第3話 片鱗
浮岩群は、学院からかなり離れたところにある。
大昔の戦争の影響が今なお残り続け、流体素エーテルと呼ばれる魔法の源が乱気流を起こして宙に浮く、不可思議な岩の並びを引き起こしている区画だ。
見上げるほどの大岩が何の仕掛けもなく浮いているさまは、どうにも現実感を伴わない。
頬に大きな傷のある男性教官がこの実技を担当するようで、集まった数クラスの全員が彼に視線を集める。
この教官は身にまとう雰囲気も無骨で人を寄せ付けないところがあった。
とはいうものの、悪い人ではない。よく女子生徒に渋いと評価されて、持て囃されては戸惑っている。
「えー、今日は基礎の応用訓練として、皆にはこの浮岩群の頂上に位置するあの大岩まで向かってもらおう、と思っていたのだが」
そこで教官がリチャードとエヴァンジェリンに眇めた眼を向ける。
「先ほど、模擬戦闘の申し入れがあった。学院としては貴族の意向は無視できない。ちょうど良い機会でもあるし、ジェラルダインとカルヴァン、二人には実戦形式の模擬戦を行ってもらおうと思う。よろしいか?」
どこで聞きつけたのか、ほぼ全員の生徒が知っていたらしくそこらじゅうから歓声があがる。
賭けようぜ、という声も聞こえるあたり、まだ正式な仕事を受けられない生徒の身としては刺激に飢えていたのかも知れない。
「まさか逃げるなんて真似はしませんわよね? ワンハンド!」
牽制のつもりか、エヴァンジェリンがそう言葉を投げてくる。両手に持った双剣が彼女の魔導器だろう。
「ああ。別に決闘に賭ける意地も何もないが、オールドレッドの魔法には興味があるな」
「あら。あなた如きが眼に出来ると? オホホ、使うまでもありませんわ」
似合わない笑い方だった。作っているのだろうか。
ひとまず、リチャードは腰の後ろに提げていた片手長剣一振りを握った。
その基部には回転弾倉式の拳銃が組み込まれた特殊な型。
抜き放つ。
陽光を吸い込むような深黒の剣が。眩く輝く銀色の双剣が。
これから始まる戦闘に向けて起動、待機状態へと移行した。
風が強い。髪が煽られるなか、教官が宣誓する。
「模擬戦闘のルールは解っているな? 魔法が使えなくなるか、魔導器を落とすか壊されるか、戦闘不能にされれば敗北。ただし命にかかわるような攻撃、および魔法は基本的に禁止とする。まあ、当たらない程度になら使っても構わん。では、全員退避」
我先にと特等席である手近な浮岩へとあがる生徒たち。そのなかにはフィリップの姿もあった。こちらを見てサムズアップしている。
「ワンハンド。ひとつ確認しておきたいことがありますわ」
意外にもそんな言葉がエヴァンジェリンから投げられる。
「どうして今日に限って、アンジェリーナ姉さまは遅刻ぎりぎりで、あ、あなたと一緒に登校してきたのかしら?」
どうやらこの分では相当邪推されたに違いない。あれはそういう疑いの目だ。
「ああ、そのことか。建国一〇〇〇年祭のイルベール・フェスタが近いだろ? 一応俺は警備のバイトとかしててな、当日も多分一般区画担当になるみたいだから、こいつの――」
がしゃ、と鳴る黒い片刃の長剣型魔導器。一見スマートな造形に見えて、鍔本の機関部にはいろいろと細工が施されている分、パーツが多い。
「ゴスペルの調整を手伝ってもらってたんだよ。俺とあいつのは姉妹機だからな。ほとんど作りは一緒なんだ」
調整と言っても、それは外装部分の話ではない。この場合は魔法の構成式を保存、展開するための中枢機関である法珠スフィアに関するものだ。
このコアが持ち主の精神と同調し、記録された魔法式を即座に展開する仕組みになっている。
「姉さまの……魔導器?」
「ああ。見たことないか? そういやあいつ、学校に持ってこないからな」
