第40話 勝利の代価
泥濘の底にとらわれていた意識が、鼻を突く汚臭によって引き上げられる。
「ぅ……ぐぅ」
目を開く……いや、開けない。わずかな光が今は沁みる。段々と痛みに慣れて、ようやく開いたのは右目だけ。左目は猛烈に痛む、痛みのあまり手で押さえても痛みの辛さは変わらない。むしろ傷に触れているような……べたりと掌に温い液体がつく。
「あら、起きたの」
「……アンジーか。よかった」
見えないが、声で分かった。生きていた、それから、自分が何をしにここへ来たのかぼんやり思い出した。記憶の糸を手繰ろうとすると目に激痛が走るせいで、思考が定まらない。だが、アンジーとクロードは生きていた。
「まさか本当に助けに来てくれるなんてね、あんたにそんなガッツがあるなんて思わなかったわ」
「ふぅ……友人だろ。助けるさ、そりゃ。ところで……鏡はないか。目が痛むんだ、どうなってるか見たいっつ」
喋る間の振動でさえ痛みに変わる。だが、何か喋ってないと意識を手放しそうだ。
「破片が眼球にめり込んでてたから、抉り出して食べたわ。傷口は手当しておいたけど、コロニーに帰れたらちゃんとした処置をしてもらいなさい」
「あぁ……そうか。そういえば、そうだったな」
敵を殺して、俺はギリギリで生き残った。代償は目玉一つか。悪くない。酷く痛むが、これも生きている証と考えれば耐えられなくも……いや無理だ耐えられない。痛いもんは痛い。
しかし食ったか。まさか自分が食われるとは今まで思ったこともなかった。
「友人の味はどうだったよ?」
「不味かった。おなか減ってたからってつまみ食いしたのが間違いね」
「食っててマズイってひでえなそりゃ」
おかしい話なのに、痛みが邪魔してうまく笑えない。顔だけでも取り繕うにも、引きつってしまって動かない。ままならないものだ。
「無理して起きてなくても寝てればいいのに」
「痛くて寝れるわけねえだろ……他の生き残りは」
「トーマスと運転手だけよ。後は全員殺された」
「……まあ、三人でも死んでるよりはいい」
半分の視界で見回すが、この車両にトーマスは居ないようだ。
「トーマスはどこだ?」
「格納車両。捕虜を捕まえて尋問してるわ」
「そうか。見てくる」
「無理して動かない方がいいわよ」
「腕がもげたとかならともかく、目玉一つだろう。出血も多くない」
「それでも」
「お前みたいな悪臭の発生源の近くにいる方が体に悪いと思うがな……」
意識と視界がはっきりしてきて、ようやく悪臭の源がわかった。目の前にいる女からだ。臭いの種類は……まあ嗅ぎなれたものをもっとひどくしたもの。古くなった精液の臭いだ。アンジーの髪や肌に不自然なテカリがあるから、それだろう。
「一応体は拭いたんだけど、やっぱ臭うかぁ……シャワー浴びるしかないわね」
「何回ヤられたんだよ」
「一々数えてないけど、あんたが来るまで毎日ずっとよ。連中ヘタクソな割に精力ばっかりついてて辛かったのよ……子供ができない体に感謝するのはこれが初めてだわ」
「俺にも感謝しろよ。単身助けにきてやったんだから」
「そりゃもちろん。ところで他の連中は? どうして一人で?」
「あのチキン共か。ターキーになるのを怖がって引きこもってるよ」
連中の内の一人か二人でも手伝ってくれれば、俺の片目だって無事だったかもしれないのに。
と、過ぎたことを言っても仕方がないので。さっさと移動することにした。よっこらせと立ち上がると、血が急に降りて立ち眩む。壁に手をついて、安定を待つ。
「ちょっと、大丈夫?」
「ああ。大丈夫だ。問題ない」
そのまま壁伝いに車両同士をつなぐドアまで。手すりに手をかけようとして、空振りした。なるほど、片目の不便さとは、痛みだけじゃなくこういうものもか。慣れるまで、大変そうだ。
改めて、しっかりと扉のノブを抑えて押し開く。アースの格納車両。嗅ぎなれた鉄の臭いに、気分が落ち着く。
「起きたか。死んだかと思ったぞ」
「命の恩人が生きてたんだ。嬉しいだろう」
「もちろんだ。お前のためにお楽しみも我慢しておいたんだぞ」
「お楽しみ?」
「アレを見ろよ」
指さされた先を見ると、猿轡を噛まされ手足を縛られた薄着の女が居た。顔はそれなり。スタイルも悪くない。なるほど、お楽しみってのはそういう。
平時であればそりゃ喜んで食いついただろうが、今の状態で激しい運動は無理。傷が開いて死ぬ。そもそも血が足りないから勃つものも勃たない。
「お前が倒したアースの中から引きずり出した。お前の戦利品だ。好きにする権利がある」
「俺はいい、好きにしろ」
アンジー同様、トーマスも散々ひどい目に遭わされたんだろう。そういう趣味がなければ抱くわけにもいかない。そして殺すわけにもいかないなら、殺さない程度に暴行するしか使い道がない。顔にいくつも痣があるせいで、色男が台無しだ。
礼をさせてやろう。
「イエス、やられた分はやり返させてもらうとしよう」
ニっと笑って立ち上がり、ゆっくりと女に詰め寄る。他に気になったことが一つあり、その背中に声をかけて、一度立ち止まらせる。
「ところで、エーヴィヒは」
「あの白いガキか? 自分の機体の前で寝てるよ」
「そうか」
狭い格納庫の中には、撃破した敵アースがいくつも転がっている。その中から一機だけ無傷の赤いアースを探すのは、別に難しいことではなかった。
アースの前には小さな女の子が毛布に包まって穏やかな寝息を立てていた。こうしていると全く無害そうなのに、実際は殺人装置というのがなんともおかしい。しかし、こいつの援護がなければ俺はきっと……
「ん……ぁ、おはようございます」
「すまん。起こしたか」
「睡眠時間は十分に確保できています。問題ありません。それで、何か御用でしょうか」
「用事はない」
ただ顔を見たかっただけ。そう言うと愛しい人に会う口実のようで気恥ずかしかったのだ。
こいつに抱く感情は間違っても恋愛関係のものではない。しかし複雑だ。気が抜けない仇敵であり、迷惑な居候であり、そして背を晒して命を預けた相棒でもある。
協力した理由が利害の一致ならわかりやすくてよかった。だが今回、俺に協力するメリットがエーヴィヒに一切ないというのが、彼女への評定を混迷させる一助となる。
「お前はどうして俺を助ける」
「いずれお話しします。今はまだ、その時ではありません」
珍しく彼女の表情が崩れ、微笑んだ。人形のような美しい顔にうすら寒いものを感じて、直視できずに目を逸らす。
「コロニーに帰れば、あなたの目を治すよう上に提言しておきます。私のスペアの目を使えば」
「あいつに借りをつくるのは嫌だね」
アースはコロニーを守った報酬としてもらった。だが今回は俺の独断の慈善事業。報酬を要求できる要素はどこにもない。せいぜいが撃破したアースを売っぱらって金に換えるくらいだ。
「不便ですよ」
「構わん」
「……では、私があなたの目となります。日常で可能な限りお助けします」
「好きにしろ」
こいつが自分の意志で何かするのを制限する気はない。もちろん害意がないことが前提だが。
「じゃあ」
近くにかかっている毛布を取って。少し離れた場所に横になる。ほどなくして女の悲鳴が上がり始めたが、気にせず眠る。アンジーの居る場所で寝るよりは快適だ。
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