第206話 理想を語るには

 時間は同時刻より数ヶ月ほど遡る。

 【落書き】ことメアレス=ファレスは学園都市での実験準備が整うと、とある場所へと足を運ぶことにした。


 そうしてメアレスが訪れたのは、学園都市の中心からやや外れた場所に存在する貧民街。

 学園都市は比較的裕福な土地で、一見貧民街などとは無縁のようにも思えるのだが……

 やはり裕福な土地といっても、その社会に適応することが出来ない者が一定数は存在するものなのだろう。


 借金で身を崩す者や、学園都市という場所に夢を見て破れさってしまった者。

 貧民街に身を落とした理由は人それぞれではあるのだが……

 今日の食事すらままならない。そのような者達が一つ処に集まることで形成された共同体――貧民街という場所は、ここ学園都市にも確かに存在していた。







「さて、そろそろ始めることにしましょうか?」



 場所は貧民街。そう言ったメアレスの前には大量の食料と調理器具が並べられている。



「ウディさん? 野菜はもう少し細かく切って貰えますか?

ジュリエットさんは……あ〜……鍋の用意とか、住民たちの誘導をお願いできますかね?」


「ちっ……素直に料理の邪魔だって言ったらどう?」


「ジュリエットさんがそう言うのであれば……

では、料理の邪魔になるので他の作業をお願いしても良いですかね?」  


「……あんたは歯に衣を着せるってことを覚えた方が良いわよ?」


「ジュリエットさんが素直に言えって言ったんじゃないですか……取り敢えずは善処させて頂きますけど……

まあ、それはさて置き。さっさと調理を始めちゃいましょうか?」



 解せないといった表情を浮かべるメアレスであったが、すぐに当初の目的を思い出したのだろう。

 メアレス達は鍋に水を満たすと火にくべ、一口大に切った野菜や豚肉などを放り込んでいく。

 すると、周囲には食欲をそそる匂いが漂い始め、その匂いに釣られるようにして貧民街の住人達が建物の影から顔を覗かせ始めるのだが……



「あ、あんた達……一体どういうつもりだよ?

こんな場所で旨そうな匂いを漂わせやがって……い、嫌がらせのつもりかよッ!?」



 調理を始めたメアレス達に対して非難の声が上がる。


 しかし、それも当然といえば当然の事なのだろう。

 何故なら貧民街の住人の中には、数日間に渡って水しか口にしていない者も少なくない。

 運良く食事にありつけたとしても下水道を這いまわる鼠や、茂みから顔を覗かせた蛇程度で、到底腹を満たせるような食事量では無かった。


 そんな住人達の前で、豚肉や野菜が大量に入ったスープをこれ見よがしに調理し始めたのだ。

 住民達が非難の声を上げてしまうのも仕方が無いことだし、その気持ちも理解し難くは無い。



「兄ちゃん達! 嫌がらせだったらとっとと失せてくんねぇかな!?

それでも失せないっていうんだったら……保証はしねぇぞ?」



 再び非難の声を上げる貧民街の住人。

 それはメアレス達に対する忠告である一方で、脅しの要素も含まれている。

 加えて、更に言葉の裏側を読み取ってみれば――


『忠告はした。それでも失せないのであれば、それは自己責任だ。

そして、このまま忠告を無視するのであれば、遠慮なくこいつらから略奪することができる』


 ――といった、仄暗い思考さえ含まれていた。


 貧民街の住人達はピリピリとした空気を漂わせる。

 べた付いた頭髪に、継ぎ接ぎだらけの襤褸布。こけた頬に、妙に血走った眼球。

 それらが相俟って、まるで地底から這い出てきたアンデットと見紛うてしまいそうになる。


 メアレスの発言次第では、衝突は必至といった状況。

 しかしそんな中、メアレスが口にした言葉はというと?



「え? 失せませんけど?」



 火に油を注ぐような言葉だった。



「言いやがったな……忠告を無視した兄ちゃん達が悪りぃんだからな……」



 メアレスの言葉を聞き、貧民街の住人は言質を取ったとばかりに一層目を血走らせる。

 そして、各々が木の棒や錆びたを手に取ると。



「お前らッ! こいつ等を襲えッ!」



 リーダ格の男が指示を出したのを切っ掛けに、メアレス達に襲いかかろうとするのだが……



「物騒な真似をしなくても大丈夫ですよ?

