第209話 好きだから
メーテさん達が【落書き】の後を追うのを見届けると、私は【キメラ】へと視線を移す。
「覚悟……覚悟は出来てる」
そう。覚悟はできている筈だった。
だけど、多少見た目は変わっているとはいえ【キメラ】の見た目は人間と大差がないのだ。
忌避感を覚えないといえば嘘になる。
「お前らッ! ぼさっとしてんじゃねぇッ!
個体差はあるみたいだが雑魚じゃねぇ! 俺とグスタフの爺様で捌き切れる数じゃねぇんだ!
酷かもしれねぇけど、救援が到着するまでお前達にも気張って貰うぞッ!」
オーフレイムさんはポルタ伯爵を相手取りながら声を張り上げる。
私達と一緒に、正門前に配置された冒険者達が救援を呼びに行っていることを考慮しての指示だ。
「子供達の手を汚させたくは無いが……そうも言ってられそうに無いな」
そう言ったのはグスタフ副学園長。
先程から初級魔法や中級魔法を駆使して応戦しているようだけど、昔ながらの王道な魔法使い――後方からの火力支援を得意としているようで、物量に追いやられ始めている。
「ふぅ……あいつは【キメラ】あいつらは【キメラ】だ!」
「メーテさんも言ってただろ、ああなった以上は助けられないって……だからアルベルト、覚悟を決めろ!」
そのような声が届いたことで耳を傾けてみれば、自分に言い聞かせるかのような言葉を呟くダンテとベルト。
「何を一番に置くか考えるにゃ! ここで食いとめなきゃ被害が広がるにゃ!」
「ええ、どうやら【覚悟】というヤツを決めるしか無いようですわね」
先日のメーテさんの言葉が胸に根付いているのだろう。
ラトラとコーデリア先輩は、メーテさんの言葉を引用することで己を鼓舞しているようだった。
そして、友人達の言葉を聞いた私は、ヤーの反応を窺ってみる。
「やっぱり殺す訳にはいかないよね?」
すると、アルに対する気遣いとも取れる言葉を口にするヤー。
「じゃあ、始めようか」
そんな言葉と口にすると【キメラ】達との距離を詰め、背後へと周り込む。
「がふっ!? きゃうぅん!?」
「中位の魔物って言ってたけど……左程かな?」
コボルトに似た【キメラ】の足の腱を斬りつけ、落胆とも取れる言葉を口にするヤー。
続いて、他の【キメラ】へと視線を向けたヤーは、瞬く間に【キメラ】の懐へと潜り込むと、喉を掴んで地面へと叩きつける。
その事により【キメラ】は意識を分断されたのだろう。
【キメラ】は地面に横たわりながら、指先だけをピクピクと痙攣させていた。
だけど、ヤーの猛攻は止まらない。
「一体一体を相手にするのは面倒だな……ということで【紫電】」
そう言うと、宙に四つの【紫電】を浮かせるヤー。
まるで、踊らせるかのように指を動かすと、次の瞬間には四体の【キメラ】の意識を奪った。
「す、凄い……」
その様子を見た私は、感嘆の声を漏らす。
実際、アルの戦いは何度も見ているし、強いということは充分に理解していた。
だけど、私が見てきたアルの強さというのは相手に対する遠慮――或いは配慮というものが含まれた上での強さだったのだろう。
人を傷付けることに対して抵抗の無いヤーの動きは、普段よりも磨きが掛かっているように感じられた。
そして、傷つけることを厭わないアル……いや、ヤーは強い。
本来、相手を殺さず、それでいて行動不能にするには相応の実力差が求められる筈だ。
更には、人から逸脱した【キメラ】であれば行動の予想もしにくい筈。
しかし、今のヤーにとっては、そんな弊害など有って無いようなものなのだろう。
「いち、にの、さん――あっと、一体取りこぼしちゃった」
まるで、遊戯の延長であるかのように【キメラ】達の意識を次々と奪っていき、私はその姿を見て呆気に取られてしまう。
だけど、呆気に取れている場合では無い。
そんな私の眼前にも脅威は迫っていた。
「ぐぎゃあッ! ぎゃっ!」
私へと視線を向け、喉を鳴らして威嚇する【キメラ】。
魔物化の兆候が顕著に表れているようで、鋭く伸びた両手の爪をカチカチと擦り鳴らした。
「ぎゃぎゃッ!!」
【キメラ】は右手を突きだすような形で跳びかかる。
「――つッ!」
私が想像した以上の速度があった為、私は慌てて身を捻る。
しかし、大きく振るわれた【キメラ】の爪は、私の頬の薄皮を裂いた。
そして、頬に少しばかりの痛みを感じる中、私は僅かに顔を顰める。
別に痛みを覚えたから顔を顰めた訳ではない。大振りな動きゆえに【キメラ】が隙を作ったからだ。
脇を突く? 首を薙ぐ? それとも頭を割る?
