カーチェイス
@Nash_Keiss
カーチェイス
道路脇のコンビニで、異形の車がアイドリングしている。
東京から車で一時間のとある県。山々には木々が鬱蒼とし、田畑とゴルフ場が交互に連なっている。山裾のうねりに沿って、高速ICから通じる一本の観光道路が走っている。二車線道路だが幅員は広く、片側に向かって視界が開けている。アスファルトは古く、穴やうねりが散見されるが、荒れていると言うほどでもない。道沿いには個人経営の飲食店が並び、ゴルフ場や牧場に向かう観光客を待ち構えている。
日は既に落ち、長い時間が経過している。闇に煌々と光るコンビニが羽虫を集めている。店員のハッチバックが停められてるほか車はなく、人影もない。その片隅、光から最も遠い影の中に異様な車のシルエットがある。それはGT-Rである。
GT-Rは車体を斜めに停め、ヘッドライトを消してじっと暗闇に潜んでいる。R-34型SKYLINE GT-R。1999年式、メタリックグレー。エンジンと吸排気系にはコンプリートチューンが施され、生産から長い年月を経た今でも500馬力近い出力を搾り出す。その鼓動は低く、野太く、地底より忍び寄る怪物を想起させる。4WDシステムは電子制御ディファレンシャルと幅広のSタイヤで強化され、車体はFRP製のエアロパーツと巨大なスポイラーで武装している。だがこの車を特徴付けているのは以上のいずれでもない。
それは巨大なバンパーである。車体よりも幅広で、ボンネットよりも高さのあるバンパーが前後に付けられている。バンパーは五センチの太さを持つ鉄パイプで構成され、内部のフレームから外装パネルを突き破り、前後のホイールハウスから車両の前後端までをぐるりと囲んでいる。パイプは車体に沿って曲げられ、高い剛性を持つように補強され、梯子状に溶接されている。フロントにはライトポッドが付けられており、一見すればラリー仕様のようにも見えるが、明らかに異なる。部分部分で分割され、ボルトで固定され、取り外しと収納が可能なようになっている。バンパーには無数の傷が付き、塗装が剥がれ、いくつもの凹みができている。
「今日のターゲットはEクラスです」
二人の男が車内にいる。助手席の男はスマートフォンを持ち、バックライトに照らされて顔を浮き出させている。その男は若く、三〇かそこらである。運転席の顔は見えない。バケットシートの中で腰を突き出し、背中を曲げてぐったりと座っている。背が低く、太っており、髪は薄い。男は中年である。
「メルセデス・ベンツ。白。サンルーフ付き。練馬ナンバー。とある上場企業の営業部長、取引先の誰か、部下もいるかもしれない、とのことです」
「誰の上司なんだ?」
運転席の男が聞く。野太く、痰の絡んだ声。
「〈ネクタイ〉ってハンドルネームですね。エクセル方眼紙を強要されたと言っています」
「方眼紙?」
「無意味な単純作業に追いやられているという意味です」
「文句言って突っ返せばいい」
「それができなくて困ってるから依頼してくるんでしょう」
「ふん、気に入らねえ」
運転席の男は不快そうに言う。
「自分でやらずに他人に任せて、何が面白いんだ。自分の恨みだろうが」
「それぞれに事情があるんですよ」助手席の男は諭すように言う。「企業労働者が力に訴えるのはとても難しいんです。職を失うかもしれないし、人間関係が破壊されてしまう。そもそも、人生の中で〈力に訴えた〉経験を持つ人なんていませんよ。誰もそのやり方を知らないんです。だから僕らに頼る」
「んなこた分かってる。だからこそ、〈自分の力に訴える〉ことに価値があるんだろうが。他人に任せちゃそれも台無しだ」
「誰かさんは上司に事故って欲しい。あなたはバトルがしたい。Win-Winじゃありませんか」
「そりゃそうだが」
「嫌ならやらなくてもいいんですよ。僕としては、実行するのは誰でもいいんですからね」
「やるよ。GT-Rがうずいてる」
運転席の男は太い指でハンドルに付いたステッカーを撫でる。それは自動車のエンブレムであり、BMW、メルセデス・ベンツ、レクサスとアウディが交互に並んでいる。左端から列をなしており、右端で折り返して十一を数える。男は今夜、十二枚目を貼るつもりである。
