券を貰ったんだ。出来たばかりの所らしくて、イルカショーとかもあって先輩の家族も結構楽しめたと話していたから、もしよかったらナディも一緒にどうだい。」

「イルカさん、見てみたい! お姉ちゃん一緒に行こう。」

 ミウはナディの手を取ると拒むことが困難なおねだり攻撃をしてきたため、ナディはあっさりと陥落するのだった。

 結局、ナディも凌馬と同じくミウに対しては甘々なのである。


「それじゃあ朝食を食べたら早速出掛けよう。ミウはもう朝御飯は食べたのかな?」

「ううん、これから。」

「そっか。なら肉じゃがのお裾分けもあるしパパと一緒に食べるか? 今から直ぐに朝御飯の用意するからさ。」

「本当? じゃあミウもお手伝いするー。」

 朝からハイテンションの二人を苦笑しながらみるナディ。


「なら私は家でお昼のお弁当を作ってきますね。一時間くらいしたらまた来ます。」

「分かった。それまでにアパート前に車を回しておくよ。」

 そう言うと、凌馬とミウはアパートの部屋に入っていき、ナディはお弁当作りと祖父母に今日の予定を話に家に戻っていった。


(思いがけずに今日の予定が決まったな。最近は遊びに行くところもマンネリになっていたし先輩には感謝だな。それにしても・・・・・・何か忘れていることが、いや思い出さなくてはいけないことがあるような気がしてならないんだが──────。気のせいだよな。ミウとナディが一緒にいるんだ。それ以上に重要なことなんてないのだから。)


 凌馬は胸の奥に何か引っ掛かるものを感じたが、思い過ごしだと不安を振り払うように頭を振ってそれ以上考えるのを止めた。

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