どの選択肢も容易に行えることに加え、どの選択肢を選らんだとしても【命】を奪うことに繋がる。
私が顔を顰めたのは、不意に命の選択を迫れたからに他ならない。
冷たい汗が瞼の横を通過していく。
やけに喉の奥がひりつき、握った柄が汗でヌルリと滑る。
心臓は信じられないほど脈打ち、まるで私を後退させるかのようにドンドンと叩くけど……
だけど……私の【覚悟】は既に決まっていた。
「悪いけど、この隙を見過ごすわけにはいかないの……」
私は剣の柄をギュッと握り込むと、心臓に届くような角度でわき腹から剣を突き刺す。
「くっ……ぎっ……」
皮膚をブツリと貫く感覚。
筋肉をブチブチと裂く感覚。
弾力のある臓器に剣先が泳がされそうになる感覚。
それらの不快な感触に堪えるようにして、奥歯を強く噛む。
「ぐぎゃ!? ぐぎゃぁあああああっああッ!?」
私を睨みつけながら断末魔の悲鳴をあげる【キメラ】。
その目は憎しみが含まれているかのようで、悲鳴からは怨嗟の念すら感じられる。
それは酷く罪悪感を掻き立てるもので、思わず顔を逸らしてしまいたくなる程のものだった。
「恨んでるんでしょうね……こんな姿にした【落書き】も、殺そうとする私のことも……」
それでも、私は顔を逸らさなかった。
私は心に芯を入れると、気圧されてしまわないように目に力を込める。
「許さなくていい。恨んでくれてもいい。
だけど、これだけは伝えておくわ……貴方達の仇はきっとメーテさん達が討ってくれる。
正直、他力本願だし、今の貴方にとっては意味の無いことなのかもしれないけど……この言葉が、少しでも手向けになることを祈っているわ」
私はグッと手足に力を込める。
「だから……どうか安らかな眠りを貴方に……」
その言葉と共に、更に剣を押し込んだ。
「ぐ……ぎゃ……」
その事により、心臓へと剣先が届いたのだろう。
何かを貫くような感触を憶えると同時に、【キメラ】の瞳から光が失われて行く。
そして、【キメラ】の瞳から完全に光が失しなわれる間際――
「あ……ぎゃぎゃっ……とぉ」
きっと、これは私にとって都合の良い聞き間違いなのだろう。
【キメラ】が溢した最後の言葉は、何処か感謝の言葉のように……そのように聞こえた。
一体の【キメラ】に止めを刺してあげることは出来た。
しかし、未だ数十体の【キメラ】が存在している。
オーフレイムさんは【キメラ化】したポルタ伯爵と応戦中だし、グスタフ副学園長も余裕があるようには思えない。
少なくても数体の【キメラ】に、私の手で止めを刺すことになるのだろう。
そのように思うと、思わず気が滅入ってしまいそうになるけど、そうも言ってはいられない。
私は【キメラ】から注意を切らさないようにしながらも、状況を整理する為に皆の様子を窺う。
「ああっッ! 胸糞悪りぃ真似させやがってッ!」
「想像していた以上に受け入れ難いものがあるな……」
「んにゃ……やっぱり良い気分はしないにゃ……」
「ですが、それでも誰かがやらなければいけないことですものね……
それを他人に押し付けるのでしたら、自らの手を汚しますわ」
顔や腕。身体の一部を【キメラ】の返り血で汚しながら、隠すこと無く胸の内を吐露する友人達。
そんな友人達の前にはピクリともしない【キメラ】が横たわっている。
各々、思う節はあるようだけど、どうにか【キメラ】に止めを刺す事ができたようだ。
ともあれ、かすり傷などは見受けられるものの、目立った外傷が無いことに胸を撫で下ろす。
楽観することはできないけど、皆の実力をもってすれば、悲観するまでには至らないように思えた。
だからこそ皆から視線を切り、目の前の【キメラ】に集中することを決めたのだけど……
「皆が頑張ってるのに、僕だけ殺さないのはずるいかな?」
ヤーがそんな言葉を呟いた事で、私は目を見開く。
「ヤーッ!! アンタは……褒められたもんじゃないけど【キメラ】を殺さないように立ち回って!」
実際、ヤーが殺す気で動いたなら状況は大きく好転するだろう。
ヤーには無詠唱での【雷轟】や【精霊魔法メルキア】などが使用できる。
相手を殺す気で使用したならば、恐ろしい程の効果を発揮するに違いない。
だけど、私はそれを良しとしない。
ヤーが口にしていたように、【キメラ】を殺したことでアルにどのような影響が出るか分からない。
後輩達の死を目撃したことで、精神に異常をきたしてしまったのだ。
【キメラ】――元は人間を殺してしまった事で、更に心を閉ざしてしまう可能性もある。
アルの心情を思えば、【キメラ】を殺させる訳にはいかなかった。
しかし、そんな私の考えを他所に――
「う〜ん。やっぱり殺すべきなんだろうね」
ヤーは喜ばしくない決断を下す。
「ヤーーーーーッ!! アンタは余計なことしないでっ!!」
私は声を荒げる。
「ソフィア? ちょっと怖いよ?
でも大丈夫。友達だけに辛い思いはさせないからさ」
だけど、私の忠告を無視しようとするヤー。
足の腱を斬られ、身動き取れなくなった【キメラ】に向けて剣を振り下ろそうとする。
「ざっけんなッ!!」
そしてその瞬間。私は駆けた。
「……ソフィア? 何してんの?」
「五月蠅い……うぷっ」
不思議そうに尋ねるヤー。
そんなヤーの目に映っているのは、身動きが取れなくなった【キメラ】の背に、剣を突き立てる私の姿に違いないだろう。
咄嗟の行動で、人の命を奪う準備ができていなかった為に、胃と食道が悲鳴をあげる。
「ちょっと〜……何で邪魔するのさ?」
ヤーはそう言うと、私が相手しようとしていた【キメラ】へと狙いを定めて突きを放つ。
「貰った」
「させないわよッ!」
しかし、私はアルの剣を下から弾き上げることで阻止してみせる。
次いで【キメラ】の心臓に狙いを定めると、ズブリと【キメラ】の胸を突いた。
「んもぅ……邪魔しないでよ……
でもまあ、まだ身動きの取れなくなった【キメラ】はいるから良いか……」
ヤーは不貞腐気味に呟くと、地面に転がされた残りの三体のキメラへと視線を送り――
「……あ〜あ。何してくれるのさ……」
落胆の声を漏らした。
それもそうだろう。
何故ならヤーが視線を送るとほぼ同士に、私が三体の【キメラ】の胸を突いたのだ。
キメラを殺そうと考えていたヤーが落胆の声を漏らすのも充分に理解することが出来る。
「ねぇソフィア……意地悪するのやめてよ?」
口を尖らせながら尋ねるヤー。
だけど、私に答える余裕など無かった。
何故なら、【キメラ】という異形とはいえ、人の顔をした者の命を立て続けに奪ったのだ。
【キメラ】達の苦悶の表情は頭に焼き付き、怨嗟の悲鳴は私の精神を容赦なく揺さぶった。
だからだろう。
「おえッ! かはっ……ごほっ……けひゅ」
情けないことに、朝食の一部を吐き出してしまう。
「あ〜あ。吐くくらいなら僕に任せれば良いのに……
ひょっとしてだけど、吐いてまで邪魔をしたいってこと?」
そんな私の姿を見て、そのような言葉を口にするヤー。
「まあ、それは別として」
気が付けば私の後方に【キメラ】が迫ったいたようで、そのキメラへと視線を向けた。
「ちょっ――待ちなさいよッ!!」
「待ちませんよーだ」
制止の声を無視して、突きの構えを取ったヤーは腕を伸ばすのだけど、私は吐いてしまった所為で、僅かに反応が遅れてしまう。
剣を叩き落とすべきか? それともアル自身に攻撃を加えて剣の軌道を逸らすべきか?
私は、ヤーの剣が【キメラ】の命を奪うまでの限られた猶予の中で思考を巡らせる。
だけど……もっとも成功率が高い案は、既に頭の中で弾き出されていたのだろう。
「ソフィア? そこまでボクの邪魔をしたいの?」
私はヤーと【キメラ】の間へと身体を滑り込ませると、ヤーの剣を左の肩口で受け、開いていた右手で剣を振り、【キメラ】の首を落とした。
痛い、熱い、痛い、熱い、痛い。
肩を襲う激痛に耐えながらもヤーに顔を向ける。
私が視線を向けると、困ったような表情を浮かべるヤー。
そして、困った表情そのままにこのような言葉を告げた。
「ソフィア? もしかしてだけど……ボクのこと嫌い?」
その瞬間。私の中で何かが弾ける。
「誰が! 誰が嫌いなんて言った!?
言ってないでしょ! 嫌いなんて一言も言ってない! 一言も言って無いわよッ!!