観光道路を一組のヘッドライトが近づいてくる。二人は耳をすませる。街灯の下を通ったところを、助手席の男が双眼鏡で確認する。
「あれです」
運転席の男はギアを入れる。ヘッドライトを消したままマフラーを唸らせ、駐車場をゆっくりと出て、通りすぎたEクラスのすぐ後につく。
「AMGだな」運転席の男が言う。「向こうの方が馬力がある」
「何かまずいですか?」
「いや」
アクセルを踏み込む。直列六気筒ターボが唸り、タイヤがスキール音を上げる。
「好都合だ」
暗闇から迫るエンジン音に驚き、Eクラスは慌ててアクセルを踏む。バンパーに付けられた大照度のライトポッドが一斉に点灯し、ドライバーの眼を襲う。何度も明滅し、威嚇する。GT-Rの姿がわずか数メートルに迫っていることに気づき、何事か罵る。
Eクラスはギアレンジをスポーツモードに切り替え、アクセルを床まで踏み込む。煽ってくる何者かをスピードで引き離すつもりである。
「離れていきますよ」
「いいんだよ。一度は距離を空けさせてやるんだ」
運転席の男はほくそ笑む。GT-Rを加速させるが、床まで踏み込んではいない。少しずつ距離が離れるよう速度を調整している。
「あいつは引き離せると思って、勝負に乗ってくる。AMGに乗るようなタイプなら挑発されれば引き下がらない。頭に血が上って、こっちの思い通りにスピードを上げてくれるのさ」
カーブの多い区間に入る。Eクラスはハイスピードのまま、スタビリティコントロールを作動させつつ突っ込む。GT-Rはペースをあわせているが、カーブを曲がるごとに少しずつ距離を詰める。Eクラスはもっと早くカーブを曲がろうとする。突っ込み気味になり、車体が外側に揺れ、アンダーステアが顔を出す。運転席の男は股間を掻きながら片手で運転し、野卑な笑いを浮かべている。わざとスライドし、エンジンをレッドゾーンまで回し、Eクラスのドライバーを焦燥させようとしている。
「見てろ。自分から事故るぞ」
道路は山の形に添って曲がっている。片側は畑に向かって落ちる崖であり、片側は切り崩されそそり立つ法面である。
GT-Rはその巨大なバンパーでEクラスを小突き、バランスを崩そうとする。Eクラスは小突かれまいとさらにスピードを上げざるを得ない。そして減速しきれないままカーブに突っ込み、また速度を失う。Eクラスは悪循環に陥る。
ついにガードレールへ刺さるかという時、第三の車が遙か後方から接近する。ハイビームを三回点滅させ、反対車線にはみ出していた二台をインコースからごぼう抜きにする。
運転席の男は車影を見て戦慄する。それはポルシェである。
GT-Rは車体を無理矢理インコースへねじ込み、Eクラスをパスして急加速する。驚いたEクラスはガードレールへ車体を擦りつけ、減速してゆく。車を降たドライバーが後ろから罵声を浴びせるが、運転席の男は一顧だにしない。抜いていったポルシェの尻を注視し、体を震わせながらハンドルにかじりついている。
「どうしたんです!」
GT-Rはポルシェの十数メートル後につける。車種を詳細に確認する。ミッドナイトブルーの911。997型、GT3、世田谷ナンバー、黄色の牽引フック付き。
「あれは俺のターゲットだ」
「俺がまだ四十にもなっていない頃だった」
運転席の男は語る。追いすがるGT-Rに気づいた911は再び加速している。弦楽器めいたエンジン音を響かせ、アスファルトを蹴飛ばす。Eクラスの時とは比べものにならないハイスピードだ。相手は素人ではなく、こちらも負けてはいない。加速度はほとんど均衡している。二台のクーペは前後に連なりながら観光道路を疾駆する。
「俺はGT-Rを買ったばかりで、奴は二つ上のボスだった。俺は工場でラインをやり、奴は本社から来ていた。二人とも車趣味だったが、気は合わなかった。奴はポルシェ党で、俺は国産派だった。職場の駐車場で見かけるたび唾を吐きかけてやりたかった」
カーブにさしかかり、911は急ブレーキをかける。サスペンションがジワリと沈み、タイヤが白煙を生じる。後輪が僅かにスライドし、アスファルトに黒々とした焼け跡が刻まれる。
