第5話

見るとも無しに目の前の火を眺めていると、ジャンがこちらを見ている事に気が付いた。


「……何?」


訊ねて、一真もジャンを見返す。

夕日の様な火の色に照らし出されるジャンの顔は、日系人なだけあって、端正な南米系や彫りの深い欧米系に混じり、僅かにモンゴロイドの面影がある。

一真は故郷の友人に再会した様な、奇妙な感覚を抱いた。

ジャンが静かに口を開く。


「お前の国では……ニホンでは、死んだ人間はどこに行くんだ?」

「え?」

「ブラジルはカトリック系キリスト教が主流だ。アメリカも無宗教は増えたが、やはりカトリック系キリスト教が大多数だ。……キリスト教では、死者の魂は肉体から離れて神の元へ行くと考えられている。信者以外の魂は地獄へ行く事になるがな」

「キリスト教にも地獄ってあるんだ」

「ニホンは」

「神道とか仏教とかアニミズムとか、色々あるよ。それぞれで考え方が違うから、一概に何とも言えねえけど……まあ一口に言えば、あの世かな」

「そうか」


 ジャンは一度言葉を切って、少し考えてから、それなら、と再び口を開いた。


「お前は」

「俺?」

「お前なら、どう考える。生について。死について。生命について」

「……そう、だな……」


思わぬ質問に、一真は面食らいながら首を傾げる。

落ちた沈黙を埋める様に、火の爆ぜる音と、兵士達の喋る声が聞こえる。

耳慣れた異国の発音を聞いていると、無性に日本が懐かしくなった。


随分と、遠くまで来たものだ。

一真は自分の生まれ故郷を思い出す。

もう何年も帰っていない。

日本に帰国する事はあっても、大抵は拠点にしている都内の部屋に戻るだけで、実家に帰省する事は、戦場ジャーナリストを志してから一度も無かった。

電話をかける事も、手紙を出す事もしない。

父母の顔も、記憶にあるより今はもっと老いているだろう。


父母から教わった常識。

学校で教わった道徳。

それから、戦場ジャーナリストを志したきっかけとなった倫理観。

記憶を手繰り寄せながら、一真はジャンに聞かせる。


「……俺、昔はスゲー田舎に住んでたんだよ。地域の住人全員顔見知り、みたいな。テレビとか新聞でニュースになる様な事件とか、全然起こらない様な場所でさ。平和っつーか、閉塞的っつーか、そういう何も無い場所で生まれ育ったの。だからさ、世界のどっかで紛争問題がーとか難民問題がーとか虐殺がーとか言われても、ピンとこなくて。生きているのが当たり前、命は溢れているのが当たり前、みたいな感覚だった」

「……」

「そんなボケた感じで大学まで進んで。いつだったか学校で戦場カメラマンを呼んだ特別講義があってさ、友達の付き合いで聞きに行った訳。でも話聞いても全然興味湧かなかったんだよね、正直。で、そのカメラマンが言たんだよ。『君たちは恵まれている』って」

「……それで?」

「それが、なんか無性にカチンときてさ」


当時の事を思い出して一真は小さく苦笑した。


「俺もそれなりに人生について悩んだり、働いて苦労したり、人に嫌われたり好かれたり、色々辛い目にあってたつもりだったからさ。俺の事を一つも知らずに何を言ってんだコイツって思って……だったら世界の底を見に行ってやろうってムキになって、なけなしの貯金はたいて夏休みに、そのカメラマンが行った戦場の近くまで行ってみた訳よ」


若かった、と自分でも思う。

苦労の度合いも浅ければ、ムキになる沸点も低い。

そして、金も無いのに飛び込んでみようと考える勢いがあった。

図体ばかり大きくなっても、頭の中はまるきり子供のままだった。


「国境が封鎖されてたから、リュック一つの学生の旅行者が戦場になんて、普通に考えて行ける筈が無かったんだけど、その時は全然分からなくて……まあ、それはいいんだ。戦場でなくとも、その周辺の地域でも、俺にとっては衝撃的だった」