エヴァンジェリンが両手に提げているのは、片方にひとつずつ中枢機関を配されたツインコアの魔導器だ。片方ずつの出力係数は低いものの、同時に使用することで多面的な並列処理を可能とし、魔法の運用に多様性をもたらした第三世代。
今のところはこれが最新型となる。
だが、あれは知らない。
剣と銃、二つの武器をシングルコアで運用する魔導器は、今まで聞いたことがなかった。
通常、魔導器の形状はひとつのコアにひとつ限り。
そのセオリーを破って、まともに運用できるものか? 最悪、処理能力が足りずに機能不全のエラーを起こしかねない。
エヴァンジェリンはまだ知らない。
あの魔導器は完全に攻撃に特化された例外的なタイプであり、それが〈人でないモノ〉を倒すための礼装であることを。
「昨夜は魔法式のデバッグに時間くっちゃってな。本当なら開発者エンジニアに頼めばすぐ終わるんだろうけど、これを作った人はもういないし。それでアンジーも夜遅くまで……」
「まさか、同衾したんですの!?」
言わなきゃよかった、と。
「いや、違うって! 俺はソファで別々に寝たからな!」
エヴァンジェリンはこれで確信する。この男は自分の崇拝している女性を貶める害悪だ。
「な、な……! 姉さまと一夜を共にするだなんて!」
「人の話を聞け!」
到底受け入れられない事実に、少女が激昂するのも無理はなかった。
自分の知らない姿を知っているだけでも我慢がならないのに、あろうことかこの男はその寝顔すら独占した。
にも関わらず、そのことを何とも思っていない。四大名門の貴族令嬢と一緒に登校するだけでも、極一部の身近な者にしか許されぬ侵しがたい領域だというのに。
それを、まるで当然のように享受するなど。
「万死に値しますわ!」
「これもう決闘じゃなくてタダのケンカだよなぁ!?」
感情にまかせて突進してくるエヴァンジェリン。
よほど、近接戦闘に自信があるのだろう。
初手、正面からの片手突き。速度が乗った鋭い一撃だ。
素直に避ければそのまま畳み込まれるだろう。
銀色の魔導器の周囲、淡い燐光が粒子となって散るのが見えた。
接近する直前に魔法を発動したか、加速のベクトルを増幅しているようでその速さは眼にも止まらぬほど。対してリチャードは長剣を下段におくと、下から掬いあげるようにして相手の勢いをいなす。
直後、すれ違うように体が入れ替わる。
エヴァンジェリンは背後を取られ、自らの勢いに振り回されて足を躍らせた。
「えっ……!」
まず一本。そう告げるように漆黒の銃口が少女の後頭部へと向けられる。
ゴスペルの基部に備わった拳銃は片刃長剣の背に沿うように伸びた、一体型の長い銃身と繋がっている。
分離して短銃身のまま使うこともできるが、あいにくとコアに保存されている魔法は模擬戦闘の域を逸脱しているものばかり。
「加速と身体強化の基礎魔法か。見事な並列処理だ。まともに受けたら骨まで砕けちまう」
言う通り、少女のエーテル運用能力は大したものだった。
一切の無駄を省き、最小限の消耗で最大限の効率を叩き出す理想的な魔法の使い方。
これが出来る生徒はそうそういなかろう。
だが見事と言えば、リチャードのほうも負けてはいない。
何の魔法も使わずに剣技のみでそれを上回られては、皮肉にしか聞こえまい。
こうした軽口が自分の評価を落としていることに、自覚がないのが玉に瑕きずか。
「くぅっ、まぐれですわ!」
「元気がいいな、チビっ子!」
「こんのぉー!」
再びの接敵。距離は至近。
今度は手数による連撃で押し込むつもりか、振り上げた細身の剣が白刃の輝線を描く。
二度、三度と刃を交わし合うなかで、少女は自分が劣勢なのを肌で感じ取る。
何故。
魔法で最大まで腕力その他諸々を強化しているのに、どうして悉く当たらない?
