第5話 天使の影

 古い置時計が時刻を告げる重い音に、意識が現在に引き戻される。

 お付きの老紳士を下がらせて、今は少女……聖天子が対面に座っている。

 それを再確認して背筋を伸ばした。何しろ相手は正座。

 見た目の美しさも相まって自然と緊張してしまう。

 ふと、黒漆の卓台に置かれた湯呑を手に取り、傾けた。緑茶の渋みが心を落ち着かせる。

「何を、思い出していたのですか?」

「いえ、少し懐かしくなったので、昔のことなどを……申し訳ありません」

「ふふ。いいのですよ、そんなに畏まらなくても。兄さまはいつも通りにして下さい。こちらも話しづらくなってしまいます。足も崩して楽になさって」

 ようやく肩の力を抜くことが出来る、と安堵の吐息。

 料理が来るまではまだ時間がある。それまでは積もる話でもしておこうと頭を切り替えた。

「……ありがとう、マギー。随分と綺麗になったな。見違えたよ」

 マギーとは愛称で、少女の名はマーガレット・ヴァン・サウザンド。

 この世においてもっとも古き血筋の末裔である。

「あら、兄さまはお世辞が上手になりましたか? 昔はブス、とか言われたものですけど」

「む、昔の話だから!」

 冷や汗が頬を伝う。

 あの頃は皇族だと知らなかったとはいえ、場所が場所なら極刑ものだ。

 異国の茶飲みとはいえ、優美な所作でそれを扱うマーガレットの様子は見事なもの。

 リチャードも見惚れてしまう。それを皮切りと判じたか。

「その眼鏡、その後はいかがですか? 兄さまの過敏な眼をきちんと抑えられています?」

「え、ああ。おかげ様で普通に生活できてるよ。今じゃこれがないと不安で仕方ない」

 リチャードの眼は先天的にエーテルを知覚しやすいらしく、それは年を経るごとに悪化している。

 この眼鏡は症状を抑えるため、話を聞きつけたマーガレットが医療機関に頼んで特別に作らせたものだ。

 本来そうした霊子過敏症のものは魔法を用いた医療を受けることが多いのだが、彼の過敏症は、根治が不可能な生まれ付き。

 エーテルは霊子や流体素などとも呼び変えられるが、これには流体素感応能力エーテライト・ポジティブと呼ばれる、エーテルを魔法として用いる、個人が短時間の内に行使可能な流体素の制御総量が定められている。

 リチャードはその能力が比較的高く、これが原因として肉眼でエーテルを視認、オーロラのようなものを知覚してしまう症状を持つのだが、常にそれを〈視て〉しまうと不調を来すのだ。

 酷い時には意識を失ったり、まともに歩けないほどとなる。

 医者には精神汚染の心配があるとも言われた。

 エーテルは魔法の源。

 それはつまり、人の精神と密接に関係した不明瞭な元素。

 それに乗って他人の意識が流れ込んでくることもある、と。

 薬や手術での回復が見込めない以上、フタをして封じるしかないのが今のところの処置である。

「そうですか。それはよかった。なら、遠慮せずに切り出せるというものです」

「さっきの、話があるってやつかい?」

「はい。兄さま、〈天使アイオーン〉という名を聞いたことはありますか?」

 聞いた、どころの話ではない。

 今もまだ、脳裏にその姿を鮮明に思い出すことが出来る。

 かつて孤児院を焼き払った、黒い翼を従えた天使の姿。

 あれのせいでリチャードの家族ともいえる孤児たちと、シスターが命を落とした。

 生き残ったのは自分とアンジェリーナの二人。

 それも、離れ離れになる形で。このことはマーガレットにはまだ話していない。

 だから知るはずはない。ないのに、どうして今その話を?

「一〇年前に確認された後、姿を消していたのですが最近になって暗躍しているらしく。建国祭の前に、その所在と目的を突き止めて欲しいのです。〈天使と二度遭遇した〉兄さまに」

「その話、お前には言ってなかったはずだけどな。よく調べたもんだ。しかし天使ねえ。戦乙女ヴァルキュリアも天使と言えば、そうじゃないか?」

「ああ――あの羽虫、じゃなかった、メス、いえ、女ですか?」

 にこやかではあるものの、底冷えするような敵意が声音に滲む。

「お、お前、なんでそんなにアンジーのことを敵視してるんだよ……?」

 昔からこうなのだ。アンジェリーナとマーガレットは壊滅的に仲が悪く、たびたび間に入るリチャードも苦労が絶えない。

 まあそれもマーガレットのほうが聖天子として即位してからはめっきりなくなっていたのだが、以前まではそれなりに顔を合わせてはいがみ合う間柄だった。

 しかしてこの仲の悪さの原因、いまだに解らずじまいである。

「いえ、個人的な事情で。私のしようとすることにいちいち文句を言うものですから。いい加減にしてほしいところです。戦乙女が学生の真似事などと……こちらがどれだけ周囲を納得させるために方々を駆け回ったか。ご存知ですか兄さま。戦乙女の影響って国外にまで及ぶんですよ。特に神経を使ったのが隣国アルテリア。魔法の国だから、天使に属する戦乙女は自国で保護するべきだとか言い出して。

 そんな保護とかの名目でおとなしくする人じゃないんですよ、あの……ええと、女は!」

「なんでそんなに言葉を選ぶ……」

「ともかく。戦乙女は法律で縛れない唯一の例外だというのに、当の本人は法の番人を目指しているなどと……」

「付け加えるなら、優秀だしな。いずれ必ず法の世界に踏み込むだろう」

「それも気に入りませんけど、そもそもですよ? 戦乙女という存在そのものが戦争の火種になりかねないことをきちんと理解しているのでしょうか、あの女は。全くいつまで立っても自由気ままに……ああいうところが受け付けないのです!」

 つんとそっぽを向く。

 こうして愚痴を零せる相手というのも、聖天子という立場柄そうそう出来ることではないのだろう。

 普段なら決して見せない面を気心の知れたリチャードにだけこうも吐露するあたり、まだまだかわいい妹のように思えてしまう。

 無論、そんなことは言葉に出せるわけもないのだが。

 一歩でも外に出れば彼女は皇室という立場。

 市民が踏み入ってはならない聖域におわす現人神あらひとがみである。

 それでも、まだ一六歳の少女なのだ。

 政界の荒波に揉まれているからか年齢の割に大人びて見えはするが、心の根っこまではそうはいかない。

「マギー、話を戻そう。天使アイオーンの居場所と目的を調べて欲しいというのは解ったけど。それこそアンジーに頼んだらどうなんだ? あいつならすぐにでも解決しそうだけど」

 事実、アンジェリーナの力は絶大だ。

 それこそひとつの国家を相手どって勝利を収めかねないほどに。

 確かにそれだけの強大な存在ならば隣国も口を出すような最重要人物になる。

 気紛れで滅ぼされるような事態にさえなりかねない。

 絶対的不干渉。

 それが各国の間で取り交わされた、彼女に対する条約。

 それが守られる限り、アンジェリーナが動くことはない。

 とはいえ、アンジェリーナにそれを命じ、条約を守らせる組織も罰を与える機関も存在しない。

 となれば結果として、気ままに人の間を漂うような宙に浮いた状態となってしまうのも無理はあるまい。戦争を終わらせた救国の英雄たる戦乙女の血統をユーフォリアが無碍に出来るはずもなく、それは現在まで続いている。

「……その点については既に本人と話しました。絶対的不干渉が敷かれている以上、便宜的に個人間でのお話としてですが。ただ、戦乙女が戦闘に陥れば周囲への被害は甚大なものとなる、と言われました。存在するだけで国の脅威になる可能性を持つが故、動くことは出来ないと」

「ま、だろうな。戦乙女を所有しているというのがユーフォリアの最大の長所であり短所でもある。でも追い出すことも出来ない。今や宗教の象徴ですらあるからな。聖像イコンとして崇め奉られるなんて、あいつには似合わないけどな」

 ここでマーガレットは頭を抱える。物憂げな溜め息を添えて。

「頭が痛い限りです。だからこそリチャード兄さまを頼るしかないのですが……これ自体が禁じ手に近いですし」

「うん? 俺を雇うより国家指定の魔導技工士を使ったらどうなんだ?」

「天使を打ち破るなど単なる魔導器には不可能です。精霊に近い存在ですからね。出来るとすると、兄さまのその魔導器――」

 マーガレットがゴスペルを眼で示す。

「〈第零世代イマジナリー・ナンバー〉――対天使兵装エインジェル・アームくらいなものです」

「なるほど、ね。どうやらバイト先に現れたのは偶然じゃなかったみたいだな」

「ええ。本物の異邦人……異世界からこの世に訪れたというウェンディ・ハンドレッド、その技術を投入して制作された最高試作品ハイエンド・プロトタイプ。構造にはブラックボックスが多く、現代の技術では解析不可能なところも多いとか。調整に手間がかかるそうですね」

「全くだよ。俺もアンジーも厄介な代物を押し付けられて苦労してるんだ」

 かと言って、リチャードはこれ以外の魔導器を使うつもりはない。先日エヴァンジェリンに見せた古代魔法の発動プロトコルを処理出来るのは、世界広しと言えどもこのゴスペルしか存在しない。

「過去の情報を探った限りでは、天使の戦闘力は戦乙女と同格。ただその行動目的は相反している。ですが何故、今になって動き出したのかが解りません。ただし、もしも再び戦争を起こそうとしているのなら、止めなくてはならない」

「天使の目的が、過去に現れた時と同じかも知れない。だから調べたいってことか?」

「はい。でなければ、世界は再び戦火に包まれるでしょう。それだけは避けなくては」

「……そこまで言うほどか。過去に現れた時は、一体どんな目的があったんだ?」


 ――――神の、復活。

 さしものリチャードもこれには眼を丸くした。

 天使ときて、今度は神。いよいよ現実味が無くなってきている。

 とはいえマーガレットが嘘やデマカセを言うわけもない。

 ひとまずその疑問は飲み込むことにして、先を促した。

「そのために人々へと魔法の力を授け、天使は神の復活を目論みました」

「……魔導大戦の発端が、それだってのか? 神?」

「はい。魔法と器械とに分かれた人々が互いに認められず、ぶつかり合ったから起きたと言われていますが、ではそもそも魔法はどこから来たのかとなると、彼女たち天使が人間に介入したからなのです」

「待てよ。なら神って何なんだ? 復活ってことは、もう死んでるのか? 大戦の前から?」

「……天使は人間同士が争い合うのを利用して、神を復活させました。ですが人々の必死の反撃にあって神は一時的な行動不能に追い込まれ、それぞれの部位を分割して封印されるという方法で戦争は終結したのです」

 その際に天使を裏切り、人間の側についたのが戦乙女だとされている。

 魔法と器械、双方に分かれた人間を束ねたという、今に伝わる伝承のひとつ。

 それにしても違和感が勝る。

 神が人間に打倒されては、それは神とは呼べない何かでしかあるまい。

 恐らくだが、便宜的な呼び名なのだろう。

 天使も神も、神話に登場するようなそれではなく、あるいはそう分類せざるを得ない力を持っていたからか。

「……まさか、その分割された神の部品が?」

「はい。ここ、ユーフォリアの皇宮ユグドラシルに祀られています。戦争を忘れないために」

「文字通りの御神体か。なら、相手はそれを直接狙ってくるんじゃないのか?」

「目的が大戦時と同じであれば、です。ですが今の天使はそれを目指しているような素振りがない。なら、何をしようとしているのでしょう?」

「……天使からしてみれば、戦乙女は裏切り者になるよな。アンジーを狙っている、とかは」

「過去に確認された天使は戦乙女を含めて七柱。それから一〇〇〇年を経て、今のアンジェリーナ以外は既に活動停止が確認されている。彼女だけは人との間にもうけられた半人半霊として、人と精霊の特性を備えています。私たちと同じように生まれ、育ち、人間と同じ寿命を持つ、天使。ただし、天使と言えども不老不死ではない以上、今の時代に彼女以外の天使が現れたこと自体不自然です」

「……一〇年前と、五年前だ。俺は見たことがある。黒い翼をもった天使を。

 ラヴィーネ・シュネー・トライベン。あの女は、そう名乗った」

「ユーフォリア、ブレイダブリク内で確認された天使も、夜の闇に溶けるような漆黒の翼を備えていたと聞いています」

 ああ、と納得する。

 彼女は全てを知った上で、自分に会いに来たのだ。

 黒い翼を持った天使の話を聞けば、必ず自分は受けると確信して。

 そしてだからこそ、禁じ手とまで口にした。

 過去が、追いかけて来た。

 家族を奪った宿敵が、母親代わりだったウェンディを殺した怨敵が。

 彼にどんな苦痛と悲嘆と執念を植え付けたか。その全てを承知で、マーガレットはここへ来たのだ。

「……解った。受けよう。ただし、どうなっても知らないからな」

 細めた双眸が淡く光る。

 リチャードの眼は感情の昂ぶりに合わせて同調するほどにまで症状を進行させていたらしい。

 蒼く輝く眼。それは単なる過敏症に収まらぬ、ひとつの機能システムを持つに至っている。

 霊障眼ウィザード・アイという、超常の眼。

 それを認めた上で、マーガレットも決然と眦を決して応じる。

「構いません。兄さまに負担を強いる以上、私も覚悟を決めてここへ赴いた次第です」

 現存する人間のなかで、彼だけが天使に抗することの出来る術を持つ。

 彼女とて何度もこの結末を変えようと考えた。

 血は繋がらないと言えど、自分を小さな病室から連れ出して世界の広さ、生きるための光を与えてくれて、兄とまで慕うようになった、大切な人。

 そんな人をあえて死地に向かわせるなど、一体誰が望むだろうか。

 何度も何度も思考して、そしてその度に同じ結論へと至るしかなかった苦しみ。

 その責任は自分が背負うべきなのだ、と。

 彼だけは巻き込みたくなかった。

 けれど、迷った時間の分だけ人々は犠牲になりつつある。

「……ラヴィーネは今までどのあたりで確認された?」

 ぞっとするほどの冷えた声。

 彼の全てを奪った敵が近くにいると知って、その執念が熾火のように眼に宿る。

「……クリストフ。地図を」

 マーガレットがそう言葉を投げると、静かに襖が開いて先ほどの老紳士が姿を現した。

リチャードは一度眼を長く閉じて、思考を切り替える。

 人に見せるような顔ではなかったと自省。

 老紳士が少女の前に一枚の紙を広げて見せる。と、口を開く。重く低い声。

「この赤い×印がそうです。反魔法団体アルジェントと行動を共にしているらしく、昨今の連続殺人事件に関与していると思われます」

「反魔法団体。それ、噂のテロ集団か」

「はい。魔法とそれに関わるものは排除すると宣言して憚らない奴原です。まだ大きな行動には出ていませんが、時間の問題かと。かの〈銀翅蝶ぎんしちょう〉のマーキングも彼らによるものであり、自分たちの行いを誇示するためのもののようです」

 これにリチャードは深く頷く。

 ようやく思い出した。昼にタブレットで見たマーキングは黒い翼の天使、ラヴィーネの衣服に付いていたものだったのだ。

「何のためにそんなことを?」

。老紳士は首を振ったが、マーガレットが口を挟む。

「奇妙です。何故、魔法の象徴にもなっている天使が反魔法団体と共にいるのでしょう」

「……もしかして、偽物なんじゃ?」

 今度はリチャードがそう疑問を口に乗せると、マーガレットは口元に手をやって考え込む。

「ううん……なりすまし、ですか。それは考えませんでした」

 そこでリチャードの腹の虫が鳴った。最初は眼を丸くしたマーガレットだったが、口元を隠したまま吹き出す。

「そんなにお腹が空いていたとは。気が付かなくて申し訳ありません」

「い、いや……なんというか、締まらないな」

 なんだか気が抜けてしまったようで、肩の力も抜けていく。

「ちょうど良いですし、一息入れましょう。クリストフ。お料理を」

「畏まりました」

「悪い、真面目な話だったのに」

「いえいえ。体は正直ですものね」

 ややあってから、仲居の声にマーガレットが入室を促す。

「どうぞ。では兄さま、食事にしましょう」

 淑やかに笑う。気を使わせてしまって悪いようにも思ったが、今はなんともありがたい。

 和やかな雰囲気に包まれて、心もやわらぐ時間。

 リチャードから切り出したのは他愛のない話だった。

 学校でのこと、街のあちこちを駆け巡るアルバイトの話。

 特に飛行便船の修理はきつかった。あれは落ちたら死ぬ――そんな、何気ない会話。

 マーガレットはそれに相槌を打ち、時に笑い、時に兄をいたわった。まるで本当の兄妹のように。

 ――そう。油断があった。だから足音に気づけなかった。

 襖が勢いよく開く。

 両手を広げるように立ったその人物は、彼がよく知る幼馴染み。

 眩いほどの金色の前髪に隠れていた双眸がゆっくりとあげられる。

「……何故あなたがこんなところにいるのかしら。マギー?」

 対するマーガレットは先ほどまでの柔和な雰囲気を一気に硬化させ、箸を置く。

「それはこちらのセリフです。よく顔を出せたものですね? アンジー」

 ぎらりと光る碧眼は疑いようのない敵意を孕む。

「私をそう呼んでいいのはこの世でひとりだけよ。次に間違えたら、解っているでしょうね」

「あら、そうでしたか。それは失礼。そんなこと、いちいち気にしてはいませんでしたわ」

 見下ろす碧眼と睨む水晶の眼が衝突する。

 リチャードには二人の間に火花が散っているようにさえ見えた。

「あ、アンジー。どうしてここに……?」

「女の勘よ」

 するとつかつかと歩み寄り、リチャードの隣からマーガレットを睥睨する。

 学院での穏やかさとは程遠い、皇族を相手にさながら女王のごとく君臨するアンジェリーナ。

 ある意味では世界最高峰の戦いだ。

「全く、油断も隙もないったら。私がダメなら今度はリッチ? ご自慢の軍警はどうしたのよ。学生に頼むような話ではなかったと記憶しているのだけど」

「私とて、回避しようと何度も抜け道を探しました。でも見つからなかったからこそ、こうして恥を忍んで兄さまに会いにきたのです」

「そうやってあなたもリッチを利用するの。心底、軽蔑するわ」

 これにはマーガレットも眼を伏せる。やはり心のどこかで自責の念はあったのだろう。

「……利用などと。そんなつもりは、」

「そんなつもり、でしょう? リッチ。この子の話は受けなくていいわ。皆、あなたの力を利用したいだけ。それで自分たちは何もしないでふんぞり返っているだけなのよ。まるで道具を使うようにね」

 これにはマーガレットも激昂を禁じ得ない。

「そんな言い方はないでしょう! 政治を司る者は民を導かなければならないのです! あなたのように勝手気ままに振る舞うことは許されない! 私は、兄さまなら必ず出来ると信じたからこそお願いしました! 国民を守るには、どうしても必要だと思ったから! この人にしか出来ないことだから――その時の私の気持ちが、あなたに解りますか!」

「はっきり言ってあげる。知ったことじゃないわ。国のトップがそれでは笑いも出ない」

「いや、アンジー。あのな。現れたのは〈あいつ〉だ。俺は――」

「だから! あなただけには絶対に話しちゃいけないことだったのよ!」

 立ち上がり、リチャードは真っすぐにアンジェリーナを見た。

「落ち着けって。実際に人が死んでるんだ。放ってはおけないだろ」

 二人が自分を案じている気持ちは嫌でも伝わってくる。

 ここにいるのは、そこまで馬鹿な男ではない。悲しみに濡れて揺れるアンジェリーナの碧眼も、マーガレットの失意に固められた拳も、その意味を正しく理解している。

「今度こそ――今度こそ死ぬかも知れないのよ。もう、あの時のような奇蹟は起こらないの。人間が天使に敵うわけがない。忘れたわけじゃないでしょう、ウェンディの最後を」

 それが、五年前の話になる。

 かつて命を賭けて自分を救ってくれた、母親とも言える女性。

 その亡骸の向こうで。

 その亡骸を嘲り嗤ったあの影を……リチャードは一日たりと忘れたことはない。

「大丈夫。頼まれたのは調査だ。調べるだけなら、安全だよ」

 努めて落ち着かせるように言い聞かせる。

 するとアンジェリーナは俯いて、少しずつ言葉を紡ぐ。

「……あの天使は偽物よ。私とは違う、何か異質なものを感じた。人為的に作られたのかも知れない。本物とは言わないまでも、私に近い能力を持っているわ」

「偽物? 人為的にって、どういうことなんだ? 精霊なんだろ、天使ってのは」

「そういう実験が行われていた、という記述を見たことがあります。隣国アルテリアで」

 これはマーガレット。もうだいぶ感情は落ち着いたか、真摯に見つめてくる。

「アルテリアで!? ならこれは、あの国が仕組んだのか!?」

「開始されたのは十五年も前。そして二年後に計画は凍結、作成された〈もの〉は全て破棄されたと。でも、それがもし嘘の記録だったとしたら、有り得る話ではあります」

「反魔法団体の裏にアルテリアが……だけど、それで何のメリットがあるんだ?」

「半人半霊の戦乙女が生まれたせいで、彼らも天使を手に入れたいと考えたのよ。多分、私が生まれる前から始まっていたのでしょう。だから一〇年前、私を消すために孤児院を……」

「そういうことか……」

 つらそうに体を掻き抱くアンジェリーナの両肩にそっと手を置く。マーガレットは直視を避け、顔を背ける。

「ありがとう。よく話してくれた。ならなおさら、あいつは放っておけない」

「……これは陽動かも知れない。万が一のことが起きた場合は、私、何するか解らないわよ。だから無茶だけはしないで」

「解ったよ。おっかないお嬢様だ」

 そう、おどけた風を装って。少し間を置いた後、呟くようにマーガレットが言う。

「……では以後、差別化のために黒い翼の天使を〈模造天使エンジェル・フェイク〉と呼称します」

「フェイク?」

「暗号のようなものです。天使が復活したという確証はないですし、いたずらに混同してしまうのもよくありませんので。不注意で市民の耳に入っても混乱は小さいほうがよいでしょう」

 頷いて、リチャードは部屋から出ようと動く。

「兄さま、どこへ?」

「ラヴィーネを相手に何の準備もナシじゃあな。ゴスペルの強装弾、四五口径の魔装弾マグナム・ソーサラーはこの街でも扱っている店が少ない。昔の軍用規格だからな。在庫があればいいんだけど」

「リッチ、私も行くわ。いいでしょう?」

「お前はマギーを送っていってやってくれ。ボディガードがひとりだけじゃ不安だ」

「兄さま!」

「あまり自分を責めるなよ、マギー。お前は間違ってないんだから」

 二人を残して、リチャードはもうすっかり夜の帳が降りた街へと足を進めていく。

 ああ、と思い出す。

「バイト、途中で抜けてきてたんだっけ。言い訳どうしたもんかな……」

 聖天子陛下が自分に会いに、などという理由が通じるなら、もう他のどんな言い訳でも聞いてもらえるだろう。世の中そんなに甘くないということを、彼はよく解っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る