この食料は始めから貴方達の為に用意したんですから」


「……は? 俺達の……為だって?」



 メアレスがそう告げたことによって、住民達は足を止めることになる。



「そうです。所謂炊き出しというヤツですね」


「炊き出し? ……って事は俺達が食って良いのか?」


「先程も言ったでしょ? この食料は貴方達の為に用意したんだと」



 メアレスの言葉の意味をすぐには飲み込めなかったのだろう。

 貧民街の住人達は、呆けた表情を浮かべ顔を見合わせる。

 しかし、数秒かけることで言葉の意味を噛み砕くことができたようで、周囲から聞こえる声に喜色が含まれていく。



「た、炊き出しだってよ!? おい、子供達を呼んで来い!」


「ほ、本当に炊き出しなの!?」


「ははっ、飯だ! 三日ぶりに固形物が食える!」



 襲おうとした事を忘れしまったのだろうか?

 現金なことに、喜びを露わにして鍋へと群がりはじめる貧民街の住人達。

 われ先にと駆け出す姿に、混乱は必至かとも思われたのだが。



「並べ! 並べないヤツには野菜くずさえ与えるつもりは無い!」


「最低限のルールも守れないヤツには塩の一粒さえも与えないわよ?」



 ウディとジュリエットが一喝すると、住人達は思った以上の従順さを見せ、規則正しく鍋の前に列を作ることになった。






 そうして、炊き出しを終えたメアレス達。



「どうです? 美味しかったですか?」


「あ、ああ。さ、さっきは悪かったな……」


「いえいえ、何の説明も無く炊き出しを始めた僕達の不手際です。

こちらこそ申し訳ありませんでした」


「よ、よしてくれ!? こんな旨い飯を食わして貰ったのに頭を下げさせる訳にはいかねぇよ!

こっこそ本当に悪かった! 許してくれ!」



 そのような会話を交わすと、お互いが頭を下げ合うという奇妙な光景を作りだした。


 ともあれ、お互いに頭を下げ合っていても埒が明かないと判断したのだろう。

 メアレスは頭を上げると話題を変えることにした。



「ところで、お腹の方は膨れました?」


「腹か……膨れるには膨れたが……少し物足りないというのが本音だな。

い、いや、文句をいってるわけじゃねぇんだ! 固形物を腹に入れたのは数日振りだし、満足した事には変わりねぇんだが……」


「どうしました?」


「出来ればスープよりも、食いごたえがある物が食いたいっていうのがあってだな……」


「ああ、成程。胃に優しそうなものをと思って用意させて頂いたのですが……それもご尤もな意見ですね」


「そ、そうだろ!? こう脂が滴る肉とかにかぶりついてよぉ――やべっ、よ、涎が!?」


「そういうことでしたら、次回は食べごたえがあるものを用意しましょうかね?」


「へ? どういうこった?」


「そのままの意味ですよ?」


「ま、また炊き出しをやってくれる……って事か?」


「ええ」



 メアレスがそう言うと、貧民街の住人は目を見開くと同時に地面に膝を着いた。



「ほ、本当かよ……ありがてぇ……本当にありがてぇよ」


「大袈裟ですよ。毎日とはいきませんし、出来たとしても週に一度程度なんですから」


「それでも! それでもだよ!

俺達に手を差し伸べてくれるヤツなんて居なかったんだ。嬉しくて涙が出ちまいそうだよ!」


「だから大袈裟ですって?」



 膝を着いたままに目頭を抑え始める貧民街の住人達なのだが……その言葉には嘘が含まれていた。

 実際のところ、貧民街の住人達を援助しようという働き掛けが一時期はあり、炊き出しや仕事斡旋を続けた結果、一部の住民達は社会復帰することにも成功していた。


 だというのに、『手を差し伸べてくれない』などと口にするのだ。

 このように人の善意に疎いからこそ、この男は貧民街に身を落としてしまい、この男と似たような思考の持ち主が多数存在しているからこそ、援助が打ち切られてしまい、見限られてしまったのだろう。