捉えているのに。負けていないはずなのに、何故。
鍛えられた正規の軍人と比較して、身体強化による少女の膂力はその五倍に相当する。
一時的に人を超えた力を手にできるが故、慣れていないと力に振り回されることもままある。
彼はそれを見抜き、相手の間合いから逃れようと後ろにステップした。
「逃がしませんわよ!」
振り下ろされる右の銀剣。振りかぶるもう一方。
だがこの振り下ろされたほう、そのまま足元の地面に深々と突き刺さってしまうことまで少女が想定に入れていたかどうか。
リチャードの足が剣を踏みつけ、少女から見て右手側に体を置く。
振り下ろさんとしていた左手はちょうど頭上。
彼はそのまま、少女のみぞおちへと武器を持った右の拳を軽く添えた。
体がふわりと持ち上がる。
いかなる原理によるものか、まるで制御の出来ない体勢。
魔法によるリカバリーが、間に合わない。
「きゃあっ!?」
そうして、少女は勢いのままのめり込むようにして自分から地面へと転倒、額を打ち付け、衝撃で思考が真っ白になった。
そしてまたも、後頭部に据えられる銃口。
「い、今のは……」
見たことも聞いたこともない。
まるで魔法を使わずに、格闘術だけでこうもあしらわれることがあるのか。
魔法使いなのに。全ての技術の頂点に立つ存在が、こうも簡単に。
「魔法に頼りすぎだ。それじゃ足元をすくわれて当然だよ」
通常、魔導器を使った戦闘では術者の周囲にテスラ・フィールドと呼ばれる防御用の障壁が展開される。
これの許容限界を超えると、魔導器は自動的に機能を停止してしまうようになっている。
先に教官が説明した戦闘不能の定義には、そうした意味も含まれる。
だがそれに触れることすら出来ないなど。一体、この男は何者なのか。
「合気道あいきどうの一種だ。大和国やまとこくの古流武術だよ。ジパングって言ったほうが通じるか?」
それは合理的な体の運用が、体格や体力によらない、相手を制することのできる武術として昇華された技術体系。
「何故、そんな技を……」
赤くなった額を押さえて、エヴァンジェリンが立ち上がる。
さすがに屈辱ではあったが、それよりも疑問が先に口をついた。
ジパング。一〇〇〇年前の戦争でとうに滅んだ国の名だ。
生き残りはいたらしいが、各地に散ったと聞いている。
「近接戦闘では魔法を使うほうがロスになる場合が多い。直接手が届く距離じゃこうしたほうが効率的だ。俺の本分は技術屋、知識となると眼がなくてな。加えて、」
漆黒の魔導器を肩に担ぐ。
「この魔導器、ゴスペルはちょっと特殊でな。基礎魔法やテスラ・フィールドはまだしも、処理の重い大魔法は弾を消費しなくちゃならない。けど機関部に装填された弾丸は六発。使いどころを見極めないと命取りになる。そういう理由だ」
「六発……つまりそれを使い切らせれば、」
「ああ。そうだな。でも、近接格闘では俺に分があるぞ。さあ、どうする」
その意味するところをたちどころに理解して、エヴァンジェリンは小さく笑う。
つまるところ、何故リチャードがここまで魔法を使わなかったのかは、彼女の遠慮なしの力が見たかったからなのだ。
世界に名を馳せる貴族の末裔。その掛け値なしの全力なれば、戦いの終わりに相応しかろう。
「最初に言っただろ? オールドレッドの魔法を見たいって」
互いに視線を交わし合う。
ここまで掌の上で遊ばれていただけかと思っていたが、どうやらそれは勘違いだった。
単純にこの男は自分の力を知りたいのだと解って、ある程度冷静になった頭で考える。
「そこまでして知りたいものですの? 使えば、あなたが無事で済む保証はありませんわよ」
「そうなったら滑稽もいいとこだが。まあ、多分大丈夫だろ」
バカにされているわけではない。
どうにか出来るという確証があるのか。
言外にそう感じ取って、エヴァンジェリンは彼の認識を改めた。
恐らく嘘ではない。ここまででも、こと近接戦闘に関しては自分の数段上を言っている。
その上で魔法でも上回ろうとしているのだ。
認めざるを得ない。これで負ければ完敗。
彼はそういう勝負を望んでいる。
正面から相手を叩きのめす、白黒のはっきりついた決着を。
「解りましたわ。認めましょう、リチャード・カルヴァン。
あなたは最初から、全力であたるべき強敵でした」
そこには清々しい微笑みがあった。
執着に駆られた自分を恥ずかしく思い、謝罪として静かに眼を伏せる。
「人を大切に想えばこそ、こだわる気持ちもあるだろうさ。
けど、アンジーは誰のものでもない。それは覚えておいてくれ」
大切に想うからこそ執着せず、距離を置く。その意志を尊重し、それを守る。彼はそういうことを言っている。
「この私にお説教ですの? ジェラルダイン家は代々〈戦乙女〉の守護を役割とする騎士シュヴァリエの血統。言われずとも承知していますのよ」