私は……私は……アルの事が大切だから……アルの心がこれ以上壊れるのが嫌だっだからッ!
だからッ! だから殺したのよッ!!」
私は、身勝手で冷たい女なのだろう。
あんなにも殺すことに対しての葛藤があったというのに、アルの為に――という欲求が勝ったのだ。
それでも苦しくない訳では無い。
吐き気を催す程の罪悪感。
実際に吐く程の罪悪感に堪えながらも、アルの心を守る為に【キメラ】の命を奪ったのだ。
なのに、その言葉はあんまりだ。
私は泣きそうになるのを我慢する為に、唇を強く噛む。
だけど、そんな私を他所にヤーは口を開く。
「アル、アル、アルね〜。まあ、僕にとってもアルは大切な存在だけどさ〜。
でも、肝心な所で心を閉ざしちゃうような弱い人間だよ?
ボクだったらもっと上手くやれると思うんだけどな〜。
というかソフィアも思ったんじゃない? あんな温い判断をするアルよりも僕の方が強いって?」
私はその言葉を聞き、その通りだと思ってしまう。
アルの心は決して強くないし、アルと比べたらヤーは強い。
子供のような思考だということを差し引いても、アルから甘さや優柔不断な部分を取り除いたヤーという存在はアルよりも強いのだろう。
だけど……それでも……
それでも、甘くても優柔不断でも、そんなアルが好きなのだ。
そして、そう思った瞬間。
私は堪えていた感情や、思いに蓋ができなくなってしまい――
「わだじは……そんなアルがすぎ……
甘ぐて……ゆーじゅーふだんでもアルがずきなの……
だがら……だから……アルをがえしてよぉ」
私は涙と共に思いを吐き出していた。
「ソ、ソフィア?」
ヤーの狼狽えた声を聞きながら、一歩、また一歩とヤーの元へと歩み寄る。
そして私は、ヤーの胸をトンと叩く。
「アル! こごに居るんでしょ!?
づらいのは分かる! くるじいのも分かる!
だけど、それはみんなも一緒だよぉ!
ぐるじいならわたじがきょーゆーする! づらいならわたじがささえてみぜる!
だから……だがら……」
心の扉を開いて欲しくてトン。またトンとノックする。
「だがらぁ……もどってきでよアルゥ……」
私はヤーの――アルの胸に頭を埋めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『だってさ? 聞こえてた?』
「……うん。聞こえてたよ」
『いつから目覚めていたんだい?』
「いつからだろう……
ずっと起きていたような気もするし、ずっと寝ていたような気がするよ」
『へぇ、都合が良いね?』
「そう苛めないでよ……意識がハッキリしたのは今さっきなんだからさ……」
『そっか、それはやっぱりソフィアの言葉のおかげかな?』
「多分、そうだと思う」
『……ソフィアは良い子だからね。いつだってあの子はアルのことを考えてくれているよ』
「そう……なんだろうね」
『歯切れが悪いね? アルもさっきの言葉を聞いていたんだろう?』
「ま、まあ……ね?」
『ハッキリしないな……だいたい、自分の気持ちにも薄々気付いているだろう?』
「な、何のことだろ?」
『……アル、それは誰の為に惚けているんだい?
ソフィアの為? いや、自分の為だろ? この言葉の意味は分かるよね?』
「は……はい。分かってます」
『だったら無理に蓋をする必要はない』
「でも、年齢差を考えると……」
『下らないね。この世界では長寿種というものが存在する。
年齢を気にする人もいるのは確かだけど、見た目の年齢で判断しない人も多いらしいじゃないか?」
「……そうらしいね」
『アルは本当に面倒臭い性格をしているよ……
まあ、それは置いておくにして……どうするつもりだい?』
「……うん。正直、エイブン達の死を受け入れられない部分は残ってる。
だけど、僕は表に出ることにするよ」
『要するに、ボクはお役御免ということでいいんだよね?』
「そうなるかな」
『そっか……でも覚悟はしてる?
世界には怖いことが沢山あるよ? この世界はアルが居た世界の常識から外れている。
エイブン、ビッケス、シータを亡くしたような理不尽が待ち構えているかもしれないし、アル自身が手を汚すような場面だってきっとある。
現に、今アルが表に出らたら……言わなくても分かるよね?』
「分かってるよ。此処から出れば【キメラ】――そして人の命を奪うことになるだろうね」
『それが分かっているなら何故? 此処に居れば傷つかなくて済むんだよ?』
「くだらない動機に思われるかもしれないけど……ソフィアの泣き顔を見たくないからかな?」
『話が戻った気がするけど……あまりに動機が不純すぎないかい?
悪人を許せないとか、人々を守りたいって言った方が好感が持てるように思えるよ?』
「そういう気持ちは確かにあるよ。でも、それって欲張りな気がするんだ」
『欲張り?』
「うん。僕はそれが過程であれば良いと思っている。
大切な人を脅かすから悪人を許せない。
大切な人が含まれているから人々を守りたい。
欲張りな目標を主体に置けるほど、僕の手の届く範囲は広くは無い」
『なんか、消極的な気がするけど……』
「実際、そうなんだろうね。
僕の考え方は英雄的思考じゃない。臆病者の思考だ」
『男なんだからもっと格好良い言葉を口にしても罰は当たらないと思うよ?』
「そんな柄じゃ無いよ」
『そうなのかな?』
「うん。手に届く範囲を守れないようじゃ、どの道妄言で終わっちゃうからね。
だから――」
『だから?』
「今は手の届く範囲を守りたい。
それは、好きな女の子に涙を流させているようじゃ叶う筈もないでしょ?
それに、こうやって手の届く範囲を守り続ければ、その内、世の中さえも変えていけると思うんだ」
『……前言撤回。やっぱりアルは欲張りだよ』
「そうかな? だからさ――ソフィアの涙を止めに行くよ」
『そっか……アルがそう言うならボクは止めないよ』
ヤーはそう言うと、優しげに笑う。
「って言うか……わざと子供っぽく振舞ったり、嫌な奴を演じてたでしょ?」
『さて、何のことだい?』
「ヤーが僕のことを理解しているように、僕もヤーのことを理解してる。
皆からの反感を買うことで、僕が戻りやすい環境を崩さないでくれていたのはなんとなく分かってるよ」
『どうだろうね?』
「ヤーには嫌な役をやらせちゃったね……」
『……まあ正直、ソフィアには悪い事をしたと思っているよ』
僕達はそんな会話を交わすと、お互いにバツが悪そうに笑みを浮かべる。
「――じゃあ、そろそろ僕は行くよ」
『ああ、いってらっしゃいアル』
「ところで、ヤーはどうなるのかな?」
『それは分からないな。
このまま消えるのか? それともまた魂の器に収まるのかは神のみぞ知るっていう感じかな?』
「そっか……」
『そんな残念そうな顔しないでよ?
ボクはアルの記憶であり感情だ。完全に消えるということは有り得ないからね』
「じゃあ、これからも一緒ってことなのかな?」
『神のみぞ知るっていっただろ?
何はともあれ、どのような結果が待ち受けていようとボクの役目はここまでさ。
バトンタッチだよアル』
そう言ったヤーは拳を突き出し、僕はそっと拳を合わせる。
――コツン。
実際にはそんな音などせずに、拳はすり抜けてしまったけど、確かに拳が触れあうような感覚を憶えた。
『もう一度言うよ――いってらっしゃいアル』
「うん。行ってくるよヤー」
薄れていく景色の中、僕達は再び微笑み合った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
私はアルの胸に顔を埋めた。
それは時間にしたら数秒にしか満たない出来事だったけど、この場ではその数秒が命取りになる。
私はアルの胸から顔を離すと、慌てて周囲の警戒を始める。
ズキリズキリと肩口が痛む。
だけど、その痛みに耐えると、私は迫りくる【キメラ】へと視線を向けた。
「やらせないッ!」
私はヤーが行動に移す前に、【キメラ】の命を奪おうとする。
しかし、その瞬間だった。
「ソフィア……辛い思いをさせちゃってごめんね。後は僕に任せて」
そんな声が耳へと届いた。
私が慌てて振り返ると、目に映ったのは、情けなくも愛嬌のある微笑み。
「これが僕の【覚悟】だ」
次いで聞こえたのは、それらを払拭する頼りがいのある声で、その言葉と共に一体、そしてまた一体と【キメラ】の胸が剣に貫かれた。
そして、その光景を見た私は確信と再確認をする。
――私は身勝手で冷たい女なのだと。
だってそうだろう。
たった数日間の間だったかもしれないけど、共に行動を共にした相手が居ないことを悲しめないのだ。
それよりも私の胸を満たしたのは喜び。
この数日で見慣れたた笑みでは無く、情けなくも愛嬌のある微笑みを見れたことが、どうしようもなく嬉しいのだ。
「アルゥ……おがえりぃ……」
私はしゃがれた声で、大好きな人の名前を呼ぶ。
「ただいま。ソフィア」
やっぱりその微笑みは、何処か情けなく感じたけど……
それでも、私はこの微笑みが――この微笑みじゃなければ嫌だ。
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