第百二十七章 金 倉

 次の朝、参集した城主たちは二日酔いの頭をかかえながら自城へ戻っていった。盛り上がって高揚した気分は一時的なもの、醒めてみれば現実的な打算が頭を持ちあげてくる。しかし、心の片隅にでも固い殻がやぶれ、奥深いところで琴線にふれたと信じたい。


 政務の引き継ぎは、まず財政状態の把握からはじめた。金倉をあけて在金目録を作成する。溜め込んである金を数えると七千九百両だった。平六が貯蔵していた金は三千八百両あった。支配する土地の規模からすると、もっと有りそうな気もするが、赤字でないだけマシと思うしかない。


 史実では謙信が亡くなったとき、後継者の上杉 景勝が金倉をしらべて目録を作った。目録によると二万七千両が貯蔵されていた。あれだけ軍を動かして膨大な戦費をついやし、朝廷や寺社へ献金したのに関わらず、これだけの軍資金が残せたのだ。単純な戦さ上手だけの評価はかわいそうだ。


 千五百二十九年からの守護上杉氏の収支決算書が棚に収められている。為景さまは守護の財務機構を取りこんでいたのだ。その組織は財政のすべてを統括する公銭こうせん方と、越後国内の田に課税する段銭だんせんの徴収する段銭所のふたつがあった。


 守護所の財務官僚をつかって、徴収した公銭すなわち料所直轄領からの年貢や、国内の田に課せられた段銭を意のままに使っていた。春日山城を修築する費用や、直江津港を整備する費用は公のものと理解できる。しかし林泉寺の僧侶の手当や、葬式代など私的な経費にも使われていた。


 隠居後も目を光らせていたのか、晴景さまの細かい性格が効いていたのか、その後も同じ仕組みで運用してきていた。きちんと財務の報告がなされ、毎年の決算書が並んでいる。


 ちなみに最初の年度の内訳をみると、年貢や青苧の売買や入港税などで四千八百貫の収入がある。一年間の人件費など通常経費が約四千六百貫でわずかながらも余剰金が生まれ、収支のバランスは取れている。


 一方、臨時の収入として貸し付けでも行ったのか礼銭が六百八十貫ある。他方、臨時の費用が突出している。春日山城の工事で千貫、港の整備で三百貫、林泉寺へ四百五十貫、朝廷への工作資金なのか四百六十貫など二千七百貫が持ち出されている。差し引き二千貫の赤字で、千八百貫をどこからか借り入れしている。


 それから現在まで十六年経っている。晴景が家督相続するまで越後は戦乱がつづく。守護代になって九年、曲がりなりに越後は平和がもどった。平六の乱があったが、一地方に限定されていた。急速に産業が復活し、それに伴い税収も増えていた。


 晴景は不本意であったかもしれない。自分は戦さ下手かもしれないが、内政は出来るだけのことをやって財政再建を成し遂げたのだ。平時の大名なら、それで許され お釣りがくる。創業より守成にむくタイプだ。生まれたときが悪かった。


 昨年の収支決算が届いていた。端数を丸めると、収入は一万九千貫と予想外の数字が載ってビックリした。繰り越し金は二千貫から七千貫とバラツキがあるが、均すと二千六百貫の黒字をつづけている。計数にあかるく理財家であったのだ。評価を新たにする。


 もっとも、ここ二・三年の収支の改善が大きい。やはり九郎殿が進めてきた新しい産物が生まれたせいだ。船の往来が劇的にふえたので、入港料が各段と増加している。地道な努力が、こうして数字に表れるのを見ると、さすがに嬉しい。


 しかし越後の潜在力からすると一桁は低い。守護段銭ひとつ取っても、関東の北条家では一反あたり五百文を徴収している。千五百九十八年の慶長検地で、越後は三十九万石と公称された。約五十年後に秀吉が行なった検地である。


 五十年間で農業生産力がどのていど向上するのか確かな数字をだせないが、五割増しにしても現在の収穫高は二十六万石ある。一反あたりの収穫量は一石から一石半の範囲にある。少ない数字を採用して、単純に計算しても十三万貫の段銭になる。


 信長の遣り方で手許に残る計算をすると、まず前提で五公五民と仮定する。総石数の半分を手にするので、十三万石となる。その三分の二を部下へ与えるので、手許に残るのは四万三千石になる。一両で一石の米が買える。一両は四貫文なので、十七万二千貫となる。


 いずれにしても米だけで十万貫を超える収入が得られる。今の越後の状態から考えると、城主や国人衆の懐に手をつっこむと反乱が起きかねない。地道に直轄地をふやして支配地を拡大する方法しかない。さいわい胎内川の改修工事を完成すれば、大幅な田が手に入る。


 他にも収入の道は青苧の専売を拡大したり、港を整備し船の往来をふやして入港税をかせぐ従来の遣り方を促進できる。青苧は原材料を京都や大坂の青苧座へおくって、向こうで加工してしているのが多い。


 青苧は下越や魚沼・彌彦の山間部で採取される。魚野川や信濃川の舟運をつかって小千谷に集められる。そこから馬の背にゆられて柏崎や直江津に運ばれる。あとは海運を利用して、敦賀や小浜に陸揚げされる。


 その先は琵琶湖を通って京都、さらに淀川をくだって摂津へ運ばれる。その大部分は天王寺の青苧商人へ売り渡された。


 できれば越後上布として製品で輸出できれば、地元にもっと金が入る。ブランド品として名前は知れ渡っている。付加価値をたかめる工夫を見つけたい。幸いなことに越後上布は木綿と競合しない。麻の布地は蒸しあつい日本の夏に最適な生地である。


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