リチャードが目配せをすると、互いに見守る生徒からも離れた浮き岩へと移動。
少女を中心として、圧倒的なエーテルの波が集い始める。
エーテルの乱気流が渦巻くこの地帯で、それは見る者が感嘆の息を禁じ得ない壮観さだった。
嵐のような光の渦を完全に制御している。
まず、滅多に見れぬ離れ業。
「そうかい。じゃあ、しがらみナシの勝負といこうぜ。エヴァンジェリン」
「ええ。ワンハンド――今度からは尊敬の念をもって、その名を呼ぶことにいたします」
少女の双剣はその柄尻を向き合わせると、接続。
両端に刃を備えた奇抜な武器を形成する。
「両刃剣ダブルセイバーか……いや、あれは!」
「さあ! いきますわよ!」
第三世代魔導器〈ガーンデーヴァ〉、その真なる姿は、弓。
二つの双剣が接合された後、くの字に折れ曲がって先端同士を結ぶエーテルの弦が張られる。
そうして炎が巻き上がった。
空間そのものが熱を帯びたかのごとく、少女の周囲は赤熱の光に照らされる。
これこそエヴァンジェリンの持つなかで最大を誇る大魔法。
かつて人から寒さを遠ざけ、その生命を慈しみ、そして敵を焼き払い、守り抜いてきた紅焔の光。
暖かな炎が今、主の敵を屠るためにその牙を剥く。
「偉大なる原初の火、その光は汝の虚ろを照らし、歩むべき道を指し示す。
そして全てが終わる日には、汝と共に滅びよう!」
詠唱は厳かに響き、掛け値なしの全身全霊が込められているのを遠目からでもはっきりと見て取れる。
リチャードも詠唱を始める。
充分に魔力を高めた相手はとうに火がついているので、待ってもらえるような悠長はない。
蒼い燐光が浮かび上がる。追随するように光の粒子が集い、弾け、やがて暴風となって荒れ狂う。
それは対流を起こすエーテルが相互に干渉し、崩壊を始めた対消滅現象。
これより彼が放つ魔法はとうに魔法の域にない。あらゆる全ての術式を〈解体〉するために紡がれる、ひとつの奇蹟。
「呼び覚まされた血潮はやがて凍てつく火を放ち、戦乱の先を駆けよと唱えた。
死を告げる天使は地に墜ち、その翼を自らの血で染め、人に飼い慣らされた。
戦士は曇り空の下、怒れる眼に戦の灯火を映して行進する」
詠唱、一句ごとに激発、都合三度。
「親愛なる我らが聖父よ。どうか迷える子らに征くべき道を指し示し、醒めぬ迷いより解き放ち給え。我は救済の導き手。福音を告げる代行者。善なる悪を世に敷く者」
合わせて五発。
それら全ての弾丸が銃口から魔法式へと変じ、術式の組成を組み上げ、破壊と再生を司るように変異したエーテルを充填していく。
取り囲むように描き出される呪文の円環。
その最後を担うのは、彼の背後。背負うような形で浮かぶ、蒼く縁どられたひとつの巨大な紋章。
「――
そうして最終弾が放たれる。
解放されるのは、全てを凍てつかせる超然たる氷の楔くさびか。
照準は、先んじて解放されていたエヴァンジェリンの炎の矢。
灼熱と絶対零度が衝突。
本来ならば暴風と衝撃波が発生する破滅的な温度差。だがその灼熱が凍っていくなど、一体誰に予測できただろう。
「炎が、凍る!?」
「いいや、違う。〈俺の魔法がお前の魔法を解体している〉んだよ」
結果として、相手の魔法は例え炎だろうと水だろうと、氷が砕けていくままに、解体されていくのだ。これは氷であって氷ではない。ただ、そのように振る舞うだけの〈現象〉
始めに、衝突して爆炎が燃え拡がった。
そこまではいい。相手の魔法はそうした展開式のもとに行使された。
問題はその後。まるで炎がその瞬間に活動を止め、なす術なく消えていくことには、見物している学生の全員が眼を疑っただろう。
――かつての時代。
魔法が真に奇蹟だった古の時代、魔法とは近似の未来に〈あるかも知れない可能性事象〉のなかでもっとも都合の良い事象を現実に顕在化し、そのエネルギー変移を利用するというものだった。
一言でいうのならば、可能性という幻想が形を成す、古代の神秘。
それは現代魔法を蹂躙する、理不尽な一方通行も可能とする。
もはや人の手が及ぶものでは断じてない。故にこれを、奇蹟と呼ぶ。
その日の昼。
学食で食事を取りながら、リチャードはテーブルに置いていたタブレット端末を操作する。
「……ん? 一般区画で殺人事件? おいおい、次の一週間の担当、俺だよ」
「お待たせ。何を読んでるの?」
鈴を転がすような声に顔をあげれば、アンジェリーナが対面に座るところ。
「ああ、建国祭のことでちょっとな。このまま何事もなければいいけど」
「あら、そう。それで? 一般区画ってことは住宅街よね?」
にこやかだったが、眼が笑っていない。韜晦とうかいをたやすく見破るあたりは、さすが幼馴染みといったところか。