 ともあれ、メアレスからすればそのような事情は些事ですら無い。

 感激に打ち震え、感謝の言葉を口にしながらぎゅと手を握る男に笑みを向けると――



『汚いなぁ』



 心底そう思うのだった。






 その後もメアレス達は貧民街へと通い、週に一度の炊き出しを数ヶ月に渡って続けていた。

 この頃には貧民街の住人もメアレス達に心を開くようになっており、メアレス達が貧民街を訪れると、まるで旧知の友人が訪ねたかのような笑顔を向けるようになっていた。


 そして、学園が前期休暇を迎えようとする半月ほど前。

 この日はいつに無く大量の食糧を用意し、炊き出しを行うことになった。



「全員集まりましたか?」


「ええ、病に伏せている者は流石に無理でしたが、それ以外の人達は全員集まってると思いますよ」


「来れなかったのは何人くらいですか?」


「確か、八人程度だった思いますが……何か問題でも?」


「いえ、折角の食事なんですから食べられないのは可哀想でしょ?

来れなかった人の分も取り置きしてあげようかと思いましてね」


「な、成程……流石【メイヤー】さんはお優しい」


「ははっ、褒めても何も出ませんよ?」


「べ、別にそう言うつもりは……」


「本当は?」


「へへっ、実はちょっとでかい肉をよそって貰えるかなって思いました」


「まったく、しょうがない人ですね? 皆には内緒ですよ?」


「流石メイヤーの兄さん! 話が分かってらっしゃる!」



 嬉しそうな様子で【メイヤー】という偽名を口にする貧民街の住人。

 そのようなやり取りを交わすメアレス達の前には、百名程の住人達の姿がある。



「それでは、頂きましょうかね?」



 メアレスが食事の挨拶をすると、住人達はがっつくようにして炊き出しのシチューを口へと運び、続けてパンを口に運ぶ。



「うまっ! この濃い味付けがたまんねぇぜ!」


「今日は一段と贅沢ね? パンもフカフカよ」


「本当に……本当にメイヤーさんには感謝してもしきれんよ」


「本当ね。私達にとっては神様のような存在だわ」



 続けて聞こえてくるのは弾んだ声で、メアレスはそんな住人達の姿を見て笑みを溢す。

 住人達も釣られるようにして笑みを溢し、和やかな空気の中で食事は続けられたのだが……


 残り僅かとなったシチューを余すことなく堪能しようと考えたのだろう。

 住人の一人が器をパンの欠片でなぞり、シチューが染みたパンを口へ運ぼうとしたその時だった。



「最後の晩餐はどうでしたか? 味わって食べることができましたかね?」



 メアレスは、にわかに理解し難い言葉を告げる。



「へ? メイヤーさん一体何を?」



 そして、住民の一人が頭に疑問符を浮かべて尋ねたのとほぼ同時に。



「ぐッがあっあああああッ」


「ひぐっうう」


「かはっ!? がはっ!?」



 貧民街の住人達が、苦悶の声を漏らし始める。



「お、お前ら!? どうしたんだ!?

メ、メイヤーさん!? い、一体何が起こってるんですか!?」



 住人達の様子を見て、慌てた様子でメアレスへと詰め寄る男性。

 メアレスはそんな男性に対して、冷たく、淡々と言葉を返した。



「何が起こっているかといいますと、毒を喰らって苦しんでるんだと思いますよ?

ああ、でも心配しないで下さい。毒といっても致死性の毒ではありませんから。

ちょ〜っと、脱水を起こしたり、吐き気を催したり、糞尿が止まらなかったりして身体が動かなくなる程度ですので」


「ど、毒? へ? はあッ!?」


「いやぁ、実に楽しかったですよ。

貴方達の協力があったおかげで、衰弱するのに適度な毒の分量というものを理解することができました。

まあ、八人の誤差が出てしまったようですが……許容範囲といったところでしょうかね?

何回も炊き出しをした甲斐がありましたよ。はい」


「な、何を言ってるんだメイヤーさん……」


「何を言ってるって……聞こえて無かったんですか?」


「そ、そうじゃない! 毒ってなんですかッ!?

八人って……病に伏せっているヤツはメイヤーさんの所為だっていうですかッ!?」


「その通りです」


「ななな、何でそんなことを!?」


「何でって、実験の為に決まっているじゃないですか?」


「じ、実験……?」


「ええ、貧民街の住人というのは身寄りも無く、社会から爪弾きにされた人間が多いですからね。

失踪したところで誰も気に留めませんし、こちらとしても足がつきにくいので実験体として重宝するんですよ。知りませんでしたか?」


「は。ははっ……お、俺は分かってますよ? これは冗談ですよね?

