第6話

ジャンが浮かべるその表情が彼の笑みだと、一真は理解するのに時間がかかった。


ジャンは一真を笑っていた。

この世の暗闇を固めた様な目をして、一真の語る生死観を笑ったのだ。


「ぬるま湯に頭まで沈んだ様な馬鹿げた思い上がりでこんな所まで来るのも、安全圏からこの場所を文字で知ろうとするのも、無鉄砲にこんな場所で命を危険に晒しているのも、正気の人間がする事ではない。お前はバカだ。救い様の無いバカだ。故郷で安穏と過ごし戦場とは無縁で過ごして死ねばいいものを、勘違いして何度も懲りずにこんな場所までやって来る。狂気の沙汰だ」

「な……」


思わぬ言葉を浴びせられ、一真は言葉を返せない。

そんな一真に構わず、だいたい、とジャンは話を続ける。


「死んだ人間が帰らないのは、単に消失したからだ。あの世や別の次元に行く訳ではない。増して地獄や天国なんて空想の場所など以(もっ)ての外だ」

「お、お前……さっき、死んだ人間は地獄に行くって」

「キリスト教徒はそう考えると言っただけだ。ブラジルにキリスト教徒が多いのもアメリカにキリスト教徒が多いのも事実。だが俺がそうだとは言っていない。そもそも幼少から戦場に連れて来られて生き延びるために兵士になった様な人間が神を信じると思うか?」

「それは……」

「人間が本能的に死を恐怖するものだという考えについては全面的に同意するが、それは帰れない場所に行く事を知っているからではない。人間は己の生命がいずれ消失する事を恐れている。その時に、自分の人生が無価値で自分の死が無意味だと知る事を恐れている」

「どういう事だ?」

「いいか?」


ジャンは教師が指示棒を振る様に、一真の前で指を振った。

一真は鼻先に突きつけられた指を目で追う。ジャンの指は、一真の顔の上を左右に動く。


「この世に生きる全ての生命に、個としての価値も意味も無い。世の偉人も政治家もアーティストも、人間の間でこそ悲しまれるかもしれないが、その死が自然界に何か影響するのか? 大抵の場合は、しないだろう? つまり自然界にとって人間一人程度の命、あったとしても消失しても何の価値も無い。人間はそれを本能的に知っている。しかしそれを信じたくない。自分にも何か価値があったのだと思い込みたい。だから死を恐れる。消失のその瞬間に、本当に無価値だったという事を見せ付けられたくない。だから生にしがみつく」

「何だよ、それ……」

「この世に神など居ない。この世の他に天国も地獄も無い。この世の中には生まれては死ぬ生命の連鎖だけがある。命など、皆同じだ。紛争地帯の人間も平和なニホンの人間も、子供も兵士もテロリストも、人間も犬も猿も蝿も、そこに違いなど無い。全ては無意味で、総じて無価値だ。どれだけ平和だろうが安全だろうが危険だろうが悲惨だろうが、その『死』は平等に消失という事象である、それだけの事実で片が付く」


ジャンの持論に一真は言葉を失った。暴論にも程がある。

しかし、そう指摘しようとしても、思考は介入されるべきではないとジャンが先程口にした言葉が思い出されて、反駁が出来ない。

恐らく一真が言った所でジャンは自分の考えを変える事は無いだろう。

何を言っても聞き流される。

ジャンの言葉は続く。


「人間など蝿と一緒だ。蝿が餌を求めて死肉に群がるのと同じで、俺も、お前も、他の兵士も反政府組織の人間もテロリストも、皆、紛争という生命に群がっている蝿だ。一匹叩き潰された所で群れ全体に変わりは無い。生態系が崩れる事も無い。何故ならその個体の生命自体に意味は無く、またその消失に価値は無いからだ」

「そんな……」

「考えてもみろ。俺の様な兵士は命を食い物にして生きている。お前もだ、カズマサ。お前も紛争を食い物にしている。この行為が蝿と同じでなくて何だ?」

「食い物になんて」

「しているつもりは無い、か? お前はそう思っていても、結局それで生計を立ててるじゃないか。そう変わらない。行動の様式が違うだけだ」

「そんな風に言うなよ!」


一真は、思わず立ち上がってジャンを睨み付けた。

周囲の兵士の視線が突然叫んだ一真に集まったが、すぐに興味を失くした様に離れていく。

ジャンは座ったまま、静かに一真を見上げていた。


その、冷静そのものに見える目に、一真は腹が立った。

そして同時に、恐怖を覚えた。

自分の中にある芯が壊れた様な、自分の足場が崩れた様な、信じて縋っていたものがふつりと切れた様な、酷い不安に襲われた。


「そんな事、言うなよ……」


知らず、声が震えた。

一真は身体の横で拳を握り、大きく息を吸い込んで、ジャンに向かって訴える。


「意味が無いとか、価値が無いとか、言うなよ。何だよ、それ。人がしてる事に、そんな虚(むな)しくなる様な事言うなよ。そんなんじゃないだろ、もっと、俺達がしてる事って、もっと……」


続けるべき言葉を探せなくて、一真の声は、最後には小さく消えた。

何と言って良いのか、分からない。

けれどジャンの考え方は肯定出来ないと、それだけは強く感じた。

肯定してしまえば、自分がしている事も、ジャンがしている事も、この紛争地域を覆っている現状も、それに伴う幾多の悲劇も、全ての意味が消えてしまう。

そうは、思いたくなかった。

命に、生に、死に、価値も意味も無いのだとは、考えたくなかった。


一真を見つめるジャンの表情は変わらなかった。

どこまでもどこまでも静かな目で、一真を見ている。

端正で無機質な顔が焚き火の灯りに照らされている。


「……お前だって、死んだ人間を何人も見てきただろう」

 夜の底から響く様な声で、ジャンは言う。

「何人も何十人も何百人も何千人も毎日の様に死ぬ。何年も何十年も何百年も何千年もそれが繰り返されている。人の営みは連綿と続く生と死だ。大河の流れの様に、寄り集まって初めてそれは意味を成す。だが大河から水が一滴漏れた所で何か変わるか? 個人の生命の消失はそれと近似している。俺は今日まで、戦場で消失した命を見続けてそれを学んだ。かけがえの無い命なんて幻想だ。命に価値を付加するのは所詮、人間の利己心だから」

「……」

「…………俺の意見に対してお前がどう思おうがお前の勝手だ、好きにしろカズマサ。だが俺は俺の考えを放棄する事は無い。俺を否定しても良いが強制しようなどと考えるなよ」


ジャンはそう言って、ふっと一真から目を逸らした。

一真は、ジャンを見下ろしたまま立ち尽くしていた。

さっきまで故郷の友人の様に親しみを感じていたのに、今は、目の前に居る男が、理解不能な生き物の様に思えてならなかった。

決して埋まらない溝が、決して越えられない膜が、決して近寄れない距離があるかの様だった。


「お前は……」


男の横顔に、一真は訊ねる。


「自分の事も……自分の命も、死も、意味が無いとか価値が無いとか、思ってんのか?」


そうではないと思って欲しい、と一真は思った。

ジャンの考え方は、あまりに悲し過ぎる。

しかし、返って来たジャンの声は、いつもと変わらない温度の低さだった。


「当然だが、それが何か?」

「……そっか」


一真はそれだけ言って、ジャンに背を向けた。

ジャンは追って来なかった。

逃げる様に、夜の暗がりへと足を早める。


何故かも分からないが、酷く胸が痛かった。

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