「奴はリストラを進めるために来ていた。奴の手で多くの社員たちが辞めさせられ、非正規が取って代わった。何百人もの人生が台無しになった。時代の閉塞感がそれを後押ししていた。ついに俺のラインに順番が回ってきた。俺は勝負を挑んだ。レースで勝ったら俺のリストラはしないでもらう、負けたら潔く辞めてやる、とな」
スライドしながらコーナーを脱した二台は再びアクセルを踏み込む。GT-Rが一瞬早く加速するが、911もすぐに速度を取り戻す。艶やかなリアの曲線が目の前に迫り、一瞬だがドライバーの姿が見える。911の男はウェーブした白髪をピッチリとセットしており、リアシートにゴルフバッグを載せている。ミラーを介して二人の目が合う。また離れ、速度計は急激に回転する。
「驚いたことに、奴は勝負を受けた。それどころか掛け金をつり上げてきた。もし俺が勝ったらリストラを完全に停止し、本社に帰り、経営陣と争ってくれると言うんだ。俺は驚いた。奴にとってメリットはどこにもないからだ。
恐らく、奴自身もリストラに疑問を持っていたんだろう。時代の空気に流されるまま、人道にもとる行為が平然と行えてしまうことに。なんら実質的な障害もなく、ただ淡々と統計的な暴力が行えてしまうことに。俺はきっかけだった。きっかけになるはずだった。だがなれなかった」
舗装の質が変わる。整備年代の古い道に入り、アスファルトは荒く、ところどころ割れている。法面がむき出しになっており、砂が降って路上に浮いている。リア駆動の911は後輪を滑らせ始める。GT-Rもグリップを失っているが、よりハイリスクなラインを取ることで徐々に距離を詰めてゆく。
「俺は負けた。俺は峠上がりで、サーキットでのレースなんてやったことはなかった。まったく別のテクニックが必要だと気づいたときには遅かった。あっさりと負けたよ。手加減のしようもなかったはずだ。俺は解雇され、奴はさらに何百人もの人生を台無しにした。最終的に工場はベトナムに移転した」
巨大なバンパーが911の尻に近づいてゆく。カーブを曲がり、エイペックスから加速するたび差が縮まる。ガードレールにバンパーが擦れ、火花が散る。あわやという所でバランスを失いかけるが、運転席の男はリスキーな攻めをやめない。対向車が来たら、落石が落ちていたら、段差があったらという仮定は存在しない。運転席の男は経験から外乱要因が存在する可能性を了解している。分かった上で受け入れている。男は命をかけている。
「お前は思うだろう。奴に疑念があったなら、全責任を奴に押しつけるのはお門違いだと。復習の方向性が間違っていると。だが俺にとって、憎むことができる第一位の人間が奴なんだ。奴が責任者であり、奴が計画し、奴が実行したんだ。曖昧に共有されている容疑者リストの筆頭が奴なんだ。
俺は恨みを持っている。恨みは対象を求めている。対象は目の前にいる。奴だ」
バトルは拮抗している。既に911の男は追跡者が何者であるか気づいている。男は微かな苛立ちを含ませた冷たい目線でミラーを見ている。農地が終わり、小さな工場や住宅地が見え隠れしている。二台のクーペはそれらを眼下に見下ろしながらエンジン音を高く響かせる。
「スピードを落として……」助手席の男は把手に縋りつき、歯を食いしばっている。激しい横Gに対応できず、首を左右に振られている。「僕もいるんですよ……」
「無理だ」運転席の男は素っ気なく言う。「奴はサーキットで鍛えてる。腕は同等。車も同じか、向こうが上。リスクを取るしかない」
「あなたの個人的な恨みで命を落とすつもりはないんです!」
「諦めな。俺の車に乗ったのが運の尽きだ」
バンパーが触れあうほどに接近する。GT-Rは攻撃を仕掛ける。反対車線側からバンパーを寄せ、横方向に押し出そうとする。だが接近が足りず、張り出した鉄パイプは911の尻を掠めただけで不発に終わる。第二撃を加えようとするが、また数メートルの距離が開いている。運転席の男は再び距離を詰めようとする。
二台のクーペはヘアピンに向けて減速してゆく。強烈な減速Gがかかり、ブレーキが白煙を上げる。運転席の男は頬肉を震わせながら、ギアを素早く落としてゆく。そのとき、突如として助手席側のドアが開く。アラートが鳴り、運転席の男は正面から眼を離す。助手席の男がシートベルトを外し、身を乗り出している。
