夜鳴川
なぎさ
一、夏
涼しげな風が木々の間をすり抜けていく。夜の山は暗く爽やかで、昼間の強い日差しとうだるような暑さが嘘のようだ。騒々しかった虫の音も今はすっかりなりを潜めている。
季節を問わず夜の山中は真っ暗だ。月明かりがあったとて木々の葉がそれを遮り、濃い闇を作り出す。誰もが恐れるこの闇の中を、平然と歩く一人の男がいた。長身で、暗くともぼんやり浮かぶ朱や黄の
しかし、月明かりに浮かび上がったのは褐色の肌に白銀の
彼は
ぶらぶらと歩く燎月の手には
目的地に近づくにつれ、川のせせらぎの音が大きくなる。夏の涼をとりつつ月見酒、と浮かれていた燎月だが、ふと水音を切り裂くような音に目を丸くした。
笛の音だ。しかし、笛を
好奇心も手伝って燎月の歩みが速くなる。木々の間から出ると、小川とそのほとりは月明かりで白くまぶしかった。その対岸の岩に一人の
月影によく映える
こんなところで、しかもこんな時間に出会うとは思わなかった。さすがの燎月も呆然と立ち尽くした。すると、笛の音がぴたりと止んだ。気配で気づいたのか、みぎわも燎月を見ると
川に沿って吹く風が涼やかを通り越して冬のような冷気を帯びていく。木々のざわめきが急速に遠のき、息苦しいほどの水気が両者の間に
因縁浅からぬ間柄だ、警戒するのももっともだが、と燎月は大きくため息をついた。次いで、面倒そうに手にある徳利を持ち上げて見せる。酒を飲みに来ただけで戦う気はさらさらない。むしろここにみぎわがいること自体予想外で、いたからとてすぐ襲いかかるほど憎い相手でもなかった。
針のような視線など素知らぬふうに、燎月は手頃な岩を見つけてどっかりと座る。懐から椀を取り出し、これまた何事もないように酒を注いで飲み始めた。上物の酒は熱い感触と共に喉を滑り落ち、冷気にさらされた体を火照らせていく。
ちらりと対岸を窺うと、みぎわは霊気をまとったまま未だこちらを睨んでいた。警戒心が強いことだ。内心呆れながらも、酒を飲んでは月を見上げ、ほうっと燎月は息をつく。そんなことを繰り返していたらさすがに警戒心が解けた、――というよりは根負けしたのだろう。充満していた水気が少しずつ風に流され、木々と虫の
みぎわは疲れたように嘆息すると、また岩に座って横笛を構える。互いに互いを無視して己の時間を楽しめばいい。そう思っていた燎月はやっと全身から力を抜いて、酒を一口飲んだ。
月を見上げると同時に、笛が鳴り始める。月見酒に笛の音もつくとは思いがけず興が増した、と燎月は密かににやりと笑んだ。
しかし、その思惑はすぐに外れてしまった。
みぎわは燎月のように割り切ることはできないらしい。素振りと裏腹に、警戒心が笛の音からありありと聞き取れた。伸びやかに響くはずの音が
少しは我慢していた燎月だが、とうとう堪えきれず奏者を睨みつけた。
「おい、そこの」
吹き口から口を離したみぎわが目で何事か問うてくる。燎月は不機嫌を思いっきり声に込めて続けた。
「もっとましな演奏をせよ。酒が不味くなる。このまま酒の
不機嫌が移ったようで、みぎわも思いっきり顔をしかめた。
「別に、あなたのために吹いてるわけじゃないんだけど」
「ならばなおのこと、我のことなぞ気にせず吹け」
さらにむっと柳眉を寄せるみぎわに、燎月は思わず笑ってしまった。
巫女のときの彼女は澄んだ水のように凜としていて冷厳な雰囲気をまとっている。それと比べたら、今の彼女は年相応の小娘でまるっきり別人だ。その違いが、不覚にも面白く感じてしまった。
彼女が気分を害したのは一目でわかり、そのまま帰るかと思った。だが、それも
今度は笛の響きに集中しているのだろう。徐々に音色が落ち着き、川の流れに乗るように軽やかに伸び、舞い始めた。燎月は一人笑みを深くして、酒を口にする。
――ふん、案外かわいげがあるではないか、小娘
己でも意外なほどに酒が進んだ。みぎわは燎月の存在を半ば忘れたようで、吹いてはぼうっと夜空を見上げて小休止し、またおもむろに吹くのを繰り返す。休んでいるときの彼女は山のあらゆる音と空気に身を
持ってきた酒がそろそろ尽きるかという頃、みぎわが満足げに一つ大きく息を吐いた。軽く背伸びをすると大事そうに笛を袋にしまい、立ち上がる。そして、夜の闇に紛れるような藍染めの衣をふわりとかずいた。
完全に燎月の存在を忘れてしまったのだろうか。それはそれで気に入らないので、燎月はおい、と声をかけた。
「酒の肴にはちょうど良かったぞ。ときに、ここに来ることは他の者に話したか?」
はっと振り返ったみぎわの顔は無防備だった。その様も面白かったが、すぐにしかめっ面に変わったのもまた愉快だった。
「いいえ、気晴らしだから」
「なれば良い。ここは我の気に入りの場所ゆえ、人に荒らされてはたまらぬ」
何か言いたそうなみぎわに、燎月はにやりと笑った。
「
「……それはそれは、ありがとうございます」
棘のある声で言い捨てて、今度こそみぎわは立ち去る。夜の山を女一人歩くのは危険極まりないが、彼女は
くっくっと喉で笑いながら燎月も最後の一杯を飲み干し、立ち上がった。今宵は良い酒が飲めた。
その夜からだった。
ときどき、小さな川を挟んで鬼と巫女が会うようになったのは。
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