第9話

一真の意識は覚醒した。


目を開く。

気が遠くなった一瞬で夢を見た。

我に返った一真が最初に見たものは、自身に降り注ぐ赤い血だった。


一真の行く手を阻み、カメラを奪おうとしていた肌の黒い男の、二の腕が半ば千切れかけていた。

巨人が人の腕を引っ張ったらこんな光景が見られるだろう。

断裂した筋繊維の覗く傷口から血飛沫が散る。

肌の黒い男は腕を押さえて痛みに叫び声を上げた。

銃を背負った男は相棒の身に何が起こったか分からず動きを止めている。

一真はカメラを片手で押さえたまま身体を反転させ、その場から這い出した。


「こっちだ、カズマサ!」


物陰から名前を呼ばれ、一真は転ぶ様に前のめりで走る。

走りながら、これはジャンの声だと思い出す。

どうしてジャンがここに、と考える間も無く、後ろから銃声が聞こえてくる。

逃げる一真の動きを止めようと、銃を持った男が発砲しているに違い無い。

銃が悪いのか男の腕が悪いのか照準が上手く定められない様で、弾は一真の後ろや左右に着弾する。


「伏せろ!」


ジャンの声の出す指示に従い、一真はカメラを持たない方の手で頭を庇いながら、その場に蹲った。

進行方向から、連続した銃声が聞こえる。

目を上げると、崩れた廃墟の陰から右半身を出したジャンが、片膝をついた射撃姿勢でIMIガリルをフルオートで連射しているのが見えた。

一真の頭上を通過した銃弾が、一真の後ろで地面の砂を散らす音がする。

銃を持った男を牽制している。


後方からの銃声が止んだ。

それに呼応してジャンも射撃を止めて廃墟の壁に身を隠す。

この隙に、と一真は立ち上がってジャンの元に駆け寄った。

殆ど飛び込む様にして廃墟の陰に入ると、ジャンが一真の襟首を掴んで自分の後ろに引きずり込んだ。


「このバカ!」


 一真を一瞥もせず、ジャンが怒鳴る。


「一人で歩くなと言っただろう! 俺が探しに来なかったらどうするつもりだった!」


廃墟の壁に背中を預けて弾倉を交換ながら言うジャンに答える余裕も無く、一真は地面に手をついた体勢で咳き込む。

心臓が逸り、血管を流れる血潮の音が、銃声の谺する耳の中に充満する。


「い……今のは……」


途切れる声で、一真は漸くそれだけ口にする。

それと同時に向こうからの攻撃が再開された。

飛んでくる銃弾が廃墟の壁を掠め、少しずつコンクリを削っていく。

ジャンは油断無く目を光らせて姿勢を低くし相手の様子を窺いながら回答する。


「恐らく誘拐犯だ。武装している所を見ると過激派組織と関わりがあるな。大方、ふらふら歩いている外国人のお前を過激派組織に売るつもりだったんだろう」

「そんな……」


弾切れを起こしたのか、向こうからの銃声が止む。

ジャンはすかさず物陰から反撃を開始する。

連射される銃の機関部から空薬莢が連続して吐き出される。

それが地面に落ちる度に砂が焼ける臭いがする。


相手が応戦を始めた。

こちらと同じく遮蔽物に身を隠して態勢を整えたのだろう。

補充により再装填された弾丸が、一真の目の前の空間を切り裂いていく。


「しつこいな。さっさと逃げれば良いものを」


引き金を引いたままジャンが舌打ちをする。

殺さないでおきたいのだ、と一真は理解した。


誘拐犯、武装している犯罪者とは言え、相手は民間人だ。

反政府組織鎮圧部隊に所属するジャンの攻撃対象ではない。

しかも誘拐されそうになったのは部隊の人間ではなく、部隊に付いて回っているだけの外国人である一真なのだから、ジャンの所属する部隊が保護する道理は無い。

だから例えばこの場でジャンが相手を間違って殺したりなどすれば、どんな理由があろうと対外的には『政府主導組織の人間が民間人を射殺した』という事になる。

そんな事態を避けるために、ジャンは相手を威嚇し適当な所で追い返したがっている。


ジャンが引き金から指を話す。

連動して連射が止まった。

ジャンは物陰に引っ込みながら一真に言う。


「怪我は?」

「な、無い」

「そうか」

「なあ、ジャン」

「何だ」

「何で、助けてくれたんだ?」


一真の疑問に、ジャンは思わずと言った様子で振り向いた。

目を瞬かせるジャンに、一真は勢い込んで訊ねる。


「お前なら、命に価値なんて無いって言うお前なら、俺がどうなろうと、仮に殺されたとしても、知った事じゃなって言うんじゃないのか?」

「助けない方が良かったか?」

「命の保障もしないって、前」

「別に守ってやっている訳ではない」


ジャンは表情を戻して一真から顔を離した。

向こうからの銃撃は止んでいる。

先程までの銃声は廃墟群に反響して残滓を辺りに霧散させていた。

乾いた風が汗で湿った一真の額に細かい砂を塗布していく。


「確かに俺は生命に意味も価値も見出さない。あらゆる人間の命も蝿の如(ごと)き羽虫の命も自分の命ですら。だがお前はそうではないだろう? 俺と違ってお前は生命を大変で重要で意味のあるものだと思っている。自分の生命にも価値を見出している」


ジャンは平坦な口調で語る。

静かな声音で一真の自意識を指摘する。


「その考えは俺には賛同出来ないが、だから尊重しないと言うつもりは無い。……姿が見えないから、お前に何か起こったのだと思った。自分に価値があると信じているお前なら有事の際には身の安全を望むだろうと思った。だから助けに来た」


心配をして探しに来た訳ではない、とジャンは言う。

命は意味と価値を持つ大切なものだという一真の考えにも芯から理解を示してはいない。

だが、それでも受け入れ、一真の意思に合わせて命を守りに来た。

ジャンは、決して、善人ではない。

生命を軽んじ、兵士として人殺しをする。

生命は大切なものだと言った一真を嘲笑う。

神という偶像も信じないし目に見える現実しか信用しない現実主義者。

この男の頭の中に他者から与えられる救いなど存在しない。


しかし、それでも、自分と食い違う一真の考えを否定はしなかった。

受け入れた。

持論を押し付ける事無く、相容れない人間として線引きをし、その上で一真を尊重した。

ごく当たり前の様に。

それがどんなに難しい事かも知らずに。


ああ。

一真は息を吐いた。

一つの痛烈な思いが一真の胸を突いた。

この男を、撮りたい。

この男の姿を、在り方を、考え方を記録に残して、そして誰かに知らせたい。


自分と違う価値観だというだけで排除の対象にする人間も、実力をもって排除しようとする人間は数多く居る。

このシリアの内紛も、元を正せば思想の違いだが、その食い違いも排斥という結論に行き着かなければ、きっと紛争など起こりはしなかった。

ジャンの在り方は、一つの答えを示している様に、一真は思えた。

その考え方の象徴として、ジャンを撮りたいと思った。

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