一章 幼少期

第1話 美女と狼と赤ん坊

 時が流れるのは早いもので、二年という月日が流れていた。


 メーティーに出会ってからというもの、僕の意識は次第にハッキリとしていき、急に意識が途絶える事も無くなっていった。


 それに伴い、僕は少しづつ現状の整理をする事にした訳なのだが……

 情報を集め、現状を整理していく度に、逆に混乱させられると言う不思議な状況に陥る事になってしまった。


 混乱させられた一つ目の理由。

 それは、前世の意識を持ったまま赤ん坊として生を授かったと言う事だ。

 ……残念な事に一つ目から自分の許容範囲を超えていた。


 恐らくだが、僕は一度死んでしまったのだろう。

 そして、そう思い至ったのにもそれなりに理由がある。


 その日、僕は学校帰りにスーパーに寄って夕食の買い物をした。

 両親が共働きだという事に加え、妹も部活動に忙しく、夕食の準備は僕の役目だったからだ。


 そして、その日もいつもと同じように買い物を終えた僕は、公園内を通って自宅へと帰る筈だったのだが……

 

 その日がいつもと違ったのは、一人の女の子が猫を追いかけて道路に飛び出したという事。

 その女の子が猫に夢中で車の接近に気付いていなかったという事。

 スマホでも弄っていたのだろうか?運転手も女の子が飛び出した事に気付いてなかったという事。

 そして、たいして運動が得意でも無いのに、女の子を守るために駆け出してしまったという事だ。


 猫を抱えた女の子を突き飛ばした瞬間、鈍く重い衝撃を受けたのを覚えているので、それが原因で僕は死んでしまったのだと思う。

 その後どうなったのかは分からないが、女の子も猫も無事である事を祈るばかりだ。


 そんな感じで死んでしまったのであろう僕は、何か不思議な力に因って赤ん坊として生まれ変わったのだとは思うのだが……

 正直、今でこそ楽観的な考えも出来るようになったが、初めの内は色々と考え過ぎて頭がおかしくなりそうだった。


 言葉も喋れず、碌に体も動かす事も出来ない。

 そうなると考える時間だけが無駄に与えられることになる。


 前世に残してきた家族の事や友人。

 もう二度と会うことは叶わないのだろう、といった確信めいた予感があり。

 会えないという確信があるからこそ、余計に家族や友人に会いたい気持ちが募っていった。


 その一方で、どうする事も出来ないのは充分に理解しており……

 だからだろう。徐々に心が擦り切れていき、自覚するほどに摩耗していった。


 しかし不思議なもので、そういった心の摩耗を感じると、赤ん坊である僕の身体は無意識の内に泣きだしてしまい、それと同時に少しだけ気持ちが落ち着いていくのを感じることが出来た。


 それは、まるで赤ん坊の身体が僕の代わりに心の毒を吐き出してくれているかのようで、正直、気を遣われているような妙な気恥ずかしさもあったのだが、それ以上に、この小さな身体に感謝を憶える出来事でもあった。


 それと、感謝と言えばメーティーにもだ。

 そのような事ばかり考えていた所為で、夜泣きの数も多く、メーティーを起こしてしまうことも多々あった。

 しかし、そんな時でもメーティーは嫌な顔すら見せず、僕が夜泣きをする度にそっと抱きかかえ、泣きやむまで優しく頭を撫でてくれた。


 気恥ずかしがあったものの、人との繋がりを急に断たれた僕にとって、それはとても心休まる時間で――そんなメーティーの温かさに触れ、日々を重ねる事が出来たからだろう。

 

 どうにか心に折り合いを付けられるようになり、今では赤ん坊に生まれ変わったという状況を飲み込み、少しづつ現状を受け入れられるようになったというのが正解なのかもしれない。



 少し話が逸れてしまったので、話を戻そう。

 状況を整理していく日々の中で分かった二つ目の事。

 それは、今僕が居る世界が異世界だと言う事だ。


 まぁ、これも僕の許容範囲を超えているし、荒唐無稽な話なのだが……

 それなのに異世界と判断したのだ。当然理由がある。


 その理由というのが、メーティーが仕様する【魔法】のようなものだ。


 例えば何もない空間から水を取り出して鍋を満たしたり、指を鳴らすことで暖炉に火を付けたりと、何度も不思議な光景を目にすることになった。

 

 正直、初めの内はマジックなのでは?

 などと考え、魔法の存在を疑っていたのだが……

 魔法というものが生活の一部で、それが当然であるかのようにメーティーは魔法を使用するのだから、僕の価値観は揺らいでしまう。


 そして、前世の世界ではお目にかかれない状況を幾度となく見せられれば、流石に疑うこと自体が馬鹿らしくなってしまい。


『この世界は、魔法が当たり前のように存在する世界――異世界なんだ』


 そう納得せざるを得なかった。


 それにだ。

 魔法の存在も異世界であると判断する一つの要因であったのだが、そもそもメーティーの存在が既に異世界といった感じだ。


 サイドで編み込んで、アップにまとめた銀色の髪。

 まるで宝石をはめ込んだような紅い瞳。

 キリッとして少し近寄りがたい印象を受けるが、驚くほど端整な顔立ち。

 年齢は20代半ばといった感じだろうか?


 もし、現代日本にメーティーが現れ。


『異世界からやってきました』


 そう言ったとしても納得してしまうには充分な容姿をしている。


 そんなメーティーが魔法のようなもの――というよりかは実際に魔法を使うのだから、異世界であると判断しても仕方がない事だと思う。


 それと、これは判断材料として良いのか分からないのだが、飼っている狼。名前は「ヴェルフ」と会話を交わす事が出来るようだった。

 たまに赤ちゃん言葉でペットに話しかけている人などを見かけるが、メーティーの場合、しっかり意志疎通が出来ているようにも感じられた。


 まぁ……実際の所、あくまでそう見えるだけであって意志疎通できているのかは謎なので、判断材料として一応は保留扱いしているのだが……


 ……こんな綺麗なお姉さんが動物相手に一人で話掛けている。

 そういった、少し切ない状況でない事を祈るばかりである。






 そのような感じで現状に翻弄されながらも、一年が経つ頃には、どうにかこの世界に適応していこうと考えられるようになった。


 そして、その頃には少しづつだが歩けるようになり、それと同時に行動の幅も広がっていった。


 自慢ではないが、はいはいや歩くという事に関しては、我ながら早く出来たんじゃないかと思っている。


 前世で取った杵柄とでも言うのだろうか?

 16歳の手足の感覚から、赤ん坊の感覚に慣れるまで苦戦はさせられたが、一年足らずでそれなりに歩けるようになったのだから自分を褒めてあげるべきだろう。


 まぁ、正直な話……

 歩けるようにならなければいけない必要性に迫られていたから、頑張って歩くことを身に付けたというのが正解なのだが……

 

 では何故、その必要性があったかと言うと――その理由はトイレにあった。

 精神は兎も角、身体は赤ん坊なのだ。碌に身体を動かす事が出来ないのも当然のことだ。

 そして、碌に身体を動かせない状況ではトイレなど行ける筈も無く、もよおしたとしてもオムツに用を足さなければいけない。


 それだけならば羞恥心はあるものの、どうにか、本当にどうにか自分を納得させる事も出来たのだが……

 問題なのは、オムツを換えてくれるのがメーティーだと言う事だ。


 見た目は赤ん坊でも中身は思春期真っ盛りの16歳だ。

 只でさえ女性にオムツを換えてもらうと言う事に羞恥を覚えるのに、換えてくれるのがとんでもなく奇麗なお姉さんなのだ。


 僕の精神はゴリゴリと削られていき、羞恥のあまりに下手したら死んでしまうんではないか?と錯覚するほどであった。

 その結果、このままではまずいと考えた僕は、精神を守る為にも一人で用を足せるように必死になって歩くことを覚えたという訳だ。


 ……その後、トイレのサイズが合わないという事を知り、おまるのような物を用意された時は思わず渇いた笑みをこぼす羽目になったが……




 それはさて置き。


 歩けるようになったことも大きいが、それともう一つ。

 言葉を話せるようになったのも行動の幅が広がったと言える大きな要因の一つだったと思う。


 始めはこの世界の言葉に苦戦する毎日だった。


 何故かヒアリングは出来ているので、喋るのにさほど時間は掛からないだろうと考えていたのだが、どうやらその考えは甘かったようで、発音の方が上手く出来なかったのだ。

 恐らくではあるが、日本語の発音に慣れ親しんでいた所為なのかもしれない。


 例えるなら、英語の知識はあるが現地のレストランで注文しても発音がネイティブではない為、うまく伝わらないといった感じだろう。


 歩く時とは対照的に、前世の知識に足を引っ張られる形になってしまったが、どうにかこうにか克服し、単語ばかりの会話ではあるものの、今ではメーティーと会話を交わせるまで成長していた。


 そんな異世界の言葉に苦戦する毎日の一コマで、こんな出来事もあった。



「アル、私の名前はメーティーだ。こっちの狼はヴェルフだ呼んでみてくれ」


「め、めーて、うるふ」



 なんとか言葉にしてみたものの、小文字の発音が難しく、しっかりと発音をする事ができなかったのだが――



「ヴェルフ! 聞いたか!? アルが私の名前を呼んだぞ! ……くふっ」


「ワォン!」


「そうだな! ヴェルフの名前も呼んでたな!

よし! 今日からお前の事はウルフと呼ぶから、私の事はメーテと呼ぶんだ!」


「ワォーーーン!」


「ああ、そうだな! この子は天才かも知れない――いや、天才だろうな!

メーテ……くふっ」



 ちゃんと発音できなかったせいで2人――いや、一人と一匹の呼び方を変えてしまうという、そんな悲しい一幕があった。


 ちなみにそんな会話の中で分かった事もあった。

 メーテは僕の事をアルと呼ぶのだが、僕の本名はアルディノというらしい。


 初めは前世とかけ離れた名前で呼ばれる事に、随分と違和感を憶えたのだが……

 最近では慣れてきたのだろうか?

 少しづつだがアルディノと言う名前を受け入れ始めている自分が居た。


 しかし、その反面「アル」と言う名前で呼ばれることに拒否感も憶えていた。

 「アル」と呼ばれる度に前世との繋がりを切り離されていくような……

 そんな感覚が、酷く寂しいものに感じられたからだ……


 だが、そんな僕の葛藤など知る由も無いメーテ。

 いつも優しい声で「アル」と呼び微笑みかけてくれた。

 そんなメーテの姿を見ていると、少し寂しくはあるが「アル」と言う名前を受け入れるのが正解なのだろう。

 そのように自然と思えた。



 こうして、歩く事と言葉を覚えた事により、少しづつだか行動範囲が広がり自由が利くようになったというのが僕の現状だ。


 そして、異世界へと転生し、二年が経過した現在。

 僕が主に取り組んでいるのは文字の読み書きである。


 メーテの家には結構な量の蔵書がある。

 家にいても特にやる事が無く、時間を無駄にするのも勿体無いと考えた僕は。


『読書でもしてみるかな?』


 そんな軽い気持ちで何冊かの蔵書に目を通してみることにした。

 しかし、案の定というか当たり前と言うか、まったく読む事が出来なかった。


 この世界の文字は英字を崩したような文字をしているのだが、前世では意味ある英字の並びでも、この世界ではまったく意味の無い文字の羅列になっていたり、または無意味に見える羅列が単語になっていたりと、下手に知識がある人泣かせの仕様になっていた。


 なので、どうにか文字を読むために勉強を始めてみたのだが……

 結局、独学では上手くいく筈もなく、頭を悩ませるだけの結果に終わってしまった。


 しかし、そんな僕の姿を見ていたのだろう。

 ある日、僕が本を前に座り込んで、どうしたものかと考えていると。



「もう識字に興味を示すか……流石私のアルといったところだな」


「わっふ!」


「す、すまん。私達のアルだったな」


「わふ!」



 メーテは僕が識字に興味を持ってると思ったらしく。

 子供向けの絵本や、読み書きの本を買い揃えてくれて、熱心に教育に励んでくれた。

 まぁ、僕に対する評価が少し高いのがプレッシャーではあったのだが……


 ともあれ、子供の頭だと飲み込みが早いのか?

 それともメーテの教育の賜物なのか?

 初めは時間が掛かりそうだと考えていた識字も、まるでスポンジのように吸収し、修めることが出来た。


 流石に難しい言い回しや、専門用語などはまだまだ先になりそうだが……

 それでも、買って貰った絵本や子供向けの冒険譚や物語。

 そういった本であれば、一人でも難無く読めるようになっていた。


 ちなみに、寝る時は二人と一匹、同じ部屋で寝ているのだが。

 絵本と枕を持ったメーテが「絵本を読んであげよう」と言いつつ僕のベットに入りこもうとする事が何度もあった。


 しかし、一人で読めるようになってからは、一人で読める事を伝えてお断りするようにしている。


 断ると、メーテはものすっごく悲しい顔をするので、罪悪感が酷いのだが……

 精神年齢でいえば17歳を迎えているので、綺麗なお姉さんの添い寝付き絵本朗読は刺激が強すぎるのだ……

 

 ……正直これが役得と受け入れられない自分が恨めしい。


 そのような事を考えていると。



「くっ、もっと手を抜いて教えればよかった……」


「……クゥン」



 そんな一人と一匹の会話?が聞こえ、申し訳ないと思いながらも眠りにつく。

 ゆるやかな日常を過ごしながら、異世界生活三年目を迎えるのだった。


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