蜘蛛の糸
それは隣の、カーテン越しに聞こえた会話だった。
俺は盲腸をやった親父の見舞い、隣は……聞いていると遺産の話がでるからに親子といったところだろう。
珍しくない問答だったが、親父との会話は適当に俺は野次馬になっていた。
聞き耳をたてていれば、どうやら親子ではないらしい。
息子たちは、娘たちは、とか細い老人の声がつき、そう、そう、わかった、と相槌を打つ女の声。
予想していたよりも昼ドラの展開らしい。
おそらく相槌を打っている女は遺産関係と親子関係はたまた夫婦関係のことまで宣う老人に、しっかりとした声音で「わかった、書くから」「もう一回お願い」「それはもう済んでいる」やらなにやら、老人の気を労っていた。
俺からすれば大概のことは老人……親であった老人の不甲斐ない、自業自得なところもあったろうに悪びれもせず苦労をかけるでもなく当たり前のように女へ押し付けている。
同情します。それが俺の感想だった。
「タバコ吸ってくるわ」
「ちくしょう、オレも吸いたい」
「俺が吸ってる間、欲しいもんとかリスト書いとけよ」
野次馬も済んだことだし、働きすぎた親父を残してカーテンをめくる。同時、隣のカーテンもひらめいた。
背が小さい? いや俺が大きい方だし、目に入ってきたのは横顔、そしてくりっとした瞳、小さい女性、肩につくぐらいの髪、茶、ネックに薄い羽織、ジーンズ、ふくよかな胸に添えられた小さな手。無表情。
「じゃあ、下でお茶買ってくるから」
しばしの観察から解放してくれたのは女が発した声だった。
おっと、と思った。随分と若い。だが若すぎない。パッと見て二十、三十そのぐらいか。
こちらには目もくれず女性は病室を出て行ってしまう。少し開いたカーテンの隙間には今にも死にそうな男性が白骨死体のように横たわっていた。
「孫か」とごちる。たぶん先ほどの会話から総合して俺は予測した。
喫煙室まで孫っ子女性を脳内で反芻する。
しかし孫だとして、あの冷静さはなんだろうか。まるで仕事先や業務のようなやり取りは機械を思わせた。無理やり感情を押し込めているような。と思っていたら孫がガラス越しに居た。
看護師と話していた。先ほどの無表情とは打って変わり笑顔で対応する姿は年頃の女性に見えて好感を持てる。
なら、あれは? 機械のように対応していた彼女はどこにいったのだろうか。意地悪な気持ちが芽生えてしまう。
会話が切り上げられる瞬間を狙い、俺はタバコの火を消して彼女に近づいた。
「どうも、隣のものです」
「え、ああ……祖父がご迷惑をかけてませんか?」
見上げられた目は訝し気ではあったが、すれ違いを思い出したようで彼女は小さく笑みを浮かべてくれた。
「いえいえ、先ほど込み入った話をしていたのを聞いてしまって……大丈夫ですか?」
「……」
すっと彼女の瞳だけが機械になる。
「ふふ、祖父のわがままには慣れていますから」
口にした言葉は孫冥利に尽きる。普通の人から見れば年老いた祖父を介護する孫の図なのだしカーテン越しの会話を思えば彼女は小さな身体に似つかわしくない重荷を背負っているのだ。
目が死に、口が嘘をつく。
彼女を可哀想だとは思うまい。本当に彼女しかいないのだろう。
「偉いですよ、お孫さんなのに」
「……祖父の自業自得もありますけれど、まあ、育ててくれた恩もありますし」
相変わらずの目に出てくる言葉は本当か嘘か、俺は半々だろうなと思いつく。この手の女性は、特に親族で苦労している人間は嘘と本当を混ぜ合わせて喋る。
少しの恥と少しの道徳と少しの敵意。入り混じって色が黒くなれば泥になる。その時期が彼女にとって早かっただけだ。遅すぎるのも駄目だけれど。
「そう思わせてくれるお爺さんなんでしょう? 貴女は立派だと思いますよ」
それに半々で答える。聞いていた内容からして
「……おじいちゃんは私に蜘蛛の糸をたらしてくれると思いますか」
「え」
「では、祖父がご迷惑をおかけするようなら遠慮せずに言ってくださいね」
そう言うと彼女は足早に病室へ向かって行ってしまった。そういえば手には紅茶と緑茶のペットボトルを持っていた。
俺はその二つが抱かれた腕と豊満な胸を見てしまっていたが、
「糸、ね」
俺は彼女がどのように生きてきたか分からない。分かるとしたら彼女の周りはクソであり彼女が割を食っている状況なのだ。今までの彼女が悪行を積んでいたかは知らない。そして祖父孝行で報わられるものかは知らない。罪滅ぼしなのか、罰なのか。
でも分かることが一つだけ。
彼女は地獄いて、早く天から糸を垂らしてほしいのだ。
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