第10話
東京監察医務院―
バンダイの遺体の解剖を終えた乱堂は、遺体を見下ろして途方にくれていた。
心臓、肺、胃から腸、脾臓(ひぞう)に至るまで、臓器をすべて調べたが、死因となるような損傷や疾患(しっかん)は何一つ、見つからなかった。
まったくの健康体。
ラビットが、事務所に手を回して用意してくれたバンダイの既往症には、蓄膿症(ちくのうしょう)が記載されていたが、これは2年前に手術で切除済みだった。
蓄膿症は、味覚にも影響を及ぼす。
グルメリポーターという職業柄、妥当な処置だろう。
胃は徹底的に検査したが、見事に空だ。
粘膜にびらんも損傷も疾患もない。
死ぬ前にごく少量、ハーブ水のようなものを飲んだのか、胃から芳醇(ほうじゅん)でさわやかな匂いがしたが、胃の内壁の状態からみて、その液体が毒物でないのは明らかだった。
爪の中の微細証拠(びさいしょうこ)も採取して調べたが、ドッグフードの粉がついていただけである。
おそらく、板倉は死ぬ直前に、飼い犬のモモにエサをやったのだろう。
現場で採取した、皿の中にあったドッグフードも調べたが、毒物は検出されなかった。
となると、死因は顔面もしくは頭部にあるのか―。
乱堂は独り言を言った。
「脳まで食われてやがる」
これから乱堂がするべきことは、モモの嘔吐物になった、板倉の顔及び脳組織を調べることである。
まず、脳出血、脳ヘルニアなど死に至るような脳疾患があるかどうかを、細切れの咀嚼肉片をじっくり観察して、調べる。
4時間ほどかけ、その作業をして、うまくいけば、モモの牙がつけた噛み跡とは別の、自然に脳血管が破裂した形跡が見つかるかもしれない。
あるいは、素手や針やナイフを凶器にして、脳組織を破壊された形跡が見つかるかもしれない。
その作業をしながら、脳に直接、毒物が注入された可能性を調べる。
もっとも毒物の種類はまるでわからないため、青酸シアン系など一般的な毒物検査にかけるしかない。
「しかしやっかいだな」
と乱堂は頭をかきむしる。
犬の死因が、バンダイが摂取した(または摂取させられた)毒物の回った顔面と脳を食べたためではなかったとしたら、犬は飼い主の肉とは別にどこからか毒物を摂取したことになる。
その場合は、犬の胃の中で、板倉の顔面と脳組織は毒物に汚染されているだろう。
板倉の摂取した毒物が特定できたとしても、証拠能力は持たない。
(せめて、現場に凶器がありゃ、こんな苦労はしないのにな)
凶器がないために、自殺か他殺かどうかも断定が出来ないでいる。
今、わかっているのは、この男が死ぬ直前に精巣がほぼカラになるほど、この世で最期のセックスを堪能したことだけだ。
バンダイの赤くすりむけた陰茎は、その激しい行為を物語っていた。
「俺は自殺に一票だ」
男なら、自殺の前に女に会えばみんなこうなる。
乱堂は経験からそう言って、犬の吐瀉物の検査にとりかかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます