第4話 仮初めの兄妹

 その後、つつがなく授業を終えたリチャードはいそいそと帰り支度を済ませる。今は冬季なので日は長いのだが、アルバイトの時間までそう猶予はない。

 様子を伺っていたらしく、さて帰ろうかというところでフィリップが声をかけてきた。

「今日も今日とてバイトか。忙しそうだな」

「ああ、学費分は稼がないと。うち貧乏だしなぁ」

「カルヴァン家。昔はそれなりに由緒正しい家格を誇っていたようだが、いまや没落貴族。確か、お前を引き取ってすぐだったらしいな?」

 これには苦笑を返し、フィリップの肩を叩く。今までは出自も含めてごまかしていたが、どこかで聞きつけたのだろう。

「さすが貴族はそういう話に詳しいな。まあだから、家族のためにも俺が頑張らないといけなくてな。学生寮もタダじゃないし、割りの良いバイトは埋まるのが速い。じゃあそういうわけで、急ぐから」

「解った、またな。頑張れよ、俺のほうでも稼ぎの良いバイトがあったら話を持って来よう」

「助かる!」

 そう言い残して去っていく背中を見送り、見えなくなったところでフィリップは呟く。

「……アンジェリーナ嬢も苦労する。あれでは建国祭のイルベール・フェスタ、一緒に回る考えもなさそうだ」

 というのも、建国一〇〇〇年の節目に催される初代国王イルベール・サウザンドの名を冠されたお祭りに向けて、街はにわかに活気だっているのだ。意識しない人間はこの街にいなかろう。その輝かしい歴史の日に誰とどう過ごすか、想いを馳せているのは学生も市民も貴族も違いはない。

 むしろリチャードのように稼ぎ時と考えるほうが珍しいのだ。そこまで金銭面で問題を抱えるなら、そもそもここに入学せず働く手もあったろうに。

 まあ、彼なりの考えもあるのだろうが。実際、国家指定の魔導技工士ともなれば引く手は数多。それこそ稼ぎはアルバイトの比ではない。そのせいもあって入学希望の生徒は星の数ほど、倍率もとんでもない数字を叩きだしているのがこの将生学院である。

「ふう。今年こそ妹を紹介しなければならないのに、うまくいかないな……」

 ぼやくフィリップの背後へと、忍び寄る小さな影。

「あら。妹君をワンハンドに紹介? そのお話、気になりますわね」

「おっと、ジェラルダイン嬢。立ち聞きとはお人が悪い」

「聞かれて困る話だったと?」

「あ、いやぁ、それは……」

 眼を泳がせるフィリップを流し見て、エヴァンジェリンが双眸を細めた。

「ははぁん……もしかして?」

 笑顔が凍る。冷や汗が頬を伝う。見透かされたか、という焦り。

「いえ、私は別に……決して、妹に脅されてなど!」

「脅されてますの!? ま、まあいいですわ。ともかくその話、手伝ってあげてもよくてよ? もちろん、私に協力してくれれば、ですけどね?」

 何か企んでいるようなところを含んで、エヴァンジェリンは相好を崩す。

「一体、何をお考えで?」

「決まっていますわ! あのワンハンドめに私の偉大さをもう一度、今度はしっかりと教えて差し上げるのです!」

「なんでまたそうなるのか。そもそも、昼前に全力出し切って気を失い、医務室に運ばれたのはどなたでしたかな? あれだけの大敗を喫しておいて、今また何をされるおつもりなのか」

 丁寧ではあるが、フィリップの言葉には遠慮がない。

「あ、あれはちょっと油断していただけです! 今度はあんな無様を晒したりなど!」

「やめておいたほうがいいですよ。リチャードの戦闘技術は学年でもトップクラスです。そのかわりに座学が弱いので、本人はアルバイトと勉強に忙しいようですけどね」

 些かたじろぎ、エヴァンジェリンは苦しげな返答。

「……ま、まあ、この私を下したくらいですし? それも当然かもしれませんわね。でもやっぱりあの古代魔法とかいうのはインチキです! 現代の科学魔法テクノキャストが通用しないなんて理不尽の極みですわ!」

「いや、あれは私が焚き付けたのもあったので……普段は使用を禁じられていまして」

「……なんだか癪に障りますわ。だいたい、どうしてあれだけの力を持ちながら学生に甘んじているのか理解に苦しみます!」

「それは国家資格ですね。リチャードは普段からアルバイトをしていたり、何かと金銭面で苦労を抱えていますから。国家指定の魔導技工士を目指すのはそうおかしな話ではありません。それでなくともここは国でも随一の教導学院、得るものは多いでしょうし、工学士を諦めても軍属になるなど、将来の道は拓けていますから」