優しいメイヤーさんがそんなことする筈が無い……ねぇ、そうでしょ?

嘘だって言ってくれよメイヤーさんッ!? アンタは俺達に手を差し伸べてくれた善人の筈だろッ!?」


「善人っていうのは貴方の勘違いですよ? どちらかというと悪人ですから。

……というかですよ? 知らない人から貰ったものを食べちゃ駄目だって習わなかったんですか?

ああ、そういった当たり前の事を守れないから貧民街に身を落としてしまったんでしょうかね?

そう考えれば納得のできる話です」


「そ、そんな……メイヤーさん……」


「ちなみにですが――メイヤーって誰ですか?」



 メアレスが悪戯気に笑うと、男性は反論する気を失うと共に、意識を保つ気力さえ失ってしまったのだろう。

 崩れ落ちるように膝を着き、ドサリと地面に倒れ込んだ。


 そして、そんな男性から興味なさそうに視線を切ったメアレス。



「さて、住民達を運ぶのも面倒ですが……そういう訳にはいきませんしね。

適当な建物に放り込んだ後で、じっくりと実験に利用させて頂きましょうか」


「それは構わないんだが、この場にいなかったヤツらはどうするつもりだ?」


「ん〜面倒ですし、殺しちゃいましょうか? ウディさんお願いしてもよろしいですか?」


「ああ、了解した」


「実験は良いけど……こいつらの管理はどうするのよ?

百人近く居るし、流石に全員を管理するのは無理があるんじゃない?」


「流石に無理ですね。だから管理はしませんよ」


「管理しない? それってどういう意味?」


「それはですね――」



 ジュリエットが疑問を口にすると、メアレスは懐を探って無色の魔石を取り出す。



「ただの魔石じゃない?」


「本当にそうでしょうか? よ〜く見て下さい」



 ジュリエットは勿体ぶるメアレスに対して、多少の苛立ちを憶えながらも魔石を注視する。

 すると、魔石の中心を貫通するようにして穴が空いていることに気付いた。



「穴が空いているの?」


「正解です。これは魔石を加工した物なんですが、何故このようなことをするか分かりますか?」


「ちっ……勿体ぶってないでさっさと話しなさいよ」


「はぁ……連れないですね……

まあ、簡単に説明させていただくと、この穴が空いていることによって魔石が定着し【キメラ】化するまでの時間を調整することが可能になるんですよ」


「調整ね……だとしても管理は必要でしょ?」


「いいえ、魔石を埋め込んだ後は放置しても構わないんですよ」


「……要領を得ないわね。その勿体ぶった言い方どうにかならないの?」


「ははっ、どうも性分のようで……

兎も角、【キメラ】化の症状が現れるまで、住人達には好きなように過ごして貰うので管理の必要はありません。

時折様子を身に来る必要はありますが、それ以外の手間が掛かることはありませんのでご安心を」


「好きにさせるって……住人達が私達のことを吹聴したらどうするつもりよ?」


「念の為に偽名は使いましたが、それに関しても問題はありません」



 メアレスはしゃがみ込むと、目の前に倒れている男性の頭に手を置き、ブツブツと呟き始める。



「――はい、これで終了です」


「何をやったの?」


「魔力で脳を揺さぶってあげたんですよ。

ある周波で魔力を流すと脳が馬鹿になってしまうんですが、これを行ってしまうとまともな思考ができなくなってしまい、必要最低限の生きる為の行動くらいしか出来なくなってしまうんですよね。