「おい、何をやってる!」
「僕は失礼しますよ。他人の勝負に巻き込まれて死ぬなんて、御免なんでね」
「くそっ」
ヘアピンに向けてハンドルが切られる。遠心力を利用し、助手席の男は身を投げ出す。手足を丸め、頭を守りながら路上を転がってゆく。運転席の男は舌打ちし、開きっぱなしになった助手席ドアを法面に当て、その勢いを利用して閉める。排水溝の上で立ち上がり埃をはらっている人影がミラーに写る。ギアが進み、再び時速は100を超えてゆく。
混乱のためにGT-Rは出遅れている。二車身は間が空いており、加速する間に差は開いてゆく。
再びカーブが近づく。左カーブ。運転席の男は対向車線に入り、アウトコースからアプローチする。911は対向車を恐れ、車幅半分しか外に出さない。運転席の男はリスクを取る。911の取らないリスクを取る。それしか道はない。
インとアウトに別れながら二台はカーブに侵入する。コーナリングフォースが均衡し、二台はペアを組んだダンサーのように曲がってゆく。
911がバランスを崩す。イン側にアスファルトに空いた穴があり、そこにタイヤを取られている。リアが大きく振れ、911はそれをリカバリーしようとカウンターを当てる。どうにか姿勢を取り戻すが、速度を大きく失っている。運転席の男はチャンスを逃さない。対向車線から全速力で加速し、911のサイドに付ける。
再び攻撃の機会が訪れる。一度反対側に舵を切り、勢いをつけてハンマーのように振りかぶり、その巨大なバンパーを911のドアに突き立てようとする。911の男はバンパーに目線を吸い寄せられる。その顔は激しい苛立ちに歪んでいる。運転席の男は待ち望んだ瞬間の到来に息を呑む。
正面にミニバンが現れる。カーブの先に隠れていた車線、911の尻の向こうから突如として出現し、カーブを出たGT-Rの視界に入ってくる。近い。対向車線に出ているGT-Rへの激突コース。フロントガラスの向こうに四人家族がいる。ハンドルを握る父親は運転席の男と同年代だ。無垢で素朴な面構えに驚愕の表情を浮かべている。
運転席の男はブレーキに足をかける。だが近すぎる。ミニバンはブレーキをかけはじめていない。突然のことに反応できていないのだ。ABSなど効かせたこともないのだろう。今からでは間に合わない。俺が左か右にハンドルを切るしかない。左には911がいる。左に逃げることはできない。右だ。運転席の男は右にハンドルを切る。
四輪が接地を失い、GT-Rは宙に飛ぶ。ガードレールはない。崖は何十メートルも下まで続いている。住宅、畑、工場、雑木林。視界が逆さまになり、頭上に地面が現れ、また空に戻る。回転し、落下する。その先に電柱がある。GT-Rはまっすぐ電柱に向かって飛んでゆく。男は何もできない。数秒間の滞空のあいだ、激しい後悔に苛まれる。もはや遅い。遅すぎたのだ。
GT-Rは電柱に激突する。バンパーが真っ二つになり、エンジンが押し出され、ボンネットが凹状にひしゃげる。グシャリという鈍い音。それは暗闇のなかで起こった出来事で、あっけないほど短く、轟音も爆発もおこらない。GT-Rはそのまま動かなくなる。
911は快音を残して走り去っている。ミニバンもいつのまにか消えている。誰も騒ぎを聞きつけて駆けつけたりはしない。観光道路は元の平穏を取り戻し、静かに森の暗闇へ沈んでいる。GT-Rは音もなくひしゃげている。前後方向に折れ曲がり、液体を漏れ出させたまま、完全に沈黙している。
何分も経ってから、助手席の男が現れる。崖を降り、ゆっくりと歩いてGT-Rだったものに近寄る。
「まったく……」
運転席を覗きこみ、顔をしかめる。鼻をつまみ、溜息をつく。
「怨恨に逃げるからこうなるんですよ。もっと視野を広く持たないと……」
助手席の男はボソボソと独り言を残し、背を向ける。ポケットに手を突っ込み、闇に消える。暗い田舎道にGT-Rだけが残される。
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