「解った、白状するとな、どうもそこで妙な事件が起きているらしくて」
「妙な事件? 単なる殺人、とかじゃなくて?」
「それだけならいいけど。現場に〈銀色の蝶〉のマークが残されているらしい」
「銀色の蝶……?」
「そう。どこかで聞いたことあったんだけどな。忘れちまった」
「ううん……私もちょっと解らないわね。そういえば聞いたわよ。エヴァンジェリンさんと決闘したんですって?」
とんでもない、というように手をひらひらと振る。
「いや、あれは決闘なんてもんじゃない。ただのケンカだよ。おかげであの後大変だったんだ。衛生科の女子連中からは目の敵にされるし、賭けが外れたとかで文句言われるし、そもそもその相手の子がでかい魔法使ったせいで気絶しちゃって、浮き岩から落ちるところだったし」
教官にも怒られるし、と続く。
「あら、そう。ということだけど、エヴァンジェリンさん?」
アンジェリーナの視線を追って横を見ると、当の本人が顔を赤くしていた。
腕を組んでの仁王立ち、かと思いきや、姿勢を正して恭しく頭を下げる。
「アンジェリーナ姉さま、ご機嫌麗しゅう存じます。ですが申し訳ありません。戦乙女の騎士シュヴァリエたる私めが、その御仁に無様な敗北を喫した次第です……」
そこで顔をあげると、きつい視線をリチャードへと投げた。
「か、完敗ですわ。ワンハンド、さすがは姉さまの見込んだ殿方。あそこまでやられては、ぐうの音もでませんことよ」
「ふふ。雨降って地固まる、だったかしら? こういう時には大和のことわざがぴったりね」
エヴァンジェリンは少しだけ眼の鋭さを和らげて、小さく溜め息を吐くともう一度アンジェリーナを見る。
「姉さま、この方は一体……? あんな魔法は私の知る限り、どのような文献にも載っておりません。それに限りなく力を尽くした魔法がやすやすと打ち砕かれました。
何が起きたのかもはっきりと解らないままでは、すっきり致しません」
疑問も当然だろう、と頷き、アンジェリーナはリチャードへ視線を送ると、口を開く。
「リッチ。左手を使ったのね?」
「まあな。加減はいらないと思って」
「エヴァンジェリンさん。あなたは〈蒼の魔法使い〉という童話があるのをご存じかしら?」
「おとぎ話のですか? 子供の時分に聞かせられました。それがなにか?」
「あれはおとぎ話ではないのよ。リッチはその魔法を使うことが出来るの。今のように魔導器で普及された、便利で簡素な魔法じゃなく、本物の奇蹟だったころの古代魔法エインシェントをね。特別な才能を持ったものだけに許された、深淵へと至る力。根源に触れることの出来る、魔法の左手ウィザード・レフティ。特に秘密にするようなものではないけど、あえて言葉にして広めることでもない。って本人が言うものだから、私も黙っていたけれどね」
「そんな……そこまでの力があるなら、何故ワンハンドなどという蔑称が? いえ、私もそう呼んでしまった手前、言えることではないかも知れませんが……」
これにはリチャードが答える。
「間違ってはいないからな。この力のせいで左手を介しての魔法は制御が難しい。日常生活とか射撃、近接格闘なら問題はないが、共存しないんだよ。
「その力のせいもあって、ゴスペルの調整は今も難航しているの。私がついていてあげないといけないのは、そういう理由もあるのよ。開発者エンジニアがもう亡くなっているから」
「そういえば、姉さまとその……リチャード・カルヴァンの魔導器は、同型であるとか?」
改めてフルネームで呼ばれたことに若干の堅苦しさを感じた彼は、苦笑してこう続ける。
「リッチでいいぜ。金はないがな」
「好きなものは金と女よ」
「誤解されるだろ! 止めろよ!」
余計なチャチャをいれるな、と叱るものの、当のアンジェリーナはトレイに乗せて持ってきていた紅茶のカップを優雅に傾けている。彼女がここまで気兼ねなく冗談を飛ばすのを初めて目の当たりにしたらしく、エヴァンジェリンは眼を丸くしていた。
「立ったままというのも失礼な話だったわね、ごめんなさい。どうぞ掛けて」
「は、はい! 失礼致します、姉さま!」
「でも、戦乙女の騎士ってのは初めて聞いたな。そういう風習があったのか」
「いえ、私も知らないわね。そうなの、エヴァンジェリンさん?」
「なんで姉さまが知らないのですか!? 私の努力は!?」
「しかしやっぱり小さいなぁ、お前」
「無礼ですわよ、ワンハンド! ええい、こうしてやる!」
「ま、待て、なにを、んがぐぐ」
トレイに乗せてあった、食べるのを最後にとっておいたはずのパンが口いっぱいに詰め込まれ、リチャードはあわや窒息しかけるのだった。
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