既にこの男性の脳は馬鹿になっていますので、碌に会話をすることが出来ません。

従って、僕達の存在が漏れることも無いって訳です」


「……アンタ、それを身につける為にどれだけの実験をしたのよ?」


「そんなに多くは無いですよ? せいぜい十数人程度でしょうか?」


「協力している私が言うのもなんだけど……アンタ相当いかれてるわね」


「ははっ、お褒めにあずかり光栄です」



 ジュリエットの辛辣な評価に対して皮肉を返すメアレス。

 その姿を見て、ジュリエットは「はぁ」と溜息を溢す。



「で、管理の必要が無いことは分かったわ。

【キメラ】化してからはどうするの? 実験の対象として管理するの? それとも処分する?」


「いえ、その必要はありません」


「必要ありませんって……じゃあ、どうするつもりよ?」


「暴れて貰いますよ?」


「は?」


「実験の成果というものは、誰かに見て貰ってこそ価値が生まれますからね。

人間が魔物化した。そんな情報が国内外に広がれば実験の成果を――その実験を行った者に対して興味を持つことでしょう。

人間というものは残酷ですからね。

非人道的であると理解していても、僕の実験成果を欲する者は少なくは無い筈です。

そうして実験成果を欲した者に対して、貴女達ヴェルニクス教は対価を要求すれば良い。

僕は実験が評価され、ヴェルニクス教は利益を得られる。両者にとっておいしい話ですよね?