「アルバイトとは? お金に困っていると?」

「ええ。ここの学費と寮費、施設使用にかかる金額など、卒業までに合わせて一〇〇〇万シリングは下らない。奨学金制度があるとは言え、病に伏せる妹君もいますし」

「……それは、だいぶ苦労してそうですわね」

 そこでフィリップは気になっていたことを訪ねてみることにした。

「……ところで。ジェラルダイン嬢。リチャードと手合わせしたご感想はいかがでしたか?」

「え? そんなの、インチキみたいな魔法で負かされたとしか」

 唇を尖らせる。やはり認めたとはいえ、不満は不満なようだ。

「本当に、それだけでしょうか? 古流武術の粋たる合気道、そして実際の戦闘経験があるかのような佇まい……模擬訓練とはいえ、どこかにそんな違和感を覚えませんでしたか?」

「違和感……ええ、そう言われれば確かに。あれだけ強ければもっと有名になっていたりするのでは」

「それもありますが。一体どこであれほどの技術と経験を積んだのか、疑問に思いませんか」

「それは、どういう意味ですの?」

「学生の身でありながら、あんな動きが出来るなど異常なのですよ。リチャードは天才肌ではありません。きっと血の滲むような努力をしてきたのでしょう。言うなれば、そうしなければならなかった執念……とでも言うべきものを感じます。だからこそ何か、彼には倒すべき相手がいるように思うのです。それも、とてつもなく強大な敵が」

 それは日常の影に隠れた、今まで見えなかった部分。リチャードはおくびにも出していなかったが、フィリップの人並み外れた洞察力があってこそ気づけたのだろう。

 ――執念。その表現は正しい。リチャードが体得したものはその全てが〈敵を倒すための技術〉だ。本当に魔導技工士を目指しているのなら、もっと他に学ぶものがあったはずなのに。

 単なる学生が古代魔法を所有していることも妙だが、それを充分に生かす〈あえて魔法を使わない〉という立ち回りは幾度も戦場を駆け抜けた戦士のみが持つ感覚に違いない。

 一介の学生が持ちうるものとは到底思えない。

 これも、妙。

「強大な敵だなんて。フィリップも変なことを仰いますのね。今の時代、魔導器を携えた人間にそんなものはおりませんでしょうに」

「さて、どうですかな。意外と身近にいるかも知れませんよ」


 警備するよう言い渡された区画に辿り着いたリチャードは、そのまま持ち場へと移動する。改装工事中の建物。見上げれば屋上を取り囲むようにグレーのシートが張られており、その周囲に足場が折り目正しく組まれていた。

 ここは宿場街、別名〈東方人街〉とも呼ばれる、大和国に所縁のある建物が所狭しと並ぶ区画だ。

 潮の香を乗せた風が横から髪をさらう。

 海に面する港湾区が近いのだ。耳には弦を弾く独特の音色が届いてくる。

 路上で奏でられるにしては聞き手の感性を惹きつける、玄妙な調べ。

 交代のため、人が入らないように見ていてくれ、と頼まれたリチャードは玄関口に佇む。

 首をぐるりと巡らせれば、着物問屋、旅籠はたご、茶屋、酒造の倉などが軒を連ねているのを見て取れる。

 夕暮れに照り光る提灯ちょうちん。街を渡る小さな川に掛けられた、朱色の橋。瓦屋根。大和の風趣を色濃く残す下町情緒の幽玄の美はなるほど、一種の芸術とも言えよう。

 東洋から訪れた人々が集う、異邦人の街。それが今やひとつの区画にまで肥大化し、隣国から観光に訪れる客もその幻想的な街並みに溜め息を漏らす。

 この異邦人を受け入れる政策を取れたのは、代々の皇室……〈聖天子〉陛下の力があったからだとか。

 戦後、居場所を失った大和の人々を路頭に迷わせるのは忍びないという心痛があったのだろう。

 いやさ、ユーフォリアとアルテリアがいたずらに戦火を広げた結果の責任とも言えるだろうか。

 一〇〇〇年前の遺恨……というものはもうあまり見ることもなくなったが、住めば都とばかりに東方人たちが集い、商いを開くユーフォリアの名所となった場。

ほたる……か」

 今は冬季。動物や昆虫はそれぞれの住処すみかに戻り、年を越す準備に入る時期。

 季節外れの蛍火はどこかもの悲しく、ゆらゆらと空に舞い上がって消えていった。


 その時だった。見たこともない胴体の長い車輌がゆっくり減速してくるとリチャードの前で止まる。厳めしい顔つきの老いた男性運転手がまず姿を見せたが、次いで開かれた後部座席より現れたのは、眼を疑うような美しい女性。

「な、なんで、ここに……!?」

 驚きを禁じ得ない。

 こんな場所にいるはずがないのだ。この女性が。

 黄昏の陽光に銀糸のごとく煌く白金プラチナブロンドの長い髪。

 色彩の薄い、空色の澄んだ瞳。

 仕立ての良い純白の服装は皇室の紋章を備えた意匠を胸元に施され、その身分を見る者に一目で理解させる。

 造形美の深淵を思わせる女神のようなかんばせ。彼女こそこのユーフォリアの象徴たる女性。

 代々の皇室が女系であるため、聖天子が姫巫女として祭祀と政治を執り行う習わしなのだが、そんな国の中心人物が何故こんなところに現れるのか。

「――お久しぶりですね。リチャード兄さま」

 あろうことか女性――いや、同い年くらいの少女は微笑みながら、そんな言葉を口に乗せる。

 ざっ、と音がするような勢いで地面に片膝をつき、傅く。

「陛下。そのような呼び方は幼い時分の戯れ。どうか公の場ではお許しいただきたく」

 だが少女は譲らない。なお笑みを濃くして。

「まあ、兄さまこそ。今はプライベートな時間ですし、そのような真似はお止しになって。楽にしてくださっていいのですよ」

「……いえ、人の眼もありますので、このままで」

「そうですか。ではお乗り下さい。ちょうどそこのお料理をいただきに来たのですが、兄さまの姿が見えたものですから、ついお声をかけなくてはと思ってしまいました。ご一緒にいかがですか?」

 そう囁くような声音で言うと、口元に手を当てて淑やかに笑う。

「俺、じゃなかった、私めのような者が陛下に同伴するなど!」

 リチャードの遠慮はそうして、彼女の年相応な表情を引き出す。

「もう。そういうところは相変わらず頑固ですね、兄さま。いいから乗って下さい。お話もありますので!」

 腰に手を当ててお怒りを示される陛下。こうなっては従うしかないのだろうが、横に控える運転手、いやさ老紳士が片眉をぴくりと上げたのには悪い予感を禁じ得ないのだった。


 兄、と呼ばれてはいるものの、この少女とリチャードに血縁関係はない。彼が孤児院から出た後に住まうこととなった場所の近くに、小さな医療院があった。

 彼女とはそこで知り合ったのだ。野原を歩いている時に見えた、個室の小さな窓。

 ベッドから外を眺める少女。

 当時、リチャードは焼け落ちた孤児院から救出されたばかり。家族を失った悲しみに自分を見失っていた頃の話だ。

 窓から自分を見ていた少女と眼が合ったから、気になって声をかけた。

 それが始まり。

 体が弱いらしく、綺麗な空気を吸って療養している、と。そう語る横顔がどうにも寂しげだったから、彼は自分が知る限りの面白い話を彼女にし続けた。

 日が暮れたら帰って、また次の日は少ない本のなかから選んで一冊、持っていった。

 何も知らなかった時代。彼と少女の間になんの障害もなかった、子供だけの世界の話である。

 持っていった本は〈蒼の魔法使い〉という童話。

 ――それはどこにでもあるようなおとぎ話。戦争が始まった時代の物語。


    *    *    *


 昔々、あるところにひとりの少年がいました。

 その少年には大切な女の子がいて、彼はその子のことが好きでした。

 二人はとても仲良しで、いつも一緒。嬉しいことも悲しいことも半分こにして分け合っていました。二人が大きくなったある日、戦争が起こり、大人たちは街を守るために武器をもって立ち上がりました。

 だけど王様の兵隊たちは強くて大人たちは歯が立ちません。そんな時、少年のところに天使が降りてきました。天使はこう言います。守りたいものがあるなら力をあげよう、と。


 それは魔法の力でした。少年は女の子を守るため、街の大人たちと一緒に戦っていきます。

 いつしか少年の魔法は女の子を守るものから、王様を倒すために利用されていきます。

 少年が青年へと変わり、女の子も美しい娘になった頃、王様はみんなの力で倒されました。

 けれど。青年の通った後ろには街の大人たちや兵隊たちがたくさん倒れていました。

 残った人たちはこぞって彼を悪者にし、裁判にかけ、死刑にされてしまいます。

 彼がなんのために戦っていたのか、彼にも正義があったのだと、どんなに娘が言っても聞いてくれる人は誰もいません。だけど娘だけは、あの日、女の子だった自分を守るために立ち上がってくれた少年のことを覚えていようと心に誓いました。

 それは娘のお腹に宿った子供にも伝えられていく、ある少年の物語。

 彼が最後に、この世に残した命の魔法の物語。


    *    *    *


 悲しいお話だね、と病室の少女が泣いたのを覚えている。

 子供だったリチャードにはその意味が解らなかった。

 こんなにかっこいい魔法使いがいるんだと、自分もいつかそうなりたいと焦がれていたから、一緒に憧れて欲しかったから、少女の涙の理由がどうしても解らない。

だからそれを止めたくて、俺がお前を守ってやる、なんてことも言った、かも知れない。

 戦争が惨いものだと子供に伝えるための童話だと知ったのは、随分後になってからだった。

 ひとつ年下で、体の弱い少女が妹のように思えて、お兄ちゃんになってやる、なんて言ったような気もする。

 数日後、病室の少女はいつの間にかいなくなっていた。けれど、リチャードは少女のおかげで見失っていた自分を少し取り戻せたような気がして、そのことに深く感謝した。

 ……それからすぐだった。最後の魔法使いとしての苛烈を極める試練が始まったのは。

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