言いながら、一真はその時に目にしたものを思い返した。

今でも鮮明に、目の裏に浮かび上がってくる。


「銃持った軍人が普通に居んのもビビったし、街中が空爆の跡で穴ボコだらけなのもビビった。金と食料寄越せってカツアゲもされたのも怖かったけど、なんか爆発音がしたらその場の人間全員が躊躇無く逃げるのも……慣れてるって感じで、めちゃくちゃ怖かった」

「そうか……」

「で、滞在中に色々見てて思ったんだよ。ここは日本と違うなって。当然と言えば当然なんだけど……なんて言うのかな。命が不安定って言うか、死がすぐ足元に転がってる、みたいな。ここでは、躓(つまづ)く様な気軽さで死ぬんだなって思った」


今でも焼き付いて離れない。

銃を持った軍人を乗せて走っていく装甲車の列。

丸焼けになって手足がちぎれた子供を抱いて泣く母親。

身体に血を滲ませた包帯を巻きつけた男。

地面に空いた穴の底に落ちた犬の死骸。

国境付近で、出国を求めて群がる人々……。


日本に戻った一真は、再開した『普通の』日常に、目眩を覚えた。

あまりの差異に、自分が見聞きしてきたものは何だったのかとすら思った。

それまで自分が日本でしてきた生活は、まるで異世界だった。


カメラマンは『君達は恵まれている』と言った。

しかし一真の抱いた感想は違った。

日本の『平穏』に浸かっている人間は、恵まれているのではなく『都合の良い仮想に飼われている』のだと。

生命の危機を伴わない仮想現実の中で一喜一憂し、平和に飼い慣らされている。

遅効性の毒を飲んだ時の様に緩やかに死んでいく。


同じ世界の事なのに、同じ形をした人間なのに、同じ『死』を迎えると言うのに。

これは一体何なんだ?

一真は自分が生きている環境に違和感を覚えた。

一度そうなると、もう安穏としていた頃と同じ気持ちでは過ごせなかった。

取り憑かれた様に世界の情勢を調べ始め、中東の戦争についての情報を集めた。


やがてその内に、一真の頭の中に一つの考えが芽生えた。

平和を生きる人間にこそ、惨状を知らせなければならない。

自分達の享受する平和が決して当たり前のものではないのだという事を認識させなければならない。

紛争地帯の人間に同情しろとか、そういう事は言わないけれど、せめて、そういう現実もまた起こっているのだと知らしめる必要がある。

使命感の様なものだった。

知らせるのは自分の役目だと感じた。

だから、親や友人の、心配や親切心からの忠告も聞き入れず、戦場ジャーナリストの道を選んだ。


取材を重ねる内に、一真は生きる事について、死ぬ事について、考える様になった。

生命について考える様になった。

朝も夜も無く『死』と向き合う事になった。

その中で、一真が出した結論がある。


「死んだ人間は、死んだ命は、帰らないからさ。宇宙とかあの世とか別の次元とか言う訳じゃないけど……きっと別の、帰って来れない所に行くんだよ。人間はそれが本能的に分かってるから、だから死ぬのが怖いし、命を大事にするし、安心と安全を求めるし、そのために何百年も努力をして平和な所を作り上げるんだ」


ジャンは優秀な聞き手だった。

話の腰を折る興醒めな真似もせず、私見を挟む事もせず、話の続きを静かに待っていた。

一真の出した結論まで聞き終えたジャンは、そうか、と言って一つ、大きな息を吐き出した。

ジャンの吐息で、火が音を立てて身を捩る。

いつの間にか、火は小さくなっていた。


「それが、お前の考える生と死か」

「そうなるかな。間違ってる?」

「正誤の判断をするのは俺ではない。そして他人の考えに正誤を下す事は出来ない。人間の思考は他者の意見を受け入れはしても本人の意思に反して介入されるべきではない」

「じゃあ、何か感想とか、ある?」

「……俺の意見を述べさせてもらうなら」


ジャンが、一真の目を見る。

深い、底の無い夜の海の様な目だと思いながら一真もまた、ジャンの目を見た。

ジャンが少しだけ、唇の端を持ち上げる。


「バカかお前は」

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