要は、商談の席を用意する為の下準備――学園都市を舞台にした品評会を大々的に行おうって訳です」



 メアレスの話を聞いたウディとジュリエットはゴクリと唾を飲む。

 そんな二人に対してメアレスはというと――



「やっぱり、あんたは相当――いえ、完全にいかれてるわ」


「ははっ、お褒めにあずかり光栄です」



 やはり皮肉を返すのであった。






 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆






「ひ、悲鳴!? 何処から!?」



 前後左右、至る所から悲鳴が上がり始めた事で、私は忙しなく視線を動かす。



「ちっ……やってくれたな仮面の連中とやらめ」


「メ、メーテさん!? 一体何が起こってるんですか!?」


「お、おい……な、なんかヤバそうな雰囲気だな……」


「メ、メーテ先生! 向こうから煙が上がっていますわ!」



 この状況を理解しているのか、メーテさんは忌々しげに舌を打ち鳴らす。

 対して、何ひとつ状況を理解することができずに私達が慌てふためいていると、その様子を見て説明が必要だと判断したのだろう。



「今から私の推測を聞かせるが、周囲の警戒だけは怠るなよ!」



 メーテさんは情報を共有するかのように、推測を口にし始めた。



「お前達も、先程の襤褸布を着た男を見ただろ?」


「は、はい」


「恐らくではあるが、あの男は貧民街の住人だ。

そしてそこから推測出来るのが、悲鳴の元凶が貧民街の住人にあるということだ」


「貧民街の住人がですか!? でも、流石に推測が飛躍しているような気が……」


「いや、この状況から推測するに、その可能性は非常に高い。

考えたく無いことだが、仮面の連中とやらは貧民街の住人を利用して【キメラ化】の実験を行ったのだろうな」


「実験を……?」


「ああ、貧民街という社会から隔絶された共同体では情報の出入りが乏しいからな……

こう言い方は好ましくないんだが……一人二人消えたところで消息を追う者は少ないだろう。

そんな環境であるからこそ、足がつきにくいと考え、実験の場に適しているとヤツらは判断したのだろうな」


「でも……そ、そんな……」



 メーテさんから聞かされた話はにわかに信じ難いもので、思わず否定の言葉を口にしそうになる。

 だけど、否定しきれないというのも事実で。


 そんな事をするような人間がいる筈がない。

 でも、仮面の連中だったら……


 私はそのような問答を繰り返し、どにかして状況を整理する為に思考を巡らせる。

 しかし、そうしていると――



「やだ!? やだ! なんで追ってくるのよッ!?」


「ぐぎゃ! ぐぎゃっぎゃっ!」



 妙齢の女性が路地裏から飛び出し、その後を追うようにして襤褸布の男性が路地裏から飛び出した。



「は、離しなさいよ! 痛いの! 髪が痛いんだってば!」


「げぎゃ! っぎゃ!」



 男性は奇声をあげながら女性の髪を掴むと、路地裏へと引きずり込もうとする。

 女性は頭を振り乱して必死の抵抗をするも、男性の膂力には抗えそうにも無い。



「その人から手を離しなさいよッ!」



 私は男性の言動と身なりを見て【キメラ化】した貧民街の住人であると察し、女性を助けるべく踏み出す為の力を足に込める。

 そして、一歩踏み出そうとしたのだけど。



「ソフィア。貴女は下がってなさい」



 目の前に手を差し出されたことで私の動きは制止されてしまい、その代わりにウルフさんが石畳を蹴って跳ねた。



「ごめんなさいね?」



 一瞬の内に男性との間合いを詰めるウルフさん。

 そのような言葉を口にすると共に、白魚のような指を空中へと滑らせ――



「げ……ぎゃっ?」



 男性の喉をぱっくりと裂いた。



「ひっ!?」


「なっ!?」



 血で襤褸布を染める男性。

 返り血を浴びて、その場から逃げだす妙齢の女性。

 腕を振ることで指先に付着した血を飛ばすウルフさん。

 そのような光景を見た私達は小さく悲鳴を上げる。



「ウ、ウルフさん……こ、殺しちゃったんですか?」



 次いで私の口から漏れたのは、致命傷ともいえる傷を与えたウルフさんに対する疑問。

 なにも殺すことは無かったのでは?

 そのように思えた為に疑問を口にしたのだけど、そんな疑問に対してウルフさんが口にした答えは。



「メーテが言ってたでしょ? こうなった以上は助からないって。

だったら、ひと思いに楽にしてあげるのが私なりの敬意ってヤツよ」



 救いの無い正論だった。



「救いなんて無いわ。だからメーテは地獄と例えたのよ。

【キメラ化】したとはいえ元は人間……これが戦争ならまだしも相手は被害者。

そしてこの様子だと【キメラ化】した被害者はまだまだいる筈……そして、私達はそれを殺さなきゃならない」


「で、でも……拘束して治療を行えば、もしかしたら助かる可能性だって……」



 私が恐る恐る反論すると、話を引き継ぐようにしてメーテさんが口を開く。



「拘束して治療か……ソフィア、それは叶わない願いだよ。

先程も伝えたが、こうなってしまった以上は治療をしたところで無意味だ。

それにだ。万が一の可能性に掛けて被害者の身体をこねくり回すのが正解とも思えんしな」


「で、ですが! やってみない事には」



 私がそう言うと、メーテさんは深く息を吐いた。



「――ソフィア。取捨選択を誤るなよ?

【キメラ化】した住人は確かに被害者でもあるが、加害者であることもまた事実だ。

【キメラ化】した住人を救おうとした結果、被害を拡大させてしまっては元も子もないんだよ。

残酷な選択なのかもしれないが……何を一番に置くかをよく考えるんだ」


「そ、それは……」



 メーテさんの言うことは理解することが出来る。

 【キメラ化】した住人を救おうとして、別の犠牲者を出してしまっては本末転倒だ。

 だけど【キメラ化】した住民も被害者であることは確かで……残酷な結末を迎えるのがあまりにも可哀想だった。



「そ、それでも! 助けてあげることは出来ないんでしょうか!?」


「ソフィア……」



 私が反論すると、メーテさんは困ったような表情を浮かべる。

 なんで、私はメーテさんの表情を曇らせてしまう事ばかり口にしてしまうのだろう?

 今日何度目かになるメーテさんの困り顔を見て、胸がズキリと痛むのを感じてしまう。

 そうして胸の痛みを感じていると――



「なぁソフィア? 理想というものを逃げ口上として使っていないか?」



 そう尋ねられたことによって、違う意味でズキリと胸が痛んだ。



「ソフィアの考えは尊重すべきだし、素晴らしい理想なのだと思う。

だが……時として理想というものは薬にも猛毒にもなるんだ」



 メーテさんは話を続ける。



「理想というものを持つことは確かに大切だ。

しかし、この場、この状況で考えるのであれば、人の命を天秤に掛ける覚悟も無く、人命を奪う覚悟が無い者の理想というものは、行動する者にとっての足枷にしかならないんだよ」


「わ、私は……」


「分かってるさ。ソフィアは純粋にそう思っただけで他意は無いのだろ?

それは、ソフィア自身の優しさの表れだろうし、ソフィアの長所でもあると私も理解している。

だが……理想を語るのであれば覚悟を持て」


「……覚悟」



 メーテさんは気遣うような言葉を選びながらも、現実というものを突きつける。



「理想というものは多くの者が共感し、多くの者が思い描く優しい世界だ。

そしてそれを語っている間はたいそう気持ちが良く、とても居心地が良いと感じる筈だ。

それもそうだろう? 確かに間違いを言ってる訳でないし、誰もが共感してくれるんだから居心地が悪いといえば嘘になる。


だが、数多くの共感が得られる理想が必ずしも正解だとは限らない。

誰もが共感しているのだから――そのような発想は一種の思考停止だ。

何が最善で何が最良であるかを、自分の頭でしっかりと考えなければいけない。


ソフィア、もう一度言うぞ?

