ある廃ビルにて(三大噺「影」「棒」「スプレー」)

 プシューッと、スプレーを吹く音が聞こえる。シンナー特有の匂いが廃ビルの一室に充満した。

「……何やってるんですか?」

僕は楽しそうにスプレーで壁に落書きをしている聞いてみた。

「俺が生きていた証を残そうかと」

 ふぅん、と僕はそれだけ言って彼から目を離し、落書きされている壁を眺めた。なんだかよく分からないマークの様な物や「田村参上!」といった文字が書かれていた。彼の苗字は田村というのか。

 彼……田村さんは急に僕の方を振り返った。楽しそうな顔だ。

「お前もやってみる?」

 遠慮しときます、と首を振る。

「というかこんな密室でスプレーやたら吹かないでください。首吊って死ぬ前に先にシンナーの匂いで死んじゃいます」

「それも別によくね?」

「嫌です。僕は首吊りで死ぬと決めたから首吊りで死ぬんです」

 田村さんはそんな僕の発言を無視してスプレーを吹き続ける。

「結構楽しいんだけどなぁ。昨日の夜に部屋で吹いてたんだけど、これが楽しいのなんの。気が付いたら寝てたよ。朝俺を起こしに来た母さんが悲鳴あげてたな」

「お母さんに迷惑かけないでください」

「悪いとは思ってるよ。……まああれが最後の迷惑だ。今から俺たち死ぬんだし」



 僕達は自殺系サイトで昨日知り合った。この廃ビルで首を吊って死のうかなと先ほど集まったばかりだ。

 じゃあそろそろ始めますか。と僕は天井に縄を括り付けた。勿論二人ぶんだ。

「そういやお前、何かやり残したこととかある?」

急に彼が聞いてきた。

「いきなり何ですか?」

「いや、なんとなく」

 うーん、と少し考える。

「強いていうなら、逆上がりが出来なかったことですかね」

「逆上がり?鉄棒の?」

「そう、鉄棒の」

 それ以外に何があるのだ。

 僕は昔から運動が苦手で、結局逆上がりができないまま小学校中学校を卒業した。

「そういう貴方は何かあるんですか?」

「うーん……あるな。いっぱい」

「いっぱいあるのに死ぬんですか」

「いっぱいあっても死ぬんだよ」

 と言いながら、首に縄をかける。それと同時に、僕も自分の首をかける。

 ギリギリと首が絞まる。苦しい。やっぱり首吊りはやめてシンナーの匂いで楽に死ねば良かったかなと少し後悔したがもう遅い。

「うわー!俺全然苦しくないんだけど!お前先に逝くなよ!」

 うるさいなぁ、静かに死んでくださいよと言おうとしたが、当然ながら声が出ない。

 なんとなく、本当になんとなく、騒がしい彼の方に目線をやった。彼の足元には……影が無かった。


――昨日の夜に部屋で吹いてたんだけど、これが楽しいのなんの。気が付いたら寝てたよ。朝俺を起こしに来た母さんが悲鳴あげてたな


 ああ、そうか。この人は既に……、と、ここで僕の意識はプッツリ途絶えた。

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