理想を語るのであれば覚悟を持て。

共感に身を委ねるな。否定さえも受け止め、手を汚す覚悟をしろ。

理想を逃げ口上として使うな。理想というものは不覚悟に対する免罪符では無いのだからな。

それを理解せずに理想を語るのであれば、ソフィアの語る理想には説得力など皆無だ。子供の空想と変わらんよ」



 暴論とも思える厳しい言葉は、何故だか私の胸にスッと落ちた。

 不覚悟で語る私の理想というのは……誰かの足枷となる真綿のような悪意なのかもしれない。


 私は葛藤する。

 覚悟があると口にした場合、元は貧民街の住人である【キメラ】を殺さなければならない。

 そして、覚悟が無いと口にした場合……私は自分のことを心底嫌いになるんだと思う。


 それも当然だろう。

 自覚が無かったとはいえ、私は理想を語ることで不覚悟を誤魔化していたんだ。

 それはメーテさんの話を聞いたことで痛いほどに実感できたし、心の奥底では何処か気付いている部分があったようにも思える。


 だというのに、自分の不覚悟を棚に上げ、覚悟を持った人を問い詰めるような真似をしてしまったのだ……そんな自分を好きでいられる筈が無い。


 改めて思う。

 我儘を言ってメーテさん達に同行させて貰ったり、無理して肉料理を食べたところで、私の覚悟は薄っぺらだったのだと。

 そして、それに気付いてしまったからには私がすることは一つしかないのだろう。


 私は目を閉じる。

 それは時間にしたら一分に満たない時間だったけど……



「き、斬ります……確かに不安はありますけど……

これ以上被害を出さない為にも……私はキメラを斬ります」



 拙いなりの覚悟を決めるのには充分な時間だった。


 正直に言うと、不安が無いといえば嘘になる。

 だけど、罪の無い人達がキメラの犠牲となるのなら……

 その場面に立ち合せたのなら……

 きっと私はキメラを斬るのだろう。


 そして、そんな覚悟を口にした事で、痛いほど胸が脈打つのを感じていると。



「ソフィアは優しすぎるから不安だったが……最低限の覚悟は持てたようだな。

意地悪な真似をして悪かったな。それに……お前達もそんな心配そうな顔をするな?

今回は私達が泥を被ってやるから安心すると良いさ」



 そう言ったメーテさんは、皆を安心させるかのように笑みを浮かべると、ウルフさんへと視線を送る。



「メーテも意地悪よね~?

心配なのは分かるけど、もっと違う諭し方だってあった筈でしょ?」


「う、うるさい……わ、私は不器用なんだ」



 続けて、二人がそんな会話を終えると。



「ぐぎゃぎゃ」



 まるで見計らったかのように【キメラ】達が路地裏から姿を見せ始める。



「お前達に罪は無いが……許せよ?」


「私を恨んでも良いけど……出来るなら仮面の連中を恨んでね?」



 更には、そんな言葉を二人が口にした瞬間だった。



「流石に殺すのはアルにも負担がありそうだしな……

でも、ボクも少しは覚悟は見せるべきだよね?」



 そのような独り言が聞こえると同時にヤーが駆け出し、私の髪がふわりと揺れる。



「ぐぎゃ!」


「おっと危ない」



 ヤーはそう言いながらも危なげなく【キメラ】の攻撃を避けると、【キメラ】の足の腱を切断する。



「ほっ、はっ、よっと」


「ぐぎゃ!?」


「げぎゃっ!?」


「ぎゃぎゃっ!?」



 二人、三人、四人と足の腱を切断していくヤー。

 気が付けば四人の【キメラ】が地面へと転がり、周囲に血を撒き散らすことになった。



「ア、アル!? 何をやっているんだ!?」


「アル!? 私達に任せろって言ったでしょ!?」



 その様子を見たメーテさんとウルフさんは声を荒げる。

 そして、そんな二人に対してヤーはというと。



「へ? メーテが覚悟を持てっていったから覚悟を見せたつもりなんだけど……駄目だったかな?」



 叱られた子供のような表情を浮